ベキ分布

ブラック=ショールズ式は金融工学の基本定理として有名だが、これでノーベル賞を受賞したショールズとマートンの運営したLTCMというヘッジファンドは破産した。これは当時、経済学がだめな証拠といわれ、ノーベル賞を取り消すべきだなどという議論もあったが、実際の破綻の原因は、理論を無視してロシアの国債を大量に買うなどの単純な投機の失敗だった。

・・・というのが定説だが、高安秀樹『経済物理学の発見』(光文社新書)によれば、やはりブラック=ショールズ式はまちがっているのだという。それが非常にエレガントなのは、価格の変動が正規分布に従うと仮定しているからだが、外国為替市場などのデータは、横軸に変動の大きさ、縦軸にその頻度をとると、左端にピークがあり、右側の裾野が広い「ベキ分布」になる。つまり、極端に高い価格や低い価格のつく「不均衡状態」が起こりやすいのである。

価格が正規分布になるのは、それが完全にランダムなブラウン運動になる場合だが、為替ディーラーの行動は、ランダムどころか、互いに他のディーラーをみながら行動するので相関が強く、特定の方向にひっぱられる「カオス的」な動きを示すことが多い。その結果、極端に大きな変動が5%ぐらいあるが、ブラック=ショールズ式で近似できるのは残りの95%の小さな変動だけなのである。

Regulatory capture

日歯連のスキャンダルは、実は政策のゆがみの典型ではない。こういうふうに現金が渡る事件は摘発しやすいので目立つが、大部分の問題はこんなわかりやすい形では起きない。

もっとも多いのは、業者が規制当局に入り込んで影響を及ぼすケースだ。金融行政で問題になった「MOF担」がその典型だが、業者が官僚や政治家に情報を提供する代わりに政策を自分に有利な方向に誘導する現象は、世界共通にみられる。政治家もキャリア官僚も「ジェネラリスト」で、個別の業界事情はよく知らないから、具体的な法案を作る作業は、業界団体やロビイストの助けを借りないとできないのが実態なのだ。

金融やITなど、高度な専門知識を必要とする業界ほど、こうした"regulatory capture"は重症になる。かつては銀行行政に関する法案は、興銀の総合企画部が起草したといわれるほど「丸投げ」だった。興銀からは同期のトップが大蔵省(当時)に「天上がり」し、官民一体で政策が作られた。私の大学時代の同期で大蔵省に入省した女性キャリアは、天上がりした興銀マンと結婚した。

「ITゼネコン」が「ご当局」に影響を及ぼす方法も同じだ。あるITゼネコンの幹部は「キャリアのみなさんは2年ぐらいで部署が変わるので、われわれがご進講せざるをえない」といっていた。こういうバイアスのかかった情報提供(soft money)は、現金よりもはるかに有害で、駆除しにくい。抜本的な解決策は、政府が経済活動に関与する領域を減らすしかないのである。

日歯連

捜査は結局、会計担当者を起訴しただけで幕引きになるようだが、この事件の本質は、橋本龍太郎氏に渡った1億円よりも佐藤勉代議士のルートにある。国民政治協会を通じて迂回献金を行うしくみは、大規模かつ組織的に行われているといわれ、今回の事件はそれを摘発する絶好の機会だったのに、検察は結局、見送った。

この種の「特殊権益」の原因は、政治家のモラルの問題ではなく、民主制の構造的な欠陥にある。たとえば歯医者の初診料というのは、ほとんどの人には何の関心もない問題だが、歯医者にとってはきわめて重要であり、彼らは詳細な情報をもっている。したがって日歯連がこれを引き上げるために政治家を使うインセンティヴは強く、その利益も大きい。これに対して、引き上げを阻止することによる消費者の利益は、集計するとはるかに大きいが、個人にとっては小さい。その結果、消費者の無関心(情報の非対称性)を利用してロビイングを行うモラル・ハザードが生じるのである。

これはゲーム理論でよく知られる「囚人のジレンマ」の一種で、一般的な解決策はない。根本的な問題は、議会制民主制の基礎にある投票というシステムの欠陥にあるからだ。ひとつの対策は、インターネット投票などによって投票コストと利益の乖離を縮めることだが、その差は原理的にゼロにはならない。政治資金規正法などによって規制する方法には、処罰される側が立法するというもっと明らかな限界がある。

