2007年08月

パール判事

8月15日というと東京裁判は季節ネタみたいなものだが、本書はその少数意見としてA級戦犯を全員無罪とする意見書を出したパール判事についての本だ。著者は『中村屋のボース』でひとりの亡命インド人の運命を描いたが、今度のテーマはやや手に余ったようにみえる。本書の大部分は、パール意見書の紹介に費やされており、予備知識のある読者には退屈だろう。

パールが多数意見に反対した最大の理由は、事後的に「平和に対する罪」などという罪名をつくって裁くのは罪刑法定主義に反するという法律論だったが、その背景には、母国インドでイギリスの過酷な植民地支配を受けた経験があった。これに対してガンジーのとなえた非暴力主義は、植民地支配に対しては何の力にもならなかったが、独立後のインド人の精神的な支柱となった。したがってパールは、むしろ絶対平和主義や世界政府を望んでいたのである。

東京裁判については、これを民主主義の全体主義に対する正義の断罪とみる主流の歴史観がある一方、これを勝者による不公正な裁きとし、「大東亜戦争」を肯定する立場がある。パール意見書は、しばしば後者の立場を支持するものとして使われてきたが、以上からもわかるようにこれは誤りである。しかし著者は、これを憲法改正に反対する論拠とし、本書を「右派論壇」に突きつけているが、これはいかがなものか。

私の印象では、パール意見書の射程はもっと長いようにみえる。歴史上、戦争が正義や自衛の戦いであったことなどなく、「東半球内におけるいわゆる西洋諸国の権益は、おおむねこれらの西洋人たちが、過去において軍事的暴力を変じて商業的利潤となすことに成功したことのうえに築かれたものである」(本書p.130)と意見書はいう。欧米諸国の植民地争奪戦がいかに狂っていたかに無自覚なまま、それをまねようとして失敗した日本を断罪するのは欺瞞である。

その原因は、特定のイデオロギーで規定された「帝国主義」の問題でも、天皇制などの「封建制の残滓」でもなく、牛村圭『「文明の裁き」をこえて』も指摘するように、17世紀以来、欧米諸国が世界を「文明化」する動機となってきた自民族中心主義にあるのではないか。彼らがそれを自覚しない限り、ベトナムやイラクを見ればわかるように、地球上から戦争はなくならないだろう。

グローバルな取り付け騒ぎ

914a712b.png
アメリカのサブプライムローンの崩壊から始まった金融危機は、欧州にも波及してBNPパリバ傘下のファンドが破綻し、世界中の中央銀行が総額30兆円以上の資金供給を行なう空前の規模となった。

しかし市場の反応は、意外に冷静だ。これまでの相場が異常だったので、いずれ水準訂正が来ることは予想されていたからだ。そもそも世界最大の経常赤字を抱えるアメリカのドル相場が上昇を続け、そこに世界中から資金が集まって低金利が続くという、経済学の常識では説明できない「ドル・バブル」が、ここ3年ぐらい続いてきた。

国際経済学の教科書には、アメリカのように成熟した経済では資金が過剰になり、途上国では経常収支が赤字になって資金不足になるので、前者から後者に資本輸出が行なわれる、と書いてある。ところが現実に起こっているのは逆に、図のように先進国の6000億ドルもの経常赤字をまるまる途上国がファイナンスしているという状況だ。

このパラドックスをいろいろな経済学者が説明しようとしているが、あまり合理的な説明はない。しいていえば、BRICsの成金は資産運用の技術をよく知らず、自国にはろくな運用先もないので、安全な米国債に投資している、というのが世界のアナリストの見方だ。つまり、この背景には情報の非対称性があり、巨大な不均衡は「みんなドルに投資しているから大丈夫だろう」という群衆心理で支えられているだけかもしれない。

だとすると、この相場が崩れると、グローバルな「取り付け」が起こるおそれがある、とNYタイムズは指摘している。各国の中央銀行が巨額の流動性を供給しているのは、まさに典型的な取り付けへの対応だ。しかし従来の取り付けと違って、今回の主役は中央銀行が実態さえ把握していないヘッジファンドであり、しかもそれは全世界に分散している。

こういうグローバルな取り付けは、初めてではない。1997年に起こったアジア経済危機は、当事国が短期の対内直接投資に依存しすぎていた(投資する先進国も短期でヘッジしていた)ために起こった取り付けの一種だというのが、現在ではファイナンス業界の通説だ。1998年のLTCM事件を引き起こしたロシア国債の崩落も、非合理的なパニックだった。それはBlack-Scholesでは予測できないBlack Swanだったのだ。

だから、この種のパニックは地震と同じで、いつかは必ず起こるが、いつ起こるかは予想不可能だ。資産の7割以上を外貨で運用している私としては、これが「軽震」で収まってくれることを望みたい。

