2007年04月

学生反乱はなぜ消えたのか

かつて「学生運動10年周期説」というのがあった。1950年前後に共産党が指導した山村工作隊などの武装闘争の時代、1960年の安保闘争、そして1970年ごろの学園闘争である。この法則からいうと、1980年にも同じような事件が起こって不思議ではなかったが、何も起こらなかった。

世界的にも「1968年反乱」以降、大きな学生運動は起こっていない。特にイラク戦争は、ベトナム戦争と同じぐらい不人気なのに、かつてのような暴力的な抗議行動は起こっていない。この原因をベッカーは、1973年に徴兵制がなくなったことに求めている。徴兵制の廃止を提案したのはミルトン・フリードマンで、彼はこれを「自分の人生でもっとも有意義な仕事だった」と回顧している。

これに対してポズナーは、他にもいろいろな原因をあげているが、おもしろいのはインターネットなどの電子メディアが暴力に訴える前の「ガス抜き」になったという点と、学生反乱の究極の理想としての社会主義が崩壊したという点だ。これは当ブログの「2ちゃんねるが学生運動の代わりになっている」という話と同じ趣旨だ。

日本で学生運動がなくなったもう一つの原因は、もはや学生が社会を指導するエリートではなくなったからだろう。途上国では、いまだに学生が反体制運動を指導する傾向が強い。社会主義革命が成功したロシア、中国、ベトナム、カンボジアなどをみても、欧米に留学したエリート学生が革命を指導したケースが多い。

そういう革命が成功しなかったことは日本にとって幸運だったが、70年安保を闘った団塊の世代では、多くの人が人生を棒に振った。最近、新著を出した山本義隆氏は、かつては将来のノーベル物理学賞候補ともいわれたが、東大全共闘の議長になってドロップアウトし、予備校教師になった。彼の『磁力と重力の発見』という難解な大著が予想外のベストセラーになったのも、そうした団塊の世代のルサンチマンに訴えたからだろう。

そういう意味では、学生運動なんかないほうがいいのだが、最近のあまりにも無気力な学生を見ていると、かつてキャンパスで怒号が飛び交った時代がなつかしくなる。学生時代にマルクス主義の影響を受けたことは、私にとっては貴重な経験だった。いわばマルクス主義は思想的な「父」であり、こうした「大きな物語」と格闘し、それを乗り越えることで初めて思想的な自立ができたように思う。その意味では、今の学生はいつまでも乳離れしないように見える。

利他的な遺伝子

Unto Others: The Evolution and Psychology of Unselfish Behavior (English Edition)
遺伝子を共有する個体を守る行動を説明したのが「ドーキンスの利己的な遺伝子」だと思い込んでいる人が多いが、これはドーキンスの理論ではなく、ハミルトンの有名な論文(1964)によって確立された血縁淘汰の理論である。ドーキンス(1976)は、その理論を「利己的な遺伝子」という不正確なキャッチフレーズで普及させただけだ。

群淘汰(あるいは集団選択)は、利他的行動を説明するために生物が集団を単位として淘汰されるとしたWynne-Edwardsなどの理論で、1960年代にハミルトンによって葬り去られたと考えられていた。集団内では、利他的な個体は利己的な個体に食い物にされてしまうからだ。実証的にも、生物は集団に奉仕するのではなく、自分と同じ遺伝子をもつ親族を守っていることが明らかになった。

しかし1990年代になって、ハミルトンの理論で説明できない現象が報告されるようになった。中でも有名なのは、細菌の感染についての実験である。細菌が宿主に感染している場合、その繁殖力が大きい個体ほど多くの子孫を残すが、あまりにも繁殖力が強いと宿主を殺し、集団全体が滅亡してしまう。

したがって、ほどほどに繁殖して宿主に菌をばらまいてもらう利他的な個体が生き残る、というのが新しい群淘汰(多レベル淘汰)理論による予測だ。これに対して血縁淘汰理論が正しければ、繁殖力が最大の利己的な個体が勝つはずだ。

これは医学にとっても重要な問題なので、世界中で多くの実験が行なわれたが、結果は一致して群淘汰理論を支持した。繁殖力の強い細菌の感染した宿主は(菌もろとも)死んでしまい、生き残った細菌の繁殖力は最初は強まるが後には弱まり、菌の広がる範囲が最大になるように繁殖力が最適化されることを本書は証明した。

