「家畜化」した日本人はリスクをきらって貧しくなった

日本人がこの30年に貧しくなった大きな要因は、資産運用がへただったことだ。家計金融資産のうち預貯金が51%で、保険・年金などが25%。つまり76%がゼロ(マイナス)金利の金融商品なのだ。このようなリスク回避的なポートフォリオは世界にも類をみない(図1)。


図1

2010年代は、資産形成のチャンスだった。株高とドル高が進み、2012年にNYダウのインデックス投信を100万円買っていれば、今ごろ450万円になったはずだ(図2)。


図2

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民社党の「改良主義」は社会党の「夢想主義」に勝てなかった(アーカイブ記事)

戦後史のなかの日本社会党―その理想主義とは何であったのか (中公新書)
自民党が少数与党になっても、野党に期待する声はあまり聞こえない。バラバラの野党がまとまる気配もなく、減税ポピュリズムは自民党の劣化コピーだ。野党がここまでだめになった原点には、55年体制の社会党にある。

社会党も最初からそうだったわけではない。1950年代には自民党の対米従属路線に対抗する独自の安保構想を考えた西尾末広などの右派があり、60年代にはヨーロッパの社民党のような道をめざす江田三郎などの構造改革派もあったが、すべて党から追放された。

労働組合が経営を考える必要がないように、万年野党が政策を考える必要はない。政権につくことを考えなければ、なるべく美しい理想主義をとなえたほうがいい。このように実現できない理想をとなえる社会党の体質を著者は夢想主義と呼ぶが、これが他の野党やメディアにも感染し、日本の政治には自民党以外の選択肢がなくなってしまった。続きを読む

蒋介石はなぜ日本軍に勝ち、毛沢東に敗れたのか

蒋介石 ――「中華の復興」を実現した男 (ちくま新書)
第2次大戦を振り返ると、日米戦争で日本が負けたのは当たり前だが、中国が14年も粘ったのは意外だった。当時も日本軍は満州事変のように簡単に国民党を倒せると思っていたようだが、蒋介石は意外にしぶとかった。そのパワーの源泉は何だろうか。

一つは日中戦争が世界史上初のゲリラ戦だったことだろう。日本軍は正規軍だったが、国民党軍のほとんどは民兵だった。装備は貧弱だったが人数は多く、正規軍との見分けがつかなかった。中国共産党もソ連の支援を受けて国民党と戦ったが、1936年の西安事件で国共合作が実現し、全滅をまぬがれた。

もう一つはアメリカである。蒋介石はルーズベルトにたびたび書簡を送って日本と戦うよう進言し、妻の宋美齢は訪米してロビー活動した。1941年に日本が南部仏印進駐した直後、蒋介石はアメリカに対日石油禁輸して「最後通牒」を出すべきだと進言し、ルーズベルトはその通り日本を追い詰めて日米戦争を始めた。蒋介石は抗日戦争に勝ったのではなく、アメリカを利用して日本を大陸から追い出したのだ。

中共が本格的な内戦を始めたのは、日米戦争が始まった1943年以降である。蒋介石の方針は孫文の三民主義を継承して中共を排除するものだったが、これに対して毛沢東は蒋介石を「ファシスト」と攻撃した。日本軍は50万人の兵力を投入して「打通作戦」で成都爆撃などを実行したが、これは結果的には国民党政権への打撃となった。

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イエスという男

イエスという男 第二版 増補改訂
田川建三氏が死去した。子供のころ無理やり日曜学校に行かされたいやな思い出と教会の偽善的な雰囲気がきらいだった私は、学生時代に彼のキリスト教批判で目を開かれた。本書は精密な文献考証をもとにして、等身大のイエス像を描く名著である。

イエスについてわかっている史実は、紀元前4年ごろナザレに生まれ、ガリラヤを拠点として説教を続け、30歳ぐらいのときエルサレムに出てきて逮捕され、十字架にかかって処刑されたことだけだ。イエスという名前はありふれたもので、同時代の記録は残っていない。

したがって西暦80年以降に書かれた福音書の物語が史実だという根拠はなく、福音書は著者もいうように「歴史小説」だが、そこには独特な人物像が浮かび上がってくる。それは「神の子」でも「愛の説教者」でもなく、皮肉な譬え話でユダヤ教の律法やローマ帝国の支配体制を批判した異端者である。

