2006年02月

偽メールの怪

永田議員が記者会見し、メールは偽物だと事実上みとめた。その根拠として鳩山幹事長は、「Eudoraのバージョンが堀江氏の使っているものと違う」「署名が『@堀江』となっており、彼がふだん使っている署名と違う」などの点をあげた。これらの疑問点は、永田氏の質問直後に、すでにブログなどで指摘されたことである。結果的には、ブログの情報が民主党を追い込んだという点では、CBSのアンカーマン、ダン・ラザーを辞任に追い込んだ「キリアン文書」事件と似ている。

キリアン文書の場合には、軍の様式に沿って書かれていたが、フォントが30年前のタイプライターではなくMS-Wordのものであることがブログで指摘され、それがCBSの謝罪につながった。しかし今回のメールは、Fromが消され、文体も署名も本人のものと違うなど、偽物としてもB級だ(偽作者は堀江氏のメールを見たこともないのだろう)。こんなものに引っかかった民主党がお粗末だったという以外にないが、問題は、だれがどういう目的でこんな偽物を持ち込んだのかということである。

ブログで実名のあがっている元週刊ポスト記者のN氏は、「事実無根だ」と抗議する内容証明を送ったりしているが、手口は彼が過去にやった捏造記事と似ている。今回も、1月末に毎日新聞に問題のメールを持ち込み、その後も週刊誌に持ち込んで、いずれも断られたことがわかっている。ただ、永田氏と現金のやり取りはなかったようなので、何のためにこんなすぐばれる偽物を持ち込んだのかが不可解だ。

キリアン文書の場合には、大統領選挙の最中で、ブッシュ候補を攻撃する材料だったという目的が明確であり、その文書を書いた(ことになっている)キリアン中佐は故人だったので、偽造する合理的な理由があったが、今回の場合は武部氏の次男の実名を出しているのだから、確認は容易である。民主党を陥れようとする謀略と考えられないこともないが、最初はメディアに売り込んだところをみると、それほどの計画性があったとも思えない。

問題のN氏は「笹川良一の孫」を自称するなど虚言癖があり、過去にも2件、名誉毀損事件を起こし、業界からは追放された人物だというから、一種の病気なのかもしれない。だとすれば、そんな人物の背景も調べないで「親しくしていた」永田氏と、それをチェックもしないで国会に出した執行部の情報管理能力が問われよう。まあ堀江氏を「わが息子」と持ち上げた人物がそれを批判するのも滑稽だが。


ライブドア事件について

ライブドア事件についての私のコメントが、ライブドアのサイトで公開された。

堀江メール(?)の謎

堀江被告が出したと民主党の主張するEメールのPDFファイルが、民主党のサイトに掲載されたが、よく見ると不自然な点が多い。ブログや2ちゃんねるなどで指摘されているのは、次のような点だ:
  • ヘッダにX-SenderとX-Mailerがあるのはおかしい。Eudoraの古いバージョンにはこういう表示があったが、ライブドア社内で使われているEudora6.2ではX-Senderなどは出ない
  • 表示されている時刻には、堀江氏は広島で遊説中で、メールを出す時間はなかった。Dateは受信側のサーバで受信した時刻を表わすので、そのクロックが何時間も狂うことはありえない。
  • Fromフィールドが塗りつぶされているのもおかしい。堀江氏以外の人物の名前が書かれているのではないか。だとすれば、こんな「シークレット」扱いのメールを他人に頼むだろうか。
  • 「シークレット」の「ー」が「―」(ダッシュ)になっている。これも1日5000通もメールを処理する人の表記とは考えにくい。
  • 堀江氏のメールは、最初に「堀江です」と名乗って、署名は自動で入れるのが通例で、最後に「堀江」と書くことはない(彼の昔のメール)。
  • 数字や英字が全角になっているのも奇妙だ。堀江氏の普段のメールは、すべて半角。
  • 最後の「堀江」の左側が塗りつぶしてあるのもおかしい。「掘」と書いてあったのではないか。だとすると、自分の名前を誤記することはありえないから、これは偽物。
これらの特徴から推測すると、堀江氏以外の人物が、Eudoraの古いバージョンでメールを偽造した疑いがある。