個々の細菌にとっては、感染力を弱めて宿主を生かすことは利他的な行動だが、その結果、集団が最大化されて遺伝子の数も最大化される。同様の集団レベルの競争は、社会性昆虫のコロニーなどにも広く見られる。

もちろん個体レベルの競争(血縁淘汰)も機能しているので、淘汰は集団と個体の二つのレベルで進むわけだ。これが多レベル淘汰と呼ばれる所以である。E.O.ウィルソンによれば、遺伝子を共有する親族の利益をBk、集団全体の利益をBe、血縁度(relatedness)をr、利他的行動のコストをCとすると、

rBk + Be > C

となるとき、利他的行動が起こる。ここでBe=0とおくと、ハミルトンの理論になる。つまり多レベル淘汰理論は、血縁淘汰理論の一般化なのだ。

これは経済的な行動を説明する上でも重要である。新古典派経済学では、「合理的」とは「利己的」の同義語で、利他的に行動することは不合理な感情的行動としてきたが、そういう経済人は進化の過程で淘汰されてしまうので、合理的とはいえない。行動経済学や実験経済学の結果をこうした「進化心理学」で説明しようという実証研究は、現在の経済学のフロンティアである。

なぜ人は「応報感情」をもっているのか

安倍首相が、日米首脳会談で慰安婦問題について「謝罪の意」を表明した。ブッシュ大統領はこれを受け入れ、問題はいったん収まったようにみえる。政治的な判断としては、首脳会談で「狭義の強制はなかった」などと主張したら大混乱になることは目に見えているので、これはそれなりに合理的な判断だろう。しかし当ブログへのコメントでは、「無節操だ」「筋が通らない」といった批判が圧倒的だ。

このように合理性と一貫性が一致しないケースは多い。たとえば人質事件では、身代金を払って人質を解放させることが、事後的に合理的(パレート効率的)だが、そういう行動は社会的に許されない。殺人事件の被害者の遺族が、容疑者に軽い刑の判決が出たとき、「死刑にしてほしかった」とコメントすることがよくあるが、彼らもいうように死刑にしても被害者は返ってこない。それなのに人々が不合理な因果応報を望むのはなぜだろうか。

これはゲーム理論で、コミットメントの問題としてよく知られている。一般に刑罰は、処罰する側にとっても受ける側にとってもコストがかかるので、事後的には許すことが合理的だ。しかし処罰する側が合理的に行動することが事前に予見されると犯罪が横行するので、たとえ不合理でも処罰しなければならない。つまり秩序を維持するためには、不合理な行動へのコミットメントが必要なのだ。

このようなコミットメントを作り出すメカニズムとしていろいろな方法が知られているが、代表的なのは法律だ。どのような情状があろうと、犯罪者は同じ法律によって一律に処罰され、個別に交渉して(たとえば金をとって)釈放することはありえない。そういうことは「正義にもとる」として許されないからだ。したがって究極の問題は、人々はなぜ正義を求め、筋を通す感情をもつのかということだ。

これについても、進化論な説明が可能である。進化が単純な個体レベルの生存競争だとすれば、論理的に思考して自己の利益を最大化する経済人(homo oeconomicus)が勝ち残るはずであり、人々が合理的な判断の邪魔になる感情をもっていることは説明がつかない。しかし、そういう感情をもたない経済人が歴史上いたとしても、とっくに淘汰されているだろう。

合理的な人は、他人に攻撃されても「腹を立てる」という感情をもたないから、報復はしない。そんなことをしても、また相手の報復をまねいて互いに傷つくだけだからだ。しかし彼が合理的であることがわかっていると、他人は一方的に彼をだまし、攻撃するだろう。そういう「不道徳な」行動が横行すると集団も維持できなくなるので、勧善懲悪を好む応報感情が進化したと考えられる。

行動経済学が明らかにしたように、人々は感情的に行動するが、これは非論理的に行動するということではない。それがどこまで遺伝的なもので、どこから文化的な「ミーム」によるものかについては、いろいろな実証研究が行なわれているが、感情はフランクのいうように、集団を維持するための「適応プログラム」の一種なのである。

