2007年02月

よみがえるゴア

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アル・ゴアの映画『不都合な真実』が、ドキュメンタリー部門でアカデミー賞を受賞した。彼は、今年のノーベル平和賞の有力候補と目されている。Economist誌は、いま彼が出馬すれば、民主党の候補になれると予想している。タイムマシンで過去に戻れるとすれば、アメリカ国民は2000年を選ぶだろう。その後の調査によれば、あのときフロリダ州のパームビーチ郡の無効票が計算しなおされていれば、ゴアが選挙に勝っていた。

彼が大統領になっていれば、アフガニスタンに対する戦争は行ったが、イラク戦争は行わなかっただろう(彼は開戦に反対した)。京都議定書は批准され、発効しただろう。マイクロソフトは司法省との訴訟に敗れて分割され、地域電話会社も再分割されただろう。ゴアの「大きな政府」路線を批判したブッシュが、戦争と金持ち減税によって史上最悪の財政赤字を作り出してしまったのは皮肉である。

NBCの「サタデーナイト・ライブ」は昨年、アル・ゴアの大統領演説を放送した。「京都議定書が批准され、地球温暖化は止まったが、氷河が増えて困っている。」「最高裁判事に指名したマイケル・ムーア氏の議会承認は困難だった。」「野球はステロイド問題で混乱しているが、コミッショナーのジョージ・W・ブッシュ氏は、電話を盗聴してステロイド使用者を見つけ出すといっている。」選挙演説も、これぐらいウィットがあればよかったのにね。

バブルとその崩壊は止められたか

5b4b1f5a.jpg「バブルへGO!!」という映画が上映されている。私は見てないし見る気もないが、あの時代のいくつかの岐路にタイムマシンで戻ったらどうなるだろうか、というテーマはおもしろいので、冗談半分に考えてみた:
  1. 1985年:プラザ合意のときの円高誘導そのものはやむをえなかったが、それによる「円高不況」に対して金融緩和だけで対処したため、空前の金余り(バブル)が出現した。このとき財政出動しなかったのは、大蔵省が財政再建に固執したためだった。その上、貿易不均衡を是正するため「内需拡大」を求めるアメリカの圧力もあった。
  2. 1990年:バブルが崩壊したきっかけは、1989年5月から始まった日銀の公定歩合引き上げと、90年3月に始まった大蔵省の不動産融資の三業種規制だった。このおかげで、その抜け穴になっていた住専に過剰融資が流れ込んだ。映画では、広末涼子がこの総量規制をやめさせるため、過去に時間旅行するという設定になっている。
  3. 1993年:最大の岐路は、不良債権処理だった。この問題を決定的に深刻化させた原因は、前述のとおり大蔵省の寺村銀行局長が日住金の破綻処理を止めて農水省と密約を結んだことだ。
  4. 1997年:90年代後半には経済が立ち直りかけていたが、それをぶち壊したのがこの年11月の拓銀と山一証券の破綻をきっかけとする信用不安だった。最大の失敗は、この直前の三洋証券の破綻のとき、インターバンク市場で債務不履行が起こったことだった。
  5. 2003年:最後の岐路は、りそな救済だった。これは国家ぐるみの粉飾決算といっても過言ではないが、結果的に不良債権処理は幕引きされ、日経平均株価は4月に7607円の最安値をつけた後、回復し始めた。他方で金融庁は、「竹中プラン」で他の銀行にも不良債権処理を促進する圧力をかけたため、処理が急速に進んだ。
タイムマシンで1980年代に戻ったとしても、1の時点でバブル発生を経済政策によって防ぐことはむずかしかったと思う。適切な政策をとっていれば、景気循環はもっとゆるやかになっていただろうが、おそらくバブル自体を防ぐことはできなかっただろう。当時、その後の事態を予想した人は一人もいなかった。バブルという言葉さえ、1991年まで使われていなかったのである。

では、2の時点でその崩壊を防ぐことはできただろうか。それも無理だろう。バブル崩壊は、本来の生産性以上に積み上がった投機の「水準訂正」であり、政策で止めることはできない。映画のテーマになっている三業種規制も、残念ながら決定的なターニングポイントとはいえない。実際には、公定歩合は1991年7月には引き下げに転じたし、総量規制も91年末に終わったが、その後もバブル崩壊は続いた。

しかし3は、明白な大蔵省の失敗であり、政策によって防げたはずだ。住専の処理を誤ったため、これに公的資金を投入したことが世論の反発を呼び、そのために銀行への公的資本注入が遅れ、奉加帳方式によって官民あげての大規模な粉飾決算が行なわれた。これが不良債権の規模を10倍近くにふくらませ、日本経済をめちゃめちゃにしたのである。

4の信用不安は、三洋証券の破綻のとき、日銀が融資するなどして、インターバンク市場で銀行の債権を保全していれば、防げた可能性が高い。ただ決定的だったのは、その後の山一破綻のとき「自主廃業」という形で会社を消滅させた大蔵省の長野証券局長にある。

