2007年01月

メディアの合理的バイアス

高木さんの棒グラフの話をからかったら、意外にまじめな反論が来て驚いた。テレビが中立・公正な報道をしている(はずだ)と信じている人がまだ多いようだ。日本のメディアもまだ捨てたものではないが、これは民主主義の健全な発展のためにはよくない。メディアは本質的に物事を歪めて伝えるものだからである。棒グラフの話も、その一例としては意味がある。

まず認識しなければならないのは、これまで何度も書いたように、ニュース価値は絶対的な重要性ではなく限界的な珍しさで決まるという事実である。経済学の教科書の最初に出てくるように、ダイヤモンドの価格が水よりはるかに高いのは、それが水よりも重要だからではなく、限界的な価値(稀少性)が高いからだ。同じように、人が犬に噛まれる事件よりも犬が人に噛まれる事件のほうが、重要性は低いがニュース価値は高いのである。

時系列でも同じだ。普通の人が事故死する原因として圧倒的に重要なのは交通事故だが、これは減っているのであまりニュースにはならない。ニュースになるのは、飲酒運転による死亡事故が増えた、といった変化だけだ。要するに、問題の総量(積分値)ではなく変化率(微分係数)がニュース価値なのだ。

これはメディアとして合理的な基準である。交通死亡事故をすべて取り上げていたら、紙面はそれだけで埋まってしまう。メディアは読者に読んでもらわなければならないのだから、その興味を最大化するようにニュースを順位づけするのは合理的だ。行動経済学の言葉でいうと、メディアは必然的に代表性バイアス(特殊なサンプルを代表とみなす傾向)をもっているのである。

しかしメディアがニュースを読者に見せるときは、「この話は重要ではないが珍しいから取り上げた」というわけにはいかないので、あたかも客観的に重要な情報であるかのように見せる。飲酒運転による死亡事故が10年間で4割減ったのに、昨年1.9%だけ増えた部分だけを拡大した棒グラフ(折れ線グラフでも同じこと)を描いて、いかにも激増しているように見せる。子供の自殺も1970年代の半分に減っているのに、2000年以降の統計だけを見せる。

これは、前にも書いた「関心の効率的配分」を考える経済学の事例研究としておもしろい。通常のモノの経済では、稀少性で価格が決まっても問題はない。水道料金が低くても、水道水はつねに存在しているからだ。しかし情報の世界では、情報価値が低い(アクセスされない)情報は存在しないのと同じだ。地球温暖化よりはるかに重要な(しかし地味な)感染症には、温暖化の数分の一の予算しかつかない。大気汚染としてもっとも重要なタバコを放置したまま、リスクがゼロに等しいBSEに大騒ぎする(磯崎さんの記事参照)。

だから「あるある」の問題は特殊なスキャンダルではなく、メディアの本来もっている合理的バイアスが極端な形で出てきたにすぎない。存在しない実験データを捏造したというのは、わかりやすいのでたたかれるが、もっと微妙な自殺や交通事故をめぐる誇張された報道は気づかれず、それをもとにして教育再生会議が子供の自殺についての「緊急提言」をしたり、酒気帯び運転だけで公務員が懲戒免職になったりする。

人々がすべての情報を片寄りなく認識することが不可能である以上、なんらかのバイアスは避けられない。問題はメディアがバイアスをもっていることではなく、情報が少数の媒体に独占され、十分多様なバイアスがないことである。だから必要なのは、政府が介入して監督することではなく、情報のチャンネルを多様化し、相互にチェックすることによってバイアスを中立化することだ。

要するに、市場メカニズムでは情報を効率的に配分できないのである。だからマスメディアのように関心を最大化する必要のないブログなどの非営利のメディアが、バイアスを中立化する上で重要な役割を果たしうる。2ちゃんねるにも「毒をもって毒を制する」効果はあるかもしれない。読むほうが情報を信用してないという点では、2ちゃんねらーのほうが納豆を買いに走った主婦よりもはるかにリテラシーが高い。

テレビに「期待」してはいけない

ところで問題の「女性国際戦犯法廷」だが、東京高裁も期待権を認める判決を出した。メディアでは、原告の要求を是認するような論調が多いが、この事件は最初からの経緯を知らないと本質を見誤る。