大学教育は人的投資か学歴投資か

Becker-Posner Blogで、珍しく両者の意見がわかれている。

ベッカーは、大学教育の収益率は70年代の40%から現在は80%に上がったと主張する。この最大の原因は、ITの発達によって高等教育への需要が高まったからだ。高等教育はITと補完的だが、未熟練労働者はITと代替的なので、ITが増えると前者への需要は増え、後者への需要は減る。まぁこれは人的資本理論の教祖としては当然だろう。

これに対してポズナーは、シグナリング理論をとる。高等教育を受けた人の所得が高いのは相関関係であって、因果関係を必ずしも意味しない。大学が人的資本を何も高めなくても、学歴は能力のシグナルになるので、所得の高い仕事につきやすくなる。したがって大学に行くことは私的投資としては収益率が高いが、公共政策としてはこれ以上、大学進学率を高める必要はない。

私は、ポズナーの意見に近い。特に日本では、大学はシグナリング(スクリーニング)機能に特化しているので、教育内容は形骸化しており、大部分は時間の無駄だ。まして大学院教育の内容は非常に特殊であり、実社会で役立つことはほとんどない。それは「勉強が好きだ」というシグナルにはなるが、「使いにくい専門バカ」というシグナルにもなるので、便利屋を好む日本の企業には歓迎されない。

文科省の大学院拡大政策は、学生を余分に社会から隔離し、中途半端なプライドを持たせるだけだろう。それよりも大事なのは、語学や会計などの実務的なスキルを多くの人々に学ばせ、知識の裾野を広げることだ。このためには大学の設置基準を緩和して、専門学校を大学に昇格させたほうがよい。

テレビ業界という格差社会

日経ビジネス・オンラインの後編の記事に読者からツッコミが入って、編集部が訂正した。最初のバージョンでは「(『あるある』の)番組制作費3200万円のうち、下請け、孫請けのところには860万円しか支払われていなかった」と書かれていたが、この表現はおかしい(私もウェブに出てから気づいた)。

関西テレビの調査報告書(p.109~)によれば、約3200万円の番組制作費のうち、関テレが「プロデューサー費」として55万円とり、3100万円余を下請けの日本テレワークが取り、孫請けのアジトのVTR制作費が860万円ということになっている。したがって「番組制作費3200万円のうち、孫請けのところには860万円しか支払われていなかった」と書くのが正しい。

しかし、この調査報告書の数字はおかしい。局側の取り分が、わずか55万円ということは考えにくい。『文藝春秋』4月号の記事によれば、実態は次のようだ:
花王が電通に渡した額は、推定で年間で50数億円。特番を除く1本当たり単価に直せば1億円にのぼる。そこから電通は15%を管理費としてチャージし、さらに電波料と呼ばれる各局への配布金を引く。[・・・]関西テレビに渡るのは1本当たり単価で3700万円程度。そこから日本テレワークに渡るのが単価3200万円程度。ここからスタジオゲスト出演料、美術費さらにはスタジオ収録料や最終編集費などが引かれて各回を担当する製作プロダクションに渡るのが単価860 万円程度。当初の1億円の9%弱になっているという。
制作費が、あとから出た調査報告書と符合することから、この推定は信頼できる。これによれば、1本1億円から電通の取り分を引いた8500万円のうち、4800万円が電波料として地方局に取られ、関テレ自身も500万円の電波料をとる。調査報告書では、調査対象を制作費にしぼっているため、番組経費の大部分が電波利権に食われているという病的な状況が、さすがの元鬼検事にも見抜けなかったわけだ。したがって「大半のお金は放送局が中間搾取していて、現場のクリエーターには回っていなかった」という私の主張は正しい。

以前の記事にも「この電波料って何ですか?」というコメントがついていたが、これは地方局に払う「補助金」である。地方局の経営は、ローカル広告だけでは成り立たないので、系列のキー局や関テレなどの制作側が補填するのだ。地方局は、タダでもらった電波を又貸しし、商品(番組)を供給してもらう上に金までもらえるという、世界一楽な商売である。その実態はよくわからなかったが、この文春の記事が正しいとすれば、「あるある」だけで年間20億円以上にのぼり、番組経費のほぼ半分を占める。つまり、何もしていない地方局の取り分が最大なのだ

さらに異様なのは、番組制作費のうちVTR制作費が860万円しかなく、残りの2300万円が「スタジオ経費」に消えていることだ。テレワークのマージンを引くとしても、この大部分は出演料だと思われるが、局アナを除けば5人程度の出演者のギャラとしては、いかにも大きい。最高と推定される堺正章の出演料は、おそらく500万円以上だろう。若いタレントでも、100万円ぐらいが相場である。

