2007年06月

現代はパノプティコン的「監視社会」ではない

本書は、ドゥルーズの死の直前に出た訳書の文庫化だが、彼の多くの本の中で最初に読む本としていいだろう。それは『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』などの内容が対話調でやさしく語られているだけでなく、むしろ最晩年の彼がそうした過去の議論を否定しているからだ。
フーコーは、規律社会と、その主たる技法である「監禁」の思想家とみなされることが多い。しかし、じつをいうと、フーコーは、規律社会とは私たちがそこから脱却しようとしている社会であり、規律社会はもはや私たちとは無縁だということを述べた先駆者のひとりなのです。(単行本p.288)
「監視社会」の恐怖を煽り、「プライバシー」なる幻想を振り回すおめでたい人々は、全知全能の「ビッグブラザー」が国民を監視していると思い込んでいるのだろう。しかし年金問題で露呈したのは、ビッグブラザーのお笑い的な実態だ。むしろ問題は、社会に流通する膨大な情報をだれも管理できなくなっていることなのだ。
19世紀の資本主義は生産を目標に据え、所有権を認めた上で集中化を実施する。だから工場を監禁環境に仕立て上げたのだ。[しかし]現在の資本主義は本質的に分散性であり、またそうであればこそ、工場がオフィスに席を明け渡したのである。市場の形成は管理の確保によっておこなわれ、規律の形成はもはや有効ではなくなった。(単行本p.298)
この脱コード化する資本を主権国家のパノプティコンのもとに再コード化しようとする「知的財産戦略」は、爆発的に超分散化するデジタル情報の遠心力によって挫折するほかない。それよりも重要なのは、ミクロ的にわれわれを支配するメディアの力とのゲリラ的な闘い(原題は『交渉』Pourparlers)である。晩年の著者は『マルクスの偉大さ』という本を書こうとしていたといわれるが、マルクスのいうように資本主義はみずからそれを否定するものを生み出しているのかもしれない。

日本のインテリジェンスのあきれた水準

朝鮮総連の事件は意外な方向に発展したが、これは単なる詐欺事件にとどまらない。それよりも深刻なのは、日本のインテリジェンスの水準がこの程度だということを世界にさらしてしまったことだ。

小谷賢氏によれば、日本のインテリジェンスには戦前から大きな欠陥があったが、戦後むしろ状況は悪化したという。第5次吉田内閣で「内閣情報部」をつくろうという提案が出たとき、「新聞やラジオはすぐに戦争中の情報局を想定して、また報道や世論の干渉を目論んでいるのではないかと一斉に反対し」、立ち消えになってしまった(『日本軍のインテリジェンス』p.216)。インテリジェンスが戦前の憲兵や特高と同一視されているため、いまだに日本には総合的な情報機関がない。

特に深刻なのは、今回のような偽情報(disinformation)に弱いことだ。公安調査庁の仕事は、あまりハイテク機器が役に立たないので、古典的なhumint(要するにスパイ)が主であり、だれが信用できるかを見定めるのが仕事のすべてといってもよい。そのトップにあった人物が、満井忠男のような札つきの詐欺師を信用したというのは信じがたい。

今回の事件でもう一つ特徴的なのは、総連側の代理人が「慰安婦問題の立法解決を求める会」の会長をつとめる土屋公献氏(元日弁連会長)だったことだ。彼は、かつて「拉致問題は日本政府のでっち上げだ」と主張していた。つまり今や情報も偽情報も、ほとんどはこうして公然と流されているのだ。したがってインテリジェンスは広報・宣伝活動と表裏一体なのだが、公安警察や内閣情報調査室などには情報発信機能がなく、大部分の官庁には広報室という組織さえない。CIAが(よくも悪くも)大規模な謀略活動を行なっているのと対照的だ。

慰安婦問題でも、中国・韓国ロビーが米議会に流した大量の偽情報に対して、counter-intelligenceが機能した形跡がない。それどころか外務省は、今回も「謝れば片づく」という日本的感覚で安倍首相に謝罪させ、それが「日本は罪を認めた」という印象を海外に与えて、かえって問題を拡大してしまった。小谷氏の指摘するように、戦略的インテリジェンスの欠如が場当たり的な「短期決戦主義」を生んだ日本軍の欠陥が今も継承されているのだ。

今回の事件を教訓にして、政府は役立たずの公安調査庁を廃止し、情報機関を統合して戦略的インテリジェンス体制を整備し、「攻めのインテリジェンス」を構築すべきだ。情報戦においても、攻撃は最大の防御である。

