2006年10月

ムーアの法則による創造的破壊

従来の経済学は稀少な資源の効率的な配分を考える学問だが、ムーアの法則によって計算・記憶能力が事実上「自由財」になったので、こうした過剰な資源をどう利用するかを考える経済学が必要である。これは、もとはジョージ・ギルダーが『テレコズム』でのべたことである。

過剰の経済学

彼は「豊かな資源を浪費して不足するものを節約する」という経済原則にもとづいて、トランジスタを浪費する(Carver Mead)ことがマイクロコズム(コンピュータ世界)の鉄則であり、帯域が毎年倍増するという「ギルダーの法則」によって、帯域を浪費することがテレコズム(通信世界)の鉄則だと主張した。

この預言を信じて、ノーテルやルーセントは光ファイバーに巨額の投資を行い、JDSユニフェーズの株価は天文学的な額になったが、テレコズムの楽園は実現しなかった。「最後の1マイル」という稀少性が解決しなかったからである。だから残念ながら、いまだに経済学は正しいのだ。すべての資源が自由財になることがありえない以上、ある資源が過剰になれば、必ず別の資源が相対的に稀少なボトルネックになるから、重要なのは過剰な資源ではなくボトルネックなのである。

ムーアの法則でコンピュータの情報処理能力が自由財に近づいているというのは正しいが、問題はそれによって何がボトルネックになるかである。ハーバート・サイモン(1971)の有名な言葉を引用すると、
情報の豊かさは、それがそれが消費するものの稀少性を意味する。情報が消費するものは、かなり明白である。それは情報を受け取る人の関心を消費するのである。したがって情報の豊かさは関心の稀少性を作り出し、それを消費する膨大な情報源に対して関心を効率的に配分する必要が生じる。

資本主義の前提は、資本が稀少で労働は過剰だということだ。工場を建てて多くの労働者を集める資金をもっているのは限られた資本家だから、資本の稀少性の価格として利潤が生まれる。これは普通の製造業では今も正しいが、情報の生産については状況は劇的に変わった。ムーアの法則によって、1960年代から今日までに計算能力の価格は1億分の1になったからである。

これは建設に100億円かかった工場が100円で建てられるようになるということだから、こうなると工場に労働者を集めるよりも、労働者が各自で「工場」を持って生産する方式が効率的になる。それが現実に起こったことである。メインフレーム時代には、稀少な計算機資源を割り当てるため、ユーザーはバッチカードを持ってコンピュータの利用時間を待ったが、PCの登場によってボトルネックはユーザーになった。ここでは逆に、ユーザーの稀少な時間を効率的に配分するため、コンピュータは各人に所有され、その大部分は遊んでいる。

つまり情報生産においては、資本主義の法則が逆転し、個人の関心(時間コスト)を効率的に配分するテクノロジーがもっとも重要になったのである。だからユーザーが情報を検索する時間を節約するグーグルが、その中心に位置することは偶然ではない。資本主義社会では、稀少な物的資源を利用する権利(財産権)に価格がつくが、情報社会では膨大な情報の中から特定の情報に稀少な関心を引きつける権利(ネット広告)に価格がつく。

20世紀の大衆消費社会では、こういう関心の配分は大して重要な問題ではなかった。規格化された商品を大量生産・大量消費するには、マスメディアで一律の情報を一方的に流せばよかったからだ。しかしロングテール現象が示すように、人々の真の選好は想像されていた以上に多様で変わりやすく、そこから利益を得る技術はまだほとんど開発されていない。マーケティングというのは、ハイテクとは無縁のドブ板営業だと思われてきたが、これを合理化することが今後のITのフロンティアの一つになろう。続きを読む