このように情報よりもタレントを重視するのは、局側としては当然だ。視聴率を決めるのは情報量ではなく、顔なじみのタレントが出ているかどうかで、「数字の取れる」タレントは10人程度に限られているからだ。これは経済学でよく知られている「一人勝ち」現象の一種である。人気タレントは、メディアに露出することによってさらに人気が出るという「ネットワーク外部性」があるので、一部のタレントに需要が集中して出演料が跳ね上がる。

結果として、タレントが30分ぐらいしゃべっただけで500万円以上もらう一方、地を這うような取材をした孫請けプロダクションのディレクターの年収は300万円そこそこという、究極の「格差社会」がテレビ業界なのである。そして彼は、問題が起きると全責任を負わされて、業界から追放される・・・

安倍首相が「植草被告」になるとき

ニューズウィークのインタビューに答えて、安倍首相は慰安婦問題についての「責任」を認めた:
We feel responsible for having forced these women to go through that hardship and pain as comfort women under the circumstances at the time.
河野談話よりはっきり「われわれが慰安婦を強制した責任」を認めている。これで日本政府は「有罪」を自白したことになる。外務省の事なかれ主義に、とうとう安倍氏も屈したわけだ。「とりあえず頭を下げておけば何とかなる」という日本的感覚が国際政治の場で通じないことは、河野談話で思い知らされたはずなのに、こういう重大発言を週刊誌相手にさせる外務省(あるいは世耕補佐官?)の感覚も信じられない。

今後、米下院で日本非難決議(121決議案)が可決され、首相の公式謝罪や強制連行を否定する言論の弾圧を求められても、拒否できないだろう。元慰安婦が日本政府に国家賠償を求める訴訟は、これで勢いづくだろう。国連は公訴時効も罪刑法定主義も無視して「レイプ・センター」をつくった戦犯を逮捕せよと求めるマクドゥーガル報告書を採択しており、これにもとづく制裁要求が出てくることも考えられる。北朝鮮が日本に慰安婦への個人補償を求めてきたら、6ヶ国協議はめちゃくちゃだ。そして朝日新聞は「拉致と慰安婦は同じだ」と主張して、北朝鮮を応援しているのである。

ナチス・ドイツの同盟国に強制労働させられた人々が関連企業に損害賠償を請求できるというヘイデン法は、国外で起きた事件でも過去に遡及して訴えることができるとしている。これにもとづいて起こされた17件、総額1兆ドルの訴訟は、ブッシュ政権によって連邦最高裁で棄却されたが、政権が民主党に変わったら、また訴訟が出てくることは十分考えられる。そしてこのヘイデン法の共同提案者が、問題の121決議案を出したマイケル・ホンダ議員なのである。

これは痴漢の疑いで逮捕された容疑者が、「正直に認めないと家に帰れないぞ」と脅されて「自白」したようなものだ。いったん罪を認めたら、終わりである。植草一秀被告のように、後になっていくら「やってない」と主張して、大がかりな弁護団を組んでも無駄だ。世界史にも「日本軍が20万人の女性に性奴隷を強要した」という、とんでもない「史実」が残ることになるだろう。

追記:国内各紙の報道では「彼女たちが慰安婦として存在しなければならなかった状況に、我々は責任がある」という表現になっており、「強制」という言葉は入っていない。こっちが外務省の用意した回答(首相の言葉)だとすれば、"forced these women ..."という部分はニューズウィークの訳しすぎかもしれない。

追記2:鈴木官房副長官の記録したインタビュー全文によれば、問題の部分の首相の答に「強制」という言葉はない(コメント欄参照)。

人類史のなかの定住革命

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)
人類史上最大の革命は、産業革命でも情報革命でもなく、1万年前に遊動生活から定住生活に移った「定住革命」だった。普通これは農耕による食糧生産にともなうものと考えられ、「新石器革命」などとよばれているが、著者はこの通説を批判し、漁業や食糧の貯蔵が定住生活のきっかけだったと論じる。つまり農耕は定住の原因ではなく、結果なのである。

1万年ぐらいの間では遺伝的な変化はほとんどないので、われわれの本能は遊動時代のノマド的な生活に適応していると考えられる。しかし1万年間の定住生活によって、農業・漁業に適応した文化が形成された。この遊動的本能と定住的文化の葛藤が、人間社会の根底にある。