たとえば有名な「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という言葉は「政治と宗教は別だ」と解釈されているが、イエスの真意は違う。デナリ貨幣には皇帝の顔が彫ってあるが、律法では異邦人の偶像のある貨幣は神殿への献金には使えない。だから皇帝への税に使えばいいじゃないか、と彼は皮肉ったのだ。

このようにユダヤ教の律法を相対化し、ローマの支配を間接的に批判することがイエスのテーマだった。彼の教えはローマの属領として律法で二重に支配されていた民衆の不満を代弁し、律法を超える普遍主義だったがゆえに、彼はローマ帝国からもユダヤ律法からも警戒され、処刑されたのだ。

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大正陸軍のルサンチマンが昭和陸軍の暴走を生んだ

帝国陸軍―デモクラシーとの相剋 (中公新書)
「戦後80年談話」は見送られ、石破首相は戦没者追悼式で「あの戦争の反省と教訓を今改めて深く胸に刻まねばならない」と述べたが、何を反省するのかはいまだにはっきりしない。日米戦争がバカげた戦争だったことは明らかだが、日中戦争はどうか。そもそも陸軍は、何のためにあれほど戦線を拡大したのか。

一般には昭和陸軍の勇ましいイメージしか知られていないが、本書によるとその原点には大正陸軍のルサンチマンがあったという。第一次大戦の被害が予想をはるかに超えて大きかったため、世界的に「アンチ・ミリタリズム」の風潮が強まり、日本でも兵士が制服を着て街を歩けなくなった。

大正デモクラシーで議会の力が強まると軍縮の圧力となり、宇垣軍縮でリストラがおこなわれた。陸軍の中でも、社会主義の影響を受けた「革新派」が増えた。1930年代の大不況の中で青年将校は農村の窮乏化を憂い、財閥や政党を敵視し、暴力によって権力を掌握するクーデタ未遂事件をたびたび起こした。

石原莞爾は満州に計画経済を建設しようとして満州事変を起こしたが、これは陸軍の大勝利となり、世論は逆転して軍国主義一色となった。昭和陸軍は時代の花形となり、統制派が主要ポストをおさえたが、その中枢だった永田鉄山が暗殺されると命令系統が混乱し、二・二六事件で暴発した。

これを鎮圧した石原は政局に介入し、1937年に宇垣内閣の組閣を阻止し、ともに満州事変を起こした林銑十郎を首相にした。ところがこの政治介入に軍縮を求める世論が反発し、梅津陸軍次官が林や石原など「満州派」の人事に反対したため、林首相は石原を参謀本部から追放した。

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キリスト教思想への招待(アーカイブ記事)

キリスト教思想への招待
キリスト教と植民地支配の関係は深い。というよりキリスト教が世界宗教になったのは植民地支配のおかげだ、と田川建三氏はいう。新約聖書はギリシャ語で書かれたが、それはギリシャ人が担い手だったからではない。当時のギリシャ語は、ローマ帝国の領内では今の英語のような共通語で、多くの人はそれとは別に現地語で話していた。

つまりヘブライ語で書かれた旧約とは違って、キリスト教は最初からグローバルだったのである。その教義もユダヤ人のための宗教ではなく、誰でも信仰のみによって救済されるという普遍主義だった。この決定的な違いに気づいたのが、パウロだった。彼はトルコ生まれのローマ市民で、ユダヤ人だがギリシャ語を話した。つまり彼は生まれながらの国際人で、ローマ帝国の領内を何度も旅行し、多くの(異なる言語を使う)大都市で布教した。続きを読む

大企業を海外に追い出す中田敦彦の「逆ノミクス」は共産党と同じ

今週はお盆休みなので、どうでもいい話を紹介しましょう。中田敦彦さんが「国債で減税していいのか?」という動画を発表しました。



1時間もあるので、チャットGPTに要約してもらいました。

①お金の歴史と国債の意味(略)

②MMT(現代貨幣理論)と日本の活用
  • アメリカのMMT:減税や給付金で景気刺激 → インフレ時は増税で回収
  • 日本のやり方:アベノミクスで国債発行・ゼロ金利 → 円安誘導 → 輸出企業支援
  • 結果:大企業は最高益・内部留保増、しかし賃金上昇は起こらず(トリクルダウン不発)
③副作用と現在の難病
  • 国債を大量発行し続けても破綻はしないが、利払い負担のため金利を上げられない
  • 金利差を狙ったキャリートレードで急激な円安 → コストプッシュインフレ
  • 日銀は金利を上げられず、通貨政策が封じられる「金融政策不全」に陥る
④「国債で減税」の問題点
  • 減税はデフレ対策であり、インフレ局面でやれば物価をさらに押し上げる
  • 国債を増やせば金利引き上げはさらに困難になり、現状悪化の可能性大
⑤提案「逆ノミクス」
  • 法人税増税で消費税減税の財源を確保し、余剰分で国債を返済
  • 対GDP比の国債残高を約120%まで減らし、金利操作機能を回復
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広島・長崎への原爆投下は「安上がり」だったのか

