2006年11月

英音楽産業が提案する「包括ライセンス」

TechCrunchで、Peter Jennerが批判されている。彼はピンク・フロイドやクラッシュなどを世に出した大物プロデューサーで、問題の発言はイギリスの音楽業界の著作権法改正への提案にそったものだ。その趣旨は「音楽産業は、このままでは絶滅する。DRMもP2Pで大量にコピーが流通している状況では役に立たないので、ISPや携帯キャリアなどに課金し、それをプールしてミュージシャンに比例配分しよう」というものだ。料金は、TechCrunchによれば、キャリアあたり1ヶ月4ユーロぐらいだという。

たしかに、この提案はかなりずさんで、TechCrunchが「音楽税」だと批判するのもわかるが、正確にいうとこれは税金ではなく、BBCのライセンス料のような私的契約である。しかもJennerの話の重点は、課金よりも包括ライセンス(blanket license)のほうにある(これは私が先日の記事で紹介した「強制ライセンス」と同じものだが、この名前はよくない)。これは1曲ごとに許諾するのをやめて流通は自由にし、大口ユーザーから定額の利用料を取る方式で、放送局では行われているが、それをインターネット配信にも拡大しようというわけだ。

おもしろいことに、音楽産業とは対極の立場にあるEFFが同じような提案をしている(彼らはVoluntary Collective Licensingと呼んでいる)。これは音楽産業がユーザーと集団的な契約を結んで、ひとり毎月5ドル徴収するものだ。アメリカでは、P2Pユーザーは訴訟の脅威にさらされているが、この契約を結ぶことによって訴訟からまぬがれるというわけだ。しかし音楽産業は、この提案に「定額料金は市場メカニズムの否定だ」と反対している。

最大の問題は、こうして集めた著作権料をミュージシャンにどう分配するかということだ。サンプリング調査をして、ダウンロードされた回数に応じて比例配分するということになっているが、そういうしくみは放送局でも機能したことがない。この点は、Jennerも「巨大なブラックボックス」ができるおそれがあることを認めているし、EFFも「透明性が重要だ」としかいっていない。日本では、これをJASRACがやるようでは、だれも信用しないだろう。

ただ重要なのは、音楽産業の側から許諾権をみずから放棄する提案が出てきたことだ。経済学的にいうと、著作権はコントロール権とキャッシュフロー権にわけられるが、ビジネスにとって重要なのは後者であって、前者は必要条件ではない。許諾権を放棄することによって多くのコンテンツが流通し、その結果多くのキャッシュが得られるならば、そのほうがビジネスとしては賢明だろう。この種の提案の最大の難点は、音楽産業が乗ってこないことだったが、P2Pが彼らを追い込んだ結果、状況が変わってきたわけだ。EFFのようなユーザー側からの提案との接点はあると思う。

追記:同様の提案は、ハーバード大学のバークマン・センターが以前から行っており、William Fisherの本にまとめられている。しかし、これは文字どおり政府が「音楽税」をとるもので、賛同者は少ない。

憂鬱な科学

経済学が"dismal science"と呼ばれることはよく知られているが、その意味はあまり知られていない。普通これは、トマス・カーライルがマルサスの『人口論』を批判した言葉だと思われているが、実はカーライルの著作にそういう言及はない。彼がこの言葉を使ったのは、1849年の奴隷制に関する評論である。彼はそこで「この世界の秘密は需要と供給にあるとし、支配者の義務を個人の選択に帰着させる社会科学」をdismal science(つまらない学問)と呼んでいる。当世風にいえば「労働力を供給するには市場原理主義にまかせていてはだめで、(奴隷制のような)規制が必要だ」といっているわけだ。

憂鬱になるのは、カーライルから160年たっても、同じような「経済学批判」が繰り返されていることだ。もちろん今では奴隷制を擁護する人はいないが、市場よりも国家の力を信じる人は多い。そういう人々がいうのは、「経済学は非現実的で、役に立たない」ということだ。たしかに経済学は、実証科学といえるかどうか疑わしい。たとえば新古典派経済学のコアである一般均衡理論の主要な結論(均衡の存在や一意性など)は完全競争や完全情報などの強い条件に依存しているが、そんな状況はどこにも存在しないから、自然科学の基準でいえば、新古典派理論は棄却されてしまうのである。