その一つが、公平の感情である。行動経済学でよく知られるように、たとえば1万円を2分割する提案をし、相手がその提案を拒否したら両方とも0円になる最後通牒ゲームでは、「合理的」な提案は相手に1円を与える(自分が9999円とる)ことだが、実験ではそういう行動は(相手の気持ちがわからない)自閉症の患者と経済学部の学生にしか見られない。そんな提案をしたら、相手が「むかついて」拒否するに決まっているからだ。

この提案を拒否するのは(新古典派の意味では)合理的ではない。たとえ1円でも、もらうほうが得だからである。しかし、すべての相手がそういう提案を拒否し、それを予期する多くの提案者は5000円対5000円を提案する。こういう「非合理的」な行動の原因は、公平性についての感情が共有されているためと考えられる。昨今の「格差社会」への反発も、そういう感情に根ざすものだろう。

公平を好む感情は、かつて数十人のグループで狩猟生活を送っていたころの環境に適応したものだろう、と著者は推定する。獲物をだれが得るかは不確実で、そのとき獲物をとった者がそれを独占したら、餓死者が出るかもしれない。飢えに迫られた者は、獲物をとった者を襲うかもしれない。こうした紛争が頻発したら、グループそのものが崩壊し、全員が死亡するだろう。それを避けるために、公平な分配を求める感情が遺伝的に進化したと考えられる。

人類が狩猟の武器を持ったときから、それをグループ内のほかの個体に向けて紛争が起こるリスクが発生した。その攻撃性を抑制するために利他的な感情が進化し、エゴイストはきらわれ、他人に思いやりのある人が好まれるようになったのだ。これは前にも紹介した群淘汰の一種である。

こうした人類学的なスケールで見ると、利己的な行動を「合理的行動」と称して肯定し、独占欲に「財産権」という名前をつけて中核に置く資本主義の基礎は、意外に脆いかもしれない。ハイエクもシュンペーターも、資本主義が崩壊するとすれば、その原因はこうした倫理的な弱さだと考えていた。情報を共有するインターネットの原則が資本主義にまさるのは、感情的に自然だという点だろう。

デジタル家電の足を引っ張るデジタル放送

デジタル放送のコピーワンスをめぐる議論が迷走している。情報通信審議会の検討委員会では、コピーワンスの条件を緩和する話し合いが行なわれたが、「回数限定で1世代のみコピー可」とすることは合意したものの、そのコピー回数について意見がまとまらなかったという。

昨年のDVDレコーダーの国内出荷台数は、前年比18%減となった。世帯普及率はまだ40%台なので、これは市場が飽和したためとは考えられない。その最大の理由は、関係者が一致して指摘するように、コピーワンスのおかげで操作が複雑になり、普通の視聴者には扱えない機器という印象が広がったためだ。たとえば、あずまきよひこ.comで紹介されているように、番組をPCで見るためには、DVD再生ソフトやDVDドライブなどをすべて買い換えなければならない。

しかし、もう一つの関係者が気づいていない問題がある。それはVTRでも不自由しないということだ。わが家のテレビは1999年、VTRは1998年に買ったもので、映像はかなりひどいが、買い換える気はない。テレビは見えればいいので、画質なんか気にしてないからだ。そもそも「ひどい」と感じるのは、私が昔テレビ局のスタジオ・モニターを見ていたからで、普通の視聴者はひどいとも感じていないだろう。

20年ほど前、NHKのハイビジョン・プロジェクトで視聴者のブラインド・テストをやったとき、われわれが衝撃を受けたのは、ほとんどの視聴者が画質を見分けられないということだった。ハイビジョンの番組と、普通の番組を単に横長にしたものを30インチ以下のモニターで見せると、90%以上の人が区別できない。いろいろな条件を変えて「どっちの映像がきれいか」と質問すると、もっともはっきり差が出るのは、色温度とコントラストで、解像度は最下位だった。

アンケート調査で、視聴者がもっとも望んだのは「見たい番組をいつでも見られるようにしてほしい」ということで、「たくさんのチャンネルを見られるようにしてほしい」という答も多かった。「いい画質で見たい」という答は最下位だった。だから今までと同じ番組の解像度を単に上げるだけの地上デジタル放送には、もともと需要がないのだ。

