2006年08月

テレコム産業の競争と混沌

ロバート・W・クランドール

NTT出版

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アメリカの1996年電気通信法ができて10年になる。当初は、通信業界の規制を緩和すると同時に「ネットワーク要素のアンバンドリング」によって競争を促進しようという目的でつくられた法律だが、10年たった今、その成果はほとんど上がっていない。ネット・バブルの時期には多くのCLEC(競争的地域通信事業者)が参入したが、そのほとんどの経営は破綻し、アメリカはブロードバンドでは大きく立ち後れている。

その原因は、本書も指摘するように、規制によって競争を作り出すことはできないということに尽きる。特に通信設備はILEC(既存地域通信事業者)の私有財産であるため、ILECがアンバンドル規制を「財産権の侵害だ」とする訴訟が相次ぎ、多くのケースでFCCが敗訴したため、規制の実行はきわめて困難になった。結果的には、FCCはアンバンドル規制をほとんど放棄し、現在アメリカのブロードバンドのインフラのうちILEC以外の業者によって供給されているのは1%程度にすぎない。

本書の主要な結論は、FCCの意図した階層別の競争はうまく機能せず、成功したのは携帯電話やケーブルテレビとの設備ベースの競争だけだったということである。この例外は日本と韓国だが、日本の成功はいろいろな偶然の重なった「競合脱線」のようなものであり、他の国に一般化することはできないし、もう一度おなじことが起こるとも期待できない。

ところが日本では、ボトルネックではない光ファイバーにもアンバンドル規制が課せられ、総務省の通信・放送懇談会でも「NTT完全分割論」が出てきた。これに対してNTTは、いっさい制度に手をつけさせないという方向で自民党にロビイングを行ったため、結果的に通信改革はすべて先送りになってしまった。今月、竹中総務相は「通信・放送の総合的な法体系に関する研究会」を立ち上げたが、今度は通信・放送懇談会のような素人談義にならないようにしてほしいものだ。

グレーゾーン金利

利息制限法と出資法の上限金利が異なる「グレーゾーン金利」について、アメリカの金融業界団体が上限金利の引き下げに反対する書簡を与謝野金融担当相に出した。

今年1月に、最高裁がグレーゾーンを事実上認めない判決を出したことを受けて、金利の返還訴訟が頻発している。金融庁は、上限金利を一本化して年率15~20%とする方向で、来年の通常国会で法律を改正する予定だ。アイフルの悪質取り立て事件で批判を浴びた消費者金融業界は、正面きって反論もできない。メディアも、取り立ての実態を暴いて業者を指弾する報道ばかりで、異論を唱えているのは外資だけという状況だ。

しかし、ちょっと冷静に考えてほしい。現在の上限(29.2%)を20%以下に引き下げることが何をもたらすかは、経済学的には明らかである。金利は貨幣のレンタル価格だから、それが人為的に抑えられると、資金の供給(貸出)が減少して超過需要が発生する。この超過需要が満たされなければ破産が起こるか、闇金融に流れることが予想される。事実、2000年に出資法の上限金利が40%から引き下げられたあと、個人破産と闇金融が増えた。

こうした金利の制限は、先進国にはみられないものであり(*)、終戦直後の混乱期に闇金融を規制して「弱者」を保護するために設けられた規制である。同様の規制としては、借家人の権利を強く保護する借地借家法がある。これも終戦直後に戦争未亡人を守るために設けられた規制だが、結果的には借家の過少供給をもたらし、家賃の高騰をまねいた。今回の金融庁の懇談会のヒアリングでも、多重債務の被害者や弁護士は規制強化を強硬に主張したが、そういう近視眼的な「正義」は、長期的には弱者のためにもならない。悪質な取り立ては、金利とは別の問題である。

上限金利が20%に制限されるということは、木村剛氏もいうように、企業も「20%以上の金利で借金する権利がなくなる」ことを意味する。中小企業の場合には、短期的な資金繰りで高利の資金が必要な場合もあるし、収益率が20%を超えることはそう珍しくない。金利を必要以上に抑制すると、収益はあるのに資金繰りで行き詰まる「黒字倒産」が増えるおそれがある。

