差異性の経済学

東洋経済の読書特集で一番おもしろかったのは、『国家の罠』の著者、佐藤優氏の「獄中読書記」である。拘置所では集中力が高まり、512日間で220冊読んだそうだが、彼がグローバル資本主義を理解する上でもっとも役に立ったのが、宇野弘蔵だったという。

私の学生時代、東大の経済学部には「原論」がAとBの二つあって、Aがマル経、すなわち宇野経済学だった。宇野の特徴は、マルクス経済学を「科学的に純化」し、イデオロギー性を抜きにして『資本論』の論理を洗練しようというものである。これは、世界的にみても珍しいマルクス主義の進化だった。もちろん「党」からの批判も強く、党の方針に従う人々は京大を中心にして「マルクス主義経済学」を名乗ったが、学問的な水準は宇野に遠く及ばなかった。

宇野の理論でグローバル資本主義を説明できる、という佐藤氏の直感は正しい。その論理構造は、ウォーラーステインの「近代世界システム」とよく似ている(というか宇野のほうが先)。要するに、資本主義は差異によって利潤を生み出すシステムだという考え方である。その限界が、宇野によれば恐慌なのだが、弟子の鈴木鴻一郎(*)や岩田弘などの「世界資本主義」派は、差異化のメカニズムを世界市場に拡大し、植民地との間にグローバルな差異をつくり出すことによって資本主義を延命したのが帝国主義だとする。こういう議論は岩井克人氏や柄谷行人氏の話でもおなじみだが、これはもちろん彼らが宇野をパクっているのである。

宇野のマルクス解釈は、「ポストモダン」を先取りしてもいた。デリダは『マルクスの亡霊』で、マルクスが価値の実体は「幽霊的」なものだとして古典派経済学の形而上学を批判したことを高く評価したが、結局は労働価値説に価値実体を求めたことを批判した。これに対して宇野理論は、「流通過程が生産過程を包摂する」という論理で、事実上、労働価値説を放棄しているので、近経とも接合しやすい。

均衡=同一性を原理とする新古典派経済学では、利潤が継続的に存在する事実を説明できない。それに対して、差異性を原理とする宇野の理論は、現実の市場を定性的にはよく説明しており、経済物理学や行動ファイナンスのように、均衡の概念を否定する最近の理論にむしろ近い。宇野のスコラ的な文体では使い物にならないが、これをうまくリニューアルして現代の経済学と接合すれば、新しい経済システム論を生み出す可能性もある。

ただ佐藤氏も指摘するように、宇野の限界は、こうした差異化のシステムの基礎に国家権力があるという側面を軽視したことだ。マルクスも最終的には、資本論→世界市場論→国家論という巨大な「三部作」構成を考えていたが、この場合の国家は、あくまでも「上部構造」として経済的な土台から説明されるものだった。これは「市民社会の矛盾を国家が止揚する」というヘーゲル法哲学の思想で、今なお社会科学の主流である。

現代の問題は逆に、貨幣とか財産権などの制度の背後に政治があるということだ。こうした制度が自明に見えているときには、グローバル資本主義は安定した秩序として維持できるが、通貨危機が起こってIMFが介入したり、「知的財産権」を侵害するデジタル情報がグローバルに公然と流通したりするようになると、その自明性は失われ、背後にある政治性(ワシントン・コンセンサスやハリウッドの文化帝国主義)が露出してくるのである。

(*)宇野と鈴木の名前を合成したペンネームが「宇能鴻一郎」だったというのは、嘘のようなほんとの話。

夏休みの読書リスト

きょう発売の週刊東洋経済の読書特集で、「Web2.0とインターネットの未来」というテーマで(無理やり)10冊選んだ:並べ方は本文で言及した順であり、すべての本を強くおすすめするわけでもない。内容についてのコメントは、週刊東洋経済を読んでください。

ウェブの先史時代

Web2.0の便乗本が、たくさん出ている。たとえば神田敏晶『Web2.0でビジネスが変わる』(ソフトバンク新書)は、「Web2.0とはCGM(消費者生成メディア)のことである」と単純明快に断じ、CGMの例ばかりあげているお手軽な本だが、これは間違いである。CGMは、いま初めて出てきたものではない。昔のGopherにしてもネットニュースにしても、インターネット上のサービスは、もとはすべて消費者の作ったものだったのである。こういうウェブの「先史時代」を知ることは、今後の進化を予測する上でも重要だ。

