2006年12月

宇宙のランドスケープ

宇宙のランドスケープ 宇宙の謎にひも理論が答えを出す
先週Smolinの本を読んで、宇宙論に興味をもったので調べてみたら、ちょうど主流派のリーダーの訳本が今週、発売された。もちろん結論はSmolinとは正反対で、物理学の理論としてどっちが正しいのかは私にはわからないが、話としてはこっちのほうがはるかに奇想天外でおもしろい。

ポイントは、Smolinの批判する人間原理(anthropic principle)を「物理学のパラダイム転換」と開き直って宇宙論の中心にすえたことだ。ひも理論の中身はわからなくても、人間原理はだれでもわかる。要は、この宇宙が今のような素粒子でできているのは、そうでなければ宇宙を観察する人間が存在しえないからだ。これは絶対に正しい。なぜなら同語反復だからである。続きを読む

2ちゃんねる化するウィキペディア

ウィキペディアの私に関する項目が、何度も削除されているらしい。いま残っているのは数行の経歴だけだが、これすら間違っている。私は「経済評論家」などと呼ばれたこともないし、名乗ったこともない。私が博士課程を中退したのは、1997年である。

前の記事でも書いたように、私は日本のウィキペディアの品質には疑問をもっているので、このブログでもほとんどリンクを張らない。大部分は英語版の質の悪いダイジェストで、日本語版オリジナルの項目には事実誤認や個人への中傷が多い。西和彦さんの項目などは、学歴や職歴まで間違いだらけで、本人が怒って編集し、大バトルが繰り広げられた末、大部分は削除されて保護されてしまった。

このようにウィキペディア日本版の質が悪い原因は、ウェブで匿名が当たり前になっていることが影響していると思われる。歌田明弘氏によれば、アメリカのブログの8割は実名だが、日本の9割は匿名だという。日本でこれほど匿名性が強い原因は、実名で発言すると会社ににらまれるとか、友人にきらわれるなど「評判」が傷つくことを恐れているからだろう。

だから2ちゃんねるは、日本社会の汚物みたいなものだが、排泄物を見れば健康状態がわかるように、そこには社会の裏面が映し出されている。匿名の世界では会社などの「ムラ社会」の抑圧から解放されるため、そのストレスを悪口や民族差別で解消する。「他人志向」で自我が弱く、何かを主張するよりも他人の評判を傷つけることに快感を覚える。自分の意見というものがないから、一方的な悪口ばかりで論争や相互批判が成立せず、議論の客観性をチェックする習慣がない。

こういう「匿名文化」のなかで言論への責任意識が希薄になっているため、ウィキペディアまで2ちゃんねる化しつつある。日本人の品質管理を支えているのは、ムラの中で評判を守る恥の意識だが、それが機能しない匿名の世界では、質を維持するインセンティヴがないのだ。私についての項目のようないい加減な記述を表示するのは「百科事典」の恥である。もっとチェック体制を強め、一定の基準を満たすまで掲載しないなど、品質管理をきびしくすべきだ。

追記:問題の項目が修正された。現職(上武大学)が抜けている点など、おかしなところはあるが、大筋では間違っていない(12/28)。

追記2:匿名IPでしつこくいやがらせを書き込む人物がいて、保護されてしまった(12/31)。日本では、匿名IPを禁止したほうがいいのではないか。

イノベーション 破壊と共鳴

山口栄一

NTT出版

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「クリステンセンの誤りを正す」などと書いてあるが、破壊的イノベーションに代わって著者が提示する「パラダイム破壊型イノベーション」の概念は実質的にほとんど変わらない。破壊的イノベーションの性能は初期には既存技術に劣っているとされるが、実際にはトランジスタなどの重要な破壊的技術の性能は最初から既存技術よりも高い、というのがその違いだが、これは本質的な問題ではない。著者のいう「パラダイム」も、クリステンセンの「バリュー・ネットワーク」の概念とほとんど同じだ。

実質的な違いは、破壊的技術が開発されても実行されない理由にある。それは第一線の研究者の物理特性についての「勘」のようなものが資金を提供する資本家や経営者にうまく伝わらないことにあるという。これは本書の扱う半導体には当てはまるのかもしれないが、あまり普遍性のある話ではない。それに対して研究者と経営者の「共鳴場」をつくれという提案も、アドホックでよくわからない。最後は2005年の総選挙など、話がとっちらかったまま終わってしまう。