朝日新聞は歴史認識を語れ

朝日新聞東京本社編集局長 外岡秀俊様

当ブログの4月1日付の記事を読んでいただいたそうで、ありがとうございます。実は、私はあなたと同い年で大学も同じで、あなたの1年後に朝日新聞から内定をもらいました。それを断ったとき、人事担当者に「去年の外岡君は文芸賞をもらったが、当社に入社した。自由に仕事ができる」と説得されたことを覚えています。あのとき内定を受けていれば、あなたの1年後輩になったわけです。

朝日のような「進歩派」はNHKにも多く、世間で思われているほどNHKは(政治的には)保守的なメディアではありません。特に毎年8月になると、終戦記念番組で反戦平和を訴えるのが定番でした。私も1991年に終戦企画を担当し、取材班は国内と韓国で1ヶ月にわたって「強制連行」の取材をしました。当時のわれわれも「軍が朝鮮人の首に縄をつけて引っ張ってきた」という証言をさがしたのです。

しかしそういう証言は、数十人の男女の中で1人もなく、出てきたのは「高給につられて出稼ぎに行ったら、タコ部屋に入れられて逃げられなかった」といった話ばかりでした。ただし慰安婦については、初めて金学順という老婆が実名で出てきて、大きなニュースになりました。このときNHKの番組で彼女は「親にキーセンに売られ、養父に連れられて慰安所に行った」と証言しました。

ところがその年の12月に起こされた国家賠償訴訟では、彼女は軍に「強制連行」されたことにされました。そして、この訴訟を応援するかのように「国家の関与を証明」したのが、朝日新聞の1992年1月11日の記事です。これについては4月1日の記事に書いたとおり誤報だったことは明白であり、「歴史認識」の検証を掲げる朝日新聞が、この問題の検証を避け、社説で「枝葉の問題だ」などと逃げているのは、誠実な態度とは思われません。

国内では、この問題についての事実関係は、ほぼ決着がついたと思います。先日の意見広告でもいうように、売春を強制するよう命じた軍の文書は1枚もありません。慰安婦の「証言」がいくらあろうと、軍命の証拠にはなりません。気の毒な公娼の身の上話にすぎない。これは枝葉の問題ではありません。国家賠償訴訟においては、「公権力の行使」があったかどうかは最大の争点です。

きのう米下院外交委で、慰安婦非難決議が可決されました。このままでは本会議でも、可決される可能性が高いようです。朝日新聞は、この決議への論評を避けていますが、「日本軍が慰安婦を性奴隷にして売春を強制し、強姦や堕胎や自殺に至らしめた20世紀最大の人身売買」を非難するこの決議に賛成するのですか。戦後60年以上たって、こんな荒唐無稽な決議が出てくる責任の一端が朝日新聞にあることを認識しておられるでしょうか。

政府があきらめてしまった以上、こうした海外の誤解を是正できるのは、朝日新聞だけです。朝日の若い記者にも私の意見に賛成する人が多く、「慰安婦問題は一度、けじめをつけたほうがいい」と言っています。あなたも私も、もう贖罪意識やナショナリズムにこだわる世代ではないでしょう。これまでの行きがかりを捨て、この決議案が本会議で採決される前に、慰安婦問題についての歴史的な事実を(社説ではなく)記事で実証的に検証してはいかがでしょうか。

敬具


知財戦略の天動説

きのうのICPFセミナーでは、知的財産戦略本部の大塚拓也氏に「知的財産推進計画2007」について話を聞いた。4年前に出た最初の計画については、私もコメントしたことがあるが、今回の計画の発想もそれとほとんど変わらない。

この計画の最大の勘違いは、依然としてマスメディアが集権的にコンテンツを配信する天動説型の情報流通モデルに依拠していることだ。コンテンツ流通を促進するといいながら、その障害になっている著作権の緩和(登録制や報酬請求権化)には「権利者の反対が強い」という。私が「その権利者とは誰か。文芸家協会の会員は2500人だが、ブロガーは800万人以上いる。この著作者の圧倒的多数は、表現の自由を侵害する著作権の強化に反対だ」というと、大塚氏は「そういう視点は、今回の計画には抜けている」と率直に認めた。

計画文書には、しきりに「コンテンツ産業の市場規模はGDPの**%」という類の話が出てくるが、情報の価値を市場価値だけで測るのは間違いだ。通常の財は市場を通さないと流通できないので、その価値は市場価格としてGDP統計に出てくるが、情報はネットワークで「物々交換」されるので、その価値(効用)は必ずしも金銭で表示されない。情報のネットの価値は、効用の積分値からコストを引いた社会的余剰であらわされるが、インターネットによって情報流通コストは劇的に低下したので、GDPベースでは小さくなる。これが「コンピュータはどこにでもあるが、GDP統計にだけはない」というソローの有名な言葉の意味だ。

