運を実力と勘違いした77年

日本という国家 戦前七十七年と戦後七十七年
今年は終戦後77年。明治維新から敗戦までと同じである。この起点を一種の「革命」と考えると、そこには単なる偶然以上の一致がある。
  1. 混乱期:革命後の大混乱の中で、訳もわからず西洋のまねをした(明治維新~日清戦争)
  2. 成長期:予想外の成功を遂げ、アジアの大国になった(日露戦争~第1次大戦)
  3. 侵略期:調子に乗って大陸を侵略し、大失敗する(満州事変~敗戦)
これはそれぞれ戦後の
  1. 敗戦~60年安保
  2. 高度成長~不動産バブル
  3. バブル崩壊~現在
に対応する。共通しているのは、混乱期には試行錯誤でいろいろな改革をやり、大部分は失敗するが、そのごく一部が大成功したことだ。明治期でいうと長州閥の陸軍がまぐれ当たりで日露戦争に勝ったが、それを実力と勘違いして満州事変以降の大失敗になった。

戦後でいうと、1950年代まではアメリカのまねをしているだけで成功した。自民党は何もせず、役所も規制しなかったので民間は自由に実験し、そのうちトヨタやソニーなど、ごく一部が大成功したが、それを政府のおかげだと思って民間に過剰介入し、経済が停滞してしまった。

共通しているのは、日本が成功したのは(きわめて低い確率の)幸運だったが、それを実力と錯覚して同じ路線を取り続けたことだ。

親の予想以上に育った子

本書でもいうように、日露戦争で日本が勝った最大の原因は、戦争中にロシアで革命が起こったという偶然であり、ポーツマス条約は予想以上の大戦果だった。しかし国民はそれを不満として日比谷焼き討ち事件を起こし、政府が本当のことをいわなかったので、軍も自分の実力を過大評価するようになった。

戦後の高度成長も、当事者はほとんど予想できなかった。本書で印象的なのは、全国総合開発の中心人物だった下河辺淳(国土庁長官)が「日本の高度成長は政府のおかげですか」という質問に「いやそこは微妙だ」と答えたことだ。
実はどうも赤ん坊にしては大きな赤ん坊が生まれてきて、その大きな赤ん坊に合わせるようにいっぱい洋服をつくった。そうしたら赤ん坊は金太郎さんで、もっと大きくなっていった。しかし民間の努力で経済成長しました、と言ったら政府の顔が立たないから、官民協力体制の下で一生懸命やったから成長したんだ、という話にした。

下河辺氏には私も取材したことがあるが、三全総についてオンカメラのインタビューを受けてくれなかった。「私は黒子だから表に出たくない」といっていたが、それは謙遜ではなく、政府の予想以上の成長が実現したことをうまく説明できなかったのだろう。

ところが自民党はこれを成功体験と勘違いし、通産省の産業政策で世界をリードするとか、国土開発で内需拡大するとかいう夢を追った。それはバブル崩壊で挫折したのだが、いまだに何が間違っていたのかわからない。

池田勇人が「所得倍増」を掲げたとき、誰もそんなスローガンを信じていなかった。日本は極東の小国で、戦争にボロ負けし、焼け跡から立ち上がるのが精一杯だった。アメリカも日本がライバルになるとは思っていなかったから、冷戦の中でアジアの橋頭堡にするために在日米軍の駐留を続けた。

しかし日本経済は、誰も予想していなかった高度成長を遂げた。1950年代から60年代にかけて、GNPは年平均10%という世界史上最高の成長を遂げ、所得は倍増どころか、10年で3倍増になったのだ。その原因は日本人の努力だけではなく、日本を占領したのがアメリカだったという幸運である。

ところがこの運を実力と錯覚し、政府主導で成長できると主張する人々が絶えない。それでもちょっと前までは財政ではなく金融でやるべきだという節度があったが、アベノミクスの挫折後は、コロナ対策のようなあからさまな財政バラマキに回帰している。

今回の「防衛増税」はそれを収拾しようとする財務省の戦略だろうが、自民党の国防族はMMTで抵抗している。それが満州事変のような戦争をまねくことはないだろうが、日本のゆるやかな停滞を急速な衰退に変える可能性はある。

グーグルか著作権か

CNETのDeclan McCullaghの記事によれば、グーグルは何件もの訴訟を抱えているようだが、そのうちもっとも重要なのはキャッシュをめぐるものだ。これまでにも、キャッシュの削除と損害賠償を求める著作権者からの訴訟は何件も起こされ、グーグル側が敗訴(あるいは和解)している。この種の訴訟に対するグーグルの反論の根拠は「フェアユース」しかないようだが、これは弱い。グーグルは、ISPのように著作権法の「セーフハーバー」で保護されていないからである。インターネット上のサービス業者のうち、ISPだけはセーフハーバーによって免責されているが、他の業者は賠償責任を負うのである。