最大の間違いは、そもそもこの企画が通ったことである。NHKには「チャイナスクール」と呼ばれる中国べったりの一派があり、その代表である池田恵理子氏(私とは関係ない)が問題の番組の企画者だった。彼女はVAWW-NET JAPANの発起人で、「戦犯法廷」の運営委員だった(この事情は、形式的には彼女の部下が番組のプロデューサーになったことで隠蔽されている)。つまり主催者が実質的なプロデューサーなのだから、もともと中立な報道などできるはずがなかったのだ。

しかし教育テレビの提案会議は、ほとんど現場にまかせきりで、編成などがチェックするのはタイトルぐらいだから、この最初のボタンの掛け違えが気づかれなかった。教育テレビは「左翼の楽園」だし、だれも見ていないから、普通ならそのまま放送されて、あとで関係者が始末書を書かされるぐらいだったろう。ところが、この内容が事前に右翼にもれたことが第2の間違いだった。それがNHK予算審議の直前だったものだから、幹部があわてて政治家に「ご説明」に回ったことが問題をかえって大きくしてしまった。

そこで自民党の圧力を受け、番組を大幅に改竄して放送したことが第3の間違いだった。たしかに放送された番組はめちゃくちゃだが、「戦犯法廷」の中身は弁護人もつけずに昭和天皇を被告人として裁き、何の証拠もない「従軍慰安婦」を理由にして天皇に「有罪」を宣告するデマゴギーで、とてもNHKが番組を丸ごと費やして紹介するようなイベントではない。政治家に説明したりしないで、純然たる番組論として没にすべきだった。

もちろん取材された側としては、改竄しても没にしても「われわれが期待したものと違う」というだろう。しかし、それは編集権の問題だ。テレビの取材では、撮影したテープの90%以上は没にするのが普通である。没にされた相手がみんな「放送されることを期待していた」と訴訟を起こしたら、番組制作は成り立たない。

先日の「あるある」も今回のNHKの事件もそうだが、視聴者や取材相手にリテラシーがなく、テレビを信用しすぎていることが間違いのもとだ。誤解を恐れずにいえば、あるあるの実験なんて毎回ブログなどで笑いものになっていたネタである。健康にきくすごい食品が、毎週みつかって500回以上も続くわけがない。作る側も、被験者を「出演者」だと思って演技をつけていたのではないか(それがいいと言っているわけではありませんよ、念のため)。

テレビは(報道も含めて)本質的には娯楽であり、そこに出す情報を選ぶ基準は、おもしろいかどうかだ。NHKでも、番組の最大のほめ言葉は「おもしろかったね」であって、「勉強になったよ」というのは半分皮肉である。NHKを叩いた朝日新聞だって、「政治家が介入した」というストーリーにしたほうがおもしろいから、そういう話を捏造したのだろう。

今回の判決は、こういうリテラシーをもたない原告が過剰な「期待」の充足を裁判所に求め、それ以上にリテラシーのない裁判官が期待権などという変な権利を認めたもので、今後の報道への悪影響は大きい。もちろん捏造も改竄もよくないが、どこからが捏造(改竄)でどこまでが演出(修正)なのかという基準は必ずしも明らかではない。品質管理のハードルをあまりにも高く設定すると、今回のようにメディアが自分の首をしめる結果になる。少なくともメディアがメディアについて報道するときは、読者に過大な期待をもたせず、「自分だったらどうするだろうか」と胸に手を当ててみたほうがいいのではないか。

追記:小飼弾氏からTBがついている。テレビ番組はリテラシー最低の人を想定してつくらなければならないというのは、1/23にも書いたように私も同じ意見だが、それは法的責任ではない。放送法にも「業務停止命令」の規定はあるが、捏造ぐらいで発動するものではない。編集権はテレビ局にあるという原則は、理解してもらうしかない。たとえば政治家に取材したら、彼らの期待どおりの番組をつくらなければならないとしたら、報道は成り立たない。