したがってブログなどで流通しているデジタル情報の価値が金銭で表現できないということは、それに価値がないことを意味しない。むしろ情報流通コストが低くなった分だけ、社会的余剰ははるかに大きくなったと考えられる。今後の情報産業のフロンティアは、こうしてユーザーによって生み出されている膨大な情報の価値を、グーグルのように情報をオープンにすることで取り込み、金銭ベースの価値に変換していくことだろう。

ところが今回の「知財計画」は、こうした世界のビジネスの流れに逆行して、情報を「知的財産権」で囲い込んで放送局やJASRACの既得権を守り、「アニメを輸出してアメリカに追いつけ」と旗を振る。まるで1960年代の輸出振興政策だ。いったい何度おなじ失敗を繰り返したらわかるのだろうか・・・

ブラック・スワン

ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質ふつう自然科学や経済学で確率を考える場合、ほとんど正規分布を仮定している。しかし実際に世界を動かしているのは、そういう伝統的な確率論で予測できない極端な出来事――Black Swanである。

たとえば9・11の前に、今のように厳重なセキュリティ・チェックが提案されても通らなかっただろう。飛行機ごとビルに突っ込むという行動は、人々の確率論的なリスク評価の枠外にあったからだ。このように、いわばメタレベルで人々の予想を裏切る現象がBlack Swanである。ここでは母集団が未知なので、その確率分布もわからない。圧倒的多数の出来事はごくまれにしか起こらないので、その分布は非常に長いロングテール(ベキ分布)になる。

著者がBlack Swanを理解していた唯一の経済学者として挙げるのがハイエクだが、実は彼より前にこの問題をテーマにした本がある。Frank Knightの"Risk, Uncertainty, and Profit"(1921)である(ウェブサイトで全文が公開されている)。Knightは、確率分布のわかっているリスクと確率分布を計算する根拠のない不確実性を区別し、リスクは保険などで事務的に解決できるが、不確実性は経営者の決断によって解決するしかないとした。

その後の経済学者は、Knightの議論を「意味論的な思弁」としてバカにし、根拠もなく正規分布を仮定して、壮大な理論体系を構築してきた。ところが皮肉なことに、その後の確率論の進歩と膨大な実証データによって、こうした「疑似科学」的な理論が否定されようとしている。著者は数理ファイナンスの専門家だが、Black-Scholesに代表される金融工学を、観念的で役に立たない「プラトン的モデル」と一蹴する。

ではBlack Swanを予測する理論はあるのだろうか? それは「予測不可能な現象」という定義によってありえない。複雑な世界には、すべてを説明する「大きな物語」はなく、個別の実証データにもとづく「小さな物語」を積み重ねるしかないのだ。

清く貧しく美しく?

渡辺千賀さんの「日本は世界のブラックホールか桃源郷か」という記事を読んで、また小姑モードでコメントしたくなった。
「外貨をそれほど稼がずとも、自立して清く貧しく美しく、割と幸せに生きる」
マクロ経済素人が考えることなので、まぁダメダメかもしれないが、本当にシュミレーションしてみたら面白いんじゃないかなぁ、と思うんですよね。
幸か不幸か、日本のIT産業は、今そういうシミュレーションをやっている最中だ。特にひどいのは、渡辺さんおすすめのように世界から完全に孤立した携帯電話業界で、日本メーカーの世界市場シェアは、全部あわせても(外資と合弁のソニー・エリクソンを除くと)5%ほどしかない。おかげで各社とも青息吐息で、さすがに総務省も見かねてSIMロックの規制に腰を上げた。

携帯以外の通信機器も、ながく「NTT規格」で鎖国してきたおかげで、インターネット機器は壊滅状態。今ではNTTのNGNエッジルータでさえ、中身はシスコという有様だ。NTT規格で非関税障壁を設けるしくみは、かつては一種の産業政策として機能していたが、それが今では業界を破滅の渕に追い詰めているのだ。

「ITゼネコン」と呼ばれる大手コンピュータ・メーカーの経営実態もボロボロ。かつて高い競争力を誇った家電メーカーも、ソニーやビクターや三洋など、軒並み沈没だ。こういうことになったのは、日本市場というほどほどに大きな「桃源郷」に安住してきたためだ。渡辺さんもご存じ(だと思う)の海部美知さんは、これを「パラダイス鎖国」と命名した。