モザイクでウェブがデビューしたとき、それが他のサービスと違っていたのは、むしろそれまでに比べてマスメディアに近づいたことだった。当時ネットニュースは、今の2ちゃんねるのような無政府状態だった。それに対して、ブラウザは文字どおりbrowseするだけで書き込めないから、双方向性はないが、無政府状態になる心配はなかった。ウェブの特徴は、こうして情報の生産者と消費者を区別して、秩序を維持できることだったのである。

さらにウェブ上でビジネスが始まると、ウェブサイトの作者はプロフェッショナルになり、データ量も膨大になり、デザインも凝ったものになった。ハードウェアも、初期のインターネットはすべてのホスト(主としてDECのミニコン)が同格につながるE2Eの構造だったのに対して、ウェブではクライアント=サーバ型の構造がブラウザとウェブサイトの間に成立した。特にほとんどのユーザーがISPを使うようになると、固定IPアドレスも持たなくなり、ユーザーとサービス提供者との非対称性はきわめて大きくなった。

この傾向が逆転し始めたようにみえたのは、ブログだろう。しかし、これも初期のMovable Typeでは、自分でレイアウトしなければならなかったが、そのうちにほとんどは、当ブログのようにISPにホスティングされるものになった。自分でホームページを作っていたころに比べると、ユーザーの自立性は弱まっている。ブログの数が全世界で4000万近いといっても、10億人を超えたインターネット・ユーザーの4%にすぎない。Wikipediaも、ユーザーの1%以下の「プロ」が半分以上の項目を編集している。

だからWeb2.0になってユーザーの力が強まったとか、「総表現社会」が来たとかいうのは錯覚である。アクティブなユーザーの数が増えるのは、母集団が増えているのだから、当たり前だ。インターネットが成長するにつれて、比率としては大部分のユーザーは受動的になり、マスメディアに近づいているのである(*)。極端なのはグーグルだ。その構造は、巨大なコンピュータに世界中の端末がぶら下がるIBMのメインフレームとほとんど同じである。

TCP/IPには、この20年以上、本質的な技術革新がなく、これは今後も(見通せる未来にわたって)変わらないだろう。しかしウェブ(HTTP)は、その上のサービスの一つにすぎず、インターネットの進化がウェブのバージョンアップにとどまるはずはない。今後リッチ・コンテンツが増えると、負荷を分散するため、リンクとファイル転送を切り離すP2P型が増えるのではないか。検索もP2Pで行い、インターネット全体を超並列コンピュータとして使うようなアプリケーションが出てくるかもしれない。そしてP2Pの原理は、E2Eに他ならない。インターネットは、変わっているようで変わっていないのである。

(*)誤解のないように付け加えると、私はウェブがマスメディアになるといっているのではない。初期のユーザーは、いわば「ヘッド」だけだったが、ウェブが普及するにしたがって「ロングテール」の部分が伸びているのである。ドットコム・ブームのころにもprosumerという言葉が流行したが、現実にはヘッドとテールは質的にはっきりわかれている。

社会的オプションとしてのベンチャー・キャピタル

先月のICPFシンポジウムでも話したことだが、1990年代前半、だれもが次世代のメディアは光ファイバーによる「マルチメディア」だと信じ、フロリダでタイム=ワーナーが大規模なビデオ・オンデマンドの実験を行った。同じころ、イリノイ大学のウェブサイトで「NCSAモザイク」が公開された。歴史を変えたのはタイム=ワーナーではなく、モザイク(のちのネットスケープ)だった。

こういうとき大事なのは、どっちが成功するかということではなく、どっちのオプションも排除しないということだ。1994年、シリコンバレーの名門ベンチャー・キャピタル、クライナー=パーキンスがネットスケープに400万ドル投資したとき、その売り上げは無に等しかった。そして今、「死が近い」ともいわれるYouTubeに、同じく名門VC、セコイアが1100万ドル以上投資する事実は、アメリカという国のオプションの広さを示している。

多様なオプションをもつことでリスクをヘッジする手法は、金融商品ではよく知られているが、これを実物資産に応用したのが「リアル・オプション」である。大プロジェクトに10億円投資して失敗したらゼロになってしまうが、それをモジュール化した2億円のプロジェクトを5つ作り、そのうち失敗したものは撤退するリアル・オプションがあれば、ゼロになることは避けられる。これが拙著で論じた「制度の柔軟性」の概念である。

