2006年01月

ライブドアの功績

今週の週刊東洋経済で、ライブドア事件を特集している。それによれば、ライブドアの「錬金術」は、今回の逮捕容疑だけではなく、MSCBなどの金融技術から、株価操縦やインサイダー取引に近いものまで、実に多様な手口でやっていることがわかる。しかし、それが違法かといえば、ほとんど前例がないので、よくわからない。

このように「法の抜け穴をつく」というのは、必ずしも悪いことではない。デリヴァティヴなどの金融商品でもっとも利益が上がるのは、規制が多く整合性のない市場である。たとえば債券の利子には課税されるがゼロクーポン債には課税されないという税制の穴があるとすると、ゼロクーポン債などを組み合わせて利付債と同じポートフォリオを複製して税金を逃れる、というように「制度的レント」の鞘取りをするのが投資銀行の大きなビジネスだ。

もちろん行政のほうは、そういう穴をふさごうとするから、やがて利鞘は縮小し、投資銀行は「焼畑農業」のように次の未発達な市場をねらう・・・といういたちごっこによって制度のひずみが是正され、市場が成熟してゆくのである。この意味で「行政の対応が後追いだ」というのは、どこの国でも制度を変更した直後には起こることであり、日本の当局だけがバカなわけではない。

「規制改革がライブドア事件を生んだ」というに至っては論外である。こういう事件を絶無にしようと思えば、昔の護送船団行政のように銀行・証券への参入を禁止し、役所の許可した金融商品しか扱えないという時代に戻すしかないが、それは不可能である。日本はもう金融自由化のルビコン川を渡ったのだから、「原則自由」にして、問題が起きたら迅速に法律やその運用を手直しする、という事後チェックで対応するしかない。

ただ、時には当局の追いつくスピードをはるかに超えて巨額の利益を上げるグレーな業者が出てくる。その意味で今回の事件は、1980年代の米国に似ている。当時、投資銀行ドレクセル・バーナム・ランベールのトレーダー、マイケル・ミルケンが開発した「ジャンク債」によって、ドレクセルはピーク時で年間40億ドル以上の利益を上げ、ミルケンの年収は5億ドルを超えた。これを司法当局がインサイダー取引として摘発し、ミルケンは逮捕され、ドレクセルは倒産した。

しかしドレクセルの事件とライブドア事件を比べてみると、金額のスケールが2桁ぐらい違うばかりでなく、ライブドアのやり方がいかにもせこいのが情けない。彼らはジャンク債のような重要な金融技術を生み出したわけでもなければ、それを使ったLBOのような新しい企業買収の手法を開発したわけでもない。ダミー会社で株を転がして帳簿をごまかす程度の手法しかないようでは、どのみち挫折するのは時間の問題だっただろう。ライブドアの功績は、むしろ日本の資本市場がいかに未熟で、東証のシステムがいかにお粗末かという実態を明らかにしたことだ。

IP放送は放送だ

けさの朝日新聞によると、知的財産戦略本部がIPマルチキャストを「有線放送」と位置づけるように著作権法の抜本改正を提言するそうだ。この提言が実現すれば、「IP放送は放送ではない」という奇妙な状況が解消されそうだ。これはICPFでも提言し、拙著でも書いたことだが、気になるのは免許だ。まさかIP放送にも有線放送の免許を取れというのでは...

以前、知財本部のヒアリングを受けたときも、IP放送の差別扱いをなくすよう主張したら、意外に現場のスタッフ(文科省や総務省などからの出向)は賛成してくれた。彼らは特許については「プロ・パテント」だが、著作権についてはオープンだった。

ただ、IP配信に同意するかどうかは、最終的には権利者の判断である。テレビ局は、地上デジタルの行き詰まりを打開するために再配信を認めるだろうが、権利者の団体は反発しているようだ。所属タレントのメディア露出をコントロールしたい芸能事務所も、大きな「抵抗勢力」である。

しかし包括契約でも著作権料は入るのだから、彼らにとってもプラスになるはずだ。今のように著作権を個別に処理するコストが禁止的に高く、結果的に利用されないのは、消費者にとっても権利者にとっても不幸なことである。