経済学的にいうと、この原因は大きくわけて二つある。一つは、インターネットによって情報機器の市場がグローバル化し、規模の経済(収穫逓増)が大きくなって国際的再編が進んでいるのに、日本のメーカーは世界の資本市場から隔離されているため、企業買収・再編の流れから取り残され、過少規模・低収益のメーカーが多数のこっている。たとえば携帯電話メーカーは、海外市場では主要メーカーは5社しかないのに、日本だけで9社もある。

もう一つは、メーカーが官庁・銀行・キャリアなどのドメスティック規格で下請け・孫請け構造に組み込まれているため、グローバルな最終財市場の競争にさらされないことだ。こういう大口の法人契約では大きく成長することはできないが、そこそこの利益が確実に上げられるため、技術革新を追求するよりもレガシーシステムで囲い込んで末ながく食い物にしようというインセンティブが働きやすい。

だから、このままでは日本経済は、好むと好まざるとにかかわらず、「清く貧しく」衰退してゆくだろうが、それが美しいかどうかは疑問だ。1990年代、日本のGDP成長率が年率にして1%ほど下がっただけで、この世の終わりが来たような騒ぎだった。日本の輸出依存度(GDP比)は約10%だから、外貨が稼げなくなったら何十万という企業が倒産し、何百万人もの失業が発生するだろう。まぁそうなってみないと、桃源郷なんかもうないことに気づかないのかもしれないが・・・

レッシグの「これからの10年」

レッシグが、知的財産権の問題から「チャンネルを変える」と宣言して、話題になっている。私も、彼の気分はわからないでもない。彼を2001年に日本に初めてまねいたのは私だが、それ以来、彼との会話はいつも同じ暗い話ばかりで、状況は悪くなる一方。こんなことをやっていたら学者として終わってしまう、という彼の焦りもわかる。

しかし彼が「腐敗」を新しいテーマにするというのはいただけない。それは民主主義にとって本質的な問題ではないからだ。この種の問題については、経済学で既存の研究がたくさんあるが、その代表であるGrossman-Helpmanの分析によれば、根本的な問題は「1人1票」という普通選挙制度にある。私の1票が選挙結果に影響を与える確率は(田舎の村長選挙でもないかぎり)ゼロだが、投票に行くコストは私が負担するので、投票は非合理的な行動なのである。

したがって政治に影響を与えようとする人々にとっては、投票するよりロビー団体を通じて政治家に働きかけるほうが合理的だ。この場合、レッシグも指摘するように、問題は贈収賄だけではない。合法的な政治献金も、政治家に影響を与えるという意味では同じである。しかし政治資金を規制して「腐敗」をなくしたとしても、民主的意思決定のゆがみはなくならない。

根本的な問題は、政治活動のコストと利益が不均等に分布していることだ。たとえばJASRACにとっては、政治家に圧力をかけて音楽データ配信を制限させて独占を守り、数千万円ぐらい手数料収入を上げることができれば、その利益は政治活動のコストを十分上回る。これに対して数百万人の消費者が二重課金によって数億円損をするとしても、一人当たりの利益は数百円なので、政治活動のコストには見合わない。

このように公共的意思決定が公共財になるため、silent majorityの「ただ乗り」が起こってnoisy minorityの政治的圧力が通りやすくなるという逆説は古くから知られている。これは代議制民主主義の欠陥なので、根本的に是正する方法はない。かといって、ブログやNGOなどの「直接民主主義」が世の中を変えるというのも幻想だ。「反グローバリズム」のデモ隊が政治家より賢明だという保証は何もない。

だから残念ながら、レッシグの「これからの10年」は、学問的に大した成果を生むとは思えない。彼の支持するオバマのような民主党的温情主義は、「大きな政府」をもたらし、かえってゆがみを拡大するだろう。本質的な問題は、彼の師匠であるポズナーもいうように、人々の生活に行政が関与するのをやめさせ、個人間の紛争は当事者どうしで司法的に解決するしくみを整備して、政治の領域を最小化することだ。人生には、政治よりも大事なことがたくさんある。

トクヴィル 平等と不平等の理論家

トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』は、「だれでも知っているが、だれも読んだことがない」という意味での古典の一つだ。私も、3年前に講談社学術文庫版が出たとき読もうとしたが、訳がひどくて挫折した。特に引っかかったのは、そのテーマである「平等」の概念だ。当時(19世紀前半)の欧州から見るとアメリカは平等だったのかもしれないが、今のアメリカを見ると、それが平等な社会だというのは、まったくリアリティがない。

