2007年03月

天下りの経済学

公務員制度改革は、官邸と霞ヶ関の全面対決の様相を呈してきた。自民党内でも、官僚OBの議員を中心に消極論が強い。彼らも指摘するように、天下りを禁止して「人材バンク」をつくるという政府案は、機能するかどうか疑わしい。天下りは官僚の生涯設計や技能形成と補完的なシステムであり、業務全体を見直さないで天下りだけを禁止すると、弊害が出るおそれが強い。

今はどうか知らないが、私の学生時代には、成績の1番いい学生は官庁に行き、その次が学者で、その次が銀行だった。農水省から内定をとった同級生に「なんで今どき農水省なんかに行くのか」と聞いたら、「OBの結束が強くて、天下りに有利だから」と答えたので、証券会社に行く同級生が「50過ぎて何千万もらったって、孫にオートバイ買ってやれるぐらいじゃないか」と笑った。彼は今、ある有名企業の社長である。農水省に行った同級生の消息は聞かないが、ろくな天下り先はないだろう。

このように日本で官僚になった人々の時間選好は、特殊である。彼らは、現在の秩序が永遠に続くと考え、30年後の天下りによる収入を(きわめて低い割引率で)計算して就職を決めたのだ。これに対応して官僚の賃金プロファイルも極端に後ろに片寄っており、現役のときは(限界生産性以下の賃金で働いて)官庁に「貯金」し、それを天下り先から高給で取り返す。これは効率賃金仮説として知られるように、特定の職に限界生産性より高いレントを与えることによって退出障壁をつくり、組織に囲い込む効果がある。

しかし、こういう約束を信じて企業(官庁)特殊的人的資本に投資したあと、「天下り先はなくなった」といわれると、彼らは逃げられない。他の職業でつぶしがきかないからだ。こういうホールドアップ問題は、インセンティブに深刻な影響を与え、(人的資本への)過少投資をまねくことが知られている。先輩の悲惨な状態を見た若手はまじめに働かなくなるし、学生は役所に来なくなるだろう。現に、中央官庁の就職偏差値は急落している。

ホールドアップ問題は、いったん意識されたら、二度と元には戻らない。若者は使い捨てられるリスクを大きく割り引くようになるので、30年後の天下りをいくら守っても数%の違いしかない。だから優秀な人材を集めるには、年功序列型の賃金プロファイルを改め、キャリアについては一般企業より高い年俸を保障する代わり任期制とするなどの改革を行なうしかない。天下りは、もうインセンティブにはならないのである。

さらに重要なのは、キャリア官僚の技能形成システムである。今のようにいろいろな職場を転々とし、省内調整などの官庁特殊的なスキルしか身につかないと、外部労働市場でつぶしがきかないので、人材バンクをつくっても求人はないだろう。総務省の人材バンクの紹介実績は、7年間で1人だ。

現在の「ジェネラリスト」型の人事システムは、戦前の高等文官のときできたものだ。昔、高木文雄氏(元大蔵次官・国鉄総裁)にインタビューしたとき、彼は「高文というのは数百人しかいない特権階級で、大名みたいなものだった。今の公務員制度は、その当時の『お殿様』を育てるために全部門を回る帝王学システムがそのまま残っている」といっていた。

ただ高等文官は、弁護士みたいにポータブルな資格だったので、大蔵省で喧嘩してやめても農商務省に入りなおす、というようなことが(少なくとも理屈の上では)できたという。それと違うのが軍人で、完全な「新卒採用・終身雇用」だから上官の命令は絶対で、「本流」の上官にさからうと一生、浮かばれない。しかも、やめるという外部オプションがないので、絶対服従のストレスを部下への暴力で補償する歪んだヒエラルキーができた。現在の霞ヶ関の組織原則は、日本型組織の最悪の典型とされる軍隊型なのだ。

だから組織の風通しをよくするには、Ⅰ級職の資格を「情報技術職」や「老人福祉職」のような専門職にし、経産省をやめても総務省にも民間にも再就職できる、といったポータブルな資格にしてはどうだろうか。このように外部オプションを大きくすることによってホールドアップのリスクを減らせば、過少投資も回避できる。