ただ、イノベーションをパラダイム論と接合する著者の発想(数ページしか展開されていないが)は悪くない。一昨日の記事でも書いたように、誤った理論は反証によって葬られるとか、よい技術は必ず成功するといったナイーブな科学(技術)信仰を克服し、技術が選ばれる社内の意思決定やマーケティングなどの政治的プロセス(著者のいう「場」)を分析することがイノベーション論の課題だろう。

破壊的イノベーションを企業が容易に受けつけないのは、それなりに合理性がある。既存の技術に埋没したサンクコストが大きい場合、設備や組織をすべて取り替える破壊的イノベーションを採用することはリスクが大きいからだ。このような「局所最適化」の淘汰圧は大きな組織ほど強いので、重要なのは既得権の少ない小組織で開発を行い、バリュー・チェーンを短くして要素技術に特化した「突然変異」を市場に出すことだろう。この点で「モジュール化」が重要だという結論に本書も行きついているが、これは新しい提言とはいえない。

迷走する物理学

迷走する物理学
私は物理学はよく知らないので、本書のひも理論(string theory)に対する批判が正しいのかどうかは判断できない。しかし専門家の書評をざっと見た限り、本書の内容が学問的にナンセンスということはないようだ。

1980年代に登場したひも理論は、最初は白眼視されていたが、そのうち理論物理学の主流になり、今ではひも理論の専門家でなければ一流大学で理論物理のポストは得られないという状態になっている。しかし提唱されてから20年以上たっても、ひも理論を検証する実験データはない。他方、理論は複雑怪奇になるばかりで、最近のバージョンでは、なんと10500種類もの異なるひも理論がありうるという。

このアポリアに対する理論家の答は、人間原理である。無数の可能な宇宙の中から、人間の生存に適した宇宙だけが選ばれたのだ。なぜなら、そうでなければ人間に観測されえないからだ――という同語反復の論理(もちろん反証不可能)が、素粒子物理学の最先端の学会でまじめに論じられているというのは驚いた。

本書は、物理学に関心のない人にも「科学社会学」の事例研究としておもしろく読める。著者は、若いころファイヤアーベントに師事したことがあり、彼の「共約不可能性理論」が本書のベースになっている。今でも少なからぬ科学者が信じているポパーの「反証可能性理論」によれば、科学かどうかは理論が実験や観測データで反証できるかどうかで決まることになっているが、ひも理論の現状はこういうナイーブな科学論への反証だ。

ひも理論は検証も反証もできないが、科学者はこの理論を放棄しない。それは美しく、数学的に難解で、これを駆使することが能力のシグナルになるからだ。ファイヤアーベントが指摘したように、科学もイデオロギーの一種であり、それを動かすのは政治なのである。

しかし物理学に要求される厳密性の水準は高い。実験で証明できない理論は、いくら美しくてもアリストテレスのように「あるべき宇宙」を主観的にのべているだけだ、という著者の基準でいえば、経済学の理論はすべて失格である。

たとえば合理的期待モデルでは、すべての経済主体が集計的な需要関数を正確に予測すると仮定するが、これは容易に反証できる(というより絶対にありえない)。しかし、いまだに合理的期待は教科書に載っている。それが経済学者の考える「あるべき世界」像に一致するからだ。経済学は、いまだに天動説の段階を出ていないのである。

NGNはインターネットではない

NGNのトライアルが、華々しく始まった。これまで、その「キラー・アプリケーション」が何なのか、はっきりしなかったが、どうやらアクトビラらしい。家電メーカーがテレビ局主導の「サーバー型放送」に見切りをつけ、IPベースのサービスに重心を移したのは結構なことだ。しかし問題は、これがインターネットではないということである。

インターネットの必要条件は、TCP/IPを採用するだけではなく、それが全世界のホストとオープンに相互接続(internetworking)可能だということだ。私はアクトビラのようなビジネスを山ほど見てきたが、こういう「インターネットもどき」のwalled gardenが成功したことは一度もない。家電メーカーが「検閲」し、YouTubeも2ちゃんねるも見られない人畜無害のサービスが、ただでさえむずかしいSTBベースのビジネスで勝ち残ることは不可能である。