地方分権によって地方政府どうしの競争原理を導入するというのもひとつの方法だが、これは逆効果になる可能性もある。ひもつき補助金をやめて自主財源にすると、みんな「箱物」やバラマキ福祉に化けてしまうというのが、これまでの経験である。特殊権益の構造そのものは地方政府でも変わらないので、行政官の質が落ちると、モラル・ハザードは大きくなるかもしれない。

現実的な対策は、ロビイストたちの利益の源泉になっている情報の非対称性を減らすことだろう。たとえば、歯科診療報酬が政治によっていかに歪められているかという情報がメディアやインターネットで明らかにされれば、消費者がそれを基準にして投票行動を変え、特殊権益に奉仕することが割に合わなくなるかもしれない。

こうしたモラル・ハザードが最大になっているのは、電波である。数兆円の価値のある電波が浪費されているのに、消費者は気づかず、それを知っているメディアが問題を隠しているためだ。ここでも、対策はインターネットによって情報に競争原理を導入するしかない。

野中広務

私は2年前、野中広務氏から内容証明付の手紙をもらったことがある。デジタル放送についての私の論文(ウェブでは野中氏の名前は削除してある)が彼の「名誉を著しく毀損」したので、「法的手段に訴えることもありうる」というものだった。

手紙にハンコをもらいに来た秘書は「これって、あの有名な野中さんですか?すご~い。がんばってくださいね」と励ましてくれたが、研究所と経産省はパニックになった。理事長に呼び出され、顧問弁護士と打ち合わせをし、東洋経済とも協議して丁重に返事を出し、結果的にはそれで終わったが、このときは野中氏(当時は橋本派の事務総長)の力の大きさを痛感した。

しかし私は、ある意味で野中氏を尊敬している。私も彼と同じ京都の出身だから、被差別部落に生まれるというハンディキャップがいかに大きなものであるかはよく知っている。それを乗り越えて自民党の最高権力者になるには、単なる権謀術数だけではなく、人並みはずれた能力と努力があったはずだ。魚住昭『野中広務 差別と権力』は、そうした彼の実像を当事者への取材によって克明に描いている。

私が野中氏の政治手腕に敬服したのは、2000年の接続料交渉のときだ。USTRのわけのわからない値下げ要求に対して、郵政省もNTTも値下げ幅を数%値切る交渉に全力を費やしていたが、3月末のデッドラインを超して沖縄サミットが近づいても、交渉は決着しなかった。ところが野中氏は、サミットの直前になってホワイトハウスと話をつけ、米国の要求をほぼ丸呑みする代わりにNTTへの規制を緩和する「政治決着」を実現したのである(これがのちの宮津社長のドタバタの遠因となる)。

このように日本の政治家にはまれにみる大局観をもつ野中氏も、小泉内閣への対応は誤った。小泉氏の緊縮財政の背後には、財政破綻を恐れる財務省の力があり、「弱者」を守ろうとする野中氏は、それに真正面から「抵抗」して敗れたのである。しかし自民党の集票基盤だった農協や特定郵便局は、現在では弱者を守るシステムではなく、弱者を食い物にする連中の既得権にすぎない。それを丸ごと守ることは、弱者にとって意味がないばかりでなく、自民党にとっても大した役には立たないのである。

ネオコンの死?

Economist誌によれば、ネオコンは死んだようにみえるが、その共和党右派への影響力は残っているという。

ネオコンの源流は、トロツキストや民主党左派にあり、彼らのめざすのは「大きな政府」である点で、共和党の本流とは違う。そのイデオロギーの特徴は、「保守主義」というよりは「価値絶対主義」である。自由主義や民主主義といった米国憲法の原則は絶対的な真理であり、米軍がイラクを征服すれば、彼らは日本人のようにそれを歓喜して迎えるだろう――という彼らの自民族中心主義は、ポストモダン的な懐疑主義へのアンチテーゼなのだ。

ネオコンの教科書ともいえるケーガンの本の原題は"On Paradise and Power"で、欧州のポストモダンが冷戦後の世界を「平和の楽園」とみるのに対して、現実は逆に民族対立やテロリズムなど「力」(権力・武力)の重要性の増す時代だという。こうした混沌とした世界では、ポストモダンのようなニヒリズムは有害であり、絶対的な「自然権」にもとづく倫理が必要だ、というのが彼らの教祖レオ・シュトラウスの主張である。