ファイナンス業界の合理化のためにも、規制強化は有害である。消費者金融などのリテール分野は、成長の期待される部門だが、日本では「サラ金」という特異な業態として社会から白眼視されてきた。いま日本で必要なのは、ハイリスク・ハイリターンのオプションを広げ、新しい分野にチャレンジする機会を増やすことだ。ところが長期にわたる「量的緩和」のおかげで不良銀行が延命され、企業金融の多様化は中途半端に終わってしまった。さらに今回のような規制強化が行われると、外資を含めたファイナンス業界の競争が阻害され、日本経済全体にも悪い影響が出るだろう。

(*)これは誤り。アメリカ(連邦レベル)・イギリスには上限規制はないが、ドイツ・フランスにはある。ただし金融庁の懇談会に提出されたACCJの資料によれば、多重債務や違法貸付の問題は、イギリスよりもドイツ・フランスのほうが多い。

SIMロックの解除は犯罪か

きのう警視庁は、携帯電話のSIMカードのロックを解除して売っていた業者L&Kの社長を、商標法違反と不正競争防止法違反などの容疑で逮捕した。気になるのは、メディアの扱いである。たとえばTBSは(おそらく警視庁のリークで)事前取材をした形跡があり、この商売をいかにもいかがわしいものとして描いている。テレビ朝日の「報道ステーション」でも、解説者が「こういう不正改造を許したら携帯電話業者のビジネスは成り立たない」とコメントしていた。

果たしてそうか。SIMカードは、もとはヨーロッパ統一規格のGSMで、一つの端末を各国で使うためにできたものだ。端末とSIMカード(携帯電話アカウント)を別に売っているので、一つのカードで複数の端末を使うこともできる。これによって端末とサービスがアンバンドルされ、両方の市場で競争が促進された結果、GSM端末の原価は日本の携帯電話よりも一桁ぐらい安く、通話料金も日本よりはるかに安い。端末の国際的ポータビリティは、ヨーロッパでは当たり前なのである。

これに対して、日本では郵政省がPDCというNTTローカル規格に一本化したおかげで、市場が広がらず、携帯電話オペレータが端末を買い取って流通を支配する垂直統合型の構造ができてしまった。したがってPDCの端末には、SIMカードはない。W-CDMAは世界共通規格なので、UIMというSIMと同様のカードが内蔵されているが、日本のオペレータは垂直統合のビジネスを守るため、端末にロックをかけて他社のUIMでは動かないようにしている。L&Kは、このロックを解除し、日本の端末で中国などのUIMが使えるようにして輸出していたのである。

しかし、このビジネスのどこが悪いのか。これは技術的には「不正改造」ではなく、端末の本来の機能を使えるようにするだけである(日本でもNokiaの端末ではSIMが交換できる)。商標法違反という容疑も理解に苦しむが、それは逮捕しなければならないような凶悪犯罪なのか。すでにブログでも、たとえばタイ在住者から次のような批判が出ている:
仕事でタイにしょっちゅう来ている人。当然タイでも携帯電話を使いたいですよね。国際ローミングなんて、ばかばかしい値段を払いたくないし。一台の携帯で、SIMカードだけ交換して使えれば便利ですよね。[・・・]「各社の販売戦略上の理由などから、」SIMロックなんてばかばかしいことが行われていることが間違っているわけで。
日本では、オペレータが販売店に多額のインセンティブを出し、販売店はこれを原資にして端末を大幅に割り引き、オペレータはインセンティブのコストを通話料に上乗せして回収するしくみになっている。L&Kのように端末を安く買って解約し、改造して高く転売されると、インセンティブがまるまる損失になってしまう、ということらしいが、これはビジネス上の問題にすぎず、警察の動くような事件ではない。オペレータが端末1台4万円以上という異常なインセンティブを下げ、異常に高い通話料金を値下げすればいいのである。

10月から、ナンバー・ポータビリティ(MNP)が始まる。その大義名分は「競争の促進」だが、数千億円もかかるMNPに比べて、SIMロックを解除して端末をポータブルにするコストはゼロである。端末をもとのまま使えばいいからだ。欧米で行われている競争促進策は、どんなコストがかかっても業者に強制するが、日本だけでやっている(*)競争制限策は放置する総務省のダブルスタンダードも問題だが、さらに問題なのは、競争を促進する業者を「別件逮捕」する警察と、その尻馬に乗って業者を犯罪者扱いするメディアである