きょうは長崎に原爆が投下されてから80年目である。参院選では参政党のさや候補が「核武装は安上がりだ」と主張して論議を呼んだが、殺傷する人数でみると核兵器が低コストであることは事実だ。

広島に投下された原爆の死者は約15万人、長崎は8万人と推定されているが、東京大空襲の死者は100回の合計で約12万人だった。



ただ実際の戦争で使うとなると、爆発力以外の複雑な要因がからむ。広島・長崎の場合は「本土決戦による死傷者100万人を避けるためだった」というのがアメリカ政府の説明だが、これには疑問がある。

これはスティムソン陸軍長官の「ダウンフォール作戦(本土決戦)の死傷者は100万人」というアバウトな見積もりが根拠だが、統合参謀本部の計算では米軍の死傷者は4万人だった。

ただ沖縄戦では日米で軍民20万人の死者が出たので、米軍が1945年11月に九州に上陸して東京まで攻撃すると、その10倍以上の死者が(日米の軍民で)出ることは確実だ。これに比べると、広島・長崎の合計23万人という死者は少ない。

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誰が日本を降伏させたか

誰が日本を降伏させたか 原爆投下、ソ連参戦、そして聖断 (PHP新書)
毎年8月になると出てくる原爆ネタだが、新事実が書いてあるわけではない。今までと違うのは、アメリカが原爆投下を正当化する理由としてきたコスト最小化論を検証したことだろう。

沖縄戦で予想外に大きな損害をこうむった米軍は、次の九州上陸(オリンピック作戦)や本土決戦(コロネット作戦)に消極的だった。オリンピック作戦は1945年11月、コロネット作戦は46年3月に予定され、両方あわせて「ダウンフォール作戦」と呼ばれた。

スティムソン陸軍長官は「ダウンフォール作戦で米軍に100万人の死傷者が出る」と述べた。これが「原爆は100万人の命を救った」といわれる根拠だが、統合参謀本部の予想では本土決戦の戦死者は4万人だった。ただ本土決戦では沖縄戦(死者1.3万人)よりはるかに多くの死者が出ることは確実で、米軍のコストを最小化する戦略として原爆は有力だった。

もう一つの論点は、原爆投下なしで日本は降伏したのかという問題である。ヤルタ会談ではソ連が対日参戦する密約がかわされたが、日本政府はこれを知らず、ソ連の仲介で停戦に持ち込もうとしていた。ソ連が参戦したら大きな衝撃を受け、降伏するという予想が正しいとすれば、原爆投下は戦略的には不要だったことになる。

ポツダム宣言との関係もよく議論になる。日本に降伏を呼びかけるポツダム宣言が出されたのは1945年7月26日だが、その前日に陸軍長官と陸軍参謀総長は原爆投下を承認した(トルーマン大統領は命令しなかった)。巨額の予算を投じて完成した原爆を使うために、ポツダム宣言は日本政府に受け入れられない「無条件降伏」の条件を出したのではないか。

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「あの戦争」は何だったのか

「あの戦争」は何だったのか (講談社現代新書)
大東亜戦争はいまだに日本人のトラウマになっているが、それは単に負けたからではなく、「不正義」の戦争だったと東京裁判で断罪されたからだ。しかし正しい戦争も悪い戦争もない。あるのは勝った国が負けた国を支配する「ジャングルの掟」だけだというのが、第1次大戦までの国際法の考え方だった。

1928年の不戦条約で、他国の領土を軍事的に占領する侵略は悪だというルールができたが、このルールはそれ以前に他国を植民地支配したヨーロッパ諸国には適用されなかった。日本はこのような身勝手な「正義」に反対し、1919年のパリ講和会議では国際連盟の規約に「人種差別撤廃」という条項を入れるべきだと提案した。

しかし日本がアジア諸国を同胞として平等に扱っていたわけではない。「八紘一宇」は神武天皇の言葉として日本書紀が伝えたもので、大東亜共栄圏は天皇を中心とする大日本帝国の秩序をアジア全体に拡大するものだった。

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