2007年09月

逆オークションのすすめ

2.5GHz帯の免許申請の〆切が10月12日に迫り、ウィルコムが一番手で申請した。当初は、いつもの談合でウィルコムとアッカに「二本化」したはずだったのが、ソフトバンクとKDDIが割り込んで、おもしろいことになってきた。総務省は、どういう基準で「美人投票」をするのだろうか。

私は、アメリカの700MHz帯でグーグルが提案してFCCが採用した「オープン化」を条件にすることを総務省に提案したい。各社に対して、「貴社が免許を取ったら、他社の端末も使えるようにするか」「MVNOは認めるか」「その場合の電波卸し売り料金はいくらにするか」という質問を出し、もっともオープンな(卸し売り料金の低い)会社に免許を出すのだ。ちょっと変則的な「逆オークション」である。これなら当落の基準がはっきりしていて、みんな納得するだろう。

これが実現すれば、たとえばiPhoneもWiMAXモジュール(インテルがワンチップ化している)を入れるだけで使えるようになるし、グーグルが出すと噂されているGphoneも使えるようになる。ついでに、空中分解したアイピーモバイルが返上する予定の2GHz帯と、ソフトバンクが返上した1.7GHz帯も、まとめてオークションにかけてはどうだろうか。これだと空きも4つできるので、出資比率の規制なんかやめて、自由に応募できるようにしたほうがいい。

「就職氷河期」はなぜ起こったのか

フリーターの告発「『丸山眞男』をひっぱたきたい」をめぐって始まった議論は延々と続き、コメントも3つの記事の合計で400を超えた。なぜ「就職氷河期」が起こり、10年以上も続いたのか、こういう状況をどうすれば是正できるのか、についていろいろな意見が出たが、ここで私なりの感想をまとめておく。

まず「格差が拡大したのは小泉政権の市場原理主義のせいだ」という俗説は、まったく誤りである。正社員の求人は、1991年の150万人をピークとして翌年から激減し、95年には退職とプラスマイナスゼロになっている。その原因がバブル崩壊による長期不況であることは明らかだ。

したがって福田首相のいう「現在の格差は構造改革の影の部分」だから、改革の手をゆるめようという政策も誤りである。むしろ「景気対策」と称して行なわれた90年代の公共事業のバラマキが生産性を低下させ、かえって雇用環境を悪化させた疑いが強い。したがって「都市と地方の格差」が最大の問題だというアジェンダ設定も誤りである。


実質成長率と人口移動(1955年=100とする)
出所:増田悦佐『高度経済成長は復活できる』


上の図は、実質GDP成長率と大都市圏への人口移動(純増)を比較したものだが、1980年前後を除いて見事に一致している。多くの経済学者が、この「1970年問題」を重視し、日本の成長率低下の最大の原因は石油ショックではなく、70年代から田中角栄を初めとして「国土の均衡ある発展」を理由にして進められた社会主義的な「全国総合開発計画」によるバラマキで、都市(成長産業)への労働供給が減少したためだ、という説が有力である。

さらに1970年代とほぼ同じ動きが、90年代に見られる。ここで成長率が激減しているのは、もちろんバブル崩壊が原因だが、同時にそれに対して行なわれた100兆円以上の「景気対策」によって地方で大規模な公共事業が行なわれたため、戦後初めて都市から地方へ人口が「逆流」している。これが不況をかえって長期化させたのだ。

90年代のくわしい実証研究でも、90年代に各部門の雇用が減る一方、建設業だけが増えており、こうした部門間の人的資源配分のゆがみによって労働生産性が大きく低下したことが示されている。わかりやすくいうと、実質的につぶれた銀行や不動産・建設などの「ゾンビ企業」を大蔵省が「官製粉飾決算」で延命するとともに、失業者が生産性に寄与しないハコモノ公共事業に吸収されたため、労働生産性が低下したのだ。

こうした労働供給の減少と労働生産性の低下が不況を長期化させ、しかも「日本的雇用慣行」によって社内失業者を守るために新卒の採用をストップしたことが「就職氷河期」をもたらした。この人的資源配分の不均衡は、景気が最悪の事態を脱した現在でも続いており、日本の労働生産性は主要先進国で最低だ。この意味で、まだ氷河期は終わっていないのである。