ケータイWatchによれば、今回の事件を警視庁に垂れ込んだのはボーダフォンだという。同社は10月からソフトバンクモバイルになるが、かつてADSLでNTTに対して果敢な価格競争を挑んだソフトバンクが、警察まで使って閉鎖的なビジネスモデルを守ろうとするのは筋が通らない。むしろ率先してSIMロックを解除し、グローバルな端末を使って価格競争を仕掛けることが挑戦者らしいのではないか。

(*)これは事実誤認だった。SIM lockは海外でも行われている。しかしEUでは、これは反競争的な行為として規制され、オペレータは消費者が要求した場合にはロックを解除することが義務づけられている。総務省は、ロック解除が違法行為ではないことを言明し、消費者の求めに応じて解除することを義務づけるべきだ。

追記:TBで指摘されたが、総務省もSIMロックの規制は検討しているようだ。とすれば今度の逮捕は、総務省にも相談しないで警視庁が「暴走」したものと思われる。

愛国心の進化

毎年この季節になると、靖国神社をめぐる不毛な議論が繰り返される。メディアでは、首相の参拝に反対の意見が多いが、世論調査では逆だ。特に若い世代では、70%以上が賛成している。これは「中国や韓国が介入するのは許せない」という感情的な反発によるものだろう。当ブログの『国家の品格』スレも、コメントが200に達してまだ続いているが、藤原氏を批判する人々がその事実誤認や論理の矛盾を指摘するのに対して、擁護する人々は「愛国心は理屈ではない」と反発するのが特徴だ。

教育基本法の改正でも、愛国心が論議になっているが、それは「伝統や郷土を愛する心」というような自然な感情ではない。愛国心が存在するためには、当然その対象である国家が存在しなければならないが、主権国家という概念は17世紀以降の西欧文化圏に固有の制度であり、家族や村落などの自然な共同体とは違う。国家は、ベネディクト・アンダーソンのいう想像の共同体であり、具体的な実体をもたないがゆえに、それを愛する心は人工的につくらなければならないのである。

近代国家が成功したのは、それが戦争機械として強力だったからである。ローマ帝国や都市国家の軍事力は傭兵だったため、金銭しだいで簡単に寝返り、戦力としては当てにならなかった。それに対して、近代国家では国民を徴兵制度によって大量に動員する。これが成功するには兵士は、金銭的な動機ではなく、国のために命を捨てるという利他的な動機で戦わなければならない。逆にいうと、このような愛国心を作り出すことに成功した国家が戦争に勝ち残るのである。

こういう利他的な行動を遺伝子レベルで説明するのが、群淘汰(正確にいうと多レベル淘汰)の理論である。通常の進化論では、淘汰圧は個体レベルのみで働くと考えるが、実際には群レベルでも働く。動物の母親が命を捨てて子供を守る行動は、個体を犠牲にして種を守る「利他的な遺伝子」によるものと考えられる。ただし、こういう遺伝子は、個体レベルでは利己的な遺伝子に勝てないので、それが機能するのは、対外的な競争が激しく、群内の個体の相互依存関係が強い場合である。内輪もめを続けていると、群全体が滅亡してしまうからだ。利他的行動は戦争と共進化するのである。

人間の場合にも、利己的な行動を憎む感情の原因は、利他的な遺伝子だと考えられるが、ミーム(文化的遺伝子)の影響も強い。そもそも明治以前には、日本という国民国家が成立していなかったのだから、愛国心という概念もなかった(したがって江戸時代の武士道を引き合いに出して国家を論じる藤原氏の議論はナンセンス)。しかしアジアが帝国主義諸国の植民地支配下に置かれるなかで、日本は急いで国家意識の育成につとめた。その天皇制のミームが近代化を支えたわけだが、他方ではそれが暴走して破局的な戦争をまねいた。

ミームも多レベルで進化するから、愛国心(利他的なミーム)が機能するのは、国家間で争いが激しく、国内ではあまり激しくない場合に限られる。現在のように対外的に平和になる一方、国内で競争が激しくなると、愛国心が薄れるのは当然である。それを強めるには、愛国心教育を行うよりも、対外的に敵をつくるほうが有効だ。その意味で、中国や韓国を挑発して敵を作り出した小泉首相の演出は、なかなか巧みだったといえよう。