5のりそな救済は、前にも書いたように功罪なかばするというのが公平な評価か。

だから映画としてはつまらないが、決定的なターニングポイントは、1992年に寺村信行氏が銀行局長になったことだと思う。このとき住専の不良債権処理を銀行が自主的に行い、政府が資本増強すれば、秩序ある処理も可能だったかもしれない。

エースの小川是氏(のちの事務次官)が損失補填問題を処理するため証券局長に回り、銀行局に一度も勤務したことのない寺村氏が銀行局長になった。当時は、主計局長になりそこねた同期のNo.2が銀行局長になるという悪習が残っていたのだ。

そのころ業界関係者は「証券スキャンダルはもう終わったのだから、今度は不良債権だ。これは小川さんぐらいのワルでないと乗り切れない。寺村さんは極端にrisk averseという評判だ」と危ぶんでいた。当時の銀行局の部下も「局長が寺村さんになってから、会議が2倍になって決まることが半分に減った」とこぼしていた。もし広末涼子が1992年に戻れるなら、寺村銀行局長と小川証券局長の人事を逆に発令すべきだと思う。

ハイエクのジレンマ

Marginal Revolutionで、ハイエクをめぐる議論が盛り上がっている。この記事(のリンク先のエッセイ)もおもしろいが、コメントの水準も高い。これを読むと、アメリカのブログがアカデミックな議論の場になっていることがわかる。

ここでTyler Cowenが提起している「ハイエクには意味があるか?」という問題は、自由主義の将来を考える上で重要である。ハイエクは、社会主義を否定して市場の自生的秩序を賞賛したが、彼の主張には致命的な矛盾が含まれている。社会主義も、それ自体が政治的な進化の結果、成立したという意味では自生的な秩序だからである。

資本主義も、ハイエクの想定するような自生的な進化の結果うまれたものではない(そうであれば地球上のすべての文明圏が資本主義になっていただろう)。資本主義は、財産権や絶対主義などの西欧に固有の法・政治的な制度によって生み出された特殊な経済システムであり、それが人類を幸福にしたのかどうかは、まだわからない。

ハイエクは、一般には「保守的」な経済学者と呼ばれるが、彼はそのレッテルを拒否している(『自由の条件』後記)。彼は既成事実をすべて認めるという意味での保守主義にくみするものではなく、自由を侵害する国家の介入には対決すべきだと考えているからだ。しかし、これは彼がエドマンド・バークを援用して説く「伝統のなかには歴史的に蓄積された人々の知恵が織り込まれているので、それを科学や理性の名によって『改革』することは誤りだ」という主張とは矛盾する。

このようにすべての改革を否定するのがバーク以来の保守主義の本流であり、日本でもフジサンケイグループなどでおなじみだ。ハイエクも『自由の条件』のころまでは、社会主義を否定するために改革すべてを否定する傾向が強かったが、晩年の彼は福祉国家への批判を強め、それを「改革」する必要を説くようになる。それがサッチャー=レーガン改革を生み出したわけだが、保守主義的改革というのは形容矛盾である。

この意味で小泉政権の手法は、小谷清氏も指摘するように、保守主義というよりは設計主義といったほうがよいが、これはまさに初期のハイエクが批判した設計主義の欠陥を露呈する。たとえば郵政民営化が経済政策として意味があるかどうかについて、多くの経済学者は否定的だ。竹中総務相が行なった通信・放送改革は、まったくナンセンスなものだった。理想的な「ビジョン」を描いて改革しようとする発想には、すべてハイエクの批判する「ユートピア的社会工学」に陥る危険がある。

理論的に整理すると、これは非凸の最適化問題で、複数均衡のもとでの均衡選択をどう考えるかという問題である。バーク的な保守主義によれば、現状は過去の進化の結果なので、伝統を守るべきだということになる。これはこれで合理的な考え方で、現状はひとつの局所解だから、その近傍では何をするかというのは、どうでもいい。マクロ経済学者は、こういう問題ばかり議論しているが、日銀が金利を上げようが上げまいが、いずれ局所的な均衡に収束する。

しかし問題は、現状が全体最適になっているかどうかだ。こういう問題を解くときは、保守主義の漸進的改良(解析的な最適化)は役に立たない。局所解がサブオプティマルであっても、そこに収束してしまうからだ。しかし特定の目標を全体最適とみなして改革を行なうことも、リスクをともなう。経済のように複雑なシステムで全体最適が明確に定義されるはずもないし、そういう解が存在するかどうかも疑わしいからだ。

この二律背反をハイエク自身の発想によって解決するには、こうした均衡選択の問題そのものを試行錯誤によって解く「メタ進化論的」なアルゴリズムを考えるしかないだろう。その一つの候補は、遺伝的アルゴリズムのような突然変異を利用したメカニズムだ(ゲーム理論で有名なのはKandori-Mailath-Rob)。労働・資本資本市場の改革で参入・退出を容易にし、局所解を脱却する創造的破壊によって全体最適解をさがすのである。