だからマクロ的にみて最も重要なのは、労働市場を流動化させて人的資源を生産性の高い部門に移動し、労働生産性を上げることだ。そのためには、流動化をさまたげている正社員の過保護をやめるしかない。労働者派遣法には派遣労働者を一定の期間雇用したら正社員にしろといった規定があるが、これは結果的には企業が派遣労働者の雇用を短期で打ち切ったり「偽装請負」を使ったりする原因となるだけだ。労働市場の反応を考えない「一段階論理」の設計主義による労働行政が、結果的には非正規労働者の劣悪な労働環境を固定化しているのである。

問題は、非正規労働者を正社員に「登用」することではなく、労働市場を競争的にすることだ。ゾンビ企業などに「保蔵」されている過剰雇用を情報・金融・福祉・医療といった労働需要の大きいサービス業に移動すれば、成長率を高め、失業率を減らすことができる。そのためには労働契約法で雇用を契約ベースにし、正社員の解雇条件を非正社員と同じにするなど、「日本的ギルドの解体」が必要である。また「都市と地方の格差」を是正するよりも、逆に都市への人口移動を促進する必要があり、農村へのバラマキをやめて地方中核都市のインフラを整備すべきだ。

ICPFセミナー「通信・放送の総合的な法体系を目指して」

総務省では「通信・放送の総合的な法体系に関する研究会」を組織し、通信法制と放送法制の統合について研究を深めています。この新しい法体系によって通信と放送の融合が促進されるかどうかについて、世の中には賛否両方の意見が存在します。

そこで情報通信政策フォーラム(ICPF)では、今回から数回連続して月次セミナーでこの新しい法体系について議論を深めていくことにしました。今回はその第一回として「研究会」の事務局を担当されている総務省の鈴木茂樹課長をお招きして、総務省の考え方をうかがうことになりました。

スピーカー:鈴木茂樹(総務省情報通信政策局総合政策課長)
モデレーター:山田肇(ICPF事務局長・東洋大学教授) 

日時:10月25日(木)18:30~20:30
場所:東洋大学・白山校舎・5号館5201教室
 東京都文京区白山5-28-20 
 キャンパスマップ

入場料:2000円 ※ICPF会員は無料(会場で入会できます)
*申し込みはinfo@icpf.jpまで、氏名・所属を明記してe-mailをお送り下さい。
 (先着順40名で締め切ります。)

追記:先日、お知らせした場所が間違っていました。お間違えなきよう。

NHK会長は辞任せよ

NHKの「次期経営5ヵ年計画」が、経営委員会に却下されるという異例の事件が起こった。社長の決めた経営計画を取締役会が否決するという、民間企業ではありえない事態だ。朝日新聞によれば、古森経営委員長は「抜本的な構造改革の策がなく、示された数値を肉付けする戦略や戦術が足りない」と述べ、経営計画は1年先延ばしし、執行部側に計画の再提案を求めるという。

問題の経営計画はNHKのウェブサイトに出ているが、要するに「現状を維持したい」と書かれているだけ。話題を呼んだ奇怪なミニ番組(巨大化した橋本会長がNHKの社屋をお台場や六本木などあちこちに置こうとしたあげく、元の場所に戻す)は、その言い訳だったのだろうか。これでは経営委の批判を浴びるのは当然だ。海老沢会長が辞任してから1年半、NHKの経営陣は何を議論してきたのか。

不可解なのは、執行部が経営計画を出す前に、経営委員と何も協議をしていなかったのかということだ。日本の企業では、取締役会の前に根回しして、会議ではほとんど議論なしに承認されるのが普通で、取締役会で執行部案がひっくり返るのは、「クーデター」といわれるような異常事態のときだけだ。執行部が、今までのなれあい経営委と同じだろう、と高をくくっていたとしか考えられない。会長は記者会見もキャンセルして、短いコメントを出しただけで、説明責任も果たしていない。

元同僚からも意見を聞いたが、出てくるのは「理事会は脳死状態」「何も決まらない」「会長のいうことを誰も聞かない」といった話ばかり。少なくとも橋本会長がいる限り、事態は打開できないという点で、彼らの意見は一致していた。インターネットについても、それを担当する部署さえないという現状で、改革を試みたが、あきらめて辞めた友人もいる。