悪魔的ビジネスモデル

下流喰い―消費者金融の実態

須田慎一郎

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本書で描かれる、サラ金の「悪魔的ビジネスモデル」はおもしろい(といっては怒られるかもしれないが)。住宅ローンでは長期的な返済計画を立てて元利を返済するが、サラ金は短期資金なので、そういう計画を立てない。貸金業者も「利子さえ入れてもらえばいいですよ」といい、完済の期限を示さない。これは一見、債務者に「やさしい」商売に見える。100万円借りた場合、出資法の上限金利29%でも、月々の金利は2.4万円でよい。それも滞ったら、「**さんで借りて返してくださいよ」と他の貸金業者を紹介する。その金利も返せなくなったら・・・という繰り返しで、気づいたら莫大な借金を抱えてしまうのである。元金を返さないで、いつまでも「ベタ貸し」できる債務者が上客なのだという。

このトリックのポイントは、元金というストックの大きさを隠し、金利というフローだけを見せるところにある。行動経済学的にいえば、近視眼バイアスをうまく利用しているわけだが、ストックとフローの関係を混乱させて消費者を欺く悪魔的ビジネスモデルは、サラ金だけではない。携帯電話の端末が0円で買えるのは、その価格(ストック)が通話料(フロー)に上乗せされるからだし、ゲーム機の価格が安いのもゲームソフトのライセンス料で回収するからだ。プリンタは安いがインクカートリッジが高いとか、エレベーターは安いが修理費用が高いなど、ストックの価格をフローに分散して安く見せかけるトリックは多い。

このように消費者のバイアスにつけこむビジネスは、一種の不公正競争である(エレベーターの場合は公取委が排除勧告を出した)。規制が必要なのは金利ではなく、このトリックだろう。上限金利を引き下げると、高リスクの(バイアスの大きい)債務者が借りられなくなるという効果はあるが、悪魔的ビジネスモデルがある限り、被害は根絶できない。たとえば元利の返済計画を義務づけるとか、多重債務を制限するなど、バイアスを中立化する規制が必要ではないか。

追記:この問題について、大竹文雄氏のブログで、大竹氏と池尾和人氏(金融庁の懇談会の委員)が議論している。大竹氏のいう「双曲割引」というのは近視眼バイアスの一種で、池尾氏のいう「プレディター」というのは消費者の無知につけこむビジネスという意味だから、事実認識は両者ともこの記事とあまり違いはない。ただ大竹氏が上限金利の引き下げに批判的であるのに対して、池尾氏は引き下げれば債務者が早めに資金的に行き詰まって歯止めになると考えているようだ。

1段階論理の正義

貸金業規正法の改正案がさらに手直しされ、特例措置の高金利を廃止して、消費者信用団体生命保険を借り手にかけることも禁じる方針が与党で決まった。前者については、当ブログでも何度か書いたので、ここでは後者について考えてみよう。

この保険は、債務者の生命保険でサラ金を返済させるもので、「人の命を担保にとるのは非人道的だ」という批判を浴びて、業界では自粛していた。今回の規制では、これを法律でも禁止するようだ。これは一見、債務者を自殺に追い込んで借金を取り立てるサラ金の悪逆非道な行為を防止する人道的な規制のようにみえる。

しかし問題はまず、そういうことが起こっているのかどうかということだ。金融庁の調査によれば、この保険の総受取件数のうち、自殺を原因とする受取件数は9.4%。これは死亡原因(20~69歳)のうち自殺の占める率9.04%とほぼ同じである。つまり、この保険に入ることによって自殺が増えるという因果関係は見られない。

第二に、加入をやめると何が起こるのか。この保険は貸金業者がかけるので、廃止しても債務者の負担は減らない一方、遺族には債務が残る。生命保険で返済されないと、遺族は借りてもいない借金を返さなければならない。このような「団信」と呼ばれる生命保険は、住宅ローンなどにもあるもので、債務者が死んだ場合に債権者にとっても遺族にとっても必要なリスク管理である。それを法律で禁止したら、相続した債務によって自殺する遺族が増えるだろう。

このように「命を担保に取るのは許せない→保険をやめさせる」といった1段階論理の正義による規制が、日本の法律には多い。たとえば

1.店子が追い出されるのはかわいそうだ→店子を追い出せないようにする(借地借家法)
2.労働者が解雇されるのはかわいそうだ→解雇制限を厳重にする(労働基準法)