だからCowenの問いに対する私の答はYesである。ハイエクの進化論的な経済思想は、現代においても意味がある。情報社会を考える上でも、新古典派経済学は何の役にも立たないが、ハイエクは知的財産権についても示唆を与えてくれる。

日本のソフトウェアはなぜだめなのか

最近、ブログのイジメ屋といわれている池田ですが、また小姑モードで・・・

小飼弾さん経由で、渡辺千賀さんのブログの記事を読んだ。「日本の自動車産業が世界に冠たるものになったのは、日本政府が自動車産業を守らなかったから」というのも疑問があるが、「日本のソフトウエアは自動車同様、ほとんど保護を受けなかった産業の一つだが、そのグローバル競争力は地を這っている」というのは明白な間違いである。

日本のソフトウェア産業は、初期から政府の手厚い保護と指導のもとに置かれてきた。1960年代には、通産省はIBMの参入を遅らせ、その国産メーカーへのライセンス供与の交渉を政府が行なった。70年代には、通産省はIPA(情報処理振興協会)を設立し、電機メーカーを糾合してIBM互換(大型)機をつくらせ、「国産ソフトウェア」を開発する官民プロジェクトに多額の補助金を投入し、すべて失敗した。その代表が、シグマ計画TRONである。

しかし小飼さんもいうように、ゲームソフトでは日本は圧倒的な成功を収めたので、「日本のソフトウェアがだめなのは英語が苦手だから」という渡辺さんの説明には説得力がない。プログラミング言語に国籍はないので、むしろ日本語の壁を超える足がかりになったはずだ。

私は、1980年代にゲームソフトの番組をつくったことがある。「スーパーマリオ」の宮本茂さんと「ゼビウス」の遠藤雅伸さんが登場し、「ポートピア殺人事件」の堀井雄二さん(のちの「ドラゴンクエスト」の作者)のインタビューを没にした、いま思えば贅沢な番組だった。

彼らの印象は、日本社会の本流からはずれた人たちだということだった。有名大学出身の人はまずいないし、大学を中退した人や電機メーカーをやめた人など、どこか傷ついた人が多かった。遠藤さんは自分で「落ちこぼれ」だといっていたし、堀井さんは「ボクは大きくなったら何になるんでしょうね・・・」とつぶやいていた。彼らの話はとりとめなくて編集がむずかしかったが、三度の飯よりゲームが好きだということだけは強烈に感じられた。

いま思えば、それがゲーム産業の成功の秘訣だったのだ。当時、通産省は「メインフレームの次は人工知能だ」とか「日本発の国際標準をつくる」とかいうビジョンを語っていたが、官僚の理路整然とした話には、ゲームおたくたちの「熱さ」がなかった。子供向けの産業は、役所や大手メーカーの視野に入っていなかったので、彼らの知らないうちにゲーム産業は力をつけ、気づいたときにはファミコンは1機種の「コンピュータ」として世界最大のベストセラーになっていた。対米進出するときも、アメリカのゲーム産業は「アタリ・ショック」で壊滅したのでだめだ、と業界関係者はみんな反対したが、任天堂は自分のリスクで進出した。

任天堂が成功したあとでさえ、ソニーの経営陣は久多良木健氏の提案したプレイステーションを「おもちゃはソニーの社風にあわない」として棄却した。それが復活したのは、大賀社長(当時)が「やらせてみればいいじゃないか」といったからだった。大手コンピュータ・メーカーは、ゲームを無視した(*)

要するにソフトウェアも、役所が保護した分野は失敗し、役所も大手メーカーも無視した分野が成功したのである。任天堂やソニーのゲーム部門は、80年代以降にできたので重厚長大産業のようなピラミッド型組織ではなく、小さな若いソフトハウスの連携によって多様なゲームソフトが開発された。エニックスは、サラリーマンではなく「作家」を育てるシステムをつくって、「ドラゴンクエスト」で大成功を収めた。

だから問題は英語教育ではなく、日本人のもっている創造性を下請け・孫請け型の「ITゼネコン構造」に埋没させないで、自由に発揮させることだ。それにはベンチャーキャピタルのような資金調達システムも必要だが、いちばん大事なのは技術者のモチベーションを引き出し、彼らのアイディアをビジネス化して、多様な実験を可能にすることだ。そのためには、役所やITゼネコンが退場することが必要条件である。

(*)正確にいうと、MSXやPC Engineや3DOなど、電機メーカーがゲームに進出しようとしたケースはあるが、すべて失敗した。

環境省にとって不都合な真実

環境保護は、現代の宗教である。科学的に証明されていない教義を多くの人々が信じ、それを道徳的なこととして他人に押しつける。特にたちが悪いのは、これが「国定宗教」とされ、政府が経済活動を統制する根拠に使われることだ。それを布教するのは、政府に保護されているマスメディアである。彼らは科学的根拠のないリスクを針小棒大に騒ぎ、それが嘘であると判明しても訂正しない。そのために膨大な税金が浪費され、多くの人が必要のないコストを負担する結果になる。