よみがえるマルサス

最近、経済学者のブログで話題になっているのが、Greg ClarkのFarewell to Almsという本だ。アマゾンに注文したが、まだ届かないので、NYタイムズの書評によると、次のような内容らしい:

18世紀後半から起こった産業革命によって、人類の所得は飛躍的に上がった。その理由についてはいろいろな説があるが、クラークの説は、マルサスの『人口論』に似ている。つまり人口の増加率が食料の増加率をつねに上回るため、貧乏人は子孫を残せない。金持ちが多くの子孫を残すため、彼らの行動様式、すなわち長時間働き、契約を守り、財産権を尊重するといった近代的なエートスが広がり、それが工業化を可能にした、というわけだ。マルサスというより、社会的ダーウィニズムといったほうがいいかもしれない。

では、なぜ西欧以外の文明圏でこういう変化が起こらなかったのか、という点についてクラークは、中国でも日本でも豊かな階級の出生率が低かったため、こういう淘汰メカニズムが働かなかったというのだが、これはどうだろうか。ただ、こうしたデータを一次史料から再構成しており、数量経済史の研究としては第一級の業績として専門家に高く評価されている。

これを現代にあてはめると、途上国がいつまでたっても「離陸」できないのは、貧富の格差が(援助などのおかげで)拡大しないので、働かない貧乏人が淘汰されないからだ、ということになる。ジェフ・サックスが聞いたら激怒しそうな結論だが・・・

なぜウェブは資本主義を超えるのか

日経ITproの私へのロング・インタビュー。

資本への恐怖

Brad DeLongのブログより:
世界経済は、20世紀末から大きな転回をとげようとしている。成長の動力が製造業からファイナンスに変わろうとしているのだ。長期金利が世界的に低下しているのは、製造業の利潤率が下がり続けているためだ。その主な原因は、情報革命によって国際分業が容易になり、BRICsなどから低価格の製品が流入してきたためだ。

他方、金融・資本市場は空前の活況を呈している。国際資本市場にある資金は160兆ドルといわれ、これは全世界のGDPの合計の3倍以上だ(1980年には全世界のGDPとほぼ同じだった)。派生証券の残高は300兆ドル。こうした巨額の富を1万2000のファンドが運用し、年間3兆ドルの企業買収が行なわれている。

かつて重農主義者は、農業こそ価値(差異)の源泉だと考え、それを売ってもうける商人は農民をだましているのだと考えた。マルクスは、産業資本主義では工場労働こそ価値の源泉と考え、資本家は労働者を搾取しているのだと考えた。しかしこうした利潤は、成長や競争の激化とともに低下する。資本主義は、その「最高の段階」としての金融資本主義に到達したのかもしれない
20世紀の資本主義は、マルクスの言葉でいえば「資本の有機的構成」(技術革新)の高度化によって利潤率の低下を避けてきたが、その差異もITの急速な発達によって瞬時に埋められるようになり、残るのは純粋な差異としての資本市場の利鞘だけになった。他方、ITによって国際資本移動はきわめて容易になったが、各国の金融制度や規制が障害になっているので、それを(政治的圧力で)アメリカ型に合わせることがワシントン・コンセンサスの世界戦略となる。

これは岩井克人氏などでもおなじみのストーリーだが、水野和夫『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』も、資本の反革命という名で同じような現象を指摘している。情報革命は、資本主義を「サイバー何とか」で代替するのではなく、むしろ差異を追求する資本主義の本質を徹底し、全世界に拡大することに貢献しているのかもしれない。

日中戦争とソフトパワー

今年は、日中戦争の開戦からも70周年だ。これについても多くの本が書かれているが、本書の視点は明確だ。第1のポイントは、副題にもあるように、日本軍が日清・日露戦争において短期の殲滅戦で勝ったため、消耗戦や総力戦の体制ができていなかったという点だ。

おそらく、それを認識していたのは石原莞爾だけだっただろう。しかし彼にとっては来るべき対ソ戦に備える橋頭堡だった満州から、南に戦線が拡大する予想外の展開になったとき、戦局は彼にもコントロールできなくなった。しかも系統的な補給を考えなかったため、南京事件のような略奪を各地で繰り返した。ここでも、「首都南京を叩けば、蒋介石は戦意を喪失して降伏する」という殲滅戦の発想が抜けなかった。

これに対して蒋介石は、南京を脱出して首都を重慶に移し、消耗戦の構えをとるとともに、南京で日本軍の行なった「大虐殺」を海外にアピールする宣伝戦を展開した。この結果、それまで中立だったアメリカを引き入れて物資などの支援を得ることができ、その実力以上に戦うことができた。またアメリカも、ほんらい戦う気のなかった日本と対決姿勢を強め、対日開戦に至る。