橋本会長は、海老沢氏とともに大半の理事が辞めたとき、唯一「海老沢色」が薄かったための緊急避難であり、経営が正常化したら交代するというのが、局内の暗黙の理解だったが、どういうわけかその後も居座っている。技術出身の会長というのは初めてで、「本流」の放送総局に足場がないため、実権がない。永井副会長も、1年に200回以上も全国各地で視聴者との「ふれあいミーティング」をこなし、経営ができる状態ではない。

実質的に経営を取り仕切っているのは、原田専務理事以下の経営陣だ。そのうち半分ぐらいは私も知っているが、彼らは「番組のプロ」ではあっても、おそらく財務諸表も読めないだろう。インターネットについての知識も、素人同然だ。5年ぐらい前までは、私も総合企画室に呼ばれてインターネットの話をしたことがあるが、みんな茫然とするばかり。50年以上変わらない業界の感覚が、ムーアの法則についていけないのだ。

その後は、私は「地デジ反対派」ということで出入り禁止になるばかりか、私の主宰する研究会にはNHK職員は参加禁止というお触れまで出ているらしく、何度かドタキャンされた。耳の痛い話を聞きたくない気持ちはわかるが、イエスマンばかり集めて形ばかりの「懇談会」をつくっても、実のある議論は出てこない。BBCの会長がNHKに来て、理事会で「もはやBBCは放送局ではない」と演説したときも、理事はみんなポカーンとしていたそうだ。

再生の希望はある。現場にはインターネットをよく知っている若者がたくさんいて、ゲリラ的にいろいろ新しいことを試みている。しかし根本的な「波の整理」と、BBCのようにインターネットを業務の中心にすえたメディア戦略を立てないと、そのエネルギーは生きない。かつての島会長時代の壮大な経営戦略を見直してみたらどうだろうか。

改革の第一歩は、橋本会長が辞任し、プロの経営者を外部からまねいて、客観的な目で経営も番組編成も見直すことだ。池田芳蔵会長の失敗で「外部の経営者には番組はわからない」という夜郎自大がはびこっているが、もうそういう時代ではない。逆に、ビジネスを知らない経営者にはNHKの経営はできない。番組の内容については、今の理事がプロとしてサポートしていけばよいのではないか。

CIAが「統治」した戦後の日本

9/4の記事で紹介した「CIAと岸信介」の話を今週の週刊文春が追いかけている。日本も、ブログがマスメディアの情報源になる時代が来たのだろうか。

岸がCIAのエージェントだったのではないかという話は、当ブログでも書いたように、昔からあり、アメリカの公文書公開審査に立ち会ったマイケル・シャラーの『日米関係とは何だったのか』(pp.219-220)にも少しだけふれられている。シャラーは週刊文春の取材に対して、CIAの未公開文書に「1958年にアイゼンハワー大統領の命令で、自民党の選挙資金として1回について20万~30万ドルの現金が何度もCIAから岸に提供された」と書かれていた、と証言している(当時の30万ドルは、当時の為替レートで約1億円、現在では10億円ぐらい)。

岸だけでなく、佐藤栄作も1957年と58年にCIAから同様の資金提供を受けたという。その後も、4代の大統領のもとで少なくとも15年にわたって自民党への資金提供は続き、沖縄に米軍が駐留できるように沖縄の地方選挙にまで資金提供が行なわれたが、その出所は岸しか知らなかった。彼は自分でも回顧録で「資金は入念に洗浄することが大事だ」と語っている。

おもしろいのは、ロッキード事件との関係だ。これをCIAの陰謀とみる向きも多いが、逆にこれはCIAにとっては、児玉誉士夫や岸への資金提供が明るみに出るかもしれないピンチだったという。しかし検察は本筋の「児玉ルート」を立件せず、児玉は任侠らしく秘密をもって墓場に入ったが、彼と中曽根氏との関係から考えると、CIAの資金が(直接あるいは間接に)中曽根氏に渡っていた可能性もあるのではないか。