武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』は、こうした「環境教」の倒錯した教義の具体例をあげ、その誤りを科学的に明らかにしている。たとえば
  • ペットボトルのリサイクルは、資源の浪費である。リサイクルするには、そのペットボトルの量の3.5倍の石油を必要とするので、リサイクルすると石油の消費量は増える。事実、1993年から10年間で、リサイクルが増えたため、資源の消費量とゴミの量は7倍になった。
  • ダイオキシンは猛毒とされているが、その毒性はラットやマウスの実験によるものであり、人間に対する毒性はきわめて弱い(中西準子氏によればタバコの1/3000)。ゴミ焼却炉からは大量のダイオキシンが出たが、焼却炉で中毒症状が起きた事例は一つもない。全国で1兆円以上の税金を投じて行なわれた焼却炉の改造は浪費である。
  • 「環境ホルモン」と称するものは、まったく人体に害はない。
  • 地球温暖化で北極と南極の氷が溶け、海面が上昇するというのは誤りである。北極の氷は海面に浮いているので、溶けても海面は上昇しない。南極は-50℃で「過冷却」になっているので、気温が上昇すると水蒸気が凍結し、氷が増えて海面は低下する。海面が上昇するのは、陸地よりも海水の膨張率のほうが高いためであり、その影響は限定的だ。
  • DDTが禁止された結果、アフリカでは蚊が繁殖し、その媒介するマラリアによって年間200万人が死亡している。
ただし、最後の章には疑問がある。本当の環境問題は「石油の枯渇」だというが、その根拠はなんと1972年のメドウズの「成長の限界」論だ。これは現在では、環境保護派にさえ否定されている(Lomborg)。また環境教よりたちの悪い「食糧安全保障論」が出てくるのも悪い冗談だ。せっかく「ニセ科学」を撃退した著者が、結論で「水からの伝言」を唱えるようなものである。

追記:IPCC第4次報告書の全文は5月に発表される予定で、そのドラフトがいま研究者に閲読されているが、その概要がChristopher Monckton卿によって明らかにされた。それによれば、
  • 今世紀中の気温上昇のbest estimateは、第3次報告書の3.5度から3度に下がった。
  • 第3次報告書で人為原因説の有力な根拠とされた「ホッケースティック現象」のグラフが削除された。
  • 海面上昇は、19~43cmに下方修正された。
全体として、第3次報告書の予測よりも下方修正されている。そもそも要約版が公表されてから本文が閲読されるという順序が、科学的手続きに反するものだ。この報告書は、科学的データではなく政治文書である。

経済学は役に立つか

「生産性」論争は、思わぬ波紋を呼んでいるようだ。私はもう続ける気がないのに、あちこちで話題になって、「揚げ足取りだ」「学問の名によるイジメだ」「経済学ってそんな大したものなのか」といった話が盛り上がっている。

最後の質問からお答えすると、経済学って大したもんじゃない。昔から「憂鬱な科学」としてバカにされているように、それは自然科学のまねをしようとしてできない中途半端な学問である。では、まったく役に立たないかというと、ないよりはましだろう。変ないい方だが、経済学が役に立つのは、それが日常的な実感に合わないからなのだ

たとえば、サラ金に苦しんでいる人を救うには、直感的には上限金利を規制すればいいようにみえる。しかし経済学によれば、金利は資金需要と供給で決まるので、そういう規制をすると貸金業者の経営が悪化するだけでなく、借りたくても借りられない人が出てくる。現実に、オリコの経営危機が表面化し、融資を受けられない人への「公的融資」が議論されはじめた。政策決定に際して経済学の知識が共有されていれば、規制を強化する前からそういうコストを含めた意思決定ができたはずだ。だから公平にみて、学部レベルの経済学はかなり役に立つ。特に、政策の論理的帰結を考えないで「1段階論理」でバラマキを行う政治家のみなさんには、ぜひ学んでほしいものだ。

しかし大学院以上の経済学となると、急に役に立たなくなる。複雑な現象を厳密に議論しようとすると、ますます非現実的な仮定を加えなければならないからだ。たとえば大学院のマクロ経済学の教科書の最初には、永遠に生きて未来をすべて予測する超合理的な「代表的個人」が、経済全体をコントロールして成長率を最大化するという理論(Ramsey-Cass-Koopmans model)が出てくる。ほとんどSFの世界だが、大学院生になると、だれも驚かない。そういうやり方でしか、彼らの職業が成り立たないことを知っているからだ。