今後の新しいメディアの本命は「通信と放送の融合」ではなく、YouTubeのような「ブロードバンド2.0」かもしれないし、そうではないかもしれない。何が本命かは、誰にもわからない。こういうときは、いろいろなものに実験的に投資して、そのうち一つでも成功すればよい、と割り切るしかない。VCは、いわばこうした社会的オプションとしての機能を果たしているのである。

ところが、日本にはこういう「裏」のオプションがないので、単独で事業を立ち上げるリスクを減らすために、テレビ局とメーカーが談合して「サーバー型放送」をつくるとか、官民一体で「日の丸検索エンジン」をつくるという話になりがちだ。しかし実は上に述べたように、このようにみんなで一緒にやることは、オプションを狭め、リスクを高めてしまうのである。これが国策プロジェクトの失敗する原因だ。

資金調達のオプションが少ないことも問題だ。政府と銀行が一体になった「開発主義」的な金融システムがいまだに残っているため、銀行や大企業に認知されていない(怪しげな)プロジェクトに投資することが非常にむずかしいのである。これは「直接金融か間接金融か」という問題ではない。VCの投資先との関係は、実は日本の銀行と融資先の関係に似ている。問題は、日本ではリスクをプールするしくみが銀行しかないため、大口の投資家が大きなリスクをとって投資する手段がほとんどないことだ。

いま日本に必要なのは、ファイナンス業界の淘汰と新規参入によって、こうしたオプションを広げることだ。90年代の不良債権処理で、不良企業の多くは淘汰されたが、肝心の不良金融機関は、公的資金によって延命されてしまった。ライブドアや村上ファンドの事件で、株主資本主義を否定する風潮が強まっているが、否定しなければならないような株主資本主義は、まだ日本にはほとんど育っていないのである。

富田メモは「世紀の大誤報」?

今週の『週刊新潮』に「『昭和天皇』富田メモは『世紀の大誤報』か」という記事が出ている。内容は、先々週から先週にかけて2ちゃんねるやブログで騒がれた話だ。詳細は、たとえば「依存症の独り言」にもあるが、テレビで撮影された手帳の裏側にうっすら見える字を左右反転して解読したもので、糊で貼り付けられた部分の「全文」は次のとおり読めるそうだ。太字にしたのが、日経の引用した部分である(改行などは整理):

              63.4.28 [■]
☆Pressの会見
                            
[1] 昨年は
  (1) 高松薨去間もないときで心も重かった
  (2) メモで返答したのでつくしていたと思う
  (3) 4.29に吐瀉したが その前で やはり体調が充分でなかった
  それで長官に今年はの記者 印象があったのであろう
   =(2)については記者も申しておりました
 
[2] 戦争の感想を問われ 嫌な気持を表現したが それは後で云いたい
  そして戦後国民が努力して 平和の確立につとめてくれたことを云いたかった
  "嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長の靖国発言中国への言及にひっかけて云った積りである

               4.28 [4]
  前にあったね どうしたのだろう
  中曽根の靖国参拝もあったか
  藤尾(文相)の発言。
   =奧野は藤尾と違うと思うが バランス感覚のことと思う
  単純な復古ではないとも。

  私は 或る時に、A級が合祀され その上松岡、白取までもが、
  筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
                      
  松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
  松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
  だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ


     ・ 関連質問 関係者もおり批判になるの意

これが「徳川義寛・元侍従長の他の発言と符合する」というのが、この記事の趣旨だが、これもブログでさんざんいわれた話である。ところが、この記事にはブログの話はもちろん、全文も出てこない。この「特集」とは別の櫻井よしこ氏のコラムでは、上の全文が出所を示さずに引用されているが、徳川氏にはふれていない。ウェブで2週間も前に出た話の一部を、大手週刊誌が別々の記事で、出所も明示せずに取り上げたことになる。これは画像を解析した結果を示している2ちゃんねるの書き込みよりも信用性が低い。

この全文については、他の新聞・雑誌も黙殺している。少なくとも、これを撮影したテレビ局は、メモの裏側に書かれた[1][2]を撮影することもできたはずだが、それもしていない。第1報のときも「日経新聞によると」というクレジットはなく、あたかも独自に取材したかのように、各社とも太字の部分だけを引用している。