・・・と思っていたのだが、本書を読んで考えが変わった。日本語で平等というと、所得を同じにするといった「結果の平等」を思い浮かべがちだが、トクヴィルのいうegaliteは、身分差別を撤廃するという「機会の平等」であり、「対等」とか「同等」と訳したほうがいい。この点、本書もタイトルで損をしている。

トクヴィルがアメリカを旅行して印象づけられたのは、それが徹底して対等な個人の社会だということだった。彼の母国では、フランス革命後も身分秩序が根強く残っていたが、アメリカにはもともとそういう秩序がないので、人々は抽象的個人として生きている。それは透明で合理的な社会だが、人々は孤立した生活に不安を抱いており、教会や結社(今でいうNPO)に集まろうとする。

こうみると、インターネットはまさにアメリカ社会の鏡像であることがわかる。そこでは人々の肩書きは無意味であり、国会議員もネットイナゴも対等な一個人だ。グーグルでは、情報の価値は世間的な権威ではなくリンク数で機械的に決まる。トム・フリードマンのいうように世界は「フラット化」し、コミュニティはSNSのような人工的な「結社」しかない。

こういう抽象的な個人からなるデモクラシーが成熟した秩序を形成できるのか、というトクヴィルの問いは、伝統的なコミュニティが崩壊しつつある現在のアメリカで再評価されているが、日本社会にとっても示唆的だ。彼は基本的にはデモクラシーを信頼したが、それはきわめて脆弱な秩序であり、一方でアナーキーに陥る危険とともに、他方では多数の専制や宗教的な狂信に走る危険をはらんでいるとした。

このように見てくると、トクヴィルはまるでブッシュ政権やウェブの現状を予言しているかのようだ。岩波文庫版で、読み直してみよう(第2巻がまだ出てないが)。

ビル・ゲイツが社会に貢献する最善の方法

Robert BarroがWSJに辛辣な批判を書いている。有料なので、超簡単に要約しておく:
ビル・ゲイツがマイクロソフトを離れ、その資産を社会に還元する事業に専念することは、一般には美しい話とされているが、経済学的に考えると疑問がある。

彼がもっとも大きく社会に貢献したのは、ソフトウェアの開発・販売によってである。マイクロソフト社の売り上げは、2006年だけでも440億ドル。これは消費者が同社の製品の価値を少なくともそれと同額と評価したことを意味する。その割引現在価値を考えると――ソフトウェアを使った生産活動への貢献を無視しても――マイクロソフト社は今後、少なくとも1兆ドルの社会的価値を生み出すと予想される。

これに対して、ゲイツの個人資産は900億ドル。その90%以上を慈善事業に費やすとしても、彼がマイクロソフト社で創造できる価値にはとても及ばない。彼の財団は、貧困や感染症の問題に焦点を当てている。しかし、ここ30年で世界の絶対的貧困層を半減させた主要な原因は中国とインドの経済成長であり、これは慈善事業によってどうにもならない。サブサハラの貧困と感染症の原因は政府の腐敗であり、これも寄付では解決できない。これまで多くの国際機関が何兆ドルも投じて失敗してきた問題を、ゲイツ財団が数百億ドルで解決できるとは考えにくい。

たぶん彼が富を社会に還元するもっとも簡単な方法は、米国民全員に一人300ドルの小切手を切ることだろう。
コメント:小切手よりも賢い社会還元の方法は、Windows Vistaをオープンソースで公開することだと思う。

政治化するグーグル

Google Public Policy Blogが公開された。ブログそのものは2ヶ月前から始まったようだ。

グーグルは、ネット中立性や電波政策についての提言を出したり、アル・ゴアをロビイストに雇うなど、政治色を強めている。これを「既存の巨大企業と同じように政治家と結びついた汚い企業になろうとしている」と批判する向きもあるが、私はネット企業が政治的発言力をもつのはいいことだと思う。

日本でもっとも需給ギャップが大きい産業は、政策シンクタンクだろう。アメリカでは「第5の権力」とよばれるぐらいシンクタンクが影響力をもっているが、日本では霞ヶ関が政策立案を独占し、政策を学問的に研究する機関がほとんどない。ICPFも、そういう組織をめざしているが、なかなかむずかしい。その原因は、政権交代がないこととともに、日本が「格差社会」ではないため、こういう公共的な目的に金を出す大富豪がいないからだ。

その結果、日本経団連などの大企業が強い政治的影響力をもち、新しい企業はライブドアのようにバッシングの対象になる。電波政策や知的財産権などについても、既得権を保護することが政策の大前提で、消費者の意見はほとんど反映されない。日本でも、政策がオープンに競争する「政策の市場」をつくる役割を、グーグルが果たしてほしいものだ。




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