ケインズ反革命の終わり

ポール・クルーグマンのミルトン・フリードマンについてのエッセイがおもしろい。
フリードマンは、自由な市場の重要性を世に知らしめた点では、アダム・スミス以来の偉大な経済学者だ。しかし彼の学問的な著作はバランスがとれているのに、一般大衆や政治家に対しては「市場はすべて善で政府はすべて悪」という単純化された話をするようになり、それが電力自由化の失敗や中南米の極端な民営化政策による経済破綻などの不幸な結果をまねいた。

特に重要なのは、ケインズとの関係だ。ケインズは、市場にすべてゆだね、安定化政策は金融政策で行えという古典派の教義を否定し、金利がゼロに近づいた場合には金融政策はきかないと主張した。金利がゼロになると、それ以上金利を引き下げることもできないし、貨幣も債券も同じになるから、中央銀行が債券を買って通貨を供給しても効果がないのである。

フリードマンとシュワルツは、"A Monetary History of the United States"でこれを否定し、FRBが十分な通貨を供給しなかったことが結果的に大恐慌を深刻にしたことを実証した。ところがフリードマンは、一般向けの話では、FRBがデフレ政策をとったとか、さらには大恐慌を引き起こしたのはFRBだと主張するようになった。

しかし、このような極端な主張は誤りである。1990年代の日本では、日銀は民間需要をはるかに上回る通貨を供給したが、デフレを止めることはできなかった。金融政策の有効性という点では、フリードマンよりケインズのほうが正しかったのである。
なるほどおっしゃる通りだが、クルーグマン自身の過去の議論との整合性はどうなるのだろうか。彼は1998年の日本経済についてのエッセイで、日銀がインフレ目標を設定して通貨をジャブジャブに供給すればデフレを脱却できると主張した。実はこのエッセイでも、彼はゼロ金利のもとではマネタリーベースを増やしても何の効果もないことを認めているのだが、
もし中央銀行が、可能な限りの手を使ってインフレを実現すると信用できる形で約束できて、さらにインフレが起きてもそれを歓迎すると信用できる形で約束すれば、それは現在の金融政策を通じた直接的な手綱をまったく使わなくても、インフレ期待を増大させることができる。
と主張するのだ。う~ん、マネタリーベースを増やしてもインフレは起きないのに、日銀がインフレ目標を設定すればインフレが起きる? デフレ下では金融政策は無効であり、それを民間人が知っているのに、なぜ彼らは日銀の「約束」を信用するのだろうか。日銀が「金融政策を通じた直接的な手綱」以外のどういう政策手段をもっているのか。Mr.マリックでも雇って超能力を使うのだろうか。

このエッセイの訳者などの外野から「インフレ目標を設定しろ!」という大合唱が起きたにもかかわらず、日銀がそれを設定しなかった理由は、クルーグマンの理論がこういう「大きな弱点」を抱えていたからだ(植田和男『ゼロ金利との闘い』)。根本的な原因は自然利子率が負になっている(投資需要が極度に減退している)という異常な状態であり、デフレはその結果にすぎない。デフレを直すことによって不況を脱出しようというのは、体温計の目盛を変更して熱をさまそうというようなものだ。

要するに、短期の異常現象は短期的な変数だけでは必ずしも説明できないのである。なぜ投資需要が減退し、企業が貯蓄主体になってしまったのかは(定義によって)ケインズの枠組では説明できない。ケインズは投資需要の源泉をアニマル・スピリッツという冗談ですませてしまったが、いま日本で深刻なのは、まさにアニマル・スピリッツの低下である。

だからクルーグマンのいうように、フリードマン以降の「ケインズ反革命」を再検討する時期に来ていることは確かだが、それはケインズに戻ることを意味しない。両者がともに捨象した経済システムの生産性(TFP)を内生変数として分析し、それをいかに上げるかという問題を考えなければならないのである。

アル・ゴアにとって不都合な真実

"Skeptical Environmentalist"の著者であるBjorn Lomborgによる「不都合な真実」の映画評。はてな匿名ダイアリーに日本語訳がある(一部改訳)。
彼は南極の2%が劇的に温暖化している図を持ち出しますが、残りの98%がこの35年間で大幅に寒冷化していることは無視しています。国連気候パネルは、今世紀中に南極の雪の量が実際のところは増大していくだろうと予測しています。そしてゴアは北半球で海氷が減っていることを示しますが、一方で南半球で増えていることには言及しません。