信憑性については、[4]の部分は画面からも読み取れるので、間違いない。[1][2]についても、[3]が抜けている([4]の裏側で貼り付けられた可能性もある)点を除けば、おおむね妥当な解読結果だろう。しかし、これを徳川氏の話と考えるのは無理がある。このメモにはどこにも徳川氏の名前が出てこないし、彼はこの前後に「Pressの会見」をしていないからである。

この「会見」とは、素直に読めば、1988年4月25日に行われた昭和天皇の記者会見のことだろう(当時の記録とも一致する)。この会見は天皇の体調不良のため、15分で打ち切られたので、29日の天皇誕生日の記事のために、富田朝彦・宮内庁長官(当時)が会見を補足する「記者レク」の材料を天皇に取材した、と考えるのが常識的だ。

ただし問題の太字の部分は、明らかに記者レクで話せる内容ではないし、「A級」という表現も、天皇の発言としては不自然だ。これは天皇のオフレコの話を富田氏がメモしたものとも解釈できるが、全体が徳川氏からの伝聞で、[4]の部分が徳川氏自身のコメントだということも考えられる。いずれにしても、このテキストによる限り、どこにも主語が天皇だとは書かれていない。「昭和天皇が不快感」と日経が断定的に報じた部分が天皇の発言だという根拠もないのである

通常の文献考証の手続きとしては、少なくともこの糊付け部分だけでも全文を解読し、筆跡鑑定をするとともに、発言者がだれかを確認することが第一である。ところが、こうした基本的な調査もしないで、「首相の靖国参拝に影響」とか「勢いづく分祀論」といった政局ネタだけは一生懸命追いかける。先走る前に、まず問題の手帳の原文を専門家が厳密に検証する必要がある。

消えた「デジタル・ニューディール」

きのうはスラッシュドットから大量のアクセスが来て、当ブログはgoo blogのアクセスランキングで12位になった。「情報大航海プロジェクト・コンソーシャム」が発足したというニュースの関連だ。こういう産業政策がなぜ失敗するかは、今までにもブログやPC Japanなどで書いたので、繰り返さない。スラッシュドットでも、肯定的な意見は見事に一つもなかった。

ここで紹介するのは「デジタル・ニューディール」(DND)というプロジェクトである。2001年に産官学の連携で技術情報の交流を行う「産業技術知識交流サイト」として、当初18億円の予算で立ち上げられたが、2ちゃんねるから大量の不正アクセスが行われ、サイトは閉鎖された(この経緯も当時のスラッシュドットにくわしい)。当時のデータはすべて削除され、今は「大学発ベンチャー起業支援」という別のプロジェクトに化けている。

DNDプロジェクトはRIETIに事務局を置き、「元請け」は国際大学GLOCOMだったが、これは富士通のダミーで、開発は富士通の下請けに丸投げだった。しかしプロジェクトが中断されたため、予算の大半が宙に浮き、GLOCOMの所長代理(当時)が経産省の官僚を過剰接待するなどの不正経理問題が起こった。所長代理は解任され、のちに辞職したが、余った数億円の国家予算はどこへ行ったのか、いまだに不明である。国際大学の赤字補填に使われたのではないかともいわれるが、「企業の社会的責任」がお得意の小林陽太郎理事長には説明責任があるのではないか。

こういうプロジェクトの問題は、失敗することではない。ITの世界で、プロジェクトが失敗するのは当たり前である。問題は、このように失敗を隠蔽してしまうため、その教訓が生かされないで、同じ失敗が繰り返されることだ。日の丸検索エンジンとよく似ている「シグマ計画」も、多くのエンジニアのトラウマになったが、その事後評価はおろか、痕跡さえウェブには残っていない。

私は、政府が科学技術に資金援助することがすべて悪だとは思わない。他ならぬインターネットも、国防総省とNSFの予算でできたものだ。しかしNSFでは毎年プロジェクト評価を行い、不合格のプロジェクトには援助が打ち切られる。先日もいった政府調達手続きとともに、官民プロジェクトの事後評価も徹底的に見直すべきである。

情報のハイパーインフレーション

資本主義から市民主義へ

岩井 克人/三浦 雅士

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岩井氏の『貨幣論』など一連の著作をまとめて、当節流行の「語り下ろし」で作った本。内容は、ほとんどこれまでの本と重複しており、それを読んだ人は本書を読む必要はない。逆に、本書1冊を読めば、これまでの本を読む必要はない。「貨幣は貨幣であるがゆえに貨幣である」「法は・・・」「言語は・・・」という同語反復を果てしなく繰り返す岩井氏の本は、もうこれで打ち止めにしてはどうか。