こういうナショナリズムは感情の問題だから、論理的に説得するのは無駄だし、「アジアの国民感情」を理由にして封じ込めようとするのは、かえって反発を強めてしまう。その感情は、靖国神社のようなシンボリックな装置によって演出されるものだから、散文的な「国立追悼施設」は代替策にはならない。むしろ小泉氏が引退して、安倍氏が参拝しなければ、問題は自然消滅するのではないか。いま日本が、中国・韓国と本当の意味で争う理由はないからである。

制度の経済学

Microeconomics: Behavior, Institutions, and Evolution

Samuel Bowles

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著者は、1970年代に「ラディカル・エコノミスト」として活躍した経済学者。本書にも、マルクスへの言及がたくさんあるなど、その影響は残っているが、分析用具は意外にオーソドックスだ。裏表紙では、Maskin、Rubinstein、Arrow、Binmoreといった主流派の巨匠が、本書を「最新の成果を踏まえたオリジナルな教科書」として賞賛している。日本のマル経のように「床屋評論家」にならないのは立派なものだ。

新古典派の教科書には、「市場」の説明はあっても「資本主義」の説明はない。そのコアであるArrow-Debreuモデルにおいて一般均衡の成立する条件がきわめて非現実であることはよく知られているが、その後この条件をゆるめる研究はみんな失敗し、そのうち一般均衡にはだれも興味をもたなくなった。しかし資本主義が(少なくとも社会主義よりは)うまく機能したことは事実だから、その理由は一般均衡のような「空想的資本主義」ではなく、もっと現実的なコーディネーション装置に求めなければならない。

本書は、そうした「制度」としての資本主義を、いろいろな分析用具を使って説明する。消費者行動の説明には限界効用ではなく行動経済学が使われ、企業の理論には不完備契約、経済全体のコーディネーションにはゲーム理論が使われる。特に重視しているのは、市場による分権的コーディネーションを支える制度としての財産権で、その発生を進化ゲームでシミュレーションしている。

ただ応用されている個々の理論は既知のもので、オリジナリティはあまりない。制度を内生的に説明しようとする点は(著者の盟友だった)青木昌彦氏の「比較制度分析」と似ているが、分析用具の選択がアドホックで、体系的に説明されていないので、教科書としては中途半端だ。明らかに初心者向きではないが、体系的なだけがとりえの新古典派の教科書に飽きた人には、それを補完する刺激的な「制度の経済学」の入門書としておもしろいだろう。

Web2.0の経済学

Web2.0という言葉ほど、定義の不明なまま濫用されているバズワードも珍しい。いまだに「Web2.0って何だ?それを気にする必要はあるのか?」というコラムが書かれている。その特徴は、しいていえばユーザーによる情報生産ウェブベースのサービスという点だろう。このいずれも今に始まったものではないが、それが顕著な特徴としてみられるようになったのは最近である。その理由を少し経済学的に考え、概念を整理してみよう。

ネットワークの経済学というのは古くからある分野で、有名なのはBolton-Dewatripontだが、その基本的な考え方は単純だ。個人をプロセッサ、組織をネットワークと考え、情報処理コストと通信コストのどちらが相対的に高いかによってネットワークの構造が変わると考えるのである。簡単にいうと、情報処理コストが高いときには集中処理したほうがよく、通信コストが高いときには分散処理したほうがよい

電話網のような回線交換は、情報処理コストが禁止的に高いとき、交換機でネットワークを集中的にコントロールするもので、端末は電話機のようなdumb terminalになる。これに対してインターネットのようなパケット交換は、(専用線の)通信コストがきわめて高いとき、ネットワークを共有して必要なときだけパケットを送るものである。ここでは個々のホストが自律的な単位で、ネットワークはホストを結ぶだけのdumb networkになる。これが「ユーザーがネットワークをコントロールする」というインターネットのE2Eの構造である。