70年代には、こういう限界を突破しようとして、「ラディカルエコノミックス」とか「ソシオエコノミックス」などというのが試みられたが、すべて失敗に終わった。経済学が他の社会科学に比べて見映えするのは、人間の行動を条件つき最大化問題に単純化することによって、古典力学の体系をそっくりまねることができるからであって、「学際的」に風呂敷を広げると、曖昧な「お話」になって収拾がつかなくなってしまうのである。そういう失敗の残党は、西部邁氏を初めとして、みんな国家の市場への介入を求める自称保守主義者になった。

80年代以降の経済学でもっとも成功したのは、むしろ人間の行動を徹底的な合理主義で記述するゲーム理論だった。それを応用した契約理論も、企業理論や金融理論に大きな前進をもたらした。かつて社会学的にしか語られなかった「制度」の問題を、合理的に分析するツールができてきたのである。これもよくできたお話にすぎないが、仮定が明確なので、どういう場合に成り立つのかという限界がはっきりしているだけ、政治学や社会学のお話よりもましだ。

これに対して、「市場原理主義」を批判する人々のふりかざすお話はお粗末だ。たとえば金子勝氏は単に経済学を知らないだけだし、佐和隆光氏は「収穫逓増」の概念さえ理解していない。しかし世の中的には、彼らの「グローバリズムが格差を拡大した」という類のお話のほうが受けてしまう。経済学は、実証的なチェックを欠いたまま数学的な(見かけ上の)厳密性を高めてきた結果、現実との距離が広がりすぎて、市場以外の複雑な問題について何もいえないからだ。

このように経済学は、いまだにdismal scienceの域を脱することができない。それが世の中に認知してもらうために必要なのは、数学的なお話のテクニックを競うことではなく、複雑な現象を合理的に説明する実証的な分析用具を開発することだろう。物理学の理論には、自然界の真理を解明するという本質的な意味があるが、経済学は現状分析や政策決定のための応用科学にすぎないので、理論的な「美学」を追求するのはナンセンスである。

イスラーム帝国のジハード

小杉 泰

講談社

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イスラムというのは、わかりにくい。キリスト教の場合には、多かれ少なかれ日本人もキリスト教的な文化にふれているので、なんとなくわかった気になるが、イスラムについては、その文化的背景がまったく異質なので、あの特殊な教義がなぜこれほど広範な地域に普及したのか、よくわからなかった。しかし本書で、それがやっと少しはわかったような気がする。

イスラムがわからない一つの原因は、それをキリスト教と同じような「宗教」と考えるからだろう。実際には、それは宗教であると同時に法であり、イランの指導者ホメイニやハメネイも法学者である。イスラムが世界に広がったのは、それが宗教として深遠だったからでも現世利益があったからでもなく、この宗教=法による結束の強さが軍事的にきわめて強力であり、征服によって多くの民族をその版図に入れたからである。

戦争にとってもっとも重要なのは、著者も指摘するように「共同体のために命をかけて戦えるかどうか」である。合理的に考えれば、自分が死んでしまえば共同体がいかに栄えても意味がないので、戦争に参加するには何らかの意味での狂気が必要である。国家というのは、そうした狂気を生み出す「戦争機械」であり、もっとも強力な狂気を生み出した国家が栄える。イスラムは、人々を政治的=宗教的に「垂直統合」することによって兵士の強いコミットメントを実現したのである。

戦争に勝つもう一つの要因は、国家の規模である。戦闘では多くの軍勢を動員したものが勝つので、伝統的な村落や都市国家は軍事的には弱い。イスラムは、その普遍主義的な教義によって部族の枠を超えた帝国を実現し、他の民族を征服した。しかし、こうした宗教的統合に依存した垂直統合型の帝国は、大きくなりすぎると求心力が弱まる。末期のオスマン帝国は、宗教も言語もバラバラだった。

イスラムが衰退したのは、それよりも強力な戦争機械である西欧の主権国家に敗北したからである。主権国家は、イスラムと違って世俗的な政治・経済システムをキリスト教と「水平分離」して科学技術を発展させ、強力な武器を開発した。その兵士を駆り立てるのは、宗教に依存しない「愛国心」という狂気である。それを「郷土や伝統を愛する心」などと言い換えるのは偽善であり、愛国心は「国家のために命をかける心」にほかならない。よくも悪くも、こうした狂気の強さが国際秩序を決めているのである。