同様に、2003年にヨーロッパで起きた破壊的な熱波から、地球温暖化により今後より多くの死者が生まれるだろうとゴアは結論づけます。しかし地球温暖化のおかげで、寒さで死ぬ人は減るでしょう。多くの発展途上国において、寒さで死ぬ人は暑さで死ぬ人よりもずっと多いのです。イギリスだけでも、気温が上がれば暑さによる死者は2050年までで2000人増えるでしょうが、寒さによる死者は20000人減るはずです。

実際のところ、本当に問題とすべきなのはお金を賢く使うことなのです。[・・・]発展途上国にとって切迫した問題には、私達に容易に解決できるものがあります。国連の見積りによると年間に750億ドル、京都議定書を実行する半分の費用で、清潔な飲料水、下水設備、基本的な医療、そして教育を、地球上の全ての人に供給することができるのです。最優先すべきなのは、こっちではないでしょうか?
Easterlyが正しいとすれば、750億ドルで途上国の問題が解決すると考えるのは楽観的すぎると思うが、京都議定書がバカげているのは間違いない。

追記:意外に大きな反響があったので、コメントで少し情報を補足した。この問題についてのバランスのとれた論評としては、Economist誌のサーベイが最近の新しい数字(いわゆるスターン報告)を踏まえて政策を検討している。その結論は「温暖化のリスクは存在するが、それを防ぐためのコストも大きいので、数値目標を立ててCO2削減を急ぐよりも漸進的に対策を進めたほうがよい」ということで、私も同感である。

経済停滞の原因と制度

6e008b37.jpg世の中では構造改革派とリフレ派の論争は決着がついた(後者が勝った)と思われているらしいが、それはマスコミの中だけの話。構造改革を否定して騒いでいたのは、マクロ経済学が専門でもない経済学評論家翻訳家だけで、彼らの使っていたのは「流動性の罠」などの半世紀以上前の分析用具だ。

90年代の日本経済について、企業データまで調べた厳密な実証分析が出てきたのは、ここ1、2年のことである。去年秋の日本経済学会のシンポジウムでは、そうした研究を踏まえて「失われた10年」をめぐる議論が行われたが、「長期不況の主要な原因はデフレギャップではなくTFP(全要素生産性)成長率の低下であり、それをもたらしたのは追い貸しによる非効率な資金供給だ」ということでおおむね意見が一致した。

本書は、こうした実証研究の先駆となった編者が、専門家の研究を集めた3巻シリーズの論文集の第1巻である。どの論文も非常に専門的なので一般向けではないが、長期不況についての研究のフロンティアを示している。編者は序文で、長期不況の原因は次の3つにあるとする:
  • 生産性(TFP)の成長率の低下
  • 金融仲介機能の低下による投資の不振
  • 公共投資の非効率性
15年もの長期にわたる不況は、短期のケインズモデルでは分析できない。中年世代は、マクロ経済学というとIS-LMを思い出すかもしれないが、今の大学院の教科書にはIS-LMは出てこない。学部の教科書でも、まず長期の成長理論を教え、その均衡状態からの短期的な乖離として景気循環を教えるのが今は普通だ。

政策の優先順位も、本来はこの順序だ。長期的な成長率を最大化することが最優先の問題で、短期的な安定化政策はそれと整合的な範囲で行わなければならない。財政のバラマキや金融の超緩和で今年のGDPが1%上がっても、それによって生産性が低下して向こう10年のGDPが10%下がるようでは、こうした安定化政策の効果はマイナスになる。90年代に起こったのは、まさにそういう近視眼的マクロ政策の失敗だった。現在のGDPは、1990年を基点として2%成長が続いた場合に比べて10%も低いのである。

経済財政諮問会議がまとめた「日本経済の進路と戦略」が「生産性倍増計画」を掲げ、「イノベーション」を強調しているのは、こうした問題意識によるものだろう。しかしマクロ政策と違って、生産性の向上について政府ができることは少ない。資本主義の本質は、非効率な企業を淘汰することによって生産性を高めるダーウィン的メカニズムである。それをマクロ政策で歪めた結果、企業の新陳代謝が阻害され、TFP成長率が低下したのだ。