という規制は、一見、弱者を守っているように見える。しかし2段階目を考えてみると、この規制に家主や経営者が合理的に対応すれば、

1.→家を貸すのをやめる→借家の供給が減る→家賃が上がる
2.→正社員を減らし契約社員や派遣社員にする→非正規雇用が増える

という結果になり、結局は弱者が困るのである。自分の行動に対して、相手がどう対応するかを予想して行動することを戦略的行動とよぶ。ゲーム理論は戦略的行動の理論だが、法律家にはこういう2段階の推論さえできない人が多い。この原因は、法律ではすべての段階で「正義」が「合理性」よりも優先されるためだと思われる。近視眼的な正義が、結果的には大きな社会的不正義を生んでいることに気づくべきだ。

State of Denial

Bob Woodward

Simon & Schuster

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ご存じウッドワードのブッシュ政権3部作(?)の3冊目。当然ベストセラーの第1位を独走しているが、内容的には前作と重複が多く、あまり新味はない。日本人には大して興味のないホワイトハウスの楽屋話が多く、560ページは冗漫だ。扱っている時期は、最初の『ブッシュの戦争』と2冊目の『攻撃計画』を合わせたもので、ブッシュの選挙前の1997年から始まるが、最初の本では彼を持ち上げていたのに、本書では当初から無能な大統領だったという扱いになっている。

本書の主人公は、ブッシュというよりラムズフェルド国防長官である。彼がいかに傲慢で、部下にきらわれているかというディテールが繰り返し描かれる。彼は米軍がイラク国民に「解放者」として歓迎されると信じており、戦争終結後の占領統治については、何も考えていなかった。諜報部門から「大量破壊兵器は見つからない」という報告が上がっても、彼はそれを無視し、自分に反対する者を次々に国防総省から追放する。結局、彼に反対する者はいなくなり、政権全体が「裸の王様」になる。

これはベトナム戦争を描いたハルバースタムの古典『ベスト&ブライテスト』を思わせる。当時の主人公はマクナマラだが、彼は後年、回顧録で「ベトナム戦争は誤りだった」と総括する。著者がラムズフェルドへのインタビューで、マクナマラの「最高司令官は生命の犠牲をともなう過ちをおかすものだ」という言葉をどう思うかと質問すると、なんとラムズフェルドは「私は最高司令官ではない」と答える。

失敗の原因も、ベトナム戦争とよく似ている。戦争の指導者は、自分の望む情報を聞きたがるものだ。ベトナム戦争でも、現地から上がってくる勝利に次ぐ勝利の報告をワシントンは信じ、ベトコンの能力を過小評価して戦力を逐次投入した。またテクノロジーを過大評価して、味方の犠牲なしに敵を殲滅する「きれいな戦争」が可能だと信じる(ラムズフェルドのRMA)のも似ている。実際には、民間人と敵の区別もつかないゲリラ戦では、ハイテク兵器は役に立たない。

しかしアメリカ政府が、公式にはいまだにベトナム戦争を誤りだったと総括していないように、ブッシュ政権はイラク戦争の失敗を認めようとしない。これを著者は「否定状態」(state of denial)と呼ぶ。彼らがベトナムの失敗から何も学ばなかったのは、それを失敗と認めなかったからだ。過去について盲目な者は、同じ過ちを繰り返す。それは日本の過去の失敗を「国民の物語」として正当化しようとする人々と同じである。

市場浄化

田原総一朗

講談社

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著者はもう70歳を超えるが、その野次馬精神は衰えない。本書も、ライブドアや村上ファンドの「国策捜査」をはじめ、最近の事件について論じたものだ。検察の捜査と、それに付和雷同するメディアの姿勢についての批判には私も同感だが、新聞などの2次情報がほとんどで、中身が薄い。