Milton Friedman

ミルトン・フリードマンが死去した。NYタイムズWSJだけでなく、日本の新聞まで1面で報じている。経済学者の死がこれほど大きなニュースになることは、おそらく空前絶後だろう。

私の学生時代(1970年代)には、日本の大学ではまだフリードマンは極右の特殊な学者という位置づけで、宇沢弘文氏などは口をきわめて批判していた(*)。しかしケインズ派とシカゴ派の論争は、理論的にも実証的にも70年代にほぼ決着し、80年代にはシカゴ派よりもさらに過激な「新しい古典派」が学問的には主流になった。ところが東大では、宇沢氏が「合理的期待一派は水際で阻止する」と公言して、そういう研究者を東大に帰さなかったため、日本ではケインズ派がながく生き残り、90年代には巨額の「景気対策」が行われた。

現実の政治でも、80年代にはサッチャー首相やレーガン大統領がフリードマンの理論を政策として実行したが、日本ではその理論さえ知られなかった。日本で「新自由主義」的な政策を提案したのは、小沢一郎氏である。1993年に細川政権が誕生したときは、日本でも10年遅れで改革が始まるかと思われたが、非自民連立政権は1年足らずで倒れ、自社さ連立という奇怪な政権ができたため、政策の対立軸が混乱した。小沢氏が『日本改造計画』で構想した改革は、小泉政権でやられてしまい、今度は小沢氏が社民的な「格差是正」を訴えるという奇妙な役回りになっている。

しかし、これは偽の争点である。日本では、英米で行われたような改革は、ほとんど行われていない。郵政や道路公団の民営化は、改革の名には値しない。政府の役割を洗い直して「福祉国家」を卒業することは、先進国が一度は通らなければならないステップだが、それを中途半端に終えたまま、自民党は昔の姿に戻ろうとしている。いま民主党は来年の参院選むけマニフェストを作成しているようだが、対立軸として打ち出すべきなのは90年代の小沢氏の原則である。

40年前の『資本主義と自由』を読み返すと、そこでフリードマンが提案している政策が、今でも新しいことに驚く。変動相場制は、この本で提案されたときはほとんど笑い話だった。公的年金の廃止は年金改革のなかで論じられ、法人税の廃止はブッシュ政権の政策として提案された。負の所得税は、アメリカでは勤労所得控除として部分的に導入されはじめた。教育バウチャーは、ようやく安倍政権で検討が始まっている・・・こう列挙すると、彼の提案はほとんど未来的である。

日本は市場志向の改革の洗礼も受けていないのに「市場原理主義」を罵倒する自称エコノミストがいるが、そういう人々にはフリードマンの本を読んでほしいものだ。『選択の自由』は、内容的には『資本主義と自由』の二番煎じだが、文庫で出ているので、この機会に一読をおすすめする。

(*)宇沢氏がいつも言っている「フリードマンがポンドの空売りを試みたので、フランク・ナイトが彼を破門した」というゴシップは嘘であることを田中秀臣氏が検証している。

同和のタブー

5年間にわたって「長期休暇」をとっていた奈良市の元職員が、職務強要の容疑で逮捕された。この事件の本質は、問題の男が部落解放同盟の支部長だったという点につきる。一方、同和事業をめぐる不祥事があいつぐ大阪市では、関市長が「(部落を)特別扱いはしない。過去のやり方とは決別する」として同和事業の大幅な整理を打ち出した。この種の事件を黙殺してきたメディアも、この問題を取り上げるようになった。ようやく同和のタブーが破られはじめたのだろうか。

関東に住む人には、なぜ解放同盟がそんなに強いのか想像できないかもしれないが、関西に住む人にはたいてい何か思い当たる経験があるだろう。私の出身は京都で、高校の学区の中には日本最大の被差別部落があったので、校内で解放同盟と対立組織の乱闘が起こったり、教師が生徒の面前で「糾弾」されるなどの事件は珍しくなかった。