だから安倍前首相が否定しようとしていた非武装・対米従属の「戦後レジーム」をつくったのは、皮肉なことに彼の祖父だったのである。岸は「自主憲法」の制定を宿願としていたが、それは「対米独立」という表向きの理由とは逆に、日本が独自の軍備を増強してアメリカの「不沈空母」となるためだった。核の持ち込みについても、「秘密協定」があったことをライシャワー元駐日大使が明らかにしている。

保守合同から安保条約をへて沖縄返還に至るまで、何億円もの資金を自民党がCIAから提供されていたという事実は、岸個人の問題にはとどまらない。岸・佐藤兄弟というCIAのエージェントが日本の首相だったというのは、元CIAのフェルドマンがいうように、日本がCIAに「間接統治」されていたようなものだ。これはイギリスのフィルビー事件や西ドイツのブラント首相を辞任に追い込んだ「ギョーム事件」に匹敵するスキャンダルである。民主党は、参議院で得た国政調査権を使って、この疑惑を解明してはどうだろうか。

『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する

最初にお断りすると、『カラマーゾフの兄弟』を読んでない人が本書を読むのも、この記事を読むのも無駄である。少なくとも登場人物の名前ぐらい覚えていないと、まったく意味不明だ。

人生を変えるぐらいインパクトの大きな本というのは、そうあるものではないが、『カラマーゾフ』は私にとってはそういう本の一つだ。高校3年の夏休みに読んで、受験勉強する気がなくなり、夏休みを全部つぶしてドストエフスキー全集(江川訳)を全巻読んだ。もちろん、翌年の入試は落ちて浪人した。最近、著者(亀山郁夫氏)による新訳が、30万部を超えるベストセラーになって話題を呼んだ。

『カラマーゾフ』は、本来は『偉大な罪人の生涯』と仮りに名づけられた後編とあわせて2巻の構想で書かれたが、その前編を書いたところでドストエフスキーが死んでしまったので、後編の内容を推理してみようというのが本書である。単なるお遊びなのだが、推理する過程で、著者のドストエフスキー論や執筆当時の背景がわかっておもしろい。

ドストエフスキー自身の後編についての創作ノートは遺されていないのだが、あちこちでその構想を断片的に述べている。それによれば、後編は前編の13年後で、主人公はアリョーシャらしい、というのが一般に知られている話だ。本書はそれに著者の空想をまじえて、筋書きを推理する。それによれば、
アリョーシャは社会主義者になり、彼に影響を受けた(前編では「子供たち」の1人だった)コーリャは、フョードロフの異端的な宗教哲学に心酔し、テロリストの結社を組織する。コーリャはアリョーシャにその指導者になってほしいと頼むが、アリョーシャは拒否する。コーリャはテロリストの一団を率いて皇帝の暗殺を計画するが、直前に官憲に踏み込まれて未遂に終わる。裁判でアリョーシャはコーリャを弁護するが、有罪判決を受ける。
という、前編のイワンとスメルジャコフの関係をアリョーシャとコーリャに置き換えたようなストーリーだ。たしかにドストエフスキーは、自身がテロリストとして処刑されかけ、「転向」したという過去があり、『悪霊』などでもテロを主題にしている。『カラマーゾフ』の書かれていた時期(1870年代)は、毎年のように皇帝暗殺(or未遂)事件が起こっており、前編の父殺しもそのメタファーと読めないこともない。彼自身の伝記的な要素を交えた「偉大なテロリスト」が主人公になるという筋書きは魅力的である。

それより重要なのは、前編のモチーフであるイワンの「神がいなければ、すべては許される」という言葉が、無神論=社会主義のもたらす悲劇を暗示していることだ。そう考えると、後編は20世紀に、ロシア革命という形で実現してしまったのではないか、というのが私の感想だ。ロシア革命の目的は、何よりも皇帝=神の殺害であり、教会は爆破され、信仰は禁じられた。しかし神のいなくなった世界で、それに代わったのはレーニンという悪魔であり、そこでは「すべて許される」ため、皇帝の時代をはるかに上回る大量虐殺が行なわれた。

イワンの書いた戯曲「大審問官」にも見られるように、ドストエフスキーはキリスト教を一種の「自由からの逃走」と考えていたが、神を否定して人間が「自由」と「理性」にもとづいて行動したら、もっと大きな不幸が訪れるだろう――というのが彼のテーマだったとすれば、ロシア革命こそ70年にわたって演じられた『カラマーゾフ』の巨大な続編だったのではないか。