霞ヶ関の最大の弊害は、もっとも優秀な人材を非生産的な部門にロックインしていることだ。社会を動かすのは人口の数%ぐらいのエリートであり、そういう人材がどれぐらい戦略部門にいるかで国力が決まる。霞ヶ関は、戦後しばらくは戦略部門だったかもしれないが、今や日本経済のお荷物だ。他方、民間企業の開業率は5%に落ち込み、こうした新陳代謝の減退が全要素生産性を低下させる大きな原因となっている。

重要なのは老人の天下りを禁止することではなく、未来のある人材を霞ヶ関から脱出させてチャレンジャーを育てる人的資源の再配分である。それには天下りだけをいじるのではなく、公務員制度を含めた「国のかたち」全体を見直す必要がある。官僚の勤務経験のない安倍首相や渡辺行革相が机上プランで突っ走っても、また頓挫するのではないか。

事務次官会議なんていらない

政府は「天下り斡旋の禁止」を含む公務員制度改革の政府案をまとめ、自民党に説明した。これはニュースとしては地味な扱いだったが、その決定過程でこれまでの霞ヶ関にはみられない二つの「事件」が起きていた。

一つは、この政府案に関連して「予算や権限を背景とした押しつけ的な斡旋」が行なわれているという内容の政府答弁書に対して、経産省が「押しつけというのは主観的で、答弁としては適切でない」と反論する文書を内閣府に提出したことだ。これを出したのは、今や霞ヶ関の抵抗勢力のチャンピオンとなった北畑隆生事務次官である。

もう一つは、26日の事務次官会議で北畑氏と財務省の藤井秀人事務次官が、この答弁書に公然と反対したが、翌日の閣議で安倍首相がそれを「事務次官会議なんて法律でどこにも規定されていない。単なる連絡機関だ。方針通り閣議決定する」と押し切ったという話だ。

この事務次官会議というのは、不思議な会議である。閣議の前日に、それと同じ議題を各省庁の事務次官が集まって審議し、その結果が翌日そのまま閣議決定される。法的根拠はないが、これが実質的な政府の最高意思決定機関である。今回のように事務次官会議で異論が出ることも異例だが、そういう場合は差し戻されて各省折衝をやり直すのが通例だ。それが閣議決定されたことは、異例中の異例である。

このように国民に対して説明責任を負わない非公式の機関が実質的な意思決定を行い、内閣はそれにラバースタンプを押すだけという状況が「変われない日本」の根底にある。この構造が変わらない限り、どこの官庁の既得権も傷つけない決定しかできないからだ。実質的な調整は各省折衝で終わっており、事務次官会議はそれを追認する儀式にすぎないので、廃止すべきだ。今度の公務員制度改革は、各省庁が総力戦でつぶしにかかっており、ここでまた腰砕けになったら、安倍政権は終わりである。

歴史を偽造して開き直る朝日新聞

慰安婦問題で不気味な沈黙を守っていた朝日新聞が、ようやく反撃(?)を開始した。きょうの夕刊の「ニッポン人脈記」というコラムによれば、慰安婦は北朝鮮の拉致と同じなのだそうである。「甘言を使って慰安婦を集めたのは、北朝鮮と同じ」だと吉見義明氏はいう。北朝鮮は、政府が公権力によって拉致したことを認めている。慰安婦がそれと同じだと主張するには、少なくとも「慰安婦を拉致せよ」と日本軍が業者に命じたことを立証しなければならないが、当の吉見氏は著書の中でそういう証拠はないことを認めている。彼のいう「広義の強制」とは
その女性の前に自由な職業選択の道が開かれているとすれば、慰安婦となる道を選ぶ女性がいるはずはない。たとえ本人が、自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、実は、植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果なのだ。(『従軍慰安婦』岩波新書p.103、強調は引用者)
という主観的な概念である。この命題は、反証不可能だ。慰安婦が自発的に応募したことが明らかであっても、吉見氏の定義によれば、植民地支配のもとではすべての行為は強制なのだから。論理学では、こういう命題をtrivialという。