メディアの差別語を作り出した責任も、解放同盟にある。あるときNHKのニュース解説で「片手落ち」という言葉を使ったのはけしからん、と部落解放同盟の地方支部の書記長がNHKに抗議にやってきた。協議の結果、この言葉は放送で使わないことに決まった。ところが、この年の大河ドラマが忠臣蔵で、赤穂浪士が集まって「吉良上野介はお咎めなしで大石内蔵助だけを切腹させるのは片手落ちだ」と言う有名なシーンがあった。そのときすでに収録は終わっていたが、撮りなおすことになり、「片落ち」という言葉で代用した。ドラマでは、浪士が次々に立ち上がって「片落ちでござる」と訴える珍妙なシーンが放送された。

関西で起こる大型の経済事件には、たいてい同和か在日がからんでいる。最近で有名なのはハンナンの浅田満元会長で、彼は解放同盟の地方副支部長だった。イトマン事件の主犯だった許永中も、同和対策事業に食い込んだことが裏社会でのし上がるきっかけだった。そしてこうした事件には、組織暴力がからんでいる。かつて山口組の構成員の7割は被差別民だといわれた。

しかし差別によって正業につけない人々が、こういうやり方で生活を支えようとしたのは、ある意味では自衛手段だった。問題は、それに対決することを避け、金でごまかしてきた役所の事なかれ主義である。2002年に「部落問題は基本的に解決した」として国の同和対策事業が打ち切られた後も、自治体では同和利権が存続し、奈良のように解放同盟が土木事業などを仕切ってきた。これは解放同盟が組織を維持するために差別語キャンペーンのような形で新たな問題を作り出し、行政がそれに迎合してきたからだ。しかし解放同盟の政治力の源泉だった社民党が凋落した今、同和事業の見直しは不可避である。

メディアも、この問題から逃げてきた。ほとんど解放同盟のいいなりに差別語が追加され、「カトンボ」や「四つ足」(いずれも一部の地域で部落民を示す隠語)まで放送禁止になった。「片手落ち」や「足切り」のみならず、最近では「身体にかかわる比喩はすべて禁止」という状態だ。このタブーを見直すと同時に、同和利権の実態を明らかにすることが彼らの責任だろう。

追記:NHKは、就職差別で有名だった。私が就職したころも身元調査をしており、実家の近所の家まで興信所が行って、奥さんが驚いていた(今は禁止)。人事担当者は「NHK職員には部落出身者はひとりもいない」と誇らしげに語っていた。メディアの側にもこういうやましいことがあるから、解放同盟に対決できないのだ。

ヒルズ黙示録・最終章

大鹿靖明

朝日新書

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村上=ライブドア事件の捜査にも影響を与えたといわれる『ヒルズ黙示録』の続編。冒頭で、ライブドアがソニーの買収を考えていたことを明らかにして驚かせるが、本書の最大の価値は、堀江・村上被告などの公判をフォローして事件と捜査の全容を明らかにしたことだろう。

公判の過程でもっとも驚いたのは、宮内亮治・中村長也被告が1億5000万円あまりを横領していたという疑惑だ。弁護側も指摘するように、検察がこれを隠すことと引き換えに彼らに検察の「堀江主導」説に沿った供述をさせていた疑いは強い。一種の「司法取引」といえばいえなくもないが、横領や特別背任は証取法違反よりも重い犯罪であり、これは本末転倒の取引である。

しかし被告側の戦いも拙劣だ。特に「逮捕前会見」でインサイダー取引の容疑を進んで認めた村上被告が、逮捕されてから無罪を主張しはじめたのは支離滅裂で、彼が「プロ中のプロ」ではないことを露呈してしまった。ライブドアの被告も分裂しており、このままでは堀江被告の完全無罪はむずかしいだろうと著者は予測する。

著者がもっとも強く批判するのは、「初めに筋書きありき」の杜撰な見込み捜査で事件を作り出した検察である。日本経済をだめにした銀行の兆単位の粉飾には目をつむり、それに挑戦するベンチャー企業の数十億円の粉飾を大々的に摘発する検察は、既得権の用心棒だといわれてもしょうがない。今回の事件の根幹にあるのは、派手な事件の摘発で地盤沈下を食い止めようとする検察首脳と、それに迎合した東京地検の大鶴特捜部長の出世主義だという見立ては辛辣だが、私も同感だ。

