
フーコーは、規律社会と、その主たる技法である「監禁」の思想家とみなされることが多い。しかし、じつをいうと、フーコーは、規律社会とは私たちがそこから脱却しようとしている社会であり、規律社会はもはや私たちとは無縁だということを述べた先駆者のひとりなのです。(単行本p.288)「監視社会」の恐怖を煽り、「プライバシー」なる幻想を振り回すおめでたい人々は、全知全能の「ビッグブラザー」が国民を監視していると思い込んでいるのだろう。しかし年金問題で露呈したのは、ビッグブラザーのお笑い的な実態だ。むしろ問題は、社会に流通する膨大な情報をだれも管理できなくなっていることなのだ。
19世紀の資本主義は生産を目標に据え、所有権を認めた上で集中化を実施する。だから工場を監禁環境に仕立て上げたのだ。[しかし]現在の資本主義は本質的に分散性であり、またそうであればこそ、工場がオフィスに席を明け渡したのである。市場の形成は管理の確保によっておこなわれ、規律の形成はもはや有効ではなくなった。(単行本p.298)この脱コード化する資本を主権国家のパノプティコンのもとに再コード化しようとする「知的財産戦略」は、爆発的に超分散化するデジタル情報の遠心力によって挫折するほかない。それよりも重要なのは、ミクロ的にわれわれを支配するメディアの力とのゲリラ的な闘い(原題は『交渉』Pourparlers)である。晩年の著者は『マルクスの偉大さ』という本を書こうとしていたといわれるが、マルクスのいうように資本主義はみずからそれを否定するものを生み出しているのかもしれない。