永田氏は、2002年の衆議院総務委員会で、NHKから私にきた脅迫状を暴露して海老沢会長(当時)を右往左往させたが、このときは情報源の私が「名前を出してもよい」といっていたので、NHK側は逃げようがなかった。今回は、仲介した「フリーの記者」なる人物が信用できるかどうかが鍵なので、匿名のままではこれ以上、追及できないだろう。

裁判でも、紙に打ち出したメールというのは証拠能力がない。もしもこれが本物なら、もう一度、情報源に頼んで、ヘッダを全部表示して印刷する必要がある。経由したサーバなどが特定できれば、証拠能力が出てくる可能性もある。

追記:自民党の平沢勝栄議員が、同じメールの別バージョンを公開した。それによると、X-Mailerは"QUALCOMM Windows Eudora Version"となっており、バージョン名が塗りつぶされている。5行目の最初は「問題があるようだったら」と書かれ、最後の署名は「@堀江」となっている(20日)。

追記2:民主党が、このメールは偽物だと事実上認めたようだ(21日)。

Winny

村井純氏がWinnyの訴訟で、被告側の証人として証言した。キャッシュなどのWinnyの機能について、検察側が「著作権法違反行為を助長させる目的を持って搭載されたものだ」と主張しているのに対して、村井氏は「これらの技術はネットワークの効率を上げるための洗練された技法であり、これを利用の目的と結び付けて考えるのは理解できない」と述べたという。

たしかに技術そのものは中立だが、それを「利用の目的と結び付けて考える」検察側の意図も理解できないことではない。立証の争点は、金子被告(Winnyの作者)が著作権法違反を助長する目的をもっていたかどうかだから、彼の2ちゃんねるでの発言が、そういう目的と結びつけられることは避けられない(誤解のないように付言するが、私はそれが正当だといっているわけではない)。

金子氏の書いた『Winnyの技術』(アスキー)を読むと、Winnyはソフトウェアとしても革新的であり、インターネットで映像などの重いファイルを共有するうえで重要な要素技術(階層化やクラスタリングなど)を含んでいることがわかる。もしも彼が2ちゃんねるではなく、学術論文でWinnyを紹介していれば、こういうことにはならなかったかもしれない。

チョムスキーの証明した「デカルト的理性」の限界

チョムスキー入門~生成文法の謎を解く~ (光文社新書)
私は学生のころ一時、言語学を志したことがある。もともとは哲学に興味があったのだが、ソシュールやヴィトゲンシュタインなどを読むうちに、言語こそ哲学のコアであるという感じがしたからだ。当時は文科2類からはどの学部へも行けたので、文学部に進学することも真剣に考えたが、当時の言語学科はチョムスキー全盛で、その単純な「デカルト的」理論には疑問を感じたのでやめた。

初期のチョムスキーは、言語学を応用数学の一種と考え、ニュートン力学のようなアルゴリズムの体系を完成させることを目標としていた。しかし言語を数学的に表現することはできても、そこには意味解釈が介在するため、物理学のように客観的な法則を導き出すことはできなかった。結局、「標準理論」と自称した初期の理論も放棄せざるをえなくなり、その後の理論は複雑化し、例外だらけになる一方だった。

生成文法の黄金時代は、未来のコンピュータとして「人工知能」が期待されていた時期と重なる。日本の「第5世代コンピュータ」プロジェクトでも、日本語を理解するために生成文法の一種を組み込んだパーザ(文法解析機)をつくることが最大の目標だった。しかし、このプロジェクトは、10年で300億円あまりの国費を使って、失敗に終わった。

チョムスキー学派も70年代からは分裂し、当時の対抗文化の影響もあって「生成意味論」や「格文法」など、生成文法を根本から否定する理論が登場した。これらは学派としては消滅したが、「主流派」の側も、拡大標準理論、GB理論など変化・分裂を繰り返し、何が主流なのかわからなくなった。

現在チョムスキーの提唱している「ミニマリスト理論」は、初期の生成文法とは逆に「深層構造」を否定し、文の中の拘束関係だけを普遍文法と想定する理論で、個別の文法については何もいえない。中身がほとんどないので、アルゴリズムとしても実装できない。

結局、生成文法や人工知能が示したのは人間の知能は数学的なアルゴリズムには帰着できないという否定的な証明だった(これはこれで学問的な意味がある)。本書は、こうしたチョムスキー学派の解体の歴史をたどり、「言語学に科学的な論証法をもたらすかのように見えた生成文法は、現在のままでは科学的合理性から遠ざかっていくばかりです」と結論する。

