制度設計と設計主義

最近「制度設計」という言葉がよく使われるようになった。竹中平蔵氏は「郵政民営化は戦後最大の制度設計だ」という。しかし、こうした発想そのものを批判する人も多い。

小谷清氏は、竹中金融行政は、ハイエクの否定した「設計主義」(constructivism)だというが、これは設計主義という誤訳にひきずられた誤解である。Constructiveというのは特定の目的のために構造物を建設してゆくことだから、「構築主義」とか「計画主義」などと訳すべきだろう。「設計」は英語でいえばdesignで、明らかに別の概念である。

制度設計というのは、ルールを決めることであって、特定の目的を実現することではない。「自生的秩序」に早くから注目したハイエクも、秩序が自生的に維持されるにはルールが厳密に守られる必要があることを認識していた。彼の評価したプリゴジンの理論でも示されるように、物理系の挙動にも不規則性が大きいと、散逸構造は生じないのだ(だから、この種の「カオス理論」は経済学では実用にはならない)。

晩年のハイエクの大著が『法と立法と自由』であることからも明らかなように、合理的なルールの設計こそ自由な社会にとってもっとも重要である。これから経済学がめざすべき一つの(規範的な)方向は、「制度設計の科学」ではなかろうか。

金子勝『経済大転換』の支離滅裂

著者は日本で数少ないマル経だが、本書では経済学者の名前をあげて、支離滅裂な「批判」を浴びせている。たとえば、著者は、ゲーム理論を次のように批判する:
ゲーム理論は融通無碍にできている。それは、このアプローチの前提となる契約理論では、モデル設計者が超越的な「観察者」の立場に立って、現にある制度を事後的に跡づけるモデルを設定することができるからである。(p.78)
この文章を理解できる経済学者はいないだろう。日本語として、意味をなしていないからである。「ゲーム理論の前提となる契約理論」とは、どんな理論 だろうか。ゲーム理論は、1944年のフォン=ノイマンとモルゲンシュテルンの本で始まったとされるが、契約理論(情報の経済学)の先駆とされるアカロフ の「逆淘汰」についての論文が発表されたのは1970年であり、後者が前者の「前提」となるはずもない。逆に契約理論は、最適な契約は戦略的な相互作用の 結果(ナッシュ均衡)として決まると考える「応用ゲーム理論」なのである。著者は、そもそもゲーム理論とは別の契約理論が存在することも知らないのだろ う。
ゲーム理論では、ゲームのルールは所与とされるが、このルールを決めるにはも う一度プレイヤーが一堂に集まってゲームをしなければならないと考えられる。では、そのゲームのルールを決めるゲームのルールは誰が決めるのか・・・とい うように、無限に遡及されなければならなくなる。こうした問題を避けようとして、ハイエクと同様に自主的なルールの形成を「繰り返しゲーム」、制度の変化 を「進化ゲーム」で描こうとする。(pp.78-9)
これも意味不明だ。繰り返しゲームはハイエクとは何の関係もなく、単に同じゲームが繰り返されると想定する理論である。 この程度のことは、どんな初等的な教科書にも書いてある。それも読まないで(あるいは読んでも理解できないで)「批判」する人物も問題だが、そのまま出版 する編集者も非常識である。筑摩書房は経済学の本は出していないから、編集者は素人なのだろうが、それなら専門家に原稿を読んでもらうべきだ。そうすれ ば、出版に耐えないことがわかるだろう。

京都議定書はEUの罠だった

環境危機をあおってはいけない 地球環境のホントの実態
地球温暖化に関する「京都議定書」が、2002年に国会で満場一致で批准された後、霞ヶ関の某所で関係各省庁の環境問題専門家による会議が開かれた。"OFF THE RECORD"という表示の掲げられた会場では、経産省の澤昭裕環境政策課長が「EUの罠にはまって過大な削減義務を課せられた」と反省した。

京都議定書は、基準が1990年になっていることがポイントだった。旧社会主義国がEUに加入し、その古い工場を改築するだけで楽にCO2が削減できるEUの削減義務が8%なのに、石油危機以降、省エネを続けてきた日本の削減義務が6%というのは無理だった。アメリカは7%だったが、これは無意味な数字だった。ゴア副大統領が日本に来る前に、上院は全会一致で京都議定書の拒否を決議していたからだ。

CO2を各省がどう分担して削減するかについての霞ヶ関の会議の結論は、驚いたことに「京都議定書の目標を達成することは不可能だ」。なぜ達成不可能な条約を批准したのかという質問に、環境省の課長は「京都で決めたというのが決定的だった。議長国の日本が抜けるわけにはいかなかった」という。

このエピソードが示すように、地球環境問題は現代の聖域であり、環境保護に異を唱えることはタブーである。本書はそれにあえて挑戦し、地球環境が危機に直面しているという俗説が誤りであることをを公式統計のデータによって実証したものである。その影響の大きさは、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』以来だといわれる。著者は今年、新たにできたデンマークの環境評価研究所の所長に任命された。続きを読む