後半は、メディア業界の話。第4章はデジタル放送問題で、私へのインタビューが15ページにわたって続く。単なる取材だと思っていたのに、オフレコの話まで直接引用されているが、まぁいいか。ただ録音の書き起こしが不正確で、「民放連」が「銀行連」になったりしている。NHKの原田放送総局長にもインタビューしているが、理論武装が足りないので、官僚的な答弁で逃げられている。傑作なのは、民放連の氏家元会長へのインタビューだ:
8年前、私が民放連の会長だったとき、当時の郵政省からいってきたんだけど、「デジタル化する。これは国策である」と。それで僕は、それは筋が違うと反論しました。[・・・]それで一度は郵政省も引いたんです。ところがその後、「国の助成金を、郵政省で何とかとるように考えます」といってきた。
そうか。アナアナ変換の国費投入は、98年に決まってたのか。民放連に要求されて仕方なく電波利用料に手をつけたのではなく、最初から流用するつもりだったわけだ。氏家氏は、官僚主義で自縄自縛になっているNHKよりもはるかに冷静に業界の状況を見ているが、インターネットについては何も知らない。「IPマルチキャストの維持費は膨大だ」というから、どんなにかかるのかと思えば「ひと月約2500万円」(単位は不明)。これが「厳密な予測計算をした結果」だというのだから、テレビ業界の情報過疎は重症だ。

教育バウチャー

きのう開かれた教育再生会議の第1回会合で、「教育バウチャー」が話題になったようだ。しかし日本では、これまでほとんど論じられたことのない政策が唐突に持ち出された印象が強く、当惑している委員も多い。またメディアにも「市場原理主義」といった類型的な反応が多いので、ここで基本的なことを少し解説しておこう。

バウチャーのアイディアは、そう新しいものではない。これを提案したのは、1962年に書かれたフリードマンのCapitalism and Freedomである(訳書は絶版)。フリードマンの主眼は、アメリカで深刻な問題である公立学校の荒廃をどう解決するかということだった。貧しい黒人地域で生まれた子供は、たとえ才能があっても、近くの低レベルの公立学校へ行かざるをえない。その結果、格差は固定され、さらに貧しい地域の学校はますます劣化するという悪循環が生じる。学校の荒廃は、日本でも深刻化している。これを防ぐために、消費者が学校を選べるようにしようというのがバウチャーである。

またバウチャーは、今までにない制度でもない。たとえば奨学金は、学生に補助金を支給するバウチャーの一種だ。規制改革会議で提唱されたのも、現在のように私立学校だけに教職員の数に応じて補助金を出すのではなく、公立も私立も同じ扱いにして、生徒の数に応じて補助するということである。経済学でいえば、これは従量制の「生産補助金」であり、市場メカニズムを歪めないぶん、公立学校のような「配給制度」よりも望ましい。

しかし欧米でも、バウチャーの導入には抵抗が強い。特にアメリカでは、宗教学校への州政府の支出が憲法違反だという訴訟が各地で起こされ、連邦最高裁は2002年に違憲ではないという判決を出したが、対応は州ごとにまちまちだ。ブッシュ政権も、大統領選挙でバウチャーの導入を公約したが、議会の反対が強く、2002年の「包括的教育法案」ではバウチャーを引っ込めざるをえなかった。民主党は、教職員組合の支援を受けてバウチャーに強く反対しており、全国レベルで実施される見通しは立たない。

バウチャーへの反対論として、「教育を競争原理にゆだねると、学校がつぶれて地域が荒廃する」といったお決まりの批判があるが、バウチャーの目的は、競争圧力によって公立学校にも教育環境を改善するインセンティヴを与えることであり、つぶす必要はない。奨学金で大学がつぶれないように、これはバウチャーのチューニング次第でどうにでもなる問題だ。「格差が拡大する」という類の反対論もナンセンスだ。上にのべたように、バウチャーはむしろ格差をなくすために発案されたのである。

学校への導入に抵抗が強いなら、イギリスのように、まず保育所に導入してはどうだろうか。現在の保育料は、親の所得税額で決まる方式になっており、税金を払っていない自営業者がベンツで子供を無料保育所に迎えに来る、といった問題がよく指摘される。また保育時間が勤務実態に即していないため、「無認可保育所」が多いが、これは補助を受けられないので高コストでサービスの質が悪い。これを一定の基準を満たした保育所に子供の数に応じたバウチャーを出すようにすれば、サービスも改善されるだろう。