このコラムは「慰安婦問題が国際的に知られるのは、1992年2月に戸塚悦朗氏が国連に訴えたことがきっかけだった」としているが、読売新聞の便利なまとめによれば、これを国際問題にしたのは朝日新聞である。
慰安婦問題が政治・外交問題化する大きなきっかけを作ったのは、92年1月11日付の朝日新聞朝刊だった。「日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していたことを示す通達類や陣中日誌が、防衛庁の防衛研究所図書館に所蔵されていることが明らかになった」と報じたもので、「従軍慰安婦」の解説として「開設当初から約8割が朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」とも記述していた。
さらに菅総務相を登場させて、安倍首相が強制性を否定することについて「あの人、むきになるんですよ、そういうところ」といわせている。この筆者(早野透というコラムニスト)は、どうやら「事実としては(朝日が報じたとおり)強制はあったんだけど、安倍氏がむきになって否定している」と信じているようだ。彼は、明らかにこの問題の経緯をよく知らないで書いている。それは「従軍慰安婦」という普通の記事には出てこない表記が何度も出てくることでもわかる。

ワシントンポストのようにものを知らない海外メディアがこういう議論をするのはまだわかるが、当の問題を作り出した朝日新聞が、自分の誤報に口をぬぐって、安倍政権を北朝鮮と同列に扱う神経が信じられない。当ブログへのコメントによれば、朝日新聞の広報室は、吉田証言が虚偽だったことは認めたようだが、「女子挺身隊」についてはまだ誤報だと認めていない。やはり92年1月の大誤報について訂正記事を出させなければ、こういう無知な人物は「歴史を直視」できないのだろう。

追記:けさの社説では、下村官房副長官の「軍の関与はなかった」という発言を取り上げて批判している。たしかに、軍の関与を全面否定する下村発言は誤りである。さすがに論説委員は、強制連行が争点であることを認識しているようだが、結局また「慰安婦の生活は『強制的な状況の下での痛ましいもの』だったことは否定しようがない。強制連行があったのか、なかったのかにいくらこだわってみても、そうした事実が変わることはない」と問題をすりかえる。同じ逃げ口上を何度も書かないで、「強制連行があったのか、なかったのか」をまずはっきりしてよ。

共産主義が見た夢

共産主義が見た夢 (クロノス選書)
著者は、ソ連史の第一人者である。レーガン政権で対ソ政策の顧問をつとめた経歴からも想像されるように、本書の共産主義についての評価は全面否定だ。特にロシア革命について、「レーニンは正しかったが、スターリンが悪い」とか「トロツキーが後継者になっていたら・・・」という類の議論を一蹴する。一部の陰謀家によって革命を組織し、その支配を守るために暴力の行使をためらわなかったレーニンの残虐さは、スターリンよりもはるかに上であり、ソ連の運命はレーニンの前衛党路線によって決まったのだ。

しかし共産主義がそのようにナンセンスなものだとしたら、それがかくも広い支持を受けたのはなぜだろうか。著者も認めるように、財産や所有欲を恥ずべきものとする考え方は、仏教にもキリスト教にもプラトンにも、広くみられる。ハイエク流にいうと、それは人類に遺伝的に植えつけられている部族感情のせいだろう。つまり人間は個体保存のために利己的に行動する本能をもつ一方、それが集団を破壊しないように過度な利己心を抑制する感情が埋め込まれているのだと考えられる。

マルクスは、若いころから一貫して、人間が利己的に行動するのは、近代市民社会において人類の共同本質(Gemeinwesen)が疎外され、人々が原子的個人として分断されているためであって、その矛盾を止揚して「社会的生産」を実現すれば、個と社会の分裂は克服され、エゴイズムは消滅すると考えていた。人間は社会的諸関係のアンサンブルなので、下部構造が変われば人間も変わるはずだった。

しかし現実には、利他的な理想よりも利己的な欲望のほうがはるかに強く、下部構造が変わっても欲望は変わらないことを、社会主義の歴史は実証した。その結果、人間は100%利己的に行動すると想定する新古典派経済学が、社会科学の主流になった。少なくとも人間は利己的だと仮定して制度設計しておくほうが安全だというのが、フリードマンなどがこういう想定を正当化する理由だった。

この一面的な人間観は、たしかに効率を向上させたが、人々は地域社会や企業などの中間集団から切り離されて自由に売買される「商品」となり、他人とのコミュニケーションを求める部族感情は満たされない。コミュニティや慣習の拘束力も弱まるので、秩序を維持するにはあからさまな警察力が必要になる。このため市場中心の社会は、必ずしも「小さな政府」にはならず、むしろ英米に典型的にみられるように、司法権力のきわめて強い警察国家に近づく。

