2007年05月

著作権がイノベーションを阻害する

きのうの話はかなり込み入っているので、少し問題を整理して補足しておく。今回の判決は、日本の判例の流れの中では、それほど異例ではない。しかし問題は、法律を普通に(判例に沿って)解釈すると、こういう常識はずれの結論が出るということだ。こういうときは法律論ではなく、政策目標に立ち返って考える必要がある。

著作権を与える理由は、松本零士氏や三田誠広氏が錯覚しているように、芸術家に特権を与えるためではない。工芸品や宝石などにも「名匠」とよばれる人がいるが、彼らの芸術的価値は著作権で守られない。その価値は、作品を売ることで回収できるからだ。著作物についてだけ、買った後も複製を禁止する排他的ライセンス権を与えるのは、買い手が情報を自由に複製すると、競争的な価格が複製の限界費用(≒0)に均等化し、著作者が情報生産に投資するインセンティブがなくなるからだ。

他方、対価を払って買った商品(私有財産)を複製しようが改造しようが自由だというのが近代社会の原則である。買った後も複製を禁止する著作権は、この意味で財産権ではなく、財産権の侵害なのである。だからインセンティブの増加から消費者の損害を差し引いた社会全体のネットの便益が正か負かが問題だ。

たとえばMYUTAのサービスを禁止したら、「着うた」などの音楽配信でもうけているJASRACは料金収入を守れるだろう。しかし消費者は、家庭で買った曲を携帯で聞くためにもう一度料金を支払わなければならないので、二重に課金されることになる。問題はそれが本源的な著作者(音楽家)のインセンティブを高めるかどうかだが、これは実証的にはよくわからない。P2Pの場合でさえ、コピーによる宣伝効果のほうが大きいという調査結果もある。

ところが、さらに重要な第三の効果がある。この判決によって、インターネット上で情報を共有するサービスは、ほとんどの類型が違法となる。普通のサーバ業者が今のところ安全なのは、JASRACに目をつけられていないからにすぎない。もし「ユーザーが音楽ファイルを複製している」とJASRACに訴えられたら、ISPはプロバイダ責任制限法で免責されるが、それ以外のホスティング業者は賠償責任を負うおそれが強い。最悪の場合には、業務の差し止めや刑事罰も覚悟しなければならない。

今後、ベンチャー企業が同様のビジネスに投資をつのる際も、「JASRACに訴えられたら勝てるのか」という質問に答えられなければ、資金を調達できないだろう。日本にGoogleもYouTubeも出てこない最大の原因の一つが、こうした世界一厳重な著作権のリスクにある。Web2.0サービスのほとんどは情報共有を前提にしているので、今回のようにインターネット経由の情報共有を全般的に違法とする判決の萎縮効果は大きい。

つまり今回のような差し止め処分は、権利者のインセンティブを高める効果は疑わしい一方で、消費者のこうむる損害は明白であり、イノベーションを萎縮させる効果は大きいので、ネットの経済効果は負だと考えられる。JASRACの数百億円の利益を守るために、日本経済がこうむっている機会損失はきわめて大きい。Googleの時価総額だけでも17兆円、日本の音楽業界の売り上げの32倍である。

私は以前から書いているように、こういう問題をなくすには、情報の複製を「原則違法・例外合法」とする現行の規定を逆にして、原則として自由に流通させ、著作者の請求に応じて料金を支払い、そのルールに違反した場合に賠償責任を負う賠償責任ルールに変更すべきだと考えている。つまり著作者の許諾権を廃止して、報酬請求権のみとするのだ。

知的財産戦略本部もこうした問題意識はもっており、経済財政諮問会議にも同様の提案がようやく出てきた。先日も紹介した意見書は、「世界最先端のデジタル・コンテンツ流通促進法制(全ての権利者からの事前の許諾に代替しうる、より簡便な手続き等)を2年以内に整備すべきである」と提案している。特に、この提案者として日本経団連の御手洗会長が入っている意味は大きい。財界本流の力でJASRACのような弱小業界の抵抗勢力を蹴散らし、この提案をぜひ実現してほしいものだ。