日本では9・11以後、「反ブッシュ」の論客としてチョムスキーが人気を博し、その影響で今ごろ彼の言語理論を賞賛する半可通も出てきたようだ。しかし「絶対自由のアナーキスト」を自称し、ポル・ポトを擁護したチョムスキーの政治的な発言は、欧米では相手にされていない。彼の言語理論も、同じ運命をたどるだろう。

ウェブ進化論

梅田望夫『ウェブ進化論』(ちくま新書)が、ベストセラーになっている。アマゾンでは、あの『国家の品格』を抜いて、総合で5位だ。私もきょう買って読んだが、はっきりいって電車のなかで気楽に読めるのが唯一のとりえである。

「本当の大変化はこれから始まる」と銘打っているが、その中身はといえば「インターネット」「チープ革命(ムーアの法則)」「オープンソース」の三大法則だという。こんな話を今ごろ聞いて、感心する読者がいるのだろうか。グーグルがすごい、としきりに書いてあるが、出てくるのは「アドセンス」などのよく知られた話ばかり。その根拠として持ち出してくる"Web2.0"の意味もよくわからない。

要するに、ここ1,2年のIT業界の流行をおさらいして、キーワードを並べただけだ。たとえばロングテールの話などは、ウェブの数学的モデルとして重要な意味があるのだが、それもアマゾンやグーグルなどの事例を並べるだけ。話が横へ横へと滑っていって、ちっとも深まらない。

著者はシリコンバレーに住んでいて、こういう情報が現地でないと入手できないと思っているのかもしれないが、IT業界では、もう日米の距離なんてほとんどないのだ。まあブログもウィキペディアも知らないおじさんが入門書として読むにはいいかもしれないが、当ブログの読者には退屈だろう。

産業政策の亡霊

城山三郎氏の『官僚たちの夏』は、一九六〇年代の通産省の最盛期を描いた小説である。通産官僚である主人公・風越信吾は、資本自由化で外資が日本に進出してくることに危機感を抱き、企業の合併などによって外資に対抗し、国際競争力を高める法律をつくろうとする。しかし民間の経済活動への官僚統制をきらう政財界の抵抗によって、この法律は審議未了で廃案となり、風越は事務次官レースに敗れて通産省を去る。

風越のモデルは実在の通産次官・佐橋滋であり、特振法(特定産業振興臨時措置法)が一九六四年に廃案になったのも事実だが、特振法のような官僚統制が六〇年代に終わったわけではない。実際には、その後も特振法の精神は通産省の行政指導に受け継がれ、外資を排除して国内企業の「体質強化」をはかる産業政策が続いたが、そのほとんどは失敗に終わった。もはや日本は発展途上国ではないのだから、国内産業を保護することは有害無益だと批判され、産業政策は姿を消したはずだった。

ところが最近、経済産業省は再び特定の産業に補助金を投入する「ターゲティング政策」を打ち出し、死に絶えたはずの産業政策が亡霊のようによみがえろうとしている。この背景には、日本の官僚機構の深い病がある。

「よみがえる産業政策の亡霊」(『諸君!』2007年1月号)

Japan after livedoor

今週のEconomist誌で、ライブドア事件を論評している。論旨は、このブログの先週の記事とほとんど同じで、ライブドアのやったことは欧米なら明らかに犯罪だが、日本の規制には抜け穴が多すぎるので、検察のリークする情報は信用できない、というものだ。そして結論は、「市場原理主義」を批判するよりも規制を強化し、証券監視委の権限を強化してスタッフも増やすべきだ、ということである。

日ごろ「小さな政府」を一貫して主張しているEconomistが、「日本では、行政改革の問題は公務員の数を減らすことではない」と論じている。日本の公務員は、人口比でみると、OECD諸国の中でもっとも少ない(*)。それは、ある意味で日本の政府が「効率的」だったことを示している。金融業界のように新規参入を禁止しておけば、政府は業界団体を通じて「卸し売り」で企業を監視できるからである。これに対して、オープンな市場では、新規参入してくる企業を行政が「小売り」で監視しなければならないので、効率は悪くなる。