利己心が消滅すると考えたマルクスは間違っていたが、利他心がまったくないと想定する新古典派も、最近の行動経済学が明らかにしたように、実証科学としては検証に耐えない。むき出しの欲望を暴力で肯定したら、社会は(南イタリアやロシアのように)マフィア化してしまう。市場の効率を支えているのは、実は利他的な部族感情によるソーシャル・キャピタルなのである。

欧米メディアのオリエンタリズム

欧米メディアの安倍バッシングは、ますます過激になっている。今度はワシントンポストが、「安倍晋三の二枚舌」と題する社説を掲げた。その内容は「安倍は北朝鮮の拉致を強硬に批判することで落ち目の支持率を支えようとしているが、過去に日本軍がやった拉致については『証拠がない』と逃げ回っている。6ヶ国協議を成功させるには、彼が歴史を直視して謝罪する必要がある」というものだ。この問題の扱いを誤ると、日本の外交を根幹からゆるがしかねない。

それにしても憂鬱になるのは、世界の一流紙が一国の首相を「二枚舌」(double talk)などという言葉でののしることだ。いつもは紳士的なBBCやEconomistなどの英メディアまで、「嘘つき」とか「恥を知れ」とか、まるで2ちゃんねる並みだ。先日もJimmy Walesがいっていたが、これは「ホロコースト否定論」と二重映しになっているように思われる。ウィキペディアでも、私に対して「歴史修正主義者」と連呼する匿名IPがいた。しかし事実は逆なのだ。歴史を修正したのは朝日新聞なのである。

この背景には、ファシズムに対する嫌悪もさることながら、英語で書かれた2次情報だけに依拠して原資料を調べようともしない自民族中心主義がある。これが日本のメディアなら、たとえば秦郁彦『慰安婦と戦場の性』を読めば、客観的事実はすぐわかる(だから朝日新聞も訂正した)のに、白人は英語以外で書かれた文献なんか学問的には無価値だと思っている。

もちろん彼らはそういうオリエンタリズムを表には出さないし、日本人がそれを指摘すると怒りだすので、ますます話がややこしくなるだけなのだが、とにかく黙って頭を低くしていれば、そのうち嵐は通り過ぎるだろうと思うのは甘い。Google Newsで"comfort women"を検索すると、5060件と先々週の4倍に増えた。

この社説には、コメントもTB(Technorati経由)もできるが、日本語のブログは????と文字化けしてしまう。事実を英語で説明する努力を少しでもするしかない。英文ブログでも訂正する記事を書いたが、日本人の英語による情報発信はほとんどない。先週のシンポジウムでも話題になったが、こういうとき日本のネット文化の「パラダイス鎖国」を痛感する。今後「フラットになった世界」で、ウェブベースのサービスが主要なビジネスになるとき、これを克服しないと、日本は中国やインドにも抜かれるだろう。

追記:J-CASTによると、CNNがこの問題について「日本は謝罪すべきか」というアンケートとったところ、(おそらく2ちゃんねるの動員で)90%がNOと回答し、韓国メディアがこれに反発して投票を呼びかけているという。

Playing for Real

一部にコアなファンのいるゲーム理論の教科書"Fun and Games"の新版。内容は大幅に変わっているが、『不思議の国のアリス』をモチーフにしたしゃれた構成は、もとのままだ。説明はやさしくおもしろく書いてあるが、かなり癖があるので、初心者向きではない。むしろギボンズのような標準的な(無味乾燥の)教科書を読んだ学生が、ゲーム理論の広がりを実感するための副読本と考えたほうがいいだろう。

新たに協力ゲーム、不完備情報、メカニズムデザイン、オークションなどの章ができたが、進化ゲームは削除された。著者は進化ゲームで重要な業績を上げ、"Fun and Games"は進化ゲームを最初に取り入れた教科書として便利だったのだが、それがまったくなくなるというのは、学界の雰囲気を反映しているのだろうか。それとも進化ゲームを厳密に扱うのは初等的な数学では無理なので落とした、という教育的な理由だろうか。

いずれにしても、"Fun and Games"も、いまだにベストの教科書とされるFudenberg-Tiroleも、古典とよばれるMyersonも1991年で、それ以後もこれらを超える教科書がほとんど出てこないというのは、偶然とは思えない(*)。こういう教科書が書かれたのは、1980年代にBinmoreのいうeductiveなゲーム理論がほぼ完成したためで、90年代には進化ゲームがフロンティアと考えられていた。ところが16年たって、進化ゲームを削除した教科書が出てくるというのは、ゲーム理論の行き詰まりを象徴しているようだ。