だから今後の政策で重要なのは、資本主義のメカニズムを機能させることだが、それはマクロ政策のようにだれもが喜ぶとは限らない。生産性を高めるには、効率の低い部門から高い部門へ資本と労働を移動するしかなく、そのためには財界のいやがる資本自由化と労組のいやがる労働市場の規制撤廃を徹底的に進めることが不可欠である。腰砕けの目立つ安倍政権に、それができるだろうか。

納豆ダイエット捏造はなぜ起きたのか

「発掘!あるある大事典Ⅱ」の捏造問題で、関西テレビは放送の打ち切りと社長の減給などの処分を決めた。映像はGoogleからもYouTubeからも削除されているが、番組サイトのキャッシュがまだ残っており、そこに台本の大筋が掲載されている。今週の『週刊朝日』にも詳細な記事が出ているので、それをもとに事実関係を検証してみた。

最大の問題は、関西テレビの謝罪文に書かれている
テンプル大学アーサー・ショーツ教授の日本語訳コメントで、「日本の方々にとっても身近な食材で、DHEAを増やすことが可能です!」「体内のDHEAを増やす食材がありますよ。イソフラボンを含む食品です。なぜならイソフラボンは、DHEAの原料ですから!」という発言したことになっておりますが、内容も含めてこのような発言はございませんでした。
という点だ。しかし『週刊朝日』によれば、Arthur Schwartz教授がDHEAの研究者であり、彼がDHEAについてコメントしたことは事実のようだから、このインタビュー自体はまったくの捏造というわけではない。致命的なのは、このインタビューの前に出てきた56人の実験をしたのがワシントン大学のDennis Villareal教授らの研究(*)なのに、番組では実験の映像に続けて
そこで、調査のためスタッフは緊急渡米~!!情報の発信源である、ペンシルバニア州立テンプル大学へ駆け込み、アメリカ生物学の権威、アーサー・ショーツ博士を直撃した!
と、まったく別人の研究をSchwartz教授の実験として紹介し、彼がそれについてコメントしたかのように構成していることだ。これは不可解である。どうして最初からVillareal教授に取材しなかったのか。『週刊朝日』によれば、彼は「日本のメディアの取材は受けていない」といっているそうだから、最初のリサーチ(下調べ)の段階で勘違いした疑いがある。

民放の制作体制は孫請け・曾孫受けで複雑になっており、特に海外については英語のできるリサーチャーに丸投げになっていることが多い。この番組のディレクターは英語ができなかったようだから、リサーチャーが間違えたか、そのレポートの内容をディレクターが取り違え、現地に行ってから人違いに気づいたが、今さらフィラデルフィアからセントルイスまで行く時間も予算もない。え~い、吹き替えればわからないや・・・となったのではないか。「アメリカで行った研究者への取材が難航し、制作会社サイドが追い詰められた」という記者会見の答は、そういう事情をうかがわせる。

正直にいうと、これに近いことは海外取材ではよくある。思ったとおりコメントが取れなかったとき、吹き替えで「作文」した経験のないディレクターはほとんどいないだろう。これが国内ならばれるが、海外ならその心配もない。特に今回のように専門的な話だと、内容に疑問をもつのはごくわずかの専門家だけだ。ハコフグマンのブログによれば、取材したのは日本テレワークの孫請けのアジトという零細プロダクションらしいが、「海外取材は人違いでした」などといったら、二度と仕事は来ないだろう。一か八かで捏造しようと考えても不思議はない。

しかし、この番組の骨格である「DHEAに腹部脂肪を減らす効果がある」という事実は、前述のVillareal教授らの研究で発表されており、嘘ではない。それをイソフラボンと結びつけ、さらに納豆と結びつけたのは医学的にはナンセンスらしいが、この程度のことは、DHEAというわかりにくい物質の話をおもしろく見せる演出の一種だろう(許される範囲かどうかは微妙だが)。もう500回を越えて、健康食品のネタも尽きていたのではないか。