濱口桂一郎氏にはフリーターが見えないのか

一昨日の記事には、予想以上にたくさんのコメントがついたが、驚いたのはhamachanなる人物が「半分だけ正しい知識でものを言うと・・・」という記事で、私を「半可通」などと罵倒してきたことだ。このhamachanとは、濱口桂一郎。「天下り大学」として有名なGRIPSに厚労省から天下った人物らしい。

彼は、私が「労組は『正社員』による独占を守る組織なのだ」と書いたのに対して「ありえない」と批判しているのだが、その直後に「日本の企業別組合というのは[・・・]まさに『正社員による独占を守る組織』なのである」と自分で書いている。一つの記事の中で矛盾したことを書くのは、先日の山形某と同じく頭がおかしいと思われてもしょうがないが、問題はそのことではない。

hamachanは「組合へのメンバーシップがキモなのであって、企業へのメンバーシップとはまるで方向が正反対」というように、企業と労組は「正反対」で「対立」するものだと繰り返している(それが私への批判の論拠になっている)。つまり彼の(そしておそらく厚労省の)目には、いまだに「資本家vs労働者」というマルクス的な図式しか見えず、赤木氏のようなフリーターは目にも入っていないのだ。私の記事の主題が「本質的な問題は正社員とフリーターの対立だ」ということなのに、彼はそれには言及もしない。

福島氏や若松氏などの左翼が赤木氏の問題提起を理解できないばかりでなく、厚労省もそれを理解できないらしい。企業も組合も官庁も左翼も、すべてフリーターの敵というわけだ。「格差社会」がどうとか口では言いながら、出てくる政策は農家への所得補償とか児童手当などのバラマキばかりで、フリーターやニートには「自己責任だ」「怠けてるんじゃないか」というコメントが(当ブログでも)投げつけられる。しかしフリーターがここ10年で倍増して400万人を超え、某国立大学では就職先の第1位が人材派遣会社になるという状況を「自己責任」ですましていいのか。

福田内閣は「構造改革の負の側面」に留意するというが、フリーター問題は、むしろ構造改革が中途半端に終わり、終身雇用などの「日本型福祉システム」に手がつけられなかったために起こった問題だ。それを解決するには、労働者を会社に囲い込んで守るのをやめ、企業年金をポータブルにし、退職一時金を廃止するなど、正社員とフリーターの労働条件を「フラット」にすると同時に、中途採用の差別を禁止するなど労働市場の流動性を高め、負の所得税やEITCのような社会的セーフティネットで守るように変えるしかない。

こういう「市場主義」的な労働政策には、いつも労組が反対するが、彼らは自分たちの既得権が奪われるのを恐れているだけだ。他の生産要素市場や資本市場が流動化し、グローバル化する中で、労働市場だけギルドシステムを残すのは無理だ。そういう無理の犠牲になっているのが、フリーターやニートなのだ。そして日本のあらゆるコミュニティから弾き出された彼らが社会への敵意を吐露する場が、おそらく匿名掲示板のようなサイトなのだろう。まず彼らの存在を正視し、赤木氏のような声に耳を傾けることが問題解決の第一歩である。

追記:天下り教授の言い訳は、まだ続いている。明白に矛盾した自分の記事を「日本の労組はギルド的労組と正反対なのだ」という話にすりかえようとしているが、一昨日の記事で私はクローズド・ショップ(ギルド的労組)が「原型」だと書いて、日本の労組と区別している。彼は日本語が読めないようだから解説しておくと、私のいう「ギルド的性格」というのは、「組合員の特権を守ることが最優先される」ということだ。この点では、日本の労組もギルド的な性格を継承している。

労働組合というギルド

自民党の総裁には、予想どおり福田氏が当選した。麻生氏も予想以上に善戦したが、この1週間ほどの地方遊説などを見ていて気になったのは、2人の政策が「都市と地方の格差解消」を最優先するという点で一致していたことだ。これは参院選で民主党のバラマキ政策が一人区でアピールしたという判断があるようだが、これから総選挙に向けてバラマキ合戦が始まるのかと思うと憂鬱だ。