(*)例外はOsborne-Rubinsteinぐらいだが、これも1994年。進化ゲーム理論の教科書としても、いまだに1995年のWeibullが標準のようだ。

村井純氏を個人攻撃する毎日新聞

朝日新聞が、少しずつ左翼的なカラーを払拭しようとしているのに対して、毎日新聞はむしろ左翼色を強めることでニッチ市場をねらおうとしているようにみえる。貸金業規制のときも、突出して過激な規制強化論を主張していた。今年は、「ネット君臨」というインターネットを敵視するトンチンカンな連載を始めている。

攻撃のターゲットが2ちゃんねるならまだしも、今度は村井純氏だ。「富生んだIT戦略」という思わせぶりな見出しなので、何かスキャンダルでもつかんだのかと思ったら、中身はIPv6を提唱して、その関連企業の株に投資してもうけたというだけの話だ。

この記者は、IPv6というものを誤解している。政府がIPv6にコミットすることを決めたのは森内閣のときであり、それはすでに政府調達の条件になっている。村井氏だけが知りうる事実ではないし、彼がIT戦略本部委員の地位を利用して利益を上げる余地はない。彼が「インサイダー」だとすれば、その源泉は日本のインターネット業界を動かす彼の実力であって、政府の力ではない。

滑稽なのは、ベンチャー企業への投資をまるで打ち出の小槌であるかのように書いていることだ。ネットベンチャーなんて、10社のうち1社でもうまく行ったらいいほうであって、そのもうかった部分だけを取り上げても、村井氏の投資全体のパフォーマンスを示すことにはならない。毎日は、失敗した投資を含む彼の資産全体を調べたのか。

今後の新聞業界で、朝日と読売は確実に生き残るが、毎日は「ナイアガラの滝の縁まで来ている」と河内孝『新聞社:破綻したビジネスモデル』は指摘している。ネットをきらう左翼の老人におもねっても、市場は先細りだ。滝壺に落ちるのが早まるだけではないか。

むしろ毎日にすすめたいのは、ネット中心への移行だ。日本の新聞サイトは、記事の全文が読めず、過去の記事もリンクがすぐ切れる。毎日だけでも全文を提供し、アーカイブを整備して特色を出せば、生き残れる可能性はある。最終的にはマイクロソフトが買収して、世界初のネット専門新聞として再生をはかるというのもいいと思うが、どうだろうか。

追記:この記事の続きでも村井氏にからんでいるが、意図がよくわからない。IT政策を批判するつもりだとすれば的はずれだし、金銭スキャンダルがねらいなら、こんなネタは週刊誌でも記事にならない。要するに、取材班がインターネットをまるでわかっていないのではないか。

異議申し立てとしてのブログ

きのうのシンポジウムの第2セッションでは、ブログと既存メディアの対立が話題になった。よくネット上の言論が「保守的」だとか「ネット右翼」が多いとかいうが、これは違うと思う。佐々木さんが私とまったく同じ意見だったが、これは左右対立ではなく、世代間対立なのだ。

当ブログの慰安婦をめぐるコメントをみてもわかるように、この問題を「大東亜戦争肯定論」のような立場で考えている人はほとんどなく、多くの人はイデオロギー的にはナイーブだ。また、2ちゃんねるで盛り上がった「奥谷禮子祭り」では、格差社会を批判する左翼的な意見が圧倒的だった。問題はイデオロギーではないのだ。

こうしたanonymous majorityに共通しているのは、私の印象では、既存メディアへの不信感である。たとえば臓器移植の募金や検察の「国策捜査」を批判することは、既存メディアにはできない。そういう建て前論の嘘っぽさや、取材先との関係でものがいえない偽善的な「正義の味方」に対するアンチテーゼが、ブログに出ているのだ。

私は戦後の第2世代だから、新憲法の民主主義を賞賛する日教組の先生の教育を受け、朝日新聞や岩波書店に知的な権威があった時代だ。高校ぐらいまでは「反戦・平和」の理念を単純に信じていたし、それを社会科学的に突き詰めるとマルクス主義になるから、学園紛争などにも参加した。しかしマルクス主義がどうしようもない代物であることは、ちゃんと勉強すればすぐわかる。この意味では、70年代に左翼的イデオロギーの知的な権威はなくなっていた。