実験データの捏造も、それほど深刻なものではない。もともとテレビ番組の実験なんて学問的に厳密なものではないし、大事なポリアミンの実験データの解析だけはしていたようだから、100%捏造というわけではない。これがだめなら、「超能力」と称してやっているいかがわしい「実験」や、占い師のおばさんが2時間にわたって根拠不明の「予言」をする番組はどうなるのか(**)

こうみると、今回の番組はそう突出した例外ではない。異常なのは人違いのインタビューを吹き替えでごまかしたことだが、それも運悪く週刊誌の取材を受けたからばれただけで、実験データの捏造は過去にも疑惑が指摘されていた。納豆業界に事前に情報が流れていたというのも、別に問題になるようなことではない。だから不二家みたいに「総懺悔」にならないで、どうやって品質管理するか、どこまで演出が許されるかを冷静に考えたほうがよい。

私は番組を発注する側にも受注する側にもいたことがあるが、発注元のテレビ局がこういう捏造をチェックすることは不可能である。試写でチェックするのは、客観的に見て辻褄のあわない部分やわかりにくい部分だけだ。下請けプロダクションは制作の過程から関与しているので、事実関係の誤りなどはチェックできるが、それでも捏造されたらだめだ。ディレクターが嘘をつくということは想定していないのである。

捏造を事前に防ごうと思えば、すべての取材過程に管理職が同行してチェックする「内部統制」が必要になるが、それでは仕事にならないので、チェックは人事でやるしかない。捏造がばれたら業界から永久追放される、という社会的制裁(ゲーム理論でいうtrigger strategy)が最後の歯止めだ。長期的関係で固定された下請け構造が、強力な品質管理装置になっていたのだ。

しかしこういう「村八分」的なペナルティは、下請け関係が流動化するとあまりきかなくなる。零細プロダクションはしょちゅうつぶれ、フリーのディレクターはプロダクションを渡り歩いているので、「前科」が残らない。給料も安いので、クビになってフリーターになっても失うものはあまりない。これは雇用流動化のコストであり、問題ディレクターについての「評判データ」を各社が共有するなど、モニタリングのしくみを考える必要がある。

(*)関西テレビの謝罪文では、誤って「デニス教授」と書いている。

(**)言葉が足りなかったようで、たくさんコメントがつき、高木浩光さんなどからもTBがついたので、補足しておく。私は捏造を擁護しているのではなく、民放の番組が事実を軽視する傾向はこの問題に限らないといっているのである。技術者からみれば、実験を冒涜するのはけしからんと思うかもしれないが、視聴者への悪影響という点では超能力や占い番組のほうが罪深いと私は思う。それは科学をあからさまに否定しているからだ。今回の事件は特殊なケースではなく、事実よりおもしろさを優先し、コストを徹底的にたたいて品質管理に手を抜く民放の体質が、たまたま表面化しただけだ。この体質を改めない限り、同様の問題はなくならない。

「有罪率99%」の謎

映画「それでもボクはやってない」が昨日から公開され、話題になっている。私は見てないが、ちょうどそのストーリーを裏書するように、強姦事件で有罪判決を受けて服役した人が実は無実だったと富山県警が発表した。まるで日本では、無実の人がバンバン犯罪者にされてしまうみたいだが、これは本当だろうか。

こういうとき、よく引き合いに出されるのが、有罪率99%という数字である。たしかに日本の裁判で無罪になる率(無罪件数/全裁判件数)は94件/837528件=0.01%(2004年)で、たとえばアメリカの27%に対して異常に低いように見える。だが、アメリカの数字は被告が罪状認否で無罪を申し立てて争った事件を分母にしており、同じ率をとると日本は3.4%になる(ジョンソン『アメリカ人のみた日本の検察制度』)。

これでも十分低いが、これは日本では「逮捕されたらすべて有罪になる」ということではない。送検された被疑者が起訴される率は63%で、国際的にみても低い。多くの国では、犯罪の疑いのある者を起訴することは検察官の義務とされているが、日本では起訴するかどうかは検察官の裁量にゆだねられているからだ。したがって有罪件数を逮捕件数で割ると、国際的な平均水準に近い。