パラダイス鎖国

今月はじめ、家電メーカー5社が共同で「テレビポータルサービス」(TVPS)という会社を設立し、テレビからネットワークに接続できるサービス「アクトビラ」を2007年2月から始めると発表した。総務省と経産省もこれを支援し、「PCではインテルとマイクロソフトに標準を握られたが、家電では日本メーカーが標準化すべきだ」などと表明している。しかし、今日のITmediaの記事を読んで驚いた。この「ネットワーク」はインターネットではなく、決められたサイトしか見えない閉域網(walled garden)なのだという。

この種のデータ放送サービスは、これまでにいくつもあった。今回とほぼ同じなのは、BSデジタルで行われた「イーピー」である。これも家電各社が共同でセットトップ・ボックス(STB)をつくり、BMLでテレビ局のサイトにつなぐものだったが、ユーザーが数万人にとどまり、2004年2月に解散した。アクトビラがイーピーと違うのは、インフラがダイヤルアップの代わりにブロードバンドになり、ようやくHTMLをサポートすることになったことぐらいだが、コンテンツにはTVPSの「審査」が必要になるなど、囲い込み志向は強まっている。

STBのビジネスはむずかしい。かつてテレビ局各社のやったデータ放送は全滅し、マイクロソフトのWebTVさえ撤退を強いられた。ソフトバンクのBBTVも事業を縮小し、NTT、KDDIや電力系などがやっているSTBビジネスも、黒字になったものは一つもない。まして最初からインターネットを拒否するアクトビラが成功する可能性は、万に一つもない。それは自業自得だが、問題はこれを行政が後押ししていることだ。マイクロソフトの向こうを張るつもりなら、せめて彼らの戦略に学んではどうか。

1980年代、IBM-PCがオープン・スタンダードで世界に広がったとき、日本のPCメーカーはPC-9800とそれ以外のコップの中の戦いを続け、業界全体が沈没した。携帯電話も同じだ。このように、ほどほどに大きい日本市場に安住して囲い込み競争を続けているうちに世界市場に取り残される現象を、海部美知さんは「パラダイス鎖国」と呼んでいる(先日は、同様の現象を指摘した私の3年前のコラムが、「はてなブックマーク」で100もリンクを集めて驚いた)。日本企業がITの世界でリーダーシップをとるには、まずこの「パラダイスぼけ」を直す必要がある。

高利貸しが最貧国を救う

今年のノーベル平和賞は、ムハマド・ユヌスと彼の設立したグラミン銀行に与えられることが決まった。ユヌスはアメリカで経済学の博士号を得て、故国バングラデシュの大学で教えていたが、飢饉に苦しむ農民を救済するため、1983年にグラミン銀行を設立した。その融資は、1人当たり数十ドルから百ドル程度のマイクロファイナンスと呼ばれるものだが、融資残高は57億ドルにも達している。

従来の常識では、バングラデシュのような最貧国で金融を行うことは不可能だと考えられていたが、グラミン銀行は無担保で、年利20%という高金利であるにもかかわらず、返済率は99%だ。そのしくみは、債務者に5人ぐらいのグループを組ませ、共同で返済の連帯責任を負わせるものである。グループのうち、だれかの返済が滞ると、他のメンバーが代わって返済する責任を負い、債務不履行が起こると、そのグループに所属する人は二度と融資してもらえない。しかしちゃんと返済すれば、融資額は次第に大きくなる。

農村では人々は互いをよく知っているから、返済能力のない人とはグループを組まないし、約束を破ると村八分にされる。このように村の中の長期的関係(繰り返しゲーム)によってモニタリングを行うので、マイクロファイナンスは移動性の低い農村ほどうまく機能する。グラミン銀行の債務者の94%は、家庭を捨てて逃げられない女性である。バングラデシュでも、移動性の高い都市部では、商業銀行の債務不履行率は60~70%にも達する。