しかし、こうした知的なレベルでの左翼の没落と、実際の世の中の動きにはかなりずれがあった。政治的には、田中角栄によって社会主義的な「1970年体制」が完成され、成長の分け前をバラマキ福祉で再分配する「革新自治体」が支持を得るなど、社民的システムが80年代に全盛になる。家父長的な「日本的経営」が世界のお手本として賞賛されたが、実際には潜在成長率(生産性)は大きく低下していた。

ところが80年代末に社会主義が崩壊し、次いでバブルが崩壊すると、左翼的イデオロギーが消滅するとともに、バラマキも不可能になった。インターネットが登場したのは、こうした社会主義後の世界だったのである。そこでは、反抗すべきエスタブリッシュメントは、かつてのような「アメリカ帝国主義」や「独占資本」ではなく、平和主義や平等主義を掲げて反政府的なポーズをとる(そのくせ電波利権や記者クラブで行政に寄生している)メディアの偽善だ。

こういう反抗は日本社会の建て前では許されないので、匿名にならざるをえない。それはメディアにも認知されないので、「ネット右翼」や「卑劣な2ちゃんねらー」といった形で、もっぱら否定的に描かれる。もちろん、そこに否定的な要素があることは事実だが、かつての学園紛争もほとんどはただの暴力だった。違いは、かつてはマルクス主義という理念や党派がそれなりにあったのに、ネット上の反抗には理念も組織もないことだ。

つまり若者の異議申し立ての方法が街頭の暴力からネット上の言論に変わり、その対象が政府よりもメディアになっているのではないか。こういう反抗は、たいていの場合は単なる若者の過剰なエネルギーの発散だが、うまく水路づけすれば新しいものを生み出す可能性もある。60年代のアメリカの「対抗文化」は、インターネットやGNUなどのイノベーションを生み出し、クリントン=ゴア政権のように国家を動かすようになった。日本でも、こういうエネルギーを2ちゃんねるで無駄に発散させているのはもったいない。

ウィキペディアの脱構築

ウィキペディアをめぐる議論は、ポストモダン的な展開をみせてきた。コメントやTBでも指摘されたが、その形式主義は、ジャック・デリダにヒントを得ているらしい。Walesも、先週東京で行なった講演で脱構築に言及している(ただウィキペディアのサイトにソースが見当たらない)。要するに、真理なんて決定不可能なんだから、すべては形式だということだ。

しかしデリダに追従した「批判的法学」派の人々が主張したのは、法は政治だということだった。法の整合性は、その背後にある政治的利害の矛盾を隠蔽する化粧にすぎない。正義は本質的に決定不可能であり、それを決定しているのは論理ではなく、国家の暴力装置である。したがって暴力装置を欠いたウィキペディアでは、その本質的な決定不可能性があらわになってしまう。

今回の慰安婦は、そういう病理学的なケースだ。朝日新聞が「慰安婦は女子挺身隊だった」という誤報を繰り返し、それが韓国の世論を動かして韓国政府が日本政府に圧力をかけ、河野談話が生まれた。その根拠は吉田証言が否定されて失われたが、朝日は誤報を訂正せず、日本政府は謝罪の理由をさがして「広義の強制」という理由を新たにつけた。しかし世界中のメディアは、こうした微妙な変化に気づかないで、15年前の嘘をもとに誇大な報道を繰り返している。こういう状況では、信頼できる情報源(政府や主要メディア)にリンクせよというルールは機能しない。

ウィキペディアの無責任な記述が、匿名で行なわれているのもデリダ的だ。彼は語る主体とパロールの同一性を疑い、主体なき痕跡としてのエクリチュールこそ言語の本質だとしたが、ウェブで飛び交っている膨大な匿名の言説は、近代西欧の生み出し守ってきた主体性の神話を否定しているのかもしれない。

実はデリダ自身は『法の力』で、脱構築は正義だと断定してエピゴーネンを驚かせた。脱構築は、よくいわれているようなニヒリズムではなく、既存の制度を疑うことによってその本質を露呈させる正義の営為なのだ。とすれば、ウィキペディアの実定法主義は、デリダの哲学とは逆の原則であり、それを無視する脱構築こそ必要だということになろう。