疑いえない「自然な」規範が存在するのかどうかは、法哲学の永遠の争点だが、従来は「分配の正義」を主張するのが民主党で、そういう規範の存在を否定するのが共和党という色分けだった。この意味でもネオコンは突然変異であり、ブッシュ政権の主流であるキリスト教右派と似ている。現代の米国でこうした「反動思想」が勢いを得ている原因は、ブッシュ政権だけの問題ではないし、マイケル・ムーアのような下部構造決定論でも説明がつかない。

米国憲法は、ハンナ・アーレントもいうように、独立した市民が自由や平等などの抽象的な原理によって公共空間を構築できるかどうかという実験だった。しかし、その実験は200年余りをへた今、失敗したようにみえる。人々が豊かになり、飢えや生活苦から解放されるにつれて、逆に精神的な不安は強まる。米国民の9割が神を信じている(その比率は上がっている)という事実は、人間は絶対的な自由=孤独には耐えられないという平凡な真理をあらためて示している。ネオコンの背後にあるのは、こうした価値の崩壊への不安なのである。

やらせ

世の中で、いかにもテレビ業界用語のように使われているが、実際にはテレビ局で使われていない言葉は、けっこうある。「やらせ」もその一つだ。これは新聞のつくった言葉で、テレビ局では使わない。

あるものだけ撮っても絵にはならないので、何らかの意味での「やらせ」なしには、ドキュメンタリーは成り立たない。「新日本紀行」などは、今の基準でいえば、最初から最後まで「やらせ」である。「やらせだ」と批判されて会長が謝罪する騒ぎになったNHKスペシャル「ムスタン」のディレクターは、最後まで辞めなかった。査問する管理職に「あれで辞めるなら、あなたの作った昔の番組はどうなのか」と開き直ると、だれも答えられなかったという。

もう時効かもしれないからいうと、芸術祭大賞をとったNHKスペシャル「私は日本のスパイだった」で、スパイだったと自称するベラスコというスペイン人も、実在したかどうかあやしい(スペイン人を使った諜報組織があったことは事実らしいが)。民放から「ドラマにしたいので連絡先を教えてほしい」という申し入れがあったが、「取材源の秘匿」を理由にして断った。画面で顔も名前も出しているのに、何を秘匿するんだろうか。

組織はなぜ自転するのか

社会保険庁バッシングも盛んである。問題の最大の原因は、自治体の社会保険事務を行う公務員を「地方事務官」という国家公務員と地方公務員の中間の変な形にしたため、「国費評議会」という自治体労組の全国組織ができ、合理化に反対したり高賃金を要求したりするのを放置してきたことにあるといわれる。

これは社保庁だけの問題ではない。昔の国鉄や電電公社(今のJRやNTTにもその名残りは強く残っている)、あるいは今の郵政のように、国営で現業職員の多い組織では、労務が出世の本流で、組合と「腹を割って」話ができることが経営者の必要条件だ。こういう組織では、独占でキャッシュフローが安定しているので、問題はその分け前の交渉だけだからである。

似たような現象は、1970年代の米国でもみられ、経営者によるキャッシュフローの無駄づかいで破綻するコングロマリットが続出した。これをマイケル・ジェンセンは、プリンシパル(株主)を無視してエージェント(経営者)がempire buildingを行う「エージェンシー問題」だとしたが、日本ではトラブルを避け、「身内で仲よく」という方向に流れる傾向が強い。

こういう状態を、山本七平は「自転する組織」と呼んだ。組織が目的を見失って自転し始めると、帝国陸軍のように組織全体が壊滅するまで止まらないことが多い。それを外部からチェックするのが銀行や官庁の役割だが、そこにもエージェンシー問題(癒着)が起こらないという保証はない。最後は、情報を公開して消費者(納税者)がチェックするしかない。究極のガバナンス装置は、市場なのである。