踊る恐竜

WSJによれば、VerizonがYouTubeと提携して、携帯電話やテレビでクリップを配信するという。Verizonといっても日本ではなじみがないが、AT&Tが分割されてできた地域電話会社(ILEC)が合併をくり返してできた社員21万人の巨大企業である。だからこのニュースは、日本でいえばNTT東日本が2ちゃんねると提携するような、ちょっと考えられない組み合わせだ。

この記事が出た7日、ちょうど私はワシントンでVerizonのエコノミストと話していて、このニュースを彼から聞いた。私が「YouTubeは訴訟まみれになるのではないか?」と質問すると、彼は「RIAAと当社の(P2Pをめぐる)訴訟を覚えているかい?あのころ音楽・映画業界とわれわれは敵同士で、ディズニーの首脳が『Verizonはナチだ』と発言したんだよ」と笑った。「そのディズニーが今や当社の最大のパートナーだ。問題は訴訟ではなく、ビジネスなんだよ。訴訟を起こすのは弁護士ではなく顧客なんだから」。

VerizonはFiOS TVという光ファイバーの映像配信サービスを去年から始めたが、この業界では全米の視聴者の8割がケーブルテレビを見ており、ILECは挑戦者だ。ケーブルと同じ番組を流してもだめなので、ビデオ・オンデマンドやダウンロードなどのメニューを用意して、ロングテールの部分にコンテンツを広げようとしている。YouTubeは、そういうILECのねらいに合致したのだ。そしてハリウッドも、ケーブルより高画質で多くのチャンネルの流せる光ファイバーに商機を見出している。

「しかしYouTubeはハリウッドの敵になるのでは?」と聞くと、彼は「いや違う。ハリウッドにとって大事なのは、作品であってパイプではない。プロデューサーの評価は、一つの作品からいかに多くの収益を上げるかで決まるので、パイプはいくらあっても足りないのだ」という。「ケーブルはたかだか300チャンネルしかないが、インターネットには無限のチャンネルがある。ハリウッドはネットを選ぶだろう。彼らは強欲すぎてYouTubeを殺すことができないのだ(They are too greedy to kill YouTube)」。彼は具体的には語らなかったが、「コンテンツの送り手が合意すれば、著作権なんて障害ではない」と、ILECとハリウッドの間でP2Pのときのような「取引」が進行していることをにおわせた。

「通信と放送の融合」といえば、日本では地デジのIP再送信を認めるとか認めないとか石器時代みたいな話をしているが、アメリカでは「滅びゆく恐竜」とバカにされていたILECが、すっかりネット企業に変身しているのには驚いた。「象が踊れないと誰がいったのか」というのは、IBMを倒産の危機から救ったルイス・ガースナーの回顧録の原題だが、株式市場からプレッシャーをかけられると、恐竜も踊り始めるのがアメリカ資本主義のおもしろいところだ。

河野談話は見直しが必要だ

安倍首相は、「侵略戦争」を認めた1995年の村山首相談話や「慰安婦」について謝罪した93年の河野官房長官談話を認めるなど軌道修正が目立ち、「自虐史観」を批判する支持者から批判を浴びている。他方、下村官房副長官が河野談話について「事実関係を研究し、客観的に科学的な知識を収集して考えるべきではないか」とのべたことが野党の反発を呼んでいる。しかし、これは靖国参拝のような「心の問題」でなはく、検証可能な歴史的事実の問題であり、政治的配慮で封印するのはおかしい。

私は、かつて慰安婦騒ぎがつくられた現場に立ち会ったことがある。1991年にNHKの終戦関連企画で、私は強制連行をテーマに、同僚は慰安婦をテーマに取材した。韓国で数十人の強制連行経験者に取材したが、軍が連行したという証言は得られなかった。強制連行とよばれるものの実態は、朝鮮半島で食い詰めた人々が高給にだまされて日本の炭鉱や軍需工場に出稼ぎに行き、ひどい条件で労働させられて逃げられなかったという「タコ部屋」の話にすぎない。慰安婦も、売春でもうけようとする民間の業者が、貧しい農村の女性をだまして戦地に連れて行った公娼であり、「従軍慰安婦」という言葉も当時は使われなかった。