しかも「貨幣はデファクト・スタンダードだ」という本書の議論は誤りである。貨幣は、政府によって定められたde jure standardである。特に銀行口座でデジタル情報になった貨幣を複製するコストはゼロに等しいから、事後的には複製することが効率的だが、貨幣を複製することが許されるのは政府だけだ。複製を自由にすると、ハイパーインフレーションが起きて、貨幣の価値はなくなってしまうからである。貨幣は岩井氏のいうような単なる記号ではなく、国家権力という「実体」をもっている。この通貨発行権の独占によって、市場(資本主義)のレイヤーと法(国家)のレイヤーはリンクしているのである。

では情報(言語)のレイヤーと市場のレイヤーはどうリンクしているのだろうか。かつては、紙という媒体によって両者はリンクしていたが、デジタル情報では、そういう物理的なリンクは失われてしまった。今は著作権という(紙幣と同じぐらい古い)疑わしい権利によってかろうじてリンクされているが、インターネットによる情報のハイパーインフレーションで、その財産価値はますます疑わしくなってきた。

ハイパーインフレの原因としてもっとも多いのは、戦争などによる政府(通貨発行主体)への信任の喪失である。YouTubeなどの情報インフレの原因も、アメリカ主導の「知的財産権」レジームへの不信任ではないか。その政府が完全に崩壊したとき、ハイパーインフレも終るのだが・・・

クライアントなきサーバー型放送

日曜の「コピーワンス」についての記事には、意外に多くの反響があった。規格を総務省と業界が密室で決めたため、コピーワンス自体を知らなかった人も多いようだ。そこでもう一つ、コピーワンスが奇怪な「進化」をとげたケースを紹介しよう。

これは「サーバー型放送」と呼ばれる。ふつうサーバというと、サービスを供給する側にあるものだが、この場合は家庭に置かれるセットトップ・ボックス(STB)を「ホームサーバー」と呼ぶ。この名前は一昔前、テレビが「ホームオートメーション」の中心になると思われていたころの遺物だが、クライアントがどこにあるのか、よくわからない。Serverとは「給仕」のことで、clientは「客」である。客がいないのに、給仕だけがいるということはありえない。ネットワークの中心はユーザーであって、サービスを供給する側ではないのである。

このサーバーはどういうものかというと、以前の記事でも書いたように、いま家庭にあるHDDレコーダーとほとんど同じである。違いは、専用のSTBに埋め込まれている点と、詳細なメタデータがついている点だけだ。このメタデータには、番組名や内容だけではなく、放送局の発行する「ライセンス」が入っており、視聴者がコピーできるか、CMを飛ばせるか、何回再生できるか、まで放送側で決められる。コンテンツは電波で放送されるが、メタデータの送信には別途、インターネット接続が必要だ(詳細は学会発表参照)。

メタデータは、今のHDDレコーダーのEPG(電子番組ガイド)にも入っている。サーバー型放送が違うのは、このデータが放送局によって一方的につけられ、それをユーザーが変更できないことだ。要するに、佐々木俊尚さんの指摘するように「受信機のHDDはユーザーの所有物なのに、その中のコンテンツは放送局の所有物」なのである。携帯端末に転送するメディアがSDカードに限定されているのは、松下が中心だからだろうか。

ウェブで映像や音声を検索するためには、メタデータの整備が重要だ。先日も紹介したように、W3Cもグーグルもこの分野では苦労している。彼らは、どうすれば多くのユーザーに使ってもらえるか考えているのだ。ところが日本では、あいかわらず供給側の都合で、テレビ局の既得権を守るために独自規格のメタデータをつくり、これをARIB(電波産業会)で「政府公認標準」にする。このサーバーに、クライアントは現れるのだろうか?