プロスペクト理論

カーネマンの「プロスペクト理論」という名前には大した意味がなく、論文を投稿するときそれらしい名前があったほうがいいだろうということでつけた名前のようですが、つけるならレトロスペクト(回顧)理論のほうがよかったのではないでしょうか。今までの期待効用理論が前向きのプロスペクト(見通し)だけを考えるのに対して、現実の人間は過去を振り返って出発点との差分で考えるというのが彼らの理論だからです。

これは自明のように見えますが、そうでもありません。今でも経済学の主流はベルヌイ以来の期待効用最大化理論であり、プロスペクト理論は普通の教科書には出ていない。それは効用関数や需要関数などの経済学の基礎概念と矛盾し、それを認めると価格理論が成り立たなくなるからです。

たとえば「市場均衡がパレート効率性を実現する」という厚生経済学の基本定理は、人々の効用が消費の絶対水準だけに依存していると仮定していますが、これが否定されると市場の効率性という経済学の看板が失われます。現状からの変化で幸福が決まるとすると、市場のように現状を激しく動かすシステムより、なるべく現状を維持するシステムが望ましいのかもしれない。

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上の図は有名なプロスペクト理論の価値関数ですが、こういう構造は偶然できたものとは考えられません。人間の知覚は、100万年以上にわたって他の動物や人間どうしの闘いに適応してきたので、止まっているものを無視して動いているものに注目するようにできています。いわば感覚が微分的にできているのです。微分係数は絶対値と無関係です。たとえば次のような関数を考えましょう。

 f(x)=x2

ここでf'(x)=2xですが、これはxの値に依存しません。もちろんxの値が大きくなると絶対値は大きくなりますが、

 g(x)=x2+1000000

であってもg'(x)=f'(x)です。つまり微分係数の大きさは、変化の初期値(y軸の切片)には依存しないので、問題は変化率だけで絶対値ではありません。こういうバイアスは広く見られ、たとえばタバコで毎年13万人が死んでいるのに関心をもたず、原発事故で1人死ぬかどうかで大論争しています。

これは人間の知覚に深く根ざしたバイアスで、システム2で補正しないと全体が見えなくなります。中井久夫『分裂病と人類』によれば、分裂病(統合失調症)の特徴は、感覚が極度に微分的になって変化だけに注目することだそうです。

こういう微分性に最初に気づいたのは、19世紀の限界効用学派だったのですが、彼らは「限界効用=価格」という間違った理論を構築してしまいました。価格はゼロベースですが、限界効用は既定値がベースなので、この方程式は間違っているのです。この話は厳密にすると厄介で、プロスペクト理論をベースにした価格理論も構築されていますが、非常に難解で、市場均衡についてはほとんど何もいえなくなります。

情報家電

24日に電波有効利用政策研究会のWGが開かれ、免許不要局については無線LANなどの「帯域を占有しない無線機」からは取らないという方向になったそうだ。私のパブリック・コメントと似た考え方である。

しかし今度は、5GHz帯に「情報家電専用の帯域」を設けるという話が本格化してきた。「情報家電」の実態はよくわからないが、ブルートゥースに似た日本独自規格らしい。総務省は「情報家電に帯域を割り当てるのは世界初だ」と自慢しているらしいが、米国では5GHz帯で800MHz以上を完全自由に(免許不要で)開放するというのに、日本が本当にこんな割り当てをしたら、世界の笑いものである。

啓蒙専制君主

総務省は、1.7GHz帯で30MHzを第3世代携帯電話(3G)に割り当てる方針だという。ソフトバンクの行政訴訟を避けるために、「800MHz以外にも空きはありますよ」といいたいのだろう。

しかし、そのやり方は依然として書類審査による「美人投票」である。電波有効利用政策研究会が「オークションはやらない」という結論を出してしまったからだ。これまで日本で美人投票が機能してきたのは、申請してもどうせ電話会社しか認められないという暗黙の合意があったためだが、プロ野球をみていると、そういう合意は崩れはじめている。ソフトバンク以外に多くのベンチャー企業や外資が申請してきたら、どうするのか。

80年代の米国でも、「金のなる木」である電波を求めて多くの会社が殺到したため、くじ引きでやったら逆に何万社も申請して大混乱になり、結局オークションになった。欧州でもオークションが原則であり、北欧やフランスは美人投票で3Gの周波数を割り当てたが、結果的には新規参入が阻害され、参入した業者も免許を返上したりして、失敗というのが一般の評価だ。

今年2月、ジュネーブで行われたITUの専門家会合でも、「第2市場」を創設して財産権でやるか、免許不要の「コモンズ」でやるかの論争が繰り広げられているところに、日本の総務省だけが「市場活用型美人投票」を提案して、みんな唖然としていた。

誤解のないようにいうと、今の電波部のスタッフは、竹田部長をはじめとして良心的であり、新たな帯域の開放に努力している。しかし、これは絶対主義の時代に「啓蒙専制君主」が善意でお抱えの商人に貿易の免許状を与えたようなものだ。問題は、そもそも貿易に政府の免許が必要なのかということなのである。