新聞休刊日

今日は「新聞休刊日」である。

休日でもない日に新聞だけが休みになるというのは、世界にも例をみない奇習だ。しかも、なぜ全紙いっせいに休まなければならないのか。読者の不便を考えるなら、せめて各社ごとに休む日を変えるのが当たり前だろう。休みの日に他紙を読まれると、自社のお粗末な報道がわかって困るのだろうか。

労働の軽減という観点からいうと、少なくとも土曜の夕刊をやめたほうが合理的だろう。本来は、大阪の産経のように夕刊なんか全部やめ、販売店も各社で共有すればいいのだ。こんな簡単な合理化もできない新聞社に、郵便局を合理化しろなどと説教する資格はない。

アンチ・オイディプス

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)
ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は、副題が『資本主義と分裂症』とあるように、分裂症(今日の言葉では統合失調症)を家族関係や個人の意識の中で考える精神分析を否定し、分裂症をいわば資本主義の鏡像と考えるものです。

伝統的な社会が個人を共同体に埋め込むコード化によって安定を維持し、専制国家はそれを中央集権化する領土化で秩序を保ったのに対して、資本主義は既存の秩序を破壊する脱領土化によって変化やイノベーションを生み出して利潤を追求し、それを資本として蓄積するという話です。

しかし脱コード化だけでは秩序が維持できないので、所有権などの法秩序によって再コード化しなければならない。このように資本主義の中には、秩序を破壊するノマド的な面とそれを維持する官僚的な面が共存しており、この正反対のベクトルの圧力によって個人の内面がバランスを失うのが分裂病だ、というのが大ざっぱなロジックです。

これはフロイト以降の精神分析がもっぱら家族に焦点を当てるのに対して、フロイト左派の社会的な文脈を重視する流れの一環で、レインなどの「反精神医学」とも共通するのは、分裂病を資本主義のストレスによるものと考える点です。したがってそれは病気ではなく、オイディプス・コンプレックスのような神秘的な概念で説明すべき家族の問題でもありません。

これが精神医学として有効なのかどうかは疑問がありますが、資本主義がこういう分裂をはらんだ奇妙な経済ステムであることは事実で、長期的に維持することはむずかしい。しかしイギリス資本主義だけは生き残り、今日では資本主義がほぼ世界をおおうに至りまし。その秘密は、資本主義が脱コード化によって生まれる利潤を暴力装置としての国家によって再コード化する装置をそなえていたからだ、とD-Gは考えます。

資本主義から国家へ

『アンチ・オイディプス』の続編の『千のプラトー』では、これを戦争機械という概念で説明しています。それは国家が戦争のための機械だという意味ではなく、逆に戦争を抑止する装置として国家が生まれた、というのが彼らの発想で、これはフクヤマなどの最近の政治学の議論に通じる面があります。

この戦争機械を動かすのは、人々の欲望のアレンジメントとしての権力です。この点で彼らの方向は、同じ時期に権力の問題と取り組んだフーコーと共通点があります。ドゥルーズはフーコーの『監獄の誕生』を批判して、権力はパノプティコンのようなわかりやすい形であらわれるのではなく、不可視のネットワークとして成立するのだ、と書いています。

これは実はフーコーも考えていた問題で、死後に公開された講義録では規律社会とか統治性という概念で、こうした不可視の権力を考えています。資本主義について深く考えた彼らが、互いに独立に最晩年に国家の問題にたどりついていたことは興味深い。われわれの出発点は、そのへんにあると思います。

アフターダーク

村上春樹の「デビュー25年記念作」を読んだ。

私は、その25年前の『群像』1979年6月号から、彼の小説はリアルタイムですべて読んできたが、その中でいうと、本作は5段階評価の「3」というところだ。ちなみに、「5」は「1973年のピンボール」だけ。

『海辺のカフカ』の延長上で、中途半端にストーリーがあって読みやすいが、イメージに力がなく、リアリティに乏しい。コアになる「眠る女」のイメージが、他の連れ込みホテルなどの話と噛み合わず、浮いてしまっている。彼はもともと長編作家ではなく、細部の造形力で勝負する作家だが、『ノルウェーの森』の成功で「大家」になって、初期のようなシャープさがなくなってしまった。

しかし、彼が世界に通用する唯一の日本人作家であることには変わりない。初期の作品を超えるのはもう無理だと思うが、変に老成せず、これからも新しいフロンティアを開拓してほしいものだ。


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