アナログ放送なら自由にできるコピーが、デジタル放送ではできないのでは、デジタル化のメリットはないどころかマイナスだ。しかもコピーワンスが緩和されると、今の機器では対応できないので、テレビやDVDレコーダーを買うのは規格が変わるまで待ったほうがいい。情通審の話し合いが長期化すればするほど、買い控えは広がるだろう。供給側の論理で消費者をバカにした規格を決めると、結局は地デジそのものが行き詰まってしまうということにテレビ局が気づくのは、いつだろうか。

銃規制は犯罪を減らすか

バージニア工科大学の殺人事件は、銃規制についての論争を再燃させそうだ。しかしFTも報じるように、アメリカでは逆に先月、銃規制の強化を違法とする判決が連邦高裁で出るなど、規制が強化される見通しはない。これはよくいわれるようにNRAのロビー活動や憲法修正第2条の存在もさることながら、世論調査も必ずしも銃規制に好意的ではないのだ。

その理由は、合理的に理解できる。アメリカのようにすでに銃が社会に広く行き渡ってしまった社会では、自分だけが銃を持たないと危険だからである。これはゲーム理論でおなじみの囚人のジレンマで、全員が銃を持たないという最適解がナッシュ均衡ではないとき、自分だけが持たない最悪の状態よりは全員が持つ次善の状態(ナッシュ均衡)を選ぶことは理解できる。

実証的な研究でも、銃規制の効果は自明ではない。有名な研究としては、Lottの"More Guns, Less Crime"という大論争になった本がある。これは銃規制の緩和によって殺人事件が減ったとする実証研究で、当然のことながらNRAはこの研究を大歓迎したが、これを反証する論文もたくさん出た。しかし、そのまとめをみても、銃規制の効果はあまり明快ではない。

ゲーム理論が正しいとすれば、民主党が提案しているようなゆるやかな銃規制は、かえって犯罪を増やすおそれが強いし、世論の支持も得られないだろう。やるなら憲法を改正して軍・警察以外の銃所持を全面的に禁止し、一挙に徹底的な「銃狩り」をやって、国民全員を強制的に最適解に閉じ込めるしかない。これはアメリカにとって「テロとの闘い」よりもはるかに重要だが困難な闘いだろう。

負の所得税

最低賃金法の改正案が、国会で審議されている。労働組合などからは「これではワーキングプア対策にならない」「最賃を一律時給1000円に引き上げろ」などの要求が強い。しかし当ブログでこれまでにも説明したように、最賃規制は労働需要の不足をまねき、失業を増やすおそれが強い。

今回の改正のポイントは、生活保護との「整合性」だが、具体的な金額は規定されておらず、実効性は疑わしい。根本的な問題は、生活保護が働かないで貧しい人を対象にしており、働いても貧しい人を救済する制度がないことだ。働くより生活保護を受けたほうが高い所得を得られ、少しでも働くと生活保護の支給が打ち切られることが、労働のインセンティブをそいでいる。

この問題の解決策も、フリードマンが45年前に提案している。負の所得税である。これは課税最低所得以下の人に最低所得との差額の一定率を政府が支払うものだ。たとえば最低所得を300万円とし、あるフリーターの所得が180万円だとすると、その差額の(たとえば)50%の60万円を政府が支給する。これなら最賃を規制しなくても最低保障ができるし、働けば必ず所得が増えるのでインセンティブもそこなわない。アメリカでは、これに似た勤労所得税額控除(EITC)が1975年から実施されている。

フリードマンの提案したのは、こうした生活保護を補完する制度ではなく、現在の所得税システムとともに生活保護や公的年金も廃止し、課税最低所得の上にも下にも(正または負の一定率の)フラット・タックスを課すことによって、福祉を税に一元化するものだった。これによって税制は劇的に簡素化され、厚生労働省を廃止すれば、きわめて効率的な福祉システムが可能になる。

しかし、まさにその効率性が原因で、負の所得税はどこの国でも実施されていない。大量の官僚が職を失うからである。現在の非効率な「福祉国家」では、移転支出のかなりの部分が官僚の賃金に食われている。それを一掃して負の所得税に一本化すれば、現在の生活保護よりはるかに高い最低所得保障が可能になろう。フリードマンは、やはりまだ新しい。




スクリーンショット 2021-06-09 172303
記事検索
Twitter
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
Creative Commons
  • ライブドアブログ