しかしISPのセーフハーバーも、最初からあったわけではない。アメリカでも、ウェブが普及し始めた1990年代後半には、著作権法違反のコンテンツをホームページに掲示させたとしてISPが訴えられる事件が頻発した。最初はISPが敗訴するケースが多かったが、1996年のネットコム事件のように、ISPがあらかじめ違法行為を知らない限り責任は負わないという判決も増えた。ホームページの数が数億になると、それをすべてISPに事前チェックさせるのは非現実的だという判断が支配的になった。

アメリカはコモンローの国だから、法律が常識に合わない場合には、常識にあわせて法律を柔軟に解釈する判決が出て、そういう判例の積み重ねによって実質的な法改正が行われ、これを立法府が追認するという形で法律が改正されることが多い。著作権法の場合も、こうした判例をもとにして、1998年にDMCAで、OSP(online service provider)は「違法の事実を知らされたら削除する」という事後処置の義務だけを負うセーフハーバーが設けられたのである。

今後、ナプスター事件のようなサービス差し止め訴訟がグーグルで起きたら、同様にグーグルがOSPかどうかが争点になろう。ナプスターの場合には、P2Pサイトは接続を提供していないのでOSPではないという判例ができ、あとの裁判もこれを踏襲した。グーグルのキャッシュも、第三者に接続を提供しているのではなく、自分で複製しているのだから、この基準に従うと、グーグルが敗訴する可能性が高い(同様にAkamaiなどのCDNも危ない)。

だがナプスターと違うのは、グーグルは今や世界のインターネット・ユーザーのほぼ半数が使っているインフラだということである。ここでグーグルのサービスをアメリカの裁判所が差し止めたら、全世界から抗議が殺到するだろう。それに配慮して常識的に判断すると、何らかの救済措置をとる判決が出る可能性もある。こうした判例が積み重ねられれば、最終的にはDMCAの改正に至るかもしれない。

すべてのデジタル情報の違法性を原則として事前にチェックすることをサービス業者に義務づけ、例外としてISPだけを免責する現在の著作権法(世界的に)は、インターネットの現実にあわない。逆に、すべてのサービス業者を原則として免責し、意図的に違法なコンテンツを掲示した場合に限って賠償責任を負わせるべきである。こうした問題点を明確にして法改正を実現するには、むしろグーグルがいったん敗訴して、キャッシュの提供を差し止める命令が出され、「グーグルか著作権か」という状況になったほうがわかりやすい。

日本の場合には「送信可能化権」という奇妙な権利をつくったため、問題が複雑になっているが、司法的にも立法的にも、ほぼ3年ぐらい遅れてアメリカのあとを追っているので、アメリカだけ見ていれば足りるだろう。

差異性の経済学

東洋経済の読書特集で一番おもしろかったのは、『国家の罠』の著者、佐藤優氏の「獄中読書記」である。拘置所では集中力が高まり、512日間で220冊読んだそうだが、彼がグローバル資本主義を理解する上でもっとも役に立ったのが、宇野弘蔵だったという。

私の学生時代、東大の経済学部には「原論」がAとBの二つあって、Aがマル経、すなわち宇野経済学だった。宇野の特徴は、マルクス経済学を「科学的に純化」し、イデオロギー性を抜きにして『資本論』の論理を洗練しようというものである。これは、世界的にみても珍しいマルクス主義の進化だった。もちろん「党」からの批判も強く、党の方針に従う人々は京大を中心にして「マルクス主義経済学」を名乗ったが、学問的な水準は宇野に遠く及ばなかった。

宇野の理論でグローバル資本主義を説明できる、という佐藤氏の直感は正しい。その論理構造は、ウォーラーステインの「近代世界システム」とよく似ている(というか宇野のほうが先)。要するに、資本主義は差異によって利潤を生み出すシステムだという考え方である。その限界が、宇野によれば恐慌なのだが、弟子の鈴木鴻一郎(*)や岩田弘などの「世界資本主義」派は、差異化のメカニズムを世界市場に拡大し、植民地との間にグローバルな差異をつくり出すことによって資本主義を延命したのが帝国主義だとする。こういう議論は岩井克人氏や柄谷行人氏の話でもおなじみだが、これはもちろん彼らが宇野をパクっているのである。

宇野のマルクス解釈は、「ポストモダン」を先取りしてもいた。デリダは『マルクスの亡霊』で、マルクスが価値の実体は「幽霊的」なものだとして古典派経済学の形而上学を批判したことを高く評価したが、結局は労働価値説に価値実体を求めたことを批判した。これに対して宇野理論は、「流通過程が生産過程を包摂する」という論理で、事実上、労働価値説を放棄しているので、近経とも接合しやすい。