さらに大きな問題は、NGNもインターネットではないことだ。NGNの基本的な考え方は、SIPでセッションを張って通信品質を保証するものである。SIPは、もとはVoIPのためのプロトコルで、いわばインターネットの中に仮想的な電話網をつくるものだ。インターネットの基本思想であるE2Eでは、すべてのホストは同格で特権的なサーバは存在しないが、SIPは呼制御をSIPサーバで行うため、ここにトラブルが起こると、先日の「ひかり電話」の事故のようにネットワーク全体がダウンする。このアーキテクチャを継承するNGNは、自律分散型のインターネットではないのである。

もともとNGNは、携帯電話の3GPPで策定されたIMSが発展してできたものだ。これは没落する固定電話網を(電波で独占を守れる)携帯電話網に統合してコモンキャリアの収益を守ろうという発想で、ユーザーにどういうメリットがあるのかはっきりしない。FMCとかquadruple playというのも、携帯と固定で同じ電話番号が使えるという程度では意味がない。

ユーザーにとって意味があるのは電話代がタダになることであり、それはすでにスカイプで実現している。その構造はSIPとは違い、端末ですべての情報を処理するP2P=E2Eである。スカイプの通信品質が今のところ十分ではないことは確かだが、帯域が広がれば品質の問題も解決できるし、ほとんどのユーザーは現在のベスト・エフォートのインターネットで満足している。品質保証型サービスを企業向けに提供するのはいいとしても、ネットワーク全体を取り替える意味があるのだろうか。

映像伝送も、NGNを使えばHDTVが伝送できるというが、そんなことはインターネットでもできる。映像伝送のボトルネックはパイプではなく、サーバである。Winnyのようにキャッシュ伝送で負荷を分散しないと、設備投資の負担で映像伝送サービスは行き詰まるおそれが強い。ところが日本の警察はP2Pを非合法化してしまい、NGNもすべての負荷をキャリアに集中するシステムだ。

いま世界でNGNの導入がもっとも進んでいるのは、BTである。その「21世紀ネットワーク」計画では、「2008年9月までにコストを年間10億ポンド節約する」という具体的な目標を掲げている。ここではNGNとは交換機をルータに置き換えることでコストを節約するプロジェクトであり、物理的なインフラは主としてDSLを想定している。このコスト節約が料金の低下に結びつくなら、ユーザーにとってのメリットも明確だ。

ところがNTTの中期経営戦略では、「3000万世帯に光ファイバーを提供する」という目標が掲げられ、料金については何も書いてない。むしろISDNのような「高品質・高料金」をめざしているように見える。すべてのインフラを光に取り替えれば保守コストが減るというが、銅線が残る限りコストは増えてしまう。あとの3000万世帯はどうするのだろうか。光のいらないユーザーの設備も、無理やり取り替えるのだろうか。疑問はつきない。ICPFでは、NGNについて議論を行う予定(調整中)である。

クリエイターに必要なのは著作権の強化ではない

先日の「著作権は財産権ではない」という記事には、意外に多くのアクセスがあったが、わかりにくいという批判もあったので、もう少しわかりやすい例で補足しておこう。

私は、かつてテレビ局で番組を発注・契約する立場にいたこともあるし、フリーで番組制作を請け負ったこともある。その経験からいうと、日本のコンテンツ産業の最大の問題は、著作物の利益が法的に保障されないことではなく、それが仲介業者に搾取され、クリエイターに還元されないことである。クリエイターの大部分は、フリーターとして低賃金・長時間労働で酷使されている。著作権の強化は、彼らにとっては意味がない。もともと権利は企業側に取られるしくみになっているからだ。

極端なのが映画である。かつては映画の興行収入は映画館がまず50%取り、残りの半分を配給会社が取り、あとの25%を制作会社が取るという配分が不文律になっていた。テレビの場合にはもう少しばらつきがあるが、この映画館が民放、配給会社が広告代理店と考えればよい。出版では、この比率はもっとひどく、印税は一律に10%だ。つまり日本では、仲介業者が売り上げの75%から90%を取るのである。

このように流通マージンが大きいのは日本の流通機構に広くみられる特徴で、その代わりマーケティングや在庫などのリスクは仲介業者が負うことが多い。他方クリエイターは、前払いで制作費をもらう一方、その売れ行きには責任を持たない。これはファイナンス理論でいうと、「売れた場合の利益は得るが、売れなかった場合の損失は負担しない」というオプションを仲介業者がクリエイターに売っている(制作費から差し引く)ことになる。仲介業者がリスクとリターンをすべてプールする下請け型の構造である。