サーバは複製の「主体」か

イメージシティ事件判決が、裁判所のサイトに出ている。私は法律の専門家ではないので、この判決が法解釈として正しいのかどうかはよくわからないが、常識的な立場から考えてみよう。主要な論点は2つ:
  1. 複製の主体はだれか:判決では「原告[イメージシティ]が設計管理するシステムの上で、かつ、原告がユーザに要求する認証手続きを経た上でされる」ので、複製の主体は原告であり、著作権法で許される「私的複製」には当たらないとしている。
  2. ファイル送信が公衆からの求めに応じて行なう自動公衆送信か:判決では「原告がインターネットで会員登録をするユーザを予め選別したり、選択したりすることはない」ので、ユーザは「不特定の者」だという。
この判決には、ブログ界では「ネット上にデータを保存するサービスはすべて著作権侵害で違法です」といった批判が強いが、実は1のような判断は今度が初めてではない。一昨年の録画ネット事件でも、録画の主体はハードディスクを保管している業者だという判決が出ている。録画ネットと今回のMYUTAは、自分で録画(録音)したファイルを自分で見る(聞く)という点でほとんど同じだ。「カラオケ法理」以来の判例からみると、今回の判決は当然ともいえる。

2も日本語の解釈として奇妙だが、これは複製・送信の主体を原告としたことの論理的な帰結だ。送信の主体がサーバなのだから、彼(彼女?)にとってはユーザーは不特定多数である。

この訴訟の裁判長は、高部眞規子判事である。ジャストシステムのアイコンを違法とした判決など、知的財産権についてエキセントリックな判決を出すことで知られるが、彼女が珍しく著作権を制限的に解釈した判決がまねきTV事件だ。この場合には、複製する機材をユーザーが所有しているから、複製の主体はユーザーだとされた。つまり彼女にとっては、主体か否かの基準は所有権の有無によるらしいのだ。

こういう解釈は、複製行為が個人の家庭で完結するような場合には意味があるが、インターネットで多くの情報が共有される時代には、ほとんどの情報処理の主体が機械だという奇妙な結論になる。ここまでおかしな判例が定着してしまうと、ストレージサービスはおろか、ホスティングサービスもすべて違法になるおそれがある。著作権法で曖昧になっている「主体」の解釈について、法改正か政令で明文化したほうがいいのではないか。

タクシー「過当競争」の嘘

国土交通省は、タクシー業界の「過当競争」を是正するため、秋にも新規参入を制限するそうだ。朝日新聞によれば、「運転手の05年の平均年収が5年前より10%以上少ない302万円に減る一方、タクシーの事故は最近の10年で65%も増えた」そうだ。あいかわらず、役所の情報操作に乗って都合のいい数字だけを出す記者クラブ体質は変わらないようだ。

まず「年収が減った」という話を検証してみよう。厚生労働省の統計では、たしかに2002年の規制緩和以降、年収は8%ほど減っているが、それ以前の数字を見ると、バブル期に比べて30%近く減っている。減収の最大の原因は、規制緩和ではなく不況なのだ。その証拠に、景気の回復した昨年は、年収が増えている。

交通事故を件数で10年前と比較するのもおかしい(タクシーが増えたのだから事故が増えるのは当たり前)。事故率(警察庁調べ)を見ると、規制緩和前の90年代に大きく増えて2001年にピークに達し、規制緩和後は微減である。タクシーの事故は空車のとき起こりやすいため、不況で空車率が上がったことが事故増加の原因と考えられる。

問題は、規制緩和でだれが損をしたのかということだ。利用者が得したことは明らかだが、運転手は損したのだろうか。2002年以降、全国で約2万台のタクシーが増えた(国土交通省調べ)。1台のタクシーには通常2人が乗務するので、これは4万人の雇用が創出されたことを意味する。タクシーの運転手は失業者の受け皿だから、この4万人がホームレスになるより、300万円でも年収があったほうがいいことはいうまでもない。

要するに規制緩和で困るのは、競争の激化するタクシー会社と、労働強化される労働組合だけなのだ。彼らが既得権を守るために「弱者」をダシにして競争の制限を求めるのは、古いレトリックだ。もっとも弱い立場に置かれているのは失業者であり、新規参入による雇用創造こそ究極の福祉政策なのである。