しかしインターネットが一般ユーザーに普及すると、E2Eの原則は非現実的になる。ユーザーの処理能力が情報量の増加に追いつけないので、ISPのメールサーバやウェブサーバなどで代行処理するようになるわけだ。これをWeb1.0と定義すると、それは原初的なE2Eに比べて、個人の情報処理コストが上がったため、ネットワークのコントロールを部分的にサーバに集中するものである。ここでは通信インフラは主としてダイヤルアップなので、処理はサーバ側に任せきりにすることが多い。

ではWeb2.0とは何か。それはブロードバンド(常時接続)によってネットワークに滞留するコストが大きく低下すると同時に、ウェブ・アプリケーションの発達でユーザーの情報処理能力が上がった結果、分散的に情報生産が行われるようになったものと考えることができる。他方、インフラやプラットフォームはサーバ側に集中する傾向が強いが、その役割はユーザーの情報生産をサポートする従属的なものになる。この点で、インフラは超集中型だが、情報のランキングはユーザーによるリンクの数で決めるグーグルは、Web2.0のモデルといえよう。

こういう変化は、ファイナンスの世界ではよく知られている。インターネットで一時はやったdisintermediation(中抜き)という言葉も、もとはファイナンス用語で、ITの発達によって銀行のような金融仲介機能が不要になり、「直接金融」に移行するという意味で使われたものだ。しかし現実にはそんなことは起こらず、証券会社やファンドのようなリスクとリターンを顧客がコントロールする仲介機関が相対的に増えただけである。Web1.0がリスクもリターンもサーバ側でプールする「銀行型」だったとすると、Web2.0の特徴は、そのコントロールをユーザーにゆだねる「証券型」である。

これまではインフラと情報をともに集中するか分散するかという選択しかなかったが、これをレイヤー別に分解し、インフラはサーバ側に集中し、情報処理はユーザー側に分散するのがWeb2.0の特徴だと考えれば、統一的に理解できるのではないか。これはブロードバンドで物理的な通信コストが下がる一方、ムーアの法則によって情報処理コストも指数関数的に低下し続けているためである。もちろん銀行と証券が併存しているように、1.0と2.0も併存するだろうが、仲介機能の多様化にともなって後者の比重が高まってゆくと予想される。

しかし今後、インターネットで映像が伝送されるようになると、通信コストが相対的に高くなり、サーバがボトルネックになる可能性が高い。したがってWeb3.0が登場するとすれば、それはインフラも情報処理もピアに分散してユーザー側でコントロールするP2P型だろう。

放送ゼネコン

CBSが、9月から始まる新番組"Evening News with Katie Couric"をウェブで同時放送すると発表した。これはネットワーク局としては初めてである。これまでテレビ局が同時放送をためらっていたのは、それが広がると、ただでさえ難航している地上デジタル放送が、インターネットに中抜きされてしまうことを恐れていたからだ。しかしテレビ視聴者が高齢化しているため、スポンサーから若い視聴者を獲得するよう求められ、背に腹は代えられなくなったというのが実情らしい。

他方、日本では、海外から日本の番組を見る「まねきTV」のサービス中止を求めて訴訟を起こしていたテレビ局が敗訴した。同様の事件としては、昨年「録画ネット」事件でテレビ局側が勝訴したが、今回の判断はその流れを変えるものだ。こうした一連の訴訟の背景には、同様のサービスであるサーバー型放送と競合するサービスをつぶそうというテレビ局のねらいがある。

アメリカでも日本でも、デジタル放送が行き詰まっている状況は同じだが、アメリカでは曲がりなりにもインターネットに対応しようとしているのに、日本ではもっぱら後ろ向きの妨害工作に懸命だ。おまけにコピーワンスとかサーバー型放送とか、既得権を守るための「独自技術」まで開発している。よくもこういう後ろ向きの知恵ばかり次々と出てくるものだ。

しかしNHKの元同僚によれば、テレビ局の経営者には、良くも悪くもそんな知恵はないという。こういう知恵をつけるのは、家電メーカーらしい。メーカーの中でも放送部門は、民生品とほとんど同じ機材をテレビ局に随意契約で高く売りつけてもうけているので、利益率は高いが、成熟分野で、いつもリストラの対象にあげられている。そこで、こういう後ろ向きの技術を開発して、またテレビ局から金を引き出そうというわけだ。要するに、テレビ局も「放送ゼネコン」の食い物にされているのである