こういう構造が成立しているのは、映画館やテレビの電波などの流通チャネルがボトルネックになっていたからである。映画館のようにシネコンなどでチャネルが多様化すると、収益の配分が変わり、新しいクリエイターが参入するようになる。プラットフォームの側からみても、仲介業者が売り上げの75%以上も取る配分は異常であり、新しいチャネルを提供して鞘取りする余地は大きい。インターネットは、そういう新しいプラットフォームの可能性をひらいている。

この場合、新しいプラットフォームは透明なE2E型になってリスクをプールせず、クリエイターがリスクもリターンも取ることになろう。Google/YouTubeのようなプラットフォームでビデオが流通するようになれば、日本のコンテンツ産業の構造も変わり、クリエイターに利益が還元されるようになる可能性がある。これに対して著作権の保護を口実にしてIP放送を妨害し、P2Pを犯罪に仕立てようとする仲介業者は、クリエイターの利益を守ると称して、仲介のボトルネック独占を守っているのである。コンテンツ産業を活性化するために必要なのは、著作権(という名の既得権)をこれ以上強化することではなく、競争政策を厳格に運用してこうした古い仲介業者を解体することだろう。

著作権は財産権ではない

私は法律の専門家ではないが、著作権の延長問題やWinnyに関する議論をみていると、賛否いずれの立場にしても、著作権に関する基本的な知識(素人でも持っておくべき知識)が共有されていないように見受けられる。そこで「法と経済学」の立場から、実定法にはこだわらず著作権の基本的な考え方について簡単にメモしておく。

まず確認しておかなければならないのは、著作権法は憲法に定める表現の自由を制限する法律だということである。これはもともと著作権法が検閲のために設けられた法律であることに起因するが、複製を禁止することは出版の自由(freedom of the press)の侵害であり、自然権としては認められないという見解もある。著作権の根拠として創作のインセンティヴという自然権として自明ではない理由があげられるが、これを認めるとしても保護の範囲は最小限にとどめるべきである(森村進『財産権の理論』弘文堂)。

第2に、著作権は財産権ではないということである。「知的財産権」という言葉がよく使われるが、これは特許権など雑多な権利の総称であり、著作権が憲法第29条に定める不可侵の財産権として守られるわけではない。著作権は、譲渡とともに消尽する財産権とは違い、譲渡された人の行為も契約なしで拘束する無制限の複製禁止権である(私のDP参照)。さらに権利を譲渡された人も複製禁止権をもつので、権利者が際限なく増え、一つの対象を多くの所有者がコントロールする「アンチコモンズの悲劇」が生じる。

表現にとって第一義的ではない複製という行為に着目したのは、かつては本を印刷・複製するにはコストがかかり、それを禁止することで著作物の利用をコントロールできたからだが、だれでも容易にデジタル情報を複製できる現在では、これは国民全員の行動を監視しなければ執行不可能であり、制度として効率が悪い。それよりも複製は自由にし、著者には報酬請求権だけを与えることが制度設計としては望ましい(田村善之『著作権法概説』有斐閣)。経済学的にいえば、コントロール権なしでキャッシュフロー権を確保する方法はいくらでもある(Shavell-Ypersele)ので、両者をアンバンドルすることが効率的である。

著作物が以前の著作を引用・編集することで成立する累積的効果も大きいので、複製を禁止するネットの社会的便益は負だという見解もある。この立場からは、狭義の財産権(著作者が情報を1回だけ譲渡する権利)のみを認め、複製禁止権は廃止すべきだということになる(Boldrin-Levine)。現在の無方式主義(権利の登録を必要としない)では、複製を広範に禁止することによる外部不経済を著作者が内部化しないので、登録制度によって著作者にもコストを負担させるべきだという意見もある。また前にも紹介したように、包括ライセンスを導入せよという意見は著作者の側から出始めている。