この違いの原因は、大陸法と英米法の違いにある。英米法では陪審員がおり、彼らは職業裁判官に比べて無罪の評決を出す確率が高く、検察官にとって予測がむずかしい。これに対して、日本では裁判官と検察官の間に有罪となるかどうかについてのコンセンサスがあるので、無罪になりそうなものは検事があらかじめふるい落としてしまうのだ。

このように司法手続きが実質的に行政(警察・検察)の中で完結しているので、その「成果」としての起訴案件が無罪になることは、深刻なスキャンダルとなる(メディアもそういう扱いをする)。これは検察官の昇進にも影響するので、彼らはきびしい「品質管理」を行って起訴の条件をきわめて保守的に設定する。その認識は警察も共有しているから、政治家などのむずかしい事件は逮捕もしない。

裁判官も罪状についての認識は検察官と同じだから、無罪にすることは勇気が必要だ。無罪判決を多く出す裁判官は「変わり者」とみられて、処遇も恵まれない。弁護士も確実に負ける刑事裁判はやりたがらないので、いい弁護士がつかない。したがってますます無罪になりにくい・・・という悪循環になってしまうのである。

冤罪の原因としてよく問題になる警察の「自白中心主義」も、このように行政の力が強いことが一つの原因だ。英米法では、裁判は対等なプレイヤーのゲームと考えられているから、司法取引や刑事免責など、捜査する側が被疑者と駆け引きするツールがたくさん用意されている。これに対して日本では、司法の主要部分は行政官が行うので、被疑者と駆け引きするのではなく「お上」の決めた罪状を被疑者に認めさせるという捜査手法になりやすい。

つまり問題は有罪率が高いこと自体ではなく、司法が実質的に行政官によって行われ、裁判以前の段階で事実上の「判決」が下されることにある。これは立法行為を実質的に官僚が行い、国会がそれを事後承認する機関になっているのと似ている。こういう行政中心のシステムは、交通事故のような定型化された犯罪を処理するのには向いているが、疑獄事件のようなむずかしい事案は、検察が恥をかかないために見送る結果になる。この状況をジョンソンは、ジョナサン・スイフトのいう蜘蛛の巣にたとえている。小さなハエは捕まるが、スズメバチやクマバチは巣を突き破って逃げてしまうのである。

マルクスにさよならをいう前に

「さよならマルクス」と題したブログの記事がある。何の話かと思ったら、学校教育に「弱肉強食」の競争原理を持ち込むな、という教育再生会議の批判だ。その論旨はともかく、問題は『資本論』の児童労働に関する記述が引用され、まるでマルクスが内田樹氏と同じことを主張したかのように書かれていることだ。たしかにマルクスは児童労働の悲惨な状況を描いたが、「競争原理から子供を守れ」などと主張したことはない。それどころか、彼は次のように書いているのだ:
この[ロバート・オーウェンの]教育は、一定の年齢から上のすべての子供のために生産的労働を学業および体育と結びつけようとするもので、それは単に社会的生産を増大するための一方法であるだけではなく、全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法でもある。(『資本論』第1巻 原著p.508)
内田氏は「現代思想」の研究者ということになっているようだが、マルクスが肉体労働と精神労働の対立を止揚するものとして児童労働を積極的に評価したということは、思想業界の常識である。後年の『ゴータ綱領批判』では、もっとはっきり書いている:
児童労働の全般的な禁止を実行することは――もし可能であるとしても――反動的であろう。というのは、いろいろの年齢段階に応じて労働時間を厳格に規制し、また児童の保護の為にその他の予防措置をするなら、生産的労働と教育とを早期に結合する事は、今日の社会を変革するもっとも強力な手段の一つであるからである。
文献学的には、内田氏の主張は問題にならないとして、彼とマルクスの主張のどちらが正しいだろうか?もちろん後者である。子供を特別な保護すべき存在とするようになったのは「ブルジョア社会」になってからであり、歴史的には(途上国では今でも)子供は労働力である。公教育は(内田氏の主張するように)子供を保護するためではなく、工場の規律に合わせて労働者を規格化するためにつくられたものだ。学校だけが、社会のルールから保護された楽園であるはずもない。