沖縄密約

9bcbc95b.jpg元毎日新聞記者の西山太吉氏が国を相手どって起こした「沖縄密約訴訟」は、一審で原告敗訴に終わった。しかし審理の過程で、吉野文六・外務省元アメリカ局長が密約の存在を認めるなど、事実関係は西山氏の報道した通りであることが判明した。

1972年に彼が報道したのは、400万ドルの土地復元費用を日本政府が負担する密約だったが、本書ではその後、明らかになったアメリカ側の条約文書をもとに、VOA移転費用など合計2000万ドルを日本側が肩代わりする密約があったことを明らかにしている。さらに沖縄返還協定に書かれた3億2000万ドル以外に、基地の移転費用6500万ドルや労務費3000万ドルなど、別の「秘密枠」もあったとされている。

吉野氏は「3億2000万ドルだって、核の撤去費用などはもともと積算根拠がない、いわばつかみ金。あんなに金がかかるわけがない。本当の内訳なんて誰も知らないですよ」と証言している。密約は、日本が米軍に「ただ乗り」することを許さないアメリカ政府の圧力と、無償返還という「きれいごと」の矛盾を糊塗するためだったという。

毎日新聞のスクープに対して、検察は西山氏が外務省の職員と「情を通じて」機密を漏洩させたとして彼を逮捕した。その後も、アメリカ側資料や当事者(吉野氏が密約に署名した)の証言が出てきても、外務省は密約の存在を否定し続けている。文書も加害者の証言もない慰安婦問題で、首相が謝罪したのとは対照的だ。この国の政府は、外圧がないと動かないのだろうか。

本書を読んで暗澹たる気分になるのは、この明白な国家公務員法違反(国会での虚偽答弁)を、野党もメディアも追及しないことだ。メディアが「第一権力」だなんていうけれど、官僚がすべての権力の上に君臨する「官治国家」の構造は変わっていないのだ。このように国民をあざむいて進められる「米軍再編」って何なのか。

神は妄想である

951af4e0.jpg世の中には、ドーキンスが「利己的遺伝子理論」を創始した偉大な生物学者だと思っている人も多いようだが、彼はハミルトンの血縁淘汰理論をわかりやすく解説したサイエンス・ライターにすぎない。大学でのポジションも、彼のファンがオクスフォード大学につくった「科学の普及」についての寄附講座の教授として得たものだ。

原著は、彼が宗教を批判したもので、国民の90%以上が神の存在を信じているアメリカでは大きな話題になり、発売から半年以上たった今も、Amazon.comでベストセラー30位に入っている。しかし、もともと宗教に興味のない日本人には、ニーチェから100年以上たって「神は存在しない」って力説されてもなぁ・・・という感じだろう。

本質的な問題は、神がそれほど無意味なものなら、なぜ宗教が世界に普遍的に存在するのか、ということだ。進化心理学で宗教や道徳の起源として重視されるのは、群淘汰によって形成されたと考えられる集団維持の感情だが、著者は群淘汰が「原理的に起こりうる」ことは認めながら、曖昧な理由でそれを「重視しない」という。このため本書の説明は、利他的な行動は「利己的な遺伝子」で説明できるという彼のこれまでの主張の繰り返しだ。

無神論や宗教批判は近代初頭からあるが、本書は宗教批判としては幼稚なものだ。ここにはヴォルテールもフォイエルバッハもニーチェも登場せず、宗教の起源を論じたデュルケームもウェーバーも踏まえていない。そもそも(呪術や道徳と区別される)宗教という概念が西欧文明圏に固有のものだということにも、著者は気づいていない。

宗教と科学の境界は、著者が信じるほど自明なものではない。アウシュヴィッツで600万人を殺したのは、「優生学」という名の科学だった。無神論を掲げる「科学的社会主義」によって「粛清」や「大躍進」などで殺された人の数は、二つの大戦の戦死者を超え、過去のすべての宗教戦争の犠牲者を上回る。アルカイダがイスラム教の名において殺した人数より、米軍がイラクで民主主義と人権の名において殺した人数のほうが多い。神を否定して科学を普及すれば世界に平和が訪れると信じる著者の主張こそ、自民族中心主義という宗教なのだ。