いずれにせよ、現在の著作権制度が抜本的な見直しを必要としているという意見は専門家に多いが、ベルヌ条約などで国際的に決められているため、「よその国も権利を強化したのだから、横並びで強化することが『文化先進国』の証しだ」といった幼稚な議論が横行しているのが現実だ。三田誠広氏や松本零士氏のいう「遺族の生活」がどうとかいう話は論外である。著作権法は著作者のインセンティヴのための法律であって、遺族の生活保障のためのものではない。そもそも彼らは、どういう資格があって著者の代表のような顔をしているのか。Time誌もいうように、文芸家協会に所属する小説家だけが特権的な著作者であるような時代はとっくに終わったのである。

追記:このほど改正された著作権法について解説するホームページが、文化庁のサイトにできた。IP放送を放送とみなす当たり前の改正に2年もかかり、しかもローカル局の電波利権を守るために「放送対象地域」に限ってIP再送信を認める及び腰の内容だ。文化庁は「ベルヌ条約を踏み出す思い切った改正だ」と自画自賛しているが、そもそも「IP放送は放送ではない」などというバカげた定義をしていたのは日本だけだ。これは文化庁が「自動公衆送信」なる概念で通信と放送を差別した結果である。

追記2:「著作権は財産権である」というTBがついているが、ここで論じているのはこういう解釈論ではなく、著作権の経済的な性格が有体物の財産権とは違うということである。Richard Stallmanも指摘するように、知的財産権という言葉は、自然権として疑わしい特権(privilege)を不可侵の財産権と混同させるために捏造された幻想である。

ネットvs.リアルの衝突―誰がウェブ2.0を制するか

84227edd.jpg佐々木俊尚

文春新書

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本書の前半は、いま話題のWinnyに関する話だ。ほとんどは知られている話だが、1次情報に取材している点で信頼性が高い。特に著者が指摘するように、2ちゃんねるで、金子氏と目される「47」氏が
個人的な意見ですけど、P2P技術が出てきたことで著作権などの
従来の概念が既に崩れはじめている時代に突入しているのだと思います。

お上の圧力で規制するというのも一つの手ですが、技術的に可能であれば
誰かがこの壁に穴あけてしまって後ろに戻れなくなるはず。
最終的には崩れるだけで、将来的には今とは別の著作権の概念が
必要になると思います。
などと述べ、著作権で情報を守るビジネスモデルを崩壊させる目的で開発したと受け取れる発言をしている点は重要である。デジタル情報が自由にコピーできる時代に、それを警察力で禁止することによって辛うじて支えられているビジネスモデルは時代錯誤ではないか。かつてWWWがアンダーグラウンドで世界中に広がり、国家がそれを規制しようとしたときにはもう後戻りできなかったように、P2Pも「壁に穴」をあければ、あっという間に普及して後戻りできなくなるだろう――そう考えた彼のねらいは、少なくとも前半は正しかった。

しかし国家権力は、全力を挙げて後戻りさせようとした。それが今回の訴訟である。金子氏が(47氏だとすれば)自説の正当性を信じるなら、「著作権法は表現の自由を侵害する憲法違反の法律だ」と主張すべきだったのではないか(そういう学説もある)。ところが公判では、被告側は「47は金子氏ではない」と否定し、Winnyの公開の目的は「技術的検証」だったと主張した。これは訴訟戦術としてはやむをえなかったのかもしれないが、被告側の主張の説得力を弱めたといわざるをえない。

本書の後半は、インターネット・ガバナンスやiPodや日の丸検索エンジンなど脈絡のない話が出てきて、内容にも新味がない。それを「ネットvsリアルの衝突」というテーマでまとめたのも無理がある。問題はネットとリアルの対立ではなく、著作権のような工業社会の遺制が情報社会に持ち込まれて混乱を引き起こしていることである。それをリアルな世界一般の問題だと思い込むから議論が空回りし、最後は「Web2.0の覇権をグーグルが握るか政府が握るか」というナンセンスな話で終わってしまう。Winnyとオープンソースの話だけで「著作権」をテーマにして、200ページぐらいの本にまとめたほうがよかったと思う。

今年の本ベスト10

「週刊ダイヤモンド」で、もう7年も書評をやっている。おまけに、来年からは「アスキー・ドットPC」でも書評をやることになってしまった。池尾和人さんには「日本一の書評の達人」とほめてもらったが、うれしいようなうれしくないような・・・