この点でも、先日紹介して大きな反響のあった「『丸山眞男』をひっぱたきたい」の続編が重要な問題提起をしている。赤木氏は、若松孝二氏の「フランスでも若者が立ち上がったんだから、お前も立ち上がれ」というアジテーションに対して、
このデモと、このデモへの単純な翼賛からは、現に失業しているフランスの若年層や移民が直面している状況への配慮を読み取ることはできない。これは、日本における既存の左翼がいわゆる「労働者」という名前の安定労働層の利益確保ばかりに注力し、私のような貧困労働層の問題を正面から取り上げないという配慮のなさと同質のものであるように思える。
と、どっちが「識者」だかわからないぐらい冷静な分析をしている。赤木氏も言うように、フランスの雇用改革に対するデモは、解雇制限をゆるめるなという学生の暴動に労組が合流したものだが、これを政府が撤回したおかげでフランスの世界一きびしい解雇制限は変わらず、したがって企業は正社員を採用せず、結局は学生や移民が被害者になるのだ。

赤木氏は、こういう左翼に絶望して、むしろ八代尚宏氏の「正社員の待遇を非正規社員の水準に合わせる方向での検討も必要」という発言に共感している。これは当時、2ちゃんねるなどで激しいバッシングを受けたが、経済学者の多数意見(だがpolitically incorrectなので口にはできない)である。日本は、フランスのように法律で規定してはいないが、判例によって「正当な事由」なしに解雇することは事実上、不可能だ。

労働組合の始まりは、ギルドである(cf. Wikipedia)。組合員であることが就業の条件になる「クローズド・ショップ」が、その原型だ。つまり労組は「正社員」による独占を守る組織なのだ。それが社会主義の主張と重なったため、資本家と労組の「階級闘争」が社会問題として取り上げられてきたが、労組の組織率が15%にまで落ちた現在では、赤木氏も指摘するように、むしろ組織労働者と未組織労働者の「戦争」こそ本質的な問題だ。

にもかかわらず自民党のみならず、労組を基盤とする民主党も、この問題を正視できず、「都市と地方の格差」などという話にすりかえている。地方の所得が低いなら、都市へ移動すればいいだけのことで、こんなものは「非問題」である。ところが1970年代以降、「国土の均衡ある発展」の名のもとに地方にバラマキを続けたことが、日本経済に歪みをもたらし、成長率が下がった。特に90年代に都市で仕事がなくなり、地方に大量のバラマキが行なわれたため、若者は地方に戻って土方をやるしかなくなった。バラマキは、むしろ格差を再生産しているのだ。

問題は「格差社会」などという一般論ではなく、若年層に非正規労働者が増えていることだ。それを解決するには、労働組合の既得権を解体し、正社員を解雇自由にするしかない。「終身雇用の美風が失われる」などと嘆く向きには、かつてサラリーマンだった私が自信をもっていうが、サラリーマンは終身雇用が好きで会社にいるのではない。やめてもつぶしがきかないから、辛抱しているだけだ。解雇自由にする代わり、職業紹介業も自由化して中途採用の道を広げれば、みんな喜んで会社をやめるだろう。

国連という神話

国連の安保理事会が、日本のアフガニスタンでの給油活動に「感謝」する変な決議をしたことで、問題はかえってこじれているようだ。これはロシアも批判したように、日本の国内事情のために外務省がやらせた茶番劇である。この背景には、小沢一郎氏の「国連至上主義」がある。これは『日本改造計画』のころから一貫しているが、あまり他には類を見ない奇妙な信仰だ。

古森義久氏も指摘するように、国連の実態は北朝鮮の拉致事件に関連する人権弾圧を非難する決議案にも、人権委員会53ヶ国中28ヶ国しか賛成しないような組織なのだ。それは国連の加盟国の大部分が、人権弾圧をしている途上国だからである。

そもそもUnited Nationsを「国際連合」と訳すのは誤訳である。これは第二次大戦中の1942年に「連合国」が共同で戦争を行なうために結成された軍事同盟で、それが戦後も続いているものだ。だから国連(正しくは連合国)は、世界平和を守る「世界政府」ではなく、戦勝国が戦後秩序を守るための機関なのである(cf. 色摩『国際連合という神話』)。