こういう関係依存型の金融システムは新しいものではなく、日本でもかつて頼母子講や無尽と呼ばれる相互扶助型の金融制度があった(現在の第二地銀の前身は無尽)。欧州でも、中世には同様の連帯責任システムがあった(Greifは、これをCommunity Responsibility Systemと呼んでいる)。現在でも、途上国には同様の金融システムが広くみられるため、そういう伝統的なしくみを利用したマイクロファイナンスが普及し、CGAPという国際組織もできている。

グラミン銀行はNPOではなく、営利企業である。開発援助のような「施し」は有害だ、とユヌスは批判する(WSJ)。返さなくてもいい金だと、人々は過大に要求し、それを有効に使わないからだ。借金だと、人々はそれを返すため一生懸命に働くので、技能が身につく。日本でも、90年代のバラマキ公共事業は、建設業の行政依存を強め、地方経済の立ち直りをかえって遅らせた。ユヌスもいうように、大事なのは金を与えることではなく、人々が自立して働くのを支援することである。

追記:マイクロファイナンスをサラ金と混同する人もいるが、ここで書いたように、グラミン銀行のシステムは村落共同体を基礎にしているので、都市では機能しない。むしろ日本の問題は、伝統的な相互扶助システムが崩壊したのに、そういう感覚で安易に親戚の連帯保証人になる人が多いことだ。日本では、もう関係依存型ファイナンスが成立する条件はないので、こういう「人的担保」についてもルールを厳格化すべきである。

日本金融システム進化論

日本金融システム進化論
著者の書いた1991年の論文は、日本のメインバンク・システムの役割を実証した先駆的な業績として有名だ。銀行と融資先の長期的関係によって情報が共有され、収益性を高めているという結論は、「日本的経営」の優位性を示すものとして注目された。しかしその後、日本経済が沈没すると、「行政や銀行が高度成長に寄与したという証拠はない。彼らは生産性の高い製造業にただ乗りしただけではないか」という批判が出てきた。本書は、こうした批判に反論し、通説的な見解を擁護するものである。

戦前の日本の金融システムは、株式や社債を中心とする市場型だったが、戦時体制における指定金融機関制度によって銀行中心へのシステム転換が行われた。このような規制に支えられた銀行中心のシステムは戦後も続き、高度成長の原動力となった。証券市場を抑止する規制のおかげで銀行が資金チャネルを独占し、長期的関係によって情報の非対称性の問題(逆淘汰・モラルハザード)を防いだのである。

著者は高度成長期の銀行の役割を肯定的に見る立場だが、それでも70年代には銀行の役割は終わっていたと見る。ファイナンスのグローバル化によって、大企業は市場から資金調達するようになり、銀行の融資によるガバナンスもきかなくなった。欧米では80年代に規制改革が終わったのに、日本の銀行・証券業界は改革に抵抗したため、システム転換が10年以上遅れた。これが金融技術革新への立ち遅れをもたらし、バブルを引き起こし、そして不良債権によって日本経済をめちゃめちゃにしたのだ。

しかしファイナンス業界は、業界が壊滅するという劇的な形でシステム転換を遂げた。関係依存型から市場型への転換は、もう本質的には終わっているのだ。この経済システムのコアにおける変化は、ガバナンスの変化を通じて日本の企業システム全体に及ぶだろう。

局所効率化と全体最適化

4日の「効率の高すぎる政府」という記事には、当ブログで最大のリンクが集まった。これはわかる人にわかるようにしか書かなかったので、当ブログの読者のレベルが高いことには驚いた。友人の話によると、霞ヶ関にも読者が多いようだ。ただ、ゲーム理論などの説明が省略されてわかりにくいというコメントもあったので、ちょっと長文になるが、付録として問題を簡単に整理して参考文献やリンクをあげておく。

日本の官民のガバナンスが長期的関係に依存したものだという指摘は、そう新しいものではない。よく日本の銀行は効率が悪いといわれるが、銀行員の数は、邦銀(4大グループ)が2~3万人なのに比べて、欧米の商業銀行は10万人を超え、邦銀の行員1人あたり資産は外銀の数倍である。それが可能なのは、邦銀が個別プロジェクトのリスクを管理しないで、メインバンクと融資先との長期的関係によってモラル・ハザードを防いできたからだ。「卸し売りのモニタリング」というのは、邦銀についてのゴールドマン・サックスのDavid Atkinsonの表現である。