デジタル放送は、家電メーカーにとっては、サービスが失敗しても大型家電が売れるノーリスク・ハイリターンだが、テレビ局にとっては投資リスクは大きく増収はゼロのハイリスク・ノーリターンである。こういうプロジェクトに1兆円以上つぎこむのは、お人好しというしかない。テレビ局も、そろそろだまされていることに気づいてはどうだろうか。

情報時代の戦争

Fiasco: The American Military Adventure in Iraq

Thomas E. Ricks

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ワシントン・ポストの特派員として5年間、イラク戦争に従軍した著者が、なぜこの「大失敗」が起こったのかを明らかにする。大筋は、これまでのイラク本(たとえば『戦争計画』)とそう違わないが、イラク戦争終結後の占領政策の失敗に重点が置かれている。

1991年の湾岸戦争の際にフセイン政権を倒せなかったため、ウォルフォウィッツ国防副長官(本書の主役)をはじめとするネオコンは、いつかフセインを政権から追放しようとねらっていた。CIAが大きく間違えた原因も、最初にイラクを攻撃するという結論ありきで、それにあわせて都合のいい情報だけが集められ、ホワイトハウスに報告されたためだ。

致命的だったのは、イラクが大量破壊兵器を保有しているという2003年2月のパウエル国務長官の国連演説と、それに続くメディアの翼賛報道だった。特にNYタイムズのジュディス・ミラー記者は、米軍がバグダッドで「巨大な化学兵器工場」や「移動式の生物兵器研究室」を発見したという類の「スクープ」を連日のように放ったが、その情報源チャラビ(元亡命政権代表)は詐欺師だった。

さらに問題だったのは、戦争の計画はあっても、戦後の復興計画がなかったことだ。ネオコンたちは、第2次大戦後の日本の例を引いて「イラクに民主政権ができれば、国民は喜んで米軍を迎えるだろう」と主張した。悪いことに彼らは、この嘘を自分で信じていたため、占領政策については何も考えていなかったのである。状況は日本よりもベトナムに似ていたのだが、その泥沼の教訓は生かされなかった。

最新の情報技術で武装した軍隊によって、最小の犠牲で効率的に戦争を終わらせる、というラムズフェルド国防長官のRMA(軍事の革命)は、自爆テロを相手にした市街戦では通用しなかった。むしろ情報の重要性は、皮肉なことに、お粗末な情報収集と予断による情報分析がいかに破局的な失敗をもたらすかという点で示されたといえよう。

第5世代コンピュータ

渕一博氏が死去した。彼は、1980年代の国策プロジェクト「第5世代コンピュータ」を進める新世代コンピュータ技術開発機構(ICOT)の研究所長だった。私もICOTは何回か取材したが、発足(1982)のころは全世界の注目を浴び、始まる前から日米で本が出て、欧米でも似たような人工知能(AI)を開発する国策プロジェクトが発足した。ところが、中間発表(1984)のころは「期待はずれ」という印象が強く、最終発表(1992)のころはニュースにもならなかった。

1970年代に、通産省(当時)主導で行われた「超LSI技術研究組合」が成功を収め、日本の半導体産業は世界のトップに躍り出た。その次のテーマになったのが、コンピュータだった。当時はIBMのメインフレームの全盛期で、その次世代のコンピュータは、AIやスーパーコンピュータだと考えられていた。通産省の委員会では、国産のAI開発をめざす方針が決まり、第5世代コンピュータと名づけられた。これは、次世代の主流と考えられていた「第4世代言語」(結局そうならなかったが)の先の未来のコンピュータをめざすという意味だった。

ICOTには、当初10年で1000億円の国家予算がつき、国産メーカー各社からエースが出向した。その当初の目標は、自然言語処理だった。プログラミング言語ではなく日本語で命じると動くコンピュータを目的にし、推論エンジンと知識ベースの構築が行われた。システムは、Prologという論理型言語を使ってゼロから構築され、OSまでPrologで書かれた。これは、Prologの基礎になっている述語論理が、生成文法などの構文規則を実装する上で有利だと考えられたからである。