シティバンク

わが家にも在日支店長からおわびの手紙が来た。

しかし、この手紙を読んでも、何が起こったのかさっぱりわからない。新聞などの報道も、みんな匿名で、刑事事件になったようにもみえない。リスクを十分開示しないで多額の仕組み債を売ったとか、仕手筋に資金を提供したとか、マネーロンダリングに協力したとか、断片的な話はいろいろあるが、これは問題の丸の内支店長の個人的な犯罪という印象も強い。世界最大のプライベート・バンクを日本から撤退させるようなことなのか。

私は、かつてこの種のプライベート・バンクの世界最大の集積地、ケイマン諸島で取材したことがある。小さな島に一流銀行の巨大な支店が林立する異様な風景は、なかなか絵になった。たしかに犯罪と結びついている部分もあるが、それが現地では合法的であることも事実なのだ。あるプライベート・バンカーは「税はコストのひとつにすぎない。それを法の許す限りで最小化することは企業や資産家の当然の行動だ」といっていた。インターネット時代は、主権国家と資本主義の闘いの時代になるのだろう。

Copenhagen consensus

「コペンハーゲン解釈」といえば、1927年にコペンハーゲンで開かれた国際会議で確立された量子力学についての標準的な解釈だが、今年の5月、世界でもっとも緊急性の高い問題を評価する国際会議がコペンハーゲンで開かれた。

これは500億ドルの予算があるとしたら、世界のどういう問題にいくら予算を配分するかをヴァーノン・スミスやロバート・フォーゲルなど8人の著名な経済学者に評価させたものだ。その結果、もっとも重要な問題だとされ、270億ドルが配分されたのはHIVで、最低ランクだったのは地球温暖化だった。京都議定書のコストは、その便益をはるかに上回ると評価された。

この評価は、ほぼ世界の経済学者のコンセンサスだといってよい。宇沢弘文氏などの「原理主義的エコロジスト」によれば、地球温暖化のリスクを低く評価する経済学者は、すべて米国政府に魂を売っていることになるようだが、環境問題というのは衣食足りると気になる贅沢品にすぎないのである。

ベキ分布

ブラック=ショールズ式は金融工学の基本定理として有名だが、これでノーベル賞を受賞したショールズとマートンの運営したLTCMというヘッジファンドは破産した。これは当時、経済学がだめな証拠といわれ、ノーベル賞を取り消すべきだなどという議論もあったが、実際の破綻の原因は、理論を無視してロシアの国債を大量に買うなどの単純な投機の失敗だった。

・・・というのが定説だが、高安秀樹『経済物理学の発見』(光文社新書)によれば、やはりブラック=ショールズ式はまちがっているのだという。それが非常にエレガントなのは、価格の変動が正規分布に従うと仮定しているからだが、外国為替市場などのデータは、横軸に変動の大きさ、縦軸にその頻度をとると、左端にピークがあり、右側の裾野が広い「ベキ分布」になる。つまり、極端に高い価格や低い価格のつく「不均衡状態」が起こりやすいのである。

価格が正規分布になるのは、それが完全にランダムなブラウン運動になる場合だが、為替ディーラーの行動は、ランダムどころか、互いに他のディーラーをみながら行動するので相関が強く、特定の方向にひっぱられる「カオス的」な動きを示すことが多い。その結果、極端に大きな変動が5%ぐらいあるが、ブラック=ショールズ式で近似できるのは残りの95%の小さな変動だけなのである。

Regulatory capture

日歯連のスキャンダルは、実は政策のゆがみの典型ではない。こういうふうに現金が渡る事件は摘発しやすいので目立つが、大部分の問題はこんなわかりやすい形では起きない。

もっとも多いのは、業者が規制当局に入り込んで影響を及ぼすケースだ。金融行政で問題になった「MOF担」がその典型だが、業者が官僚や政治家に情報を提供する代わりに政策を自分に有利な方向に誘導する現象は、世界共通にみられる。政治家もキャリア官僚も「ジェネラリスト」で、個別の業界事情はよく知らないから、具体的な法案を作る作業は、業界団体やロビイストの助けを借りないとできないのが実態なのだ。

金融やITなど、高度な専門知識を必要とする業界ほど、こうした"regulatory capture"は重症になる。かつては銀行行政に関する法案は、興銀の総合企画部が起草したといわれるほど「丸投げ」だった。興銀からは同期のトップが大蔵省(当時)に「天上がり」し、官民一体で政策が作られた。私の大学時代の同期で大蔵省に入省した女性キャリアは、天上がりした興銀マンと結婚した。

「ITゼネコン」が「ご当局」に影響を及ぼす方法も同じだ。あるITゼネコンの幹部は「キャリアのみなさんは2年ぐらいで部署が変わるので、われわれがご進講せざるをえない」といっていた。こういうバイアスのかかった情報提供(soft money)は、現金よりもはるかに有害で、駆除しにくい。抜本的な解決策は、政府が経済活動に関与する領域を減らすしかないのである。


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