運動会で着順をつけるのが「差別」だからみんな同着にしよう、というように子供を競争原理からずっと保護し続けることができるなら、それもいいだろう。しかし彼らは、いずれ社会に出て弱肉強食の現実に直面する。競争原理から保護されているのは、業績に関係なく給料のもらえる教師だけだ。彼らのセンチメンタリズムを子供に押しつけることは、「子供を守る」どころか、社会で闘えず、現実に適応できないニートを増やすだけである。

マルクスは競争原理を否定したこともないし、平等を実現すべきだと主張したこともない。戦後の日本社会を毒してきたのは、こういう少女趣味的なマルクス解釈であり、それを清算することが現代の「思想」的課題である。「さよなら」をいう前に、内田氏はちゃんとマルクスを読んだほうがいいのではないか。

エコロジーという名の偽善

こんな広告が出ていた:
エプソンは、使用済みカートリッジの回収率を向上し環境活動をより強く推し進めるべく、プリンタの使用済みカートリッジ回収でベルマーク運動に参加いたします。[・・・]これにより、資源の有効活用と廃棄物の減少による地球環境保全を図ることができるだけでなく、教育支援という社会貢献活動への参画を実現します。
エプソンは「環境活動」に熱心らしいから、もっと環境保護に役立つ活動を教えてあげよう。それは回収したカートリッジを「分解・粉砕して再利用」するのではなく、そのままインクを詰め替えて再利用することだ。再生品が「品質を落とす」というなら、自分でやる必要はない。せめて再生カートリッジ・メーカーの仕事を妨害しないことだ。再生品メーカーに対して訴訟を起こす一方でカートリッジを熱心に回収するのは、それが再生品メーカーに渡るのを妨害するのが目的と思われてもしょうがない。

キヤノンも、同じような活動を宣伝している。こういうあからさまな偽善を得々と語る企業の社長が日本経団連の会長になる(しかもそれを経産省が表彰する)のだから、日本の企業の「社会的責任」なるもののお里が知れる。

NHK受信料を2割下げる方法

NHK受信料の支払いを義務化する放送法の改正案が、通常国会に提出されることが決まった。菅総務相は「受信料を2割下げろ」と言い出して、NHKの橋本会長は「それは無理だ」と当惑しているようだが、今の体制のままで2割以上値下げする簡単な方法がある。

NHKでいちばんコストのかかる番組は何かご存じだろうか?それは大河ドラマでもNHKスペシャルでもなく、ローカル番組である。NHKスペシャルの番組単価は、平均して1本5000万円(人件費こみ)ぐらいだが、1時間のローカル番組は最低でも200万円ぐらいかかる。全国に約50ある県域局(及び北海道の管内局)がすべてローカル放送をやったら、1億円以上かかる計算だ。

経費を節約するには、各県の放送局機能を拠点局に集約し、たとえば東北の番組はすべて仙台から放送すればよい。県域局には中継機能と取材拠点だけを残し、素材を仙台に送って東北ローカルの番組として放送すればよいのである。拠点局は8局しかないから、これによってローカル番組予算は今の1/5ぐらいにでき、地方局の要員も半分以下に削減できよう。NHKの職員の半分は地方局にいるから、2割ぐらい値下げするのは容易である。

横浜市民のうち何割が、NHK横浜(UHF)の存在を知っているだろうか?首都圏と近畿圏でも県域放送はやっているのだが、内容は東京や大阪とほとんど同じで、誰も見ていないので集約が進められていた。ところが海老沢元会長は、逆に地上デジタルでは(免許を取るために)首都圏と近畿圏も県域で独自放送を拡大する方針を決めてしまった。この方針を白紙に戻し、首都圏と近畿圏のNHK県域局を廃止して、その電波を携帯電話や無線MANなどに開放すれば、競争促進にもなる。

NHKは「地域放送強化」を掲げ、ローカル放送の時間帯を大幅に増やしているが、生活が広域化し、グローバル化している時代に、これは時代錯誤である。現在の都道府県が行政単位として狭すぎるので、道州制にすべきだという議論も多い。そのパイロットケースとして、NHKを「道州化」してはどうだろうか。




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