こういう古典力学的アプローチが根本的に間違っているという批判は古くからあり、シュンペーターもハイエクも、進化をモデルにして経済学をつくろうとした。彼らの本は、経済について新古典派よりもはるかに本質的な洞察を与えてくれるが、主流にはならなかった。主流になったのは、サミュエルソン以降の数学的理論だ。それはなぜかというと、公理系→定理→証明という手続きによって、自然科学に似た体系がつくれるからだ。経済学の論文の体裁は数学とほとんど同じで、定理を証明するという形式で書かれている。

トマス・クーンは、学問的なパラダイムが「通常科学」になる条件として、パズルの生産力をあげている。大きな科学者集団を維持するには、新しい問題が次々に作り出され、それを理論的に解明して実証的に確かめる手続きが明確で、多くの研究者が生活するための仕事がつねに生み出される必要がある。自然科学の学会はそのための組織で、経済学はそれをまねている。つまり経済学の形式的な学問体系は、彼らの生活手段なのである。

だから、パラダイムが危機に陥るのは、それが「反証」されたときではない。たとえばエーテル説は、1887年のマイケルソン=モーリーの実験で完全に反証されたが、ニュートン力学を捨てる物理学者はいなかった。彼らがそれを疑うようになったのは、それに代わる相対性理論が1905年に登場して以降である。新古典派経済学も、ほぼ全面的に反証されているが、それが生き残っているのは、それよりよい生活手段(理論体系)がないからだ。

しかし、このように厳密な体系が役に立つこともある。それは、その体系の中では命題の真偽が明確にわかるということだ。通常科学の中では、「正しいかどうかは解釈によって違う」といった曖昧さはない。真か偽か、1か0かである。もちろん適用する理論にも限界はあるが、それもどういう条件で適用できるかは明確だ。それが学問的な枠組みを参照するときの唯一の長所である。

だから最初に戻ると、私のやり方がイジメだという批判は当たっているが、揚げ足取りだというのは違う。世間の通念にさからって経済学(らしきもの)を説教するときは、その学問体系の中の厳密な言葉を使うべきであって、「賃金」が都合によって個人の賃金だったり平均賃金だったりするのでは話にならないし、「定理」としてデカ文字で掲げた命題と矛盾することを本文でのべるのは論外だ。そういう厳密さを捨てるなら、経済学の名によって語るべきではない。経済学の取り柄って、それしかないのだから。

追記:先日は、コメント欄で「チョムスキーなんて役に立たない」と書いたら、計算機科学の人から猛反発を受けた。言語学は、非自然科学の中では経済学と並んで形式的な体系の整っている学問だが、その実態が「疑似科学」である点も同じだ。しかし経済学者は「役に立たない」といわれても怒らない。いつもいわれているからだ。言語学者が批判を拒否するとしたら困ったものだが、これは言語学の外野にいる計算機科学の人の特殊事情かもしれない。言語学の人は「チョムスキーの理論は失敗に終わった」と認めた。

山形浩生氏へ

さすがに、今日の記事には驚いたね。君は自分で答えるのを放棄して、3人の有名な経済学者にガーナからEメールを出していたわけだ。いつも横文字を縦文字にして、その権威で商売している君の考えそうなことだ。しかし気の毒なことに、君の主張はだれにも支持されていない。まず君が赤いデカ文字で強調した部分を再掲してみよう。
賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ。
この前半は経済学的にナンセンスな表現だが、君自身が言い直したところによれば、労働者の「個々の生産性」だ(私のいう限界生産性)。ここで君は明確に、賃金は個々の労働者の生産性で決まるんじゃないと言い切っている。これは非常に強い命題で、常識では考えられない。だから私も他の人々も、いろんな解釈を試みたわけだ。この命題をAとしよう。

ところが君は、きょうの記事では「ぼくは最初から、同じ経済の中での賃金差はそれぞれの労働の需給で決まるし、その労働の中ではその個々の生産性で(ある程度)決まるという話をしている」という。この命題をBとしよう。君の話を整理すると、こういうことになる:

A. 個々の賃金水準は個々の生産性で決まるんじゃない
B. 個々の賃金水準は個々の生産性で(ある程度)決まる

ここで最初に「個々の」と補ったのは、「それは全体の賃金水準のことだ」などという逃げを許さないためだ(後述)。そう解釈しないと、デカ文字の命題は「全体の賃金水準は個々の生産性で決まるんじゃない・・・」という無意味な文になる(*)

さて、いうまでもなくAはBの否定だ。同じ人物が、ある命題とそれを否定した命題を同時に主張するとき、それを読む人はどう解釈すればいいのだろうか。普通の解釈はひとつだ。彼は頭がおかしいのだ。Bを主張している人が、それとは正反対のAをデカ文字で強調して何度も繰り返すということが、常識で考えられるだろうか。

だいたい、最初の記事のどこに「個々の生産性で(ある程度)決まる」と書いてあるのかね。君は、いろんな例をあげて「技能や熟練水準と生産性とは、実はあんまり関係ない」とか「すべては需給なんだよ」と強調している。需給の結果決まる賃金は個々の労働者の(限界)生産性を反映しているという標準的な経済理論も無視して、賃金を決めるのは平均生産性なんだということをしつこく強調している。2回目の記事のタイトルでも「それでも賃金水準は平均的な生産性で決まるんだよ」と繰り返している。