監査法人の責任

ライブドア事件の捜査体制が容疑に比べて大げさすぎるという意見は、専門家のブログにも少なくない。証取法158条違反は、懲役5年以下、罰金500万円以下で、過去の判例でもほとんど執行猶予がついているという。エンロンやワールドコムのように経営が破綻したわけでもなく、「偽計」の規模もはるかに小さい。

「風説の流布」というのは、嘘の記者発表で株価を吊り上げたような場合に適用されるもので、今回のように投資事業組合を支配しているという事実を開示しなかったという「不作為」を風説とするのは過去に例がない。同じ証取法でも、159条には「相場操縦」という具体的な規定があるのに、今回それを使わなかったのは、取引の手続きを違法とするのがむずかしいと検察が判断したためだろう。いわば158条は令状をとるための名目で、「ガサ入れさえやれば証拠は出てくる」と踏んで見込み捜査をやった可能性もある。

新聞にはしきりに「本体でも粉飾か」といった観測記事が出るが、これは検察のねらいを夜回りで教えてもらっただけのことで、証拠があがっているかどうかはわからない。少なくとも監査法人は財務諸表に適正意見を出したのだから、彼らが見落としたか、経営陣にだまされたか、それともグルだったのか、のどれかを立証しなければならない。

したがって、エンロン事件でアーサー・アンダーセンが消滅したように、監査法人の責任も追及されるだろう。ライブドアの監査を行っていた港陽監査法人も、家宅捜索を受けたもようだ。これは会計士12人という中小の監査法人で、その代表社員はライブドアの宮内元CFOと共同で「ゼネラル・コンサルティング・ファーム」(通称ゼネコン)という会社を設立した(この会社も家宅捜索を受けたようだ)。

ライブドア・グループの財務は、すべてゼネコンで会計処理され、それを港陽がチェックしていたというから、一連の会計操作を港陽が見落としたということは考えにくく、黙認していた可能性が強い。これはエンロンのときも問題になったように、コンサルティングと監査を同一人物がやるという「利益相反」の疑いがある。

こういう「なれあい」は日本の会社の監査のほとんどに見られることで、この意味ではライブドアもきわめて日本的な会社だったわけだ。今回の事件を「市場原理主義」の結果だとか論評する向きも多いが、粉飾決算は日本企業のお家芸だ。今回はそれが公になっただけ一歩前進である。

自由のコスト

世間的には、もう「有罪」の判決が出たようなホリエモンだが、本人はいまだに全面否認で、検察は「100人体制」だという。弁護士や会計士にも「今まで出た話だけで公判を維持するのはかなり大変だ」という意見がある。今回の逮捕容疑である証券取引法第158条とは

何人も、有価証券の募集、売出し若しくは売買その他の取引若しくは有価証券指数等先物取引等、有価証券オプション取引等、外国市場証券先物取引等若しくは有価証券店頭デリバティブ取引等のため、又は有価証券等の相場の変動を図る目的をもつて、風説を流布し、偽計を用い、又は暴行若しくは脅迫をしてはならない。

という総論的な規定で、何とでも解釈できる。「風説の流布」は、これまでにも株価操縦にからんで立件された例が多いが、「偽計」のほうはあまり聞いたことがない。検察としては、本来は家宅捜索で証拠を固めて粉飾決算(商法違反)のようなはっきりした容疑で逮捕したかったが、株式市場が動揺したので、早く事態を収拾するためにとりあえず「別件逮捕」したのかもしれない。

問題になっている投資事業組合についても、情報開示義務はないので、その実態を隠していたことは違法ではない。したがって、ニッポン放送株のときの時間外取引と同じように「グレーだが違法ではないと考えた」という主張は、論理的には成り立つ。

こういうホワイトカラーの犯罪でむずかしいのは、「意図」の立証である。単なる過失ではなく「偽計」だとするためには、「相場の変動を図る目的をもつて」行ったという故意の立証が不可欠だからだ。エンロン事件の主犯Skillingなどは、証拠固めに4年以上かかり、初公判はこれから始まるほどだ。こういうとき、英米法では司法取引で内部の協力者を使うが、日本ではそれはできない。