この蒋介石の戦略が、今でいうソフトパワーの活用だというのが第2のポイントだ。南京事件の「30万人」という第1報を出した英紙の記者ティンパリーが国民党の工作員だったという話は「まぼろし派」の人々によく引き合いに出されるが、逆にいえば欧米メディアまで巻き込んだ蒋介石の情報戦の手腕が、日本よりはるかに上だったということだ。特に蒋介石の妻、宋美齢は英語が堪能で、全米を回って講演し、ルーズベルトに強い影響を与えた。

こういう駆け引きをみると、日本の外交は、あれから70年たってもちっとも進歩していないなと思う。中国や韓国が南京事件や慰安婦などのソフトパワーを使って日本を悪役に仕立て、日米の分断を図るのに対して、「とりあえず頭を下げれば何とかなる」という短期決戦の発想が抜けない。そのうち世界中から非難を浴び、アメリカとの挟撃にあって沈没・・・という展開もそっくりだ。経済面でも、今や日米関係より米中関係のほうがはるかに重視されている。

この情報発信力の弱さは、著者も指摘するように、「世界最強の兵士と最低の将校」をもつといわれた陸軍以来の伝統だろう。現場の力はあるのに、出世するのが調整型のイエスマンばかりだから、戦略的な発想とそれを実行する指導力がなく、対外的な発言力もない。最近では、小泉前首相が珍しい石原莞爾型リーダーだったが、安倍首相は東條英機以下だ。

フラット革命

毎日新聞が、今年の正月から始めた「ネット君臨」という連載は、インターネットを既存メディアの立場から一方的に断罪するものだった。著者(佐々木俊尚氏)は毎日新聞の記者出身だが、こうした姿勢に疑問をもち、取材の過程を取材する。そこから浮かび上がってくるのは、インターネットの登場におびえ、「格上」のメディアとしての新聞の地位を何とかして正当化しようとする姿勢だ。

社会の中心に政府や大企業やマスメディアがあり、そこで管理された画一的な情報が社会に大量に流通する、というのが20世紀型の大衆社会だった。しかしインターネットでは、こうした階層秩序は崩壊し、政治家も新聞記者も匿名のネットイナゴも同格になる「フラット化」が進行している。この変化は、おそらく不可逆だろう。

マックス・ヴェーバーの言葉でいえば、政府も企業も含めた「官僚制」による合理的支配の時代が終わろうとしているのだろう。官僚制を必要としたのは、処理すべき情報の急速な増加だった。それを処理できる能力は、20世紀初めにはきわめて限られていたので、情報を中央に集めて数値化して処理する官僚機構が必要になった。しかし今の携帯電話の処理能力は、1950年代に国勢調査の情報処理に使われたIBMのコンピュータより大きい。もう情報を官僚が集権的に処理する必要なんかないのだ。

その先に来るのは、情報を個人が分権的に処理し、それをネットワークで流通させる社会だろう。しかし、その情報をだれが集計し、意思決定を行なうのだろうか。商品を分権的に流通させるシステムとしては市場があるが、そこでは価格が交渉や契約を成立させるメカニズムになっている。しかし情報には稀少性がないので、価格のような調整メカニズムが働かない。このため、イナゴがサイバースペースを占領し、誹謗中傷があふれ、コミュニティが崩壊し、「ネットカフェ難民」のような原子化した個人が社会に広がる。

インターネットが社会のインフラになることは避けられないが、その先に今より住みよい社会があるかどうかはわからない。「無政府的」な市場社会を混沌から救っているのは財産権というルールだが、情報社会にそういう普遍的なルールは見出せるのだろうか。著者も、これまで国家のになってきた「公共性」を自律分散的なシステムによって再建する必要があるとのべているが、その見通しが立たないことも認めている。

コモンズとしての電波

FCCが700MHz帯オークションのルールを発表した。結果的には、グーグルなどが要求していた「端末やアプリケーションを自由に選べる帯域」を1/3確保する一方、「MVNOに卸し売りすることを義務づける」という要求は却下した。グーグルは、これを「一歩前進」と評価している。

このように電波を「水平分離」し、オークションで「電波利用権」を得た免許人は「インフラ卸し」に特化してサービスは別会社に分離し、他社にも電波を開放する、という案は私が5年前に「コモンズとしての電波」という論文で提案したものだ。これは免許不要帯に開放できない場合の次善の策だが、いま総務省のやっている密室取引よりはるかにましだと思う。


note1
スクリーンショット 2021-06-09 172303
記事検索
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
Creative Commons
  • ライブドアブログ