そこで君のご自慢のEメールだが、質問はこうなっている:
全体的な賃金水準がその経済の平均的な生産性で決まるんだという発想――これはあなたのような自他共に認める立派な経済学者にとって、まるっきりばかげたものでしょうか?
当たり前じゃないか。これは、経済学者に聞けば100人中100人が正しいというだろう(私も正しいといった)。これとAを比べればわかるように、君は最初に個々の賃金水準についていったことを全体の話にすりかえ、自明の命題の正否を質問して、それが「完全に正しい」とお墨付きをもらって喜んでいるわけだ。だから、せっかくの権威ある回答だけど、何の意味もないんだよ。質問が嘘なんだから。

こうなったらはっきりいうが、こういう嘘は君のいつもの癖だ。君を知っている人は、驚かないだろう。小谷真理氏を中傷して訴えられたときも、レッシグの本のあとがきで嘘をついて私に謝罪したときもそうだった。あの質問状から5年たって、また同じような嘘に遭遇するとは思わなかったよ。悪いけど、これは経済学以前の、君の人格の問題だ。もうこれ以上、君と議論するのは無意味だからやめておく。嘘つきと議論するのは、時間の無駄だ。

(*)こう書いてもわからない人がいるようだから、コメントで補足説明しておいた。この問題は、論理的思考力の試金石だ。

追記:松尾匡氏からコメントがついているが、ここで彼が説明しているのは、平均所得が平均生産性で決まるという自明の事実である。ここでは労働者は同質で完全に移動すると仮定しているので、国内では賃金が均等化し、二国間でのサービス業の賃金格差は製造業と同一になる。このモデルでは、国内のプログラマとウェイトレスの賃金格差は説明できない。詳細はコメント欄参照。

問題は格差ではなく生産性だ

格差シリーズの続きとして、最近話題になったバーナンキFRB議長の所得分配についての論文を紹介しておこう。これは最近アメリカでも所得格差が拡大している原因を考え、政策的な対応を考えたものだ。要旨は次の通り:
先進国の平均所得は戦後一貫して上昇しており、最低所得も上昇している。しかし所得格差は、戦後は縮まっていたが、ここ30年は拡大している。この期間に、アメリカの下位10%の所得は4%しか上がらなかったが、上位10%の所得は34%上がり、その結果、上位1%の所得は全所得の8%から14%に拡大した。さらに大卒のホワイトカラーと高卒のブルーカラーの賃金格差は、38%から75%に拡大した。

格差拡大の最大の原因と考えられるのは、ITによる生産性の急速な上昇である。ITの物理的な性能は、「ムーアの法則」として知られるように指数関数的に上がっているが、その経済的生産性はユーザーの技能と補完性をもつため、ITを使える労働者と使えない労働者の技能の差が、ITを梃子にして拡大されるのである。

さらに市場がグローバル化によって拡大したため、メディアへの露出を高めるスーパースターの限界生産性が高まり、トップのスポーツ選手や芸能人の報酬が巨額になった。金融市場が広がったため、投資銀行家や経営者の能力の差も拡大された。CEOの巨額報酬がよく批判されるが、経営者も「資産」の一つと考えると、その報酬は彼らの能力による収益の差によって正当化されるとする実証研究が多い。

経済のグローバル化によって先進国の単純労働者の賃金が途上国に近づくという効果は、理論的にはあるが、実証研究では確かめられていない。もっとも重要なのは、労働者の高い技能を要求する情報技術革新である。

また労働組合の組織率が低下し、非正規労働者が増えたことも一因だ。これが賃金格差の10~20%を説明する。

したがって格差の拡大に歯止めをかけるには、労働者がITに対応できるように再教育を行うとともに、能力の高い労働者が生産性の高い職場に移動しやすくするため、年金などの制度をポータブルにすることが重要だ。問題は格差そのものではなく、新しい仕事に挑戦できるチャンスを最大化することである。
「格差是正」をテーマにして国会論戦や参議院選挙を行うことは、日本経済についてのアジェンダ設定として根本的に誤っている。政府は民主党の土俵には乗らず、このバーナンキの問題設定のように、生産性をいかに高めるかを考えるべきだ。その際もっとも重要なのは、ITの急速な進歩に対応するため、能力の高い労働者がその能力を発揮できる(情報生産性の高い)企業に移動できる柔軟性を高めることである。

限界生産性とPPPについての超簡単な解説

わかりきった「生産性」論争はもう終結したと思ったのだが、4日間で9万ページビューも集まり、200以上の(大部分は混乱した)コメントがついて、「限界原理ってわかりづらい」とか「限界生産性vs平均生産性って何?」とかいうTBもたくさんついた。私の説明がまずかったのかもしれないので、おまけとして超簡単に教科書的な解説をしておこう。

