安倍首相には、いつも祖父、岸信介の影がつきまとう。安倍氏のいう「戦後レジームからの脱却」も、占領軍に押しつけられた憲法を改正しようという岸の路線への回帰だと思われるが、ここにはパラドックスがある。戦後レジームをつくったのは、他ならぬ岸だからである。
岸のキャリアを決定的に決めたのは、満州国である。彼は1936年に、国務院実業部総務司長として満州国に赴任し、東条英機や松岡洋右などとともに、国家統制のもとに重化学工業を中心とするコンツェルンをつくって工業化を進めた。このときの計画経済的な手法の成功体験が、のちの国家総動員法にも生かされる。
岸が思想的にもっとも強い影響を受けたのは、北一輝の国家社会主義であり、「私有財産制には疑問を持っていた」とみずから語っている。彼の建設した満州国の「五族協和」の思想も、大川周明の大アジア主義の影響であり、これが大東亜共栄圏の思想的骨格となった。要するに、岸の本来の思想は、自由経済や親米路線という自民党の党是とは対極にあったのだ。
岸は東条内閣の閣僚として国家総動員体制を指導し、これによって戦後、A級戦犯容疑者となったが、不思議なことに起訴されなかった。この原因には諸説あるが、GHQの諜報部門(G2)がマッカーサー元帥に「岸釈放勧告」を提出したことが確認されており、釈放と引き換えに岸から情報提供を受けるという取引があったとも推定される。だとすれば、日本はアメリカへの「情報提供者」を首相にしたことになる。少なくとも岸がアメリカに屈服したことによって、日本は「自主憲法」を放棄して対米追従に転換したのである。
岸を頂点とする満鉄人脈は、戦後の経済安定本部の中核となった。戦後復興でとられた「傾斜生産方式」は、戦前と同じ総動員体制によって工業化を行う統制経済の手法であり、これが戦後の経済体制の骨格となった。このとき経団連の会長として民間企業をまとめる役割を果たした植村甲午郎も、商工省で岸の腹心だった。戦後復興が終わった後も、この手法は通産省の産業政策に受け継がれ、「日の丸検索エンジン」にみられるように、今も再生産されている。
このように岸のつくった戦後レジームは、戦前の満州国から連続しており、それは日本の官僚機構の基本構造でもある。安倍氏が戦後レジームを否定するとき、念頭にあるのは、サッチャーやレーガンが英米の「福祉国家」を否定して「小さな政府」に舵を切った歴史だと思われるが、日本の戦後を支配してきたのは、ケインズ的な福祉国家ではなく、岸に代表されるマイルドな国家社会主義なのである。それが現在の日本で通用しないことは確かだが、これを脱却する課題は単純ではない。
「押しつけ憲法」を改正しようというのは、本質的な問題ではない。軍事・外交的な自主権をアメリカに奪われている状況は、占領時代と大して変わらないからだ。独自の「自衛軍」を持つという主張も、自衛隊が米軍に組み込まれようとしている現在では、あまり実質的な意味があるとも思われない。いま行き詰まりに逢着しているのは、戦後できた制度ではなく、岸に代表されるように戦前から続く官僚統制の思想なのだ。
だから問題の淵源は、戦後ではなく明治にあり、重要なのは、「憲法は花、行政法は根」という岩倉使節団の結論にもあるように、憲法よりも行政法だろう。この「明治レジーム」の遺伝子は、敗戦によっても断絶せず、「昭和の妖怪」とよばれた岸に象徴されるように、日本の政治経済システムを呪縛し続けてきた。それを変える立場におかれているのが、文字どおり岸の遺伝子を受け継いでいる安倍氏だというのは皮肉である。彼が戦後レジームに代わる新しいレジームを描けず、所信表明ではそれを引っ込めてしまったのも、そのせいではないか。
岸のキャリアを決定的に決めたのは、満州国である。彼は1936年に、国務院実業部総務司長として満州国に赴任し、東条英機や松岡洋右などとともに、国家統制のもとに重化学工業を中心とするコンツェルンをつくって工業化を進めた。このときの計画経済的な手法の成功体験が、のちの国家総動員法にも生かされる。
岸が思想的にもっとも強い影響を受けたのは、北一輝の国家社会主義であり、「私有財産制には疑問を持っていた」とみずから語っている。彼の建設した満州国の「五族協和」の思想も、大川周明の大アジア主義の影響であり、これが大東亜共栄圏の思想的骨格となった。要するに、岸の本来の思想は、自由経済や親米路線という自民党の党是とは対極にあったのだ。
岸は東条内閣の閣僚として国家総動員体制を指導し、これによって戦後、A級戦犯容疑者となったが、不思議なことに起訴されなかった。この原因には諸説あるが、GHQの諜報部門(G2)がマッカーサー元帥に「岸釈放勧告」を提出したことが確認されており、釈放と引き換えに岸から情報提供を受けるという取引があったとも推定される。だとすれば、日本はアメリカへの「情報提供者」を首相にしたことになる。少なくとも岸がアメリカに屈服したことによって、日本は「自主憲法」を放棄して対米追従に転換したのである。
岸を頂点とする満鉄人脈は、戦後の経済安定本部の中核となった。戦後復興でとられた「傾斜生産方式」は、戦前と同じ総動員体制によって工業化を行う統制経済の手法であり、これが戦後の経済体制の骨格となった。このとき経団連の会長として民間企業をまとめる役割を果たした植村甲午郎も、商工省で岸の腹心だった。戦後復興が終わった後も、この手法は通産省の産業政策に受け継がれ、「日の丸検索エンジン」にみられるように、今も再生産されている。
このように岸のつくった戦後レジームは、戦前の満州国から連続しており、それは日本の官僚機構の基本構造でもある。安倍氏が戦後レジームを否定するとき、念頭にあるのは、サッチャーやレーガンが英米の「福祉国家」を否定して「小さな政府」に舵を切った歴史だと思われるが、日本の戦後を支配してきたのは、ケインズ的な福祉国家ではなく、岸に代表されるマイルドな国家社会主義なのである。それが現在の日本で通用しないことは確かだが、これを脱却する課題は単純ではない。
「押しつけ憲法」を改正しようというのは、本質的な問題ではない。軍事・外交的な自主権をアメリカに奪われている状況は、占領時代と大して変わらないからだ。独自の「自衛軍」を持つという主張も、自衛隊が米軍に組み込まれようとしている現在では、あまり実質的な意味があるとも思われない。いま行き詰まりに逢着しているのは、戦後できた制度ではなく、岸に代表されるように戦前から続く官僚統制の思想なのだ。
だから問題の淵源は、戦後ではなく明治にあり、重要なのは、「憲法は花、行政法は根」という岩倉使節団の結論にもあるように、憲法よりも行政法だろう。この「明治レジーム」の遺伝子は、敗戦によっても断絶せず、「昭和の妖怪」とよばれた岸に象徴されるように、日本の政治経済システムを呪縛し続けてきた。それを変える立場におかれているのが、文字どおり岸の遺伝子を受け継いでいる安倍氏だというのは皮肉である。彼が戦後レジームに代わる新しいレジームを描けず、所信表明ではそれを引っ込めてしまったのも、そのせいではないか。