ポスト京都議定書

来年の洞爺湖サミットに向けての安倍政権の目玉として、「美しい星50」なるものが提唱された。外務省がサミット向けにつくるキャッチフレーズは、前回の沖縄サミットの「デジタル・デバイド」のようにナンセンスなものが多いが、今回は前回の「IT支援」より大きな実害をもたらすおそれが強い。「2050年までに全世界の温室効果ガスを半減させる」などという野心的な目標が、各国に削減義務も数値目標も課さないで、技術革新と善意だけで実現できると考えるのは、空想的エコロジストだけである。

しかし(今のところ)京都議定書のような排出権取引にコミットしていないことは、一歩前進とも受け取れる。当ブログでも何度か紹介したように、経済学者の多数派は、排出権取引のような統制経済には反対で、炭素税のような通常の市場メカニズムを利用すべきだと考えている。こうした「ピグー税」を提唱するマンキューのピグー・クラブには、次のような経済学者やエコノミストが名を連ねている:
  • Bill Nordhaus
  • Martin Feldstein
  • Gary Becker
  • Robert Frank
  • Ken Rogoff
  • Paul Krugman
  • Alan Greenspan
  • George Schultz
  • Nicholas Stern
  • Hal Varian
  • Larry Summers
  • Richard Posner
  • Joe Stiglitz
  • Paul Volcker
日本が、2013年以降の「ポスト京都」の制度設計のリーダーシップをとるのはいいことだ。霞ヶ関の人々には、「環境利権」のボスと化した日本の経済学者ではなく、世界の経済学者の客観的な意見を聞いて、京都議定書の失敗を繰り返さないよう慎重に考えてほしいものだ。

自然化する哲学

20世紀後半の哲学といえば、構造主義とかポストモダンなどフランス系ばかり話題になるが、実は同じ時期に科学哲学でクーンやファイヤアーベントが展開した「通約不可能性」の理論も、ポストモダンと同じ相対主義だった。そこでは科学も宗教の一種で、どういう理論が選ばれるかは科学者の集団心理で決まる。事実、最近のひも理論は、intelligent designと論理的には同格だ。

すると諸学の基礎であるはずの哲学が、逆に心理学に基礎づけられるということになる。たとえば哲学者がデカルト以来、論じてきた「私」とは何か、という問題も、最近では脳科学で実験的に明らかにされている。今日の科学哲学は、こうした実証科学を参照しないで論じることはできない。極論すれば、脳についての哲学的論議は、脳科学に解消されてしまうかもしれない。これを本書では「哲学の自然化」と呼んでいる。

これは哲学だけの問題ではない。人文科学や社会科学の大部分は、厳密な意味での実証手続きをもたず、内省とcasual empiricismで理論を立ててきた。たとえば「限界効用が逓減する」などという法則が厳密に実証された試しはないが、経済学者はご都合主義的に(計算しやすいように)そういう心理を仮定し、理論を構築してきた。だから行動経済学の実験によって、その法則が否定されると、新古典派理論は根底から崩れてしまう。

20世紀の最初に分析哲学で起こった変化は「言語論的転回」と呼ばれるが、それは「新しい脳」の機能としての言語を分析するにすぎなかった。今、心理学や脳科学のフロンティアは、非言語的な「古い脳」の機能である。これは内省では必ずしも明らかにならないので、実験などの実証手続きが必要になる。かつて内省によって構築されたアリストテレスの自然学が近代の実証科学によって否定されたように、人文科学も社会科学も自然化し、自然科学に吸収されるのかもしれない。

ウィキノミクス

先日、紹介したWikinomicsの訳本が、まもなく出るようだ(アマゾンでは予約可)。特に斬新なことが書いてあるわけではないが、ウェブ・ビジネスの最新情報がまとめられているので、ビジネスマンのハウツー本としてはいいかもしれない。