限界原理というのは、ちっともわかりづらいものではない。むしろ、わかりやすすぎることが怪しいぐらいの話だ。前の記事の説明を繰り返すと、喫茶店のウェイトレスをあらたに雇って時給800円を払えば、1時間に売り上げが800円以上増えるとき、店主はウェイトレスを雇うが、売り上げ増がそれ以下なら雇わない。それだけのことだ(もうちょっとちゃんとした解説はここ)。

しかし、世間の常識と違うことが一点だけある。それは、問題は平均値ではなく、個別の店の売り上げ増だということである。世間の賃金相場がいかに高くても、あるいは喫茶店の売り上げがいくら多くても、ウェイトレスを増やすことで彼女の賃金以上に売り上げが増えなければ損するから、限界生産性を上回る賃金を払い続けることはできないのである。これが成り立つのに必要な条件は、前にも書いたようにいろいろあるが、重要なのは完全競争だということ。

問題は、日本のウェイトレスの時給がなぜ中国より高いかということだが、これも答は同じだ。両方の限界生産性が違うのだ。ウェイトレスの限界生産性は、彼女を雇ったことによる売り上げ増であらわされる。それが中国より高いのは、日本人の所得が高いとか土地が高いなど、いろいろな理由があるが、それはすべてコーヒーの価格に(したがって限界生産性に)織り込まれているのである。その価格は需要と供給で決まり、「平均生産性」とは何の関係もない。ドトールのように、生産性が上がるとコーヒーの価格が下がる場合もある。

ここで、ちょっとむずかしい話が出てくる。これまでの記事では、為替レートはPPP(購買力平価の均等化)によって無視してもよいと考えてきたが、この点がちゃんと伝わっていないようだ。PPPとは、たとえば日本円で1台のPCを買える金額を人民元に交換すると、中国で同じPCが買えるように為替レートが決まるという原理だ。今日の人民元は15.6円。つまり日本で15万円のPCが中国で1万元で買えるということだが、これはほぼ実際の価格に近い。

PCのように競争が完全に機能し、為替レートが自由に変動すれば、所得水準などに依存する購買力の違いは、為替レートに反映される。かつて1ドル=360円だったころ、日本の自動車産業はアメリカの半分近い価格で車を輸出した。これが変動為替相場になると、円は日本車がアメリカ車と同じ価格になる(1ドル=180円)まで強くなる。このとき国内のウェイトレスの生産性は何も上がっていないが、彼女が海外旅行で使う円の価値は2倍になるわけだ。

しかし貿易財のPPPで均衡が成立しているのは一部の製造業だけで、あとの産業は円が強くなると相対的に(ドル建ての)コストが高くなるので、新規参入が起こり、価格が均等化するはずだ。サービス業でも、外食産業のように競争的な部門では、ビッグマック指数としてEconomist誌が表示しているように、PPPがかなり成立している。

おわかりだろうか。変動相場制のもとでは、国内・国際競争さえあれば、為替レートで調整した(ドル建ての)コーヒーの価格は全世界で均等化し、所得とも「平均生産性」とも関係ないのだ。ウェイトレスの時給はコーヒーの価格と均等化するから、競争があれば、日本と中国で均等化するはずだ(*)。しかし現実には、非貿易財やサービスの価格は、どこの国でもPPPと乖離している。ここから先は、限界生産性からの乖離で説明するしかない。規制や労働移動の硬直性などによって不完全競争(独占的な効果)が生じ、限界生産性を上回るレント(超過利潤)が生まれるのである。

またウェイトレスの賃金をプログラマと横並びで上げるといった生産性を無視した賃金決定が行われると、PPPから乖離する。つまり現実の賃金は限界原理で決まっていないが、それは不完全競争によるものなのである。そして現代の日本では、グローバル化などの圧力で、こうした不完全性が少なくなっているので、部門ごとの格差が顕在化しているわけだ。

これ以上わかりやすく解説することは、私の能力を超えるので、あとは教科書を読んでください。たとえば『マンキュー経済学』のPPPの項には、散髪屋を例にとって、この記事とほとんど同じ解説がある。

(*)実際には、日本と中国の賃金の差は、見かけほど大きくない。中国の賃金は日本の1/30だが、労働生産性を勘案した単位労働コストでみると、80%程度に縮まる。この記事でいう競争の不完全性というのは、この20%の差だから、意外に競争原理は機能しているわけだ。

賃金格差の拡大が必要だ

山形浩生氏との訳のわからない「生産性論争」も、ようやく終結したようだ。前の記事には「学部生向けの経済学Iの内容がここまでも世間では理解されていないということに衝撃を受けています」という経済学者のコメントが来たが、私も同感だ。経済学ってつくづくマイナーな学問なんだな・・・