これは銀行と企業の関係にもいえる。邦銀の資産あたりの社員数は、外銀に比べてはるかに少ない。かつては、企業との長期的関係によってメインバンクは企業の「本当の数字」を知っていたので、他の銀行はメインバンクのモニタリングに「ただ乗り」できたからだ。しかし、金融自由化以後は資金調達が多様化したため、銀行のモニタリング機能も低下した。欧米では1980年代に問題になった、情報の非対称性による「エイジェンシー問題」が、日本では20年おくれで顕在化してきたのである。

こうしたモラル・ハザードを防ぐ手段として80年代に流行したのが企業買収である。とくにLBOは、買収対象の企業を「借金漬け」にすることによって、細かいモニタリングをしなくても一定の収益を上げることを経営者に強制できる。だから今回の事件を機に企業買収を制限しようというのは、逆である。企業買収が真の企業価値にもとづいて行われるように企業会計を監視するサービスは、一種の公共財なので、政府が供給したほうがよい。

(*)追記:総務省によれば、日本の公的部門職員数(独立行政法人を含む)は1000人あたり35人と、OECD諸国で最低である。ただし、ここには特殊法人や公益法人は含まれていない。

公共放送とは何か

通信・放送懇談会の最大の焦点はNHKだが、第2回の会合までに「公共放送は必要だ」という結論が出てしまったようだ。しかし、これまでの議論の経緯を聞いても、「公共性とは何か」という本質的な議論がされたようには思えない。そこを飛ばして、「NHKを何チャンネル減らすか」みたいな議論に入ると、「文字放送はやめるから受信料制度は残してください」といった業界と役所の取引になってしまう。

しかし、郵政民営化のときも問題になったように「公共的な仕事は官でなければできない」というのは官の思い上がりである。通信にしても電力にしても、公益事業的なサービスを民間企業が提供している分野はいくらでもある。「電力は公共のインフラだから特殊法人にして一律の電気料金にすべきだ」といった議論は聞いたことがない。これまでNHKが公共性の具体的な内容として主張してきたのは、

 ・災害報道
 ・ユニバーサル・サービス
 ・視聴率に左右されない高品質の番組

といったところだが、このいずれも受信料制度でなければできないことではない。災害報道は民放でも見られるし、大地震などになれば、民放でも定時番組の枠をはずして放送している。100%のユニバーサル・サービスが必要なら、衛星放送を使えばよい。高品質の番組は、有料放送でもできる。欧米のCS放送はみんな有料放送だが、NHKよりはるかに質の高い番組でも採算に乗っている。

最近では橋本会長は、有料放送化によって「視聴者を限ることは、情報弱者を作ることにつながる」といっているが、これは論理的に矛盾している。この「情報弱者」が有料放送の料金を払うことのできない人だとすれば、今も受信料は払っていないだろうから、これは違法行為を弁護していることになる。逆に、その人が今、受信料を払っているとすれば、有料放送になっても同じ料金なら払えるはずだ。

不払いについては、橋本氏は「官の力での取り立てはなじまない」からBBCのように罰則を設けず、民事訴訟でやるのだという。彼は、民事訴訟は官ではないと思っているのだろうか。裁判の結果を執行して取り立てる(あるいは差し押さえる)のは官の力である。

受信料制度を弁護するのに、こういう無内容な建て前論を持ち出すから話がややこしくなるのだ。NTTも東電も従量料金で公共的なサービスをしているのに、NHKだけが一律の受信料になっているのは、テレビの電波を電話や電力のように止めることができなかった50年前の技術的制約によってできた制度にすぎない。デジタル化によって従量制課金ができるようになった現在でもNHKが有料放送化を拒否するのは、契約者が激減することを恐れているためだ。

しかし、それは杞憂である。NHKでも、私が勤務していたころからいろいろなシミュレーションをしていたが、少なくとも報道に限れば、CNNのような有料の24時間ニュースとして十分採算に乗るという結果が出ている。娯楽やスポーツなどは、チャンネルごとに分割して民間に売却すればよい。問題は教育番組だが、これは100%パッケージの番組なので、リアルタイムで放送する必要はない。NHKがサーバー型放送で考えているように、オンデマンドでインターネット配信すればよいのである。NHKも、サーバー型では有料で学校向けに流すらしい。教育番組には「公共性」がないのだろうか。





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