そもそも証取法違反ぐらいの事件に検察が出てくるのがおかしい。証券取引等監視委員会は何のためにあるのか。「日本の経済犯罪についての捜査の武器は、ダンビラ(刑事訴追)しかないので、執行するほうも慎重になるし、一罰百戒しかできないので、結果的に残りの九九は見逃されてしまう」と捜査関係者は嘆いていた。

本来は、米国のSECのように日常的に取引を監視し、徹底的な情報開示を求めるしくみが必要だ。SECのスタッフは証券監視委の10倍以上いるが、この分野だけは「小さな政府」の例外である。本質的な行政改革とは、人減らしではないのだ。Rajan-Zingalesも指摘するように、資本市場の健全性を守る仕事には膨大なコストがかかるが、それは必要な「自由のコスト」である。

Saving Capitalism from the Capitalists

セイヴィング キャピタリズムRajan-Zingalesの新著の訳本が出た。邦題の『セイヴィング キャピタリズム』では何のことかわからないが、原題は「既得権益を守ろうと金融市場への規制を求める資本家から自由な資本主義を守る」という意味である。

「グローバリズム」が伝統を破壊する、という類の議論は俗耳に入りやすい(『国家の品格』もその一例)。しかし実際の統計をみれば、自由な金融市場が機能するようになったのは、ごく最近(1980年代以降)であり、それも英米など一部の国に限られる。日本やドイツでさえ、自由とはほど遠い。国際金融市場は脅威どころか、むしろ努力して維持しなければ機能しない脆弱な制度なのである。

著者は2人ともシカゴ大学の教授(Rajanは昨年からIMF)だが、彼らはフリードマンのように自由な市場を前提とするのではなく、むしろ市場の基盤となる財産権の保護がいかにして成立するかといった「制度」の問題を理論的・歴史的に分析している。これはHartやShleiferなどのハーヴァード学派の立場に近い。「ケインジアン対マネタリスト」などという対立は終わり、制度の研究では学界全体にコンセンサスができつつあるように思われる。

また問題を市場と政府の二分法ではなく、既存業者との関係で論じているのがおもしろい。これまでの経済学では、政府は「市場の失敗」を補正するvisible handだが、本書では既存業者の意を受けて規制によって新規参入を妨害する(Shleifer-Vishnyのいう)grabbing handである。

しかし彼らは「われわれの既得権を守れ」とは決していわない。「規制によって守られている弱者を救え」と主張するのだ。このような「既得権と弱者の連合」は、どこの国でもみられるありふれた現象だ。そして、こうした既得権益共同体を崩壊させる「蟻の一穴」がグローバルな市場からの圧力である。改革には「外圧」が一番だというのは、日本だけではない。

ロングテール

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CNETの森祐治さんのブログに、おもしろい指摘がある。Googleなどの広告は、従来のマス・マーケティングとは違い、「ロングテール」と呼ばれるカーブの裾野の部分を対象にしているのだという。これは、このブログでも取り上げた「ベキ分布」のことである。

ベキ分布の特徴は、横軸に商品を売れる順に並べ、縦軸にその売り上げをとると、裾野が長いということだ。左端のピークの部分がマス市場だとすると、裾野の部分はニッチ市場だが、この部分がきわめて長いと、その面積がマス市場を上回ることもある。この話題のきっかけとなったWiredの記事によれば、普通の本屋の在庫は最大でも13万タイトルだが、アマゾンの売り上げの半分以上は上位13万タイトル以外の本から上がっているという。

マス・マーケティングでは「20%の商品が売り上げの80%を稼ぐ」といわれるが、これはロングテールの途中で取引費用が売り上げを上回り、尾っぽが切れてしまうためだ。インターネットでは、取引費用が極度に小さくなるため、この尾っぽが果てしなく長くなり、その部分から上がる売り上げが大きくなるのだ。この尾っぽの部分に顧客を誘導するのがアマゾンの「おすすめ」である。