ただ、山形氏は自分でもいうようにそう頭が悪いわけではないから、これが世間の庶民の標準的なレベルなのだろう。「格差国会」で議論している国会議員(特に民主党)にも、限界原理どころか需要と供給もわかってない人が多い。当ブログは民主党の議員も読んでいるようだから、格差について議論する際のポイントを簡単にまとめておく。

山形氏が誤解しているように、賃金が限界生産性と関係なく「世間相場」(平均生産性?)で決まると思っている人は多い。現実にも、かつては「春闘相場」で横並びの賃金決定が行われてきた。これは、実質的には超効率的な輸出産業から非効率的なサービス業への「補助金」である。

しかし、このような限界生産性から乖離した賃金決定は、各部門の生産性の格差が拡大すると維持できない。生産性の上がらないサービス業で製造業並みの賃上げを続けていたら、経営は破綻するからだ(*)。他方、労働組合は既得権としての横並び賃金を守ろうとするから、経営者はパートなどの非組合員を増やすことによって実質的な賃下げを行う。民主党の支持基盤である労組が没落した最大の原因は、彼らの「談合」的な賃金決定が時代の変化に適応できなかったことなのだ。民主党が主張しているような規制を行えば、労組の組織率がさらに落ち、自分の首を絞める結果になるだろう。

こうした競争圧力は、今後さらに強まると予想される。その最大の原因は、中国である。前にもふれたように、中国からの輸入やアウトソーシングの増加によって要素価格が均等化し、付加価値の低いブルーカラーは中国の労働者と競争することになる。これまで生産性の低い部門に再分配されていた輸出産業の超過利潤は低下するから、多くの部門で「裸の生産性」が露出し、単純労働者の賃金は中国に引き寄せられて、格差はさらに拡大するだろう。

では日本政府はどうすべきだろうか。前に書いたように、賃金規制は失業率を高めるだけだ。保護貿易によって国内市場を競争から遮断することはできるが、成長率が低下するばかりでなく、保護された産業の競争力が衰えて、長期的にはかえって危険である。知識集約型の製造業や金融を含む広義の情報産業などの付加価値の高い産業に特化して、日本の比較優位を生かすしかない。

私は日本人の情報リテラシー(比較優位)は高いと思うが、情報産業での日本企業の競争力は高くない。その大きな原因は、生産性のきわめて高いプログラマなどの賃金も、製造業的な横並びになっているためだ。ブログでよく出てくる、プログラマの過酷な労働条件と安い賃金は、彼らの生産性に見合った賃金が支払われないため、供給が慢性的に不足することから生じるのである。こうした部門では、労働時間で賃金を支払って年功賃金で会社にしばりつけるといった在来の賃金体系をやめ、優秀なプログラマには契約ベースで管理職より高い賃金を払う必要がある。

要するに、横並びの賃金決定が、一方では非正規労働者や失業者を増やし、他方ではプログラマの悲惨な生活をもたらしているのだ。日本経済が中国との競争で生き残るためには、むしろ各部門の限界生産性の差に対応して正社員の賃金格差がもっと拡大する必要がある。効率の高いIT部門の賃金を高めることによって人的資本の移行を促進し、TFPを引き上げることが「成長戦略」のポイントだ。その結果、所得が高くなる人は問題ではないので、生存最低限度より低くなる人にセーフティ・ネットを提供することが行政の仕事である。

「市場原理主義」を否定して、春闘時代の「古きよき日本」に戻そうとする民主党の主張は退嬰的であり、『国家の品格』に涙する老人の支持は得られても、若い世代の支持は得られないだろう。労働者を守ることと、労組の既得権を守ることは違う。いくら所得を再分配しようとしても、国際競争に敗れて収益が低下したら分配の原資がなくなる。よくも悪くも、昔に戻ることはもう不可能であり、市場原理を認めた上で前進するしかないのである。

(*)あるいは収益を維持するためには、賃上げにあわせてサービス価格を生産性の上昇以上に引き上げなければならない。この結果、インフレが生じるというのがBalassa-Samuelson効果である。しかし価格・賃金が限界生産性と乖離すると、新規参入によって利益を得られるから、最終的には限界生産性に近づく。

追記:小飼弾氏からのTBは正しい。限界生産性原理が成立するのは、生産関数が線形分離可能な場合に限られ、「チーム生産の外部性」がある場合には、限界生産性に等しい賃金を支払うことはできない(Alchian-Demsetz)。「この会社がカンボジアにあったとしたら・・・」というのは、前にもふれたTFPの問題である。こういう外部性があると賃金決定は複雑になり、一意的な最適解はない。ここで論じたのは、単純化した話である。

追記2:昨日の記事では、山形氏は反論もできず、「分裂勘違い君劇場」に助けを求めているが、この話は彼がデカ文字で強調した「賃金水準は、[労働者の]絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ」という命題を証明していない。だいたい平均生産性だけで賃金が決まるのなら、プログラマとウェイトレスの賃金の差は何で決まるのかね。





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