河野談話のいうように「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多く」あり、軍がそれに関与したことは事実だが、公権力で徴用した事実はない。談話でも「官憲等が直接これに加担した」という表現にとどめている。実をいうと、私も当初は軍の強制の証拠をさがしたのだが見つからなかったので、戦争ものとしてはインパクトの弱い番組になってしまった。ところが、ほぼ同時に放送された慰安婦のほうは「私は慰安婦だった」と韓国女性が証言し、その後、日本政府を相手どって訴訟まで起こしたため、国際的にも大きな反響を呼び、政府が謝罪するに至った。

私は、最初からこの「証言」には疑問をもっていた。証言者を連れてくるところから話の中身まで福島瑞穂弁護士がお膳立てし、彼女の売名に利用されている印象が強かったからだ(のちに彼女は社民党から出馬して参議院議員になった)。実際には、元慰安婦の証言以外には、軍が連行したという証拠は当時も今もない。しかし史実に忠実につくった私の番組よりも、センセーショナルに慰安婦問題を暴いた同僚の番組のほうが「おもしろかった」ため、話が次第に一人歩きし、演出が事実になってしまったのである。

河野談話の根拠とされたのは、「軍が済州島で慰安婦狩りを行った」と証言する吉田清治氏の『私の戦争犯罪』(三一書房)という本だが、この内容は捏造であることが後に判明した。これについて、安倍氏は97年に「河野談話は前提が崩れている」と国会で質問し、その見直しを迫った。これと首相答弁の矛盾を追及されると、彼は「狭義の強制には疑問があるが、その後広義の強制に議論が変わった」と苦しい答弁をしているが、公権力を執行していないのに政府が謝罪するのは無原則である。これは安倍氏の政治家としての矜持にかかわる問題だ。

事実関係に疑問があるのに、閣議決定を継承するという手続き論で「科学的な知識の収集」も許さないのはおかしい。もちろん韓国と友好的な関係を結ぶことは重要だが、誤った歴史認識のもとで一方的に謝罪しても、真の友好関係は築けない。日本軍がアジアで行った侵略行為について政府が謝罪するのは当然だが、事実でないことはそう指摘するのが、成熟した日韓関係の基礎だろう。中韓の反日教育の実態もひどい。靖国という「非問題」がようやく後景に去った今、日中韓が率直に対話して、客観的に歴史を検証する必要があるのではないか。

携帯電話の悪魔的ビジネスモデル

一昨日の「プリンタのカートリッジはなぜ高いのか」という記事には、「携帯電話こそ悪魔的だ」というコメントがたくさん寄せられた。もちろんその通りだが、いわずもがななので少ししかふれなかった。ただ最近のソフトバンクをめぐる不当表示騒動について、いささか疑問を感じたので、少し補足しておく。

ソフトバンクの「0円キャンペーン」に不当表示の疑いがあることは確かだが、それを他社が非難できるのか。ドコモやKDDIの端末も「0円」と表示して売っているし、料金体系が複雑でわかりにくいのも似たようなものだ。もちろん消費者の負担はゼロではなく、端末価格の割引分は販売店へのインセンティブとしてキャリアが負担し、それを月々の通話料金に転嫁しているのである。

このしくみが消費者側からみて問題なのは、第一に端末の価格が本来よりも安く見せかけられ、しかも通話料金への上乗せはどの機種でも同じだから、過剰機能の端末が売れる傾向が強いことだ。その結果、キャリアの負担が大きくなって、結局は料金が高くなるのである。

第二に、長期間使う消費者ほど損することだ。端末1個あたりのインセンティブは平均4万円ぐらいだといわれるが、これは料金に上乗せして1年半ぐらいで回収される。その後は、ユーザーは高い料金だけを負担することになり、それが他の端末のインセンティブの財源になる。いいかえれば、長期ユーザーから短期ユーザーへの所得移転が数千億円規模で行われているのである。

実はキャリアにとっても、販売費用は大きな負担になっている。特に最近、彼らが困っているのは、デジタルカメラを買う代わりにカメラ付携帯を安く買ってすぐ解約する新規即解約という現象が広がっていることだ。これだとインセンティブは無駄になるばかりか、こういう「ただ乗り」を奨励する結果になる。そもそも端末の割引は、新規ユーザーには意味があっても、買い替えユーザーには必要ないのに、買い替えにも漫然と適用されている。