これがインターネットにおけるマーケティングがマス・マーケティングと決定的に異なる点であり、eBayやGoogleのAdSenceが成功した原因である。これから「通信と放送の融合」が進む際にも、インターネットではテレビのような大衆的な番組よりもマニアックな(少数の人に強く支持される)番組のほうが成功するだろう。

国家の品格

数学者の書いた国家論(?)がベストセラーになっているというので、読んでみた(新潮新書)。感想としては、これが売れる理由はよくわかるが、教えられることは何もない。「グローバリズム」を批判して日本の「伝統」を大事にすべきだ、という類の議論は、目新しいものではない。珍しいのは、数学者が「論理よりも情緒が大事だ」と論じていることだが、これも中身は「論理の無矛盾性は仮説が真であることを保証しない」という常識論だ。

この種の議論の弱点は、「市場原理主義」が悪だというなら、それよりよい制度とは何か、という対案がないことだ。著者が提示する対案は、なんと「武士道」だが、それは新渡戸稲造の近代版であって、現実の武士が武士道にもとづいて行動していたわけではない。

数学についての議論はおもしろいが、専門外の問題になると馬脚をあらわす。経済学を批判している部分などは、ハイエクやフリードマンを「新古典派の元祖」とするお粗末さだ。致命的なのは、タイトルに「国家」と銘打ちながら、国家についての考察が欠けていることだ。著者が理想化する「品格ある国家」とは、プラトン的な「賢人政治」だが、そんな国家は歴史上どこにも存在したことはない。

要するに、著者が数学者であることを除けば、フジ・サンケイ・グループの雑誌によくある「床屋政談」にすぎない。ただ著者は新田次郎の息子だけあって、文章は読みやすく、ユーモアもある。オジサンが電車のなかで読むにはいいかもしれない。

追記:この記事は、グーグルで「国家の品格」で検索すると、第6位に出てくる。反響にこたえて、4月3日8日の記事でも本書について書いた。

電波利権

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拙著が刷り上がり、アマゾンにもエントリーした。都内では、週末には本屋に並ぶだろう。タイトルは、ちょっと悪趣味かもしれないが、帯のキャッチフレーズ(私が決めたのではない)はもっとどぎつい。

店頭のポップには「NHKは民営化できる!」と銘打つそうだから、時節柄、数万部ぐらいは売れるかも知れない。『バカの壁』の1割でも売れてくれれば、今年は遊んで暮らせるのだが...

1970年体制の終焉

「情報通信省」の話は、見る見るうちに中央省庁全体の再々編に発展し、来週出される自民党の運動方針案にも急きょ盛り込まれることになった。1999年に再編したNTTの再々編に和田社長が「時期尚早」だとかいっているのに、2001年の省庁再編をもう見直すというのだから、今や自民党のほうがスピード感がある。

これに対しては「朝令暮改だ」という批判も当然あるが、ドッグイヤーのIT業界では、朝令暮改を恐れていては何もできない。政治的にも、かつて橋本政権で行われた省庁再編を台なしにした郵政族が壊滅した今こそ、総務省を解体して津島派(田中角栄以来の利権集団)をたたきつぶそうというのは、郵政民営化の続きとしては一貫しているともいえる。

その再々編を実行することになるのは、下馬評によれば安倍晋三氏になる可能性が高い。彼が岸信介の孫であることは、偶然ではない。これは1970年代から旧田中派によって築き上げられた「大きな政府」路線を否定し、自民党を岸に連なる「保守本流」の路線に引き戻すことに他ならないのである。

「1970年体制」という見方は、かなり前から奥野正寛氏などの経済学者によって提唱され、原田泰氏は『1970年体制の終焉』(東洋経済)という本も書いている。去年、話題になった増田悦佐氏の『高度経済成長は復活できる』(文春新書)も、田中型の「弱者救済」政治が日本の成長率を低下させたという議論だ。

そしてバブルの崩壊とともに1970年体制が終わる、という見通しも彼らに共通している。しかし、それに代わる「2005年体制」(?)はどんな時代なのだろうか。まさか「高度経済成長」ではないだろうが...




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