追記:金曜のシンポジウムは、参加者が100人を超えましたが、まだ少し席があります。申し込みはinfo@icpf.jpまで。

ウィキペディアのガバナンス

ウィキペディアの"Comfort women"をめぐる議論は、混迷が続いている。その最大の原因は、ほとんどの参加者が問題を理解しないで、孫引きの資料だけで議論しているからだ。ウィキペディアのルールによれば、問題の真偽を明らかにすることは目的ではなく、記述が最終的に「信頼できる情報源」にリンクできるかどうかが信頼性の定義なのだという。この信頼できる情報源は別途定義されていて、たとえばNYTやBBCは信頼できるが、ウィキペディアは信頼できない。

こういう形式主義は、ウィキペディアが仲間うちのメディアだったときはうまく行ったのかもしれない。編集合戦などの紛争を解決するとき、それが本当かどうかを議論していると泥沼になるからだ。しかし今回のように「信頼できる情報源」が信頼できないことが事実によって証明されたら、この手続き論は崩れてしまう。NYTもBBCも、ウィキペディアの定義では信頼できるが、それが事実に反することがオリジナルな史料で証明できるからだ。こういう場合、「オリジナルな研究は使うな」というウィキペディアのローカルルールは、正しい情報を棄却する結果になる。

これは実定法主義の陥りやすい罠である。それは内容が正しいかどうかは括弧に入れて、実定法に合致しているかどうかだけで正義を判断する一種のニヒリズムなので、もしもナチが合法的に権力をとって合法的にユダヤ人を殺しても、実定法主義では彼らを裁くことができない。実定法主義の元祖であるケルゼンは、ナチを結果的に弁護したとして批判を浴びた(その非難は公正とはいえないが)。

こういう形式主義は、もとはといえば数学の公理系のように無矛盾な体系として法律を構成しようとしたものだが、ゲーデルの定理にみられるように、実際には数学でさえ完全に自己完結的ではないし、まして社会科学では意味から独立した純然たる形式というのはありえない。そういう見せかけの無矛盾性を追求した新古典派経済学や生成文法などの「疑似科学」は、実証的に反証されてしまう。

しかもウィキペディアの実定法主義の有効性は、通常の法律よりさらに弱い。「信頼できる情報源だけにリンクせよ」というルールには、公権力の執行機関(H.L.A.ハートのいう「第2次ルール」)が欠如しているからだ。法律では、最終的に法に従わない者を社会から追放することによってルールを執行するが、ウィキペディアの場合にはルールを無視して書き込むのは自由だし、書き込みを禁止されても別の匿名IPで書けばいいだけのことだ。

要するに、ウィキペディアのガバナンスもオープンソースと同じく、参加者の善意に依存しているのである。これは関係者の利得関数が基本的には同じ向きになっている(協調ゲームになっている)ことを前提にしているので、ソフトウェアのコーディングには有効だが、信念の対立する政治的・宗教的な問題(たとえばNeoconservatismScientology)には必ずしも有効ではない。

つまり形式的なルールの有効性は、その中身である利害関係から独立ではないのである(*)。これまでインターネット上のルールが自生的秩序(ナッシュ均衡)として機能しているのは、利害が対立しない場合に限られる。知的財産権のように深刻な利害対立があると、そういうお気楽なルールは通用しないので、公権力の執行が必要になる。インターネットが「大人」になるには、世の中のいい面だけをみるのではなく、こうした面倒な問題を処理する権力の問題を考えることが避けられないだろう。

こういう問題も、今週のシンポジウムで議論したい。報道機関は、事前に「取材したい」とinfo@icpf.jpに申し入れていただけば、無料で招待します。

(*)専門的にいうと、社会的選択ルールをナッシュ均衡として実現するNash implementationが可能になる条件として、マスキン単調性という基準が知られている。非常に荒っぽくいえば、これは「ある選択ルールがメンバー全員の利益をつねに改善するならば、そのルールに従うことがナッシュ均衡になりうる」ということだ。たとえば全員がTCP/IPを採用することで利益を得られるなら、そういうプロトコルを全員が採用する合意が形成できるが、SNAのように利害が対立すると、自発的な合意(ナッシュ均衡)を形成することはできない。




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