ベンダーも、キャリアが開発から流通まで支配するしくみには不満をもっている。前の記事のコメントにも書いたが、日本の携帯端末に国際競争力がないひとつの原因は、端末メーカーがキャリアの「下請け」になっているため、最終財市場の国際競争が働かないことだ。キャリアの側もコスト意識がないから過剰品質を求め、1端末に100億円といった異常な開発費がつぎこまれ、世界に通用しない超高機能・高価格の端末ばかり開発される。

これに比べれば、ソフトバンクが「新スーパーボーナス」で打ち出した割賦販売のほうが透明性が高い。これは端末の正規の価格を表示し、月々の分割払い分を通話料金から返済するものだ(*)。初期負担を「0円」にする点は従来と同じだが、端末の種類によって返済額が違う。さらに重要な違いは、端末を販売店が値引きするのではなく、分割払い分をソフトバンクモバイルが負担することだ。これなら販売店にインセンティブを出す必要はない。

割賦販売に移行したら、SIMロックもやめるべきだ。27ヶ月以内に端末を変更すると、割賦販売の残額を支払わなければならないのだから、端末を物理的に拘束する必要はない。むしろ積極的にSIMカードをアンバンドルして海外の端末が使えるようにすれば、ラインナップも一挙に増える。ソフトバンクの最終兵器は、こうした「流通革命」をしかけることだろう。それは消費者にとっても歓迎すべきことだ。

(*)いうまでもなく、この返済分を差し引く前の料金が端末価格を織り込んでいるので、「ソフトバンクが端末価格を負担する」ように見えるのもトリックである。

プリンタのカートリッジはなぜ高いのか

セイコーエプソンが、プリンタの再生インクカートリッジが特許を侵害しているとして、再生カートリッジのメーカーに販売差し止めを求めた訴訟で、東京地裁は10月18日、エプソンの請求を棄却した。同様の訴訟では、今年2月にキャノンが知財高裁で勝訴し、再生カートリッジメーカーが上告している。

争点は、再生カートリッジが特許を侵害しているかどうかだ。キャノンの場合には、1審ではカートリッジにインクを詰めるのは「修理」だから特許権の侵害にはあたらないとし、2審ではカートリッジを洗浄して充填しているので「再生産」だとした。エプソンの場合には、特許そのものが特許庁で無効とされたため、特許侵害はないとされた。エプソンは、同様の訴訟を全世界で再生カートリッジメーカー27社を相手に起こしている。

この問題は法的には係争中であり、判例もわかれているが、経済学的に重要なのは、これはサラ金と同じく近視眼バイアスを利用した「悪魔的ビジネスモデル」だということである。上にリンクを張ったForbesの記事の例では、エプソンの純正カートリッジは30ドルなのに、再生品は5ドルだ。1ヶ月に2回インクを換えるとすると、差額は1年で600ドル。中級のプリンタが1台買える値段である。

要するに、プリンタを安く見せかけてカートリッジで利益を上げているのだ。やろうと思えば、携帯電話のようにプリンタを0円で売ることもできる。再生品が出てくると、この悪魔的なトリックが台なしになるから、メーカーは特許を盾にとって再生品をつぶそうとするのである。もちろん、こういうビジネスは悪魔的ではあっても(サラ金と同様)違法ではない。しかし、サラ金は「知的財産権」を振り回したりはしない。

プリンタメーカーは「再生カートリッジがあると開発投資が回収できない」と主張するが、プリンタの開発投資はプリンタの価格に転嫁すべきである。それをカートリッジに転嫁するのは一種の不当表示であり、再生品が出てくるのは、そういう価格の歪みの当然の帰結だ。プリンタメーカーが純正カートリッジに正しい(限界費用に等しい)価格をつければ、再生品と競争できる。もちろんプリンタ本体は、開発コストを乗せた(今より高い)価格で売ればよいのである。

エプソンのカートリッジは、高いことで有名だ。全世界で訴訟を起こすのは、それを宣伝しているようなものである。裁判所が競争を促進する(うえに環境保護にもなる)再生カートリッジを違法とするのは、競争政策に反する。むしろプリンタの価格には必ずカートリッジの価格を付記させるなど、情報開示を徹底させる必要があるのではないか。

追記:エプソンのカートリッジについては、インクが残っているのに「空になった」という表示が出て印刷できなくなるという設計上の問題が指摘されている。アメリカでは、これについて集団訴訟が起こされ、エプソンが消費者ひとり45ドルを支払うことで和解した。




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