追記:訳書p.89以下の「コースの定理」は「コースの法則」の誤訳。

古い脳の経済学

きのうの記事について誤解があるようなので、少し補足。

私が「古い脳」と書いたのは、大脳生理学で辺縁系と呼ばれている部分である。これは進化の早い段階でできたもので、哺乳類全体でほぼ同じような構造だとされている。これに対して「新しい脳」である新皮質は、特に人類で発達している。前者が感情や意欲などを、後者が論理や言語などをつかさどると考えられている。ただ実際には、こうした部位によって脳の機能が完全にわかれているわけではないらしいので、比喩的に古い脳と新しい脳と表現した。

21日の記事で紹介したCaplanや、リンクを張ったRubinなどは、こうした違いを「非合理的な大衆」と「合理的な経済学者」の差とみなし、前者のバイアスが進化の過程で遺伝子に埋め込まれた「部族社会」の感情によるものだとしている。ここでは経済学者の意見が正解で、愚昧な大衆をいかに善導して経済学者に近づけるかが問題となる。

しかし、このように問題を立てている限り、経済学者の意見は社会の多数派にはならないだろう。日本で経済学者が「机上の空論」としてバカにされるのは、こうしたバイアスを考慮に入れないで非現実的な「あるべき姿」を論じているからだ。それでも官僚には経済学者に近い考え方をする人が増えてきたが、政治家はバイアスの塊のような選挙民を相手にしているので、経済学的な合理主義をまったく相手にしない。

そして、こういうバイアスを増幅するのがメディアだ。社会の中で大学を新皮質とすれば、メディアは辺縁系だが、社会を動かすのは後者である。かつては軍や官僚が社会を動かしたが、いま社会を動かすのは、(インターネットを含めた)広義のメディアなのだ。したがって、こうしたバイアスを考慮に入れない政策は、たとえ合理的であっても採用されない。

西欧近代文明の目標は、もっぱら新しい脳の機能を拡大することだったといえよう。その最高の成果が、コンピュータである。これは新皮質の推論機能だけを増幅したもので、一時はそれによって人間の知能はすべて再現できると考えられた。昔、マーヴィン・ミンスキーにインタビューしたとき、「人工知能で感情はつくれるのですか?」と聞いたら、彼が「感情は複雑な論理にすぎない」と答えたことを覚えている。

しかし人工知能は失敗した。同じように、新古典派経済学も失敗した。それは論理でとらえられない古い脳の部分を除外してきたからだ。こうした限界を、ハイエクは60年前に指摘した。彼は、人々を動かすのはデカルト的な理性ではなく感情だとし、その「感覚秩序」のモデルとして神経を考えていた。市場は、新古典派のような「均衡」をもたらすものではなく、人々がローカルな感情で動いた結果を社会全体に伝えてコーディネートするニューラルネットのようなものなのである。

その後コンピュータ・サイエンティストは、ハイエクより40年おくれてニューラルネットをモデルにし始めた。そして経済学も、今ようやくニューロエコノミックスという形で脳科学の手法を取り入れ始めている。それはまだ意味ある成果を生んだとはいいがたいが、反証可能であるだけ「限界効用」や「顕示選好」のようなトートロジーよりましだ。

グーグル式周波数オークション

アメリカで来年行なわれる予定の700MHz帯の周波数オークションについて、グーグルがFCCに提案を行なった(パブリックコメント)。2種類の方式を例示しているが、一つはグーグルがその検索スペースをオークションで売っているように、FCCが空いた帯域を小口で売るものだ。たとえば「722-3MHzを6月1日から1ヶ月」というように、帯域をFCCのウェブサイトでオークションにかけ、最高値を出したサービス業者がその帯域を使う。

これは彼らも引用しているように、12年前にEli Noamが提案した"Open Access"とほぼ同じものだ。当時、この提案はほとんど笑い話だった。「帯域を動的に割り当てて電子的に決済する」というのが非現実的だったからだ。しかしグーグルのように強力なオークション・システムができて、現実味を帯びてきたのかもしれない。こうした「帯域の市場」は、有線のインフラでは実現している。

ただ気になるのは、これが「財産権モデル」の変種であることだ。スペクトラム拡散技術を使えば、デバイスで動的に周波数を配分できるので、そもそもオークションの必要はないのだが、FCCがオークションをやると決めた以上はその範囲で考えるということか。グーグルは同時に、免許不要のホワイトスペースについての新提案もしている。




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