というわけで、今年もなかば義務でたくさん本を読んだが、他人にすすめられるものは本当に少ない。今年このブログで紹介したものの中からリストアップしてみた。ただし私の専門的な興味に片寄っているので、あまり一般向けではない。
  1. コルナイ・ヤーノシュ自伝
  2. The Theory of Corporate Finance
  3. Institutions and the Path to the Modern Economy
  4. セイヴィング キャピタリズム
  5. ロングテール
  6. Microeconomics
  7. 行動経済学
  8. ヒルズ黙示録
  9. Who Controls the Internet?
  10. 開発主義の暴走と保身
1は20世紀の歴史を経済学の目で語った、文句なしの名作。2は、経済学の研究者には必読の企業理論のスタンダードだ。3は、日本社会のムラ的構造を考える役にも立つ。4は「市場原理主義」を攻撃する通俗的な議論が既得権の保護にしかならないことを歴史的に実証する。6は、学生にはおすすめできない非正統的なミクロ経済学の教科書。8は、その後の村上=ライブドア事件を予告するようなルポルタージュ。10の「開発主義」という言葉にはちょっと引っかかるが、当ブログでいう「集権的国家」の破綻を金融の側面から論じたもの。

こう並べてみると、日本人の書いた本が下位に3冊あるだけということに気づく。ここにあげた本は、みんな著者の訴えたいことが伝わってくるのだが、日本の専門書(特に経済学)は最近テクニカルになるばかりで、著者のメッセージがない。時代は大きな転換期にあるのに、それを社会科学が正面から受け止めていないのだ。『国家の品格』のような幼稚な間違いだらけの本(もちろん今年のワースト1)が200万部以上も売れるのは、日本人が国家について真剣に考えてこなかったおかげだろう。

Winny事件の社会的コスト

Winny事件の一審判決が出た。私は法律の専門家ではないので、判決の当否についてのコメントは控えるが、こういう司法判断がどういう経済的な結果をもたらすかについて少し考えてみたい。

今回の事件の特徴は、P2Pソフトウェアの開発者逮捕され、著作権(公衆送信権)侵害の幇助が有罪とされたことである。これは世界的にみても異例にきびしい。たとえばアメリカで起こったGrokster訴訟では、P2Pソフトを配布した企業の民事責任が問われただけで、刑事事件としては立件されていない。ドイツでは、P2Pソフトのユーザーが大量に刑事訴追されたが、開発者は訴えられていない。

日本の警察が、さほど凶悪犯罪ともいえない著作権法違反事件に、なぜこうも熱心なのかよくわからないが、その結果、日本では著作権にからむリスクがもっとも大きく、したがって萎縮効果も大きくなった。先日、話題になった検索サーバが日本に置けないという事態なども、警察が検索エンジンを摘発したわけではないが、そういうリスクを恐れる企業が自粛しているのだろう。

企業が違法行為かどうかを文化庁に問い合わせれば、官僚は「キャッシュを置くのは違法です」などと答えるだろう(法的根拠はないが)。普通の企業は、これに逆らって逮捕されるリスクを冒したりはしない。アメリカでは、企業が行政の判断に不服なら、行政訴訟を起こして司法の場で最終判断が出るが、日本ではお上にたてつく企業はない。だからGoogleやYouTubeのようなベンチャーは、日本にはあらわれないだろう。それでもYouTubeのように自分のリスクで起業したら、民事ではなく刑事で摘発されるおそれが強い。日本の刑事訴訟の有罪率は99%だから、これは犯罪者になるのとほぼ同義である。

この種の事件の社会的コストというのは、直接的な差し止めによる損失よりも、このように人々のインセンティヴをゆがめることによる機会損失のほうがはるかに大きい。JASRACなどは「Winnyによる著作権侵害の被害は100億円」という怪しげな推計を出しているが、Google1社の時価総額だけでも18兆円だ。日本は、昔のコンテンツを守る代償に新しい企業による富の創出を阻害し、莫大な損失をこうむっているのである。

著作権の侵害は目に見えるが、過剰規制の社会的コストを負うのはすべての消費者なので、被害はわかりにくく、文芸家協会のようなロビー団体もつかない。しかし当ブログで何度も書いているように、こうした行政中心の集権的国家システムが新しい分野への挑戦をはばみ、日本経済の停滞をもたらしているのだ。「日本になぜGoogleが生まれないのか」と嘆く官僚は、自分たちがその原因をつくっていることに気づくべきである。




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