Rajan-Zingalesは、こういうしくみをリレーションシップ資本主義と呼んでいるが、これは彼らもいうように中世以来の伝統的なガバナンス様式である。Greifも示すように、中世のマグレブ商人の相互監視メカニズムは、裏切り者を村八分にすることによって規律づけるものだった。日本でも、企業システムでこの種のメカニズム成立しているが、それについての系統的な説明はあまり見当たらない。我田引水だが、拙著(絶版)の第5・6章にそういう話がまとめてある。

長期的関係によってモラル・ハザードが予防できることは、前にも書いたようにフォーク定理で簡単に説明できる。これは「囚人のジレンマ」が同じメンバーで繰り返される場合、「集団内で得られる長期的なレントの割引現在価値が十分大きければ、裏切って集団から排除されるよりも協力するほうが得になる」という命題である。これはAxelrodの進化ゲームと混同されることが多いが、TIT FOR TATが最強の戦略だという結論は、学問的にはもう葬られた話だ。フォーク定理でサブゲーム完全均衡になるのは引き金戦略(GRIM)である。この種の理論の解説としては、松井がくわしい。

この関係依存型システムには、前にも書いたように競争を阻害するという欠陥があるが、自発的に市場型システムに移行することはむずかしい。関係依存型システムが成立するには、メンバーが固定され、ゲームが長期にわたって続くという期待(割引因子)が高く、集団内で得られるレントが大きい必要がある。こうした条件は互いに補完的なので、関係依存型システムの一部だけを変えると、かえって効率が落ちてしまう。

こうした異なるシステムの関係は、一つのゲームに複数のナッシュ均衡が存在する複数均衡になっていると考えられる。これは縦軸に利得をとると、図のように複数の山(局所解)がある状態で、市場のような逐次最適化メカニズムでは必ずしも全体最適に到達できない。初期状態がXよりも右側にあるとき、逐次最適化によって斜面を上ると、B(関係依存型)に到達する。これが大域的にA(市場型)に劣る場合でも、Bも局所的には頂上(ナッシュ均衡)なので、そこから自分だけ離れることはできないという「コーディネーションの失敗」が起こってしまうのである。



この種の非凸の最適化問題には、いろいろな解き方がある。アプリオリに関数がわかっていれば、問題はトリヴィアルで、聡明な官僚が全体最適解を決めて民間を指導すればよい。しかし実際の問題では、関数が与えられることはないので、どこに全体最適があるのかをさがす試行錯誤が必要になる。こういうときのアルゴリズムとしてコンピュータ業界の人々におなじみなのは、遺伝的アルゴリズムだろう。これは一定の確率で突然変異を起こして一方の山から他方の山にジャンプさせるものだ。同様のアルゴリズムとして、ニューラルネットで使われるsimulated annealingがある。これはシステム全体のエネルギーを上げて撹乱し、ゆるやかにエネルギーを下げて全体最適(ポテンシャル最小の点)をさがす方法だ。

経済システムにこういうアルゴリズムを適用すると、一つの均衡から他へのシステム間移行は、市場メカニズムで行うことはできず、政権交代や「金融ビッグバン」のような不連続な変化によって一挙に起こるということになる。ところが同質的なメンバーで構成される関係依存型の「総動員体制」では、突然変異や撹乱が抑制されるので、システム間の移行は困難になる。しかも危機に直面すると、「日の丸検索エンジン」のように、逆に総動員で既存のシステムを守ろうとする傾向が強い。

だから前の記事にも書いたように、行政の中だけの局所的な効率化を考えていてはだめで、全体的な最適化を考える必要がある。それは市場だけではできないので、重要なのは意図的にシステムを撹乱し、さまざまな実験を行って最適解をさがすことだ。そのために役所にできる最善の政策は、規制を撤廃して行政の代わりに資本市場のガバナンスにゆだね、紛争を事後的に低コストで処理する司法的なインフラ(ADRなど)を整備することだろう。


スクリーンショット 2021-06-09 172303
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