しかも「1国1票」という議決システムの欠陥のおかげで、その実態はほとんど「途上国クラブ」だ。私もITUの会合に何度か出たことがあるが、電気通信の議論といえば途上国援助の話ばかりで、うんざりした。「インターネット・ガバナンス」とかいうテーマで何度も行なわれる会合も、途上国の政府がインターネットを検閲したいという話にすぎないのに、日本だけがまじめにつきあっている。

日本では「世界遺産」などがもてはやされているユネスコも、途上国と社会主義者の巣窟で、慰安婦問題について偽証言を根拠にして日本の「性奴隷」を非難する報告書を何度も出した。ユニセフも各国に「委員会」を置いて多額の寄付を集めているが、使途が不明で疑惑をまねいている。日本ユニセフ協会も「振り込め詐欺」まがいのダイレクトメールを乱発して問題になった(私にも来た)。

小沢氏がなぜ国連をあれほど崇拝するのかよくわからないが、民主党が政権をとったら「国連中心主義」の外交をするとマニフェストに書かれているのは、困ったものだ。給油活動を国連が支援しているかどうかなどという神学論争で臨時国会がつぶれるとしたら、安倍退陣以上の時間の浪費だし、それを理由に自衛隊が引き上げたりしたら、日本の外交・防衛の信用は失墜するだろう。

著作権法をどう改革するか

きょうのICPFシンポジウムは、意外に(?)おもしろかった。著作権がらみのテーマの討論会は、私自身が出たのも含めて何度も聞いたが、いつも権利強化賛成・反対のいいっぱなしで、話がかみ合わなかった。ところが今回は、パネリストの認識が、現在の著作権法が<壊れている>あるいは<変えないともたない>という点で一致していた。だから議論も、どう変えるかということに絞られた。パネリストの提案を私なりに2X2のマトリックスで整理すると(*)



  1階建て(法改正) 2階建て(契約ベース)
登録制度 林 白田
強制許諾 津田 ?

1階建ての改革案は、論理的でわかりやすいという利点はあるが、ベルヌ条約を脱退するとか改正するとかいう非常に高い壁がある。他方、2階建ては現行法の中でやれるというメリットはあるが、権利者が2階に上がってくれるのか(1階より有利か)という点がむずかしい。白田案については、前回コメントしたので、他の2案について:

林案は、たぶん私の考えといちばん近い。「デジタル社会で権利をもつには、IDをもつことが出発点だ。何もしないで権利が発生するという現行法は根本的に間違っている」と安田浩氏が言ったそうだが、同感だ。ベルヌ条約を改正して、登録主義にすることがもっともすっきりした解決策だ。これは、ある程度までは国内法だけの改正も可能だが、甲野氏は「日本だけ無茶はできない」と消極的だった。

津田案は、EFFやバークマンセンターなどが昔から提唱している改革案だが、肝心の料率をどう決めるかという点が難点だ。音楽では「定価」が事実上成立しているので容易だと思うが、映画のように当たりはずれが大きいものはむずかしいだろう。これを国が決めると「コンテンツ税」のようなものになりかねない。

現実的には、ベルヌ条約の改正案を論じても始まらないので、現行法の枠内でどうするかを考えなければならない。その点で「?」と書いたのは、実は前例があり、EU委員会が域内で強制許諾についての法律を作れというEU指令を出している。この場合、むずかしいのはベルヌ条約が強制許諾を放送業者の特権としている点だが、EU委員会はそれにはあえてふれず、WIPOの3条件(特殊ケースに限る・通常の営利利用と競合しない・権利者の利益を毀損しない)を基準にして認めるべきだとしている(**)

この点を私が質問したら、意外にも岸氏と甲野氏が賛成してくれた。またJASRACも音楽だけでなく、映像も含めた包括ライセンスの仲介業にビジネスを拡大できるなら、悪い話ではないだろう。このあたりが、実現可能な改革をさぐってゆく足がかりになるのではないかという気がした。

(*)登録制度と強制許諾(包括ライセンス)の中身については、当ブログの記事を参照。

(**)関連するEU指令などは『交感する科学』所収の論文にくわしく書いた。ウェブにドラフトがある。




スクリーンショット 2021-06-09 172303
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