エンジニアたちは、当初は既存の言語理論をソフトウェアに実装すればよいと楽観的に考えていたが、実際には実用に耐える自然言語モデルがなかったので、言語学の勉強からやり直さなければならなかった。彼らは、文法はチョムスキー理論のような機械的なアルゴリズムに帰着するので、それと語彙についての知識ベースを組み合わせればよいと考えていたが、やってみると文法解析(パーザ)だけでも例外処理が膨大になり、行き詰まってしまった

結局、自然言語処理は途中で放棄され、「並列推論マシン」(PIM)というハードウェアを開発することが後期の目標になった。しかし肝心の推論エンジンができておらず、その目的である自然言語処理が放棄された状態で、並列化して処理速度だけを上げるマシンに実用的な用途はなく、三菱電機が商品化したが、まったく売れなかった。予算も使い切れず、最終的には570億円に減額された。その成果は、アーカイブとして残されている。

ICOTは、1980年代初頭というコンピュータ産業の分岐点で、メインフレームを高度化する方向に国内メーカーをミスリードし、IBM-PCに始まるダウンサイジングへの対応を10年以上遅らせた点で、大きな弊害をもたらした。また産業政策としても、史上最大の浪費プロジェクトだったといえよう。これほど高価な授業料を払ったにもかかわらず、最近の「日の丸検索エンジン」の動きをみていると、その失敗の教訓は生かされていない。

しかし学問的には、ICOTの失敗によって、人間の知能に対する機械的なアプローチが袋小路であるということが実証された点には大きな意義があった。自然言語の本質はプログラミング言語のような演繹的な情報処理ではなく、脳はノイマン型コンピュータではないことが(否定的に)明らかになったからである。ではそれが何なのかは、いまだに明らかではないが・・・

追記:ICOTの当初の方針も、「非ノイマン型」の並列処理を行うことだったが、実際にできたPIMは、複数のCPUを並列につないだ「拡張ノイマン型」だった。その後、AIの主流はニューロコンピュータのような超並列型に移ったが、汎用的な成果は出なかった。

追記2:訃報の記事としてはあんまりだというコメントもあったので、個人的な思い出をひとつ:渕さんは哲学者的な感じの人で、第5世代の産業的な成功は信じていなかったように思う。ICOTの「孤立主義」を批判し、世界のAIの主流だったLispを採用すべきだという意見もあったが、彼は「成功しても失敗しても、仮説は単純なほうがいい」として、折衷的なアプローチを拒否した。

自壊する帝国

自壊する帝国

佐藤優

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ゴルバチョフの登場からソ連の崩壊後までの7年あまり、モスクワに駐在した著者が、ソ連という「帝国」の崩壊する過程を同時代的に体験した記録。政治家だけではなく、反政府活動家や宗教家などとの交流から、ロシア人の内面に入り込み、80年代までにソビエトという帝国が精神的に空洞化し、内部から崩壊していたことを明らかにする。

モスクワ大学の「科学的無神論学科」では、宗教を批判するという名目でキリスト教が研究されていた。宗教が公式に禁止されてから70年以上たっても、ロシア人の心のよりどころはキリスト教だったのである。マルクス主義は結局、そういう求心力を持ちえなかった。レーニンが「弁証法的唯物論」と称してでっち上げた素朴実在論が党の教義となり、精神の問題を完全に無視したからだ。ちなみに、弁証法的唯物論なる言葉は、マルクスの著作には一度も出てこない。

他方、チェチェンにみられるようなナショナリズムは、今なお強い求心力をもち、ロシア連邦の同一性を脅かしている。第2次大戦でドイツを撃退した力の源泉も、イデオロギーではなく、「国土を守れ」というナショナリズムだった。キリスト教も国民国家も人為的につくられた幻想にすぎないが、豊かなシンボリズムをそなえた幻想は、社会主義の貧しい現実よりも現実的だったのである。

ただし、本書は著者の個人的な交友関係を中心とした「ミクロ的」な叙述に終始し、全体状況がよくわからない。あとがきでは、全体の話は宮崎学氏との対談『国家の崩壊』(にんげん出版)を読めと書いてあるが、この本はゴルバチョフと小泉首相を同列に扱う宮崎氏の床屋政談で台なしになっており、おすすめできない。




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