村上人脈

トリックスター:「村上ファンド」4444億円の闇

東洋経済新報社

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村上ファンドについて、早くから問題を指摘してきた『週刊東洋経済』の取材チームによる本。「表の顔」として資本市場に緊張感を与えた功績は認めながら、「裏の顔」としては、日本の企業風土の厚い壁に阻まれ、結局「仕手筋」のような古い株屋の世界にからめとられていった、というストーリーだ。

ライブドアなど一連の事件の仕掛人が村上氏だったという見方は、大鹿靖明『ヒルズ黙示録』と同じだが、結論は対照的だ。大鹿氏が村上無罪の可能性もあるとし、「国策捜査」説をとるのに対して、本書は「かりに検察にそういう意図があったとしても、違法行為があったことはまちがいない」とし、「社会的に重要な事案を重点的に捜査するのは当然だ」という専門家のコメントもついている。

しかし社会的に重要な違法行為があっても、検察が意図的に見逃すケースがある。1990年代、銀行は「分割償却」という名の粉飾決算を行い、ダミー会社をつくって「不良債権飛ばし」を行った。ライブドアをはるかに上回る違法行為があったことは、経営が破綻したあとで捜査を受けた長銀と日債銀をみても明らかだ。しかし検察は当時、都市銀行を捜査しなかった。それは、この粉飾決算を指導した「主犯」が大蔵省だったからだ。最近の日歯連事件でもわかるように、「巨悪」が巨大すぎると、捜査できないのである。

本書では村上氏の人脈も取材していて、興味深い。なかでも重要なのは、林良造・元経済産業政策局長を頂点とする旧通産省の人脈である。だが参議院議員の松井孝治氏(元通産研総括主任研究官)やウッドランド社長の安延申氏(元電子政策課長)など、村上氏に連なる人々は、ほとんどが通産省を辞めている。しかも村上氏自身(元通産研主任研究官)を含めて、この全員が通産研(およびRIETI)の関係者だ(*)

これは偶然ではないだろう。通産省(経産省)には、産業政策を復活させようとする「ターゲティング派」と、政府は競争の枠組づくりだけにすべきだという「フレームワーク派」があるといわれる。橋本政権のころまではフレームワーク派が優勢で、省庁再編を仕掛けたのも通産省だった。しかし再編が失敗に終わって、権限が減ることを恐れるターゲティング派が巻き返し、これに対して改革派の牙城としてつくられたのがRIETIだった。

しかし結局、改革は挫折し、事務次官が確実とみられていた林氏は退官、RIETIも解体された。そしてダイエー騒動で産業政策の復活を企んで恥をかいた北畑隆生氏が事務次官に就任し、「日の丸検索エンジン」など時代錯誤の官民プロジェクトが登場している。今回の検察の捜査の背景にある国策が、小泉政権の「小さな政府」の流れを否定し、明治以来の「官治国家」に引き戻す国家意志にあるというのは、うがちすぎだろうか。

(*)林氏はRIETIコンサルティングフェロー、安延氏も2003年まで同じ。

企業の境界と組織アーキテクチャ

企業の境界と組織アーキテクチャ:企業制度論序説

谷口和弘

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『週刊ダイヤモンド』で7年も書評をやっていると、本を見たとき「これは使えるかな」と考える癖がついてしまった。私の番が回ってくるのは2ヶ月に1回なのだが、自信をもっておすすめできる日本語の本に出会えるのは、3回に1回ぐらいしかない(最近ではコルナイだけ)。ひどいときは、〆切の日まで本屋を探し回ることもある。当ブログで取り上げる本も、強くおすすめする本ばかりではないが、アマゾン的にいえば★★★☆☆以上の本にしているつもりである。

本書も、星3つというところだ。タイトルは拙著に似ているが、内容は経営学の本である。著者は『比較制度分析に向けて』の訳者の一人なので、その種の論文を読んだ人には、内容にあまり新味はないだろう。企業の境界を所有権で定義するGrossman-Hart-Moore的な企業理論が情報産業などにはうまく適用できない、という本書の問題意識は拙著と同じだが、本書はこのテーマについての経済学の論文をサーヴェイして、いろいろな企業のケースを紹介しているだけだ。分析用具がケースに具体的に生かされていないため、新聞記事のまとめのような印象を与えるものが多い。

G-H-M理論は、1990年代の経済学業界の流行だったが、企業を物的資産の所有権で定義するのは明らかに時代遅れだ。人材や情報をコントロールする手段は、組織構造、業務設計など多様であり、株主資本主義がもっとも効率的なメカニズムだとはいえない。しかし、それに代わる「情報資本主義」にふさわしい制度が見つかっていないことも事実である。

この点で、意識的に株主資本主義を拒否し、経営陣3人で議決権の78%を持つグーグルがどうなるかは興味ある実験だ。先週のタモリ倶楽部では、グーグル日本法人の「楽園」のような模様を紹介していておもしろかったが、これが未来の企業のモデルになるのだろうか?それとも成長が止まったら楽園は失われてしまうのだろうか?


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