均衡=同一性を原理とする新古典派経済学では、利潤が継続的に存在する事実を説明できない。それに対して、差異性を原理とする宇野の理論は、現実の市場を定性的にはよく説明しており、経済物理学や行動ファイナンスのように、均衡の概念を否定する最近の理論にむしろ近い。宇野のスコラ的な文体では使い物にならないが、これをうまくリニューアルして現代の経済学と接合すれば、新しい経済システム論を生み出す可能性もある。

ただ佐藤氏も指摘するように、宇野の限界は、こうした差異化のシステムの基礎に国家権力があるという側面を軽視したことだ。マルクスも最終的には、資本論→世界市場論→国家論という巨大な「三部作」構成を考えていたが、この場合の国家は、あくまでも「上部構造」として経済的な土台から説明されるものだった。これは「市民社会の矛盾を国家が止揚する」というヘーゲル法哲学の思想で、今なお社会科学の主流である。

現代の問題は逆に、貨幣とか財産権などの制度の背後に政治があるということだ。こうした制度が自明に見えているときには、グローバル資本主義は安定した秩序として維持できるが、通貨危機が起こってIMFが介入したり、「知的財産権」を侵害するデジタル情報がグローバルに公然と流通したりするようになると、その自明性は失われ、背後にある政治性(ワシントン・コンセンサスやハリウッドの文化帝国主義)が露出してくるのである。

(*)宇野と鈴木の名前を合成したペンネームが「宇能鴻一郎」だったというのは、嘘のようなほんとの話。

夏休みの読書リスト

きょう発売の週刊東洋経済の読書特集で、「Web2.0とインターネットの未来」というテーマで(無理やり)10冊選んだ:並べ方は本文で言及した順であり、すべての本を強くおすすめするわけでもない。内容についてのコメントは、週刊東洋経済を読んでください。

ウェブの先史時代

Web2.0の便乗本が、たくさん出ている。たとえば神田敏晶『Web2.0でビジネスが変わる』(ソフトバンク新書)は、「Web2.0とはCGM(消費者生成メディア)のことである」と単純明快に断じ、CGMの例ばかりあげているお手軽な本だが、これは間違いである。CGMは、いま初めて出てきたものではない。昔のGopherにしてもネットニュースにしても、インターネット上のサービスは、もとはすべて消費者の作ったものだったのである。こういうウェブの「先史時代」を知ることは、今後の進化を予測する上でも重要だ。

モザイクでウェブがデビューしたとき、それが他のサービスと違っていたのは、むしろそれまでに比べてマスメディアに近づいたことだった。当時ネットニュースは、今の2ちゃんねるのような無政府状態だった。それに対して、ブラウザは文字どおりbrowseするだけで書き込めないから、双方向性はないが、無政府状態になる心配はなかった。ウェブの特徴は、こうして情報の生産者と消費者を区別して、秩序を維持できることだったのである。

さらにウェブ上でビジネスが始まると、ウェブサイトの作者はプロフェッショナルになり、データ量も膨大になり、デザインも凝ったものになった。ハードウェアも、初期のインターネットはすべてのホスト(主としてDECのミニコン)が同格につながるE2Eの構造だったのに対して、ウェブではクライアント=サーバ型の構造がブラウザとウェブサイトの間に成立した。特にほとんどのユーザーがISPを使うようになると、固定IPアドレスも持たなくなり、ユーザーとサービス提供者との非対称性はきわめて大きくなった。

この傾向が逆転し始めたようにみえたのは、ブログだろう。しかし、これも初期のMovable Typeでは、自分でレイアウトしなければならなかったが、そのうちにほとんどは、当ブログのようにISPにホスティングされるものになった。自分でホームページを作っていたころに比べると、ユーザーの自立性は弱まっている。ブログの数が全世界で4000万近いといっても、10億人を超えたインターネット・ユーザーの4%にすぎない。Wikipediaも、ユーザーの1%以下の「プロ」が半分以上の項目を編集している。

だからWeb2.0になってユーザーの力が強まったとか、「総表現社会」が来たとかいうのは錯覚である。アクティブなユーザーの数が増えるのは、母集団が増えているのだから、当たり前だ。インターネットが成長するにつれて、比率としては大部分のユーザーは受動的になり、マスメディアに近づいているのである(*)。極端なのはグーグルだ。その構造は、巨大なコンピュータに世界中の端末がぶら下がるIBMのメインフレームとほとんど同じである。

TCP/IPには、この20年以上、本質的な技術革新がなく、これは今後も(見通せる未来にわたって)変わらないだろう。しかしウェブ(HTTP)は、その上のサービスの一つにすぎず、インターネットの進化がウェブのバージョンアップにとどまるはずはない。今後リッチ・コンテンツが増えると、負荷を分散するため、リンクとファイル転送を切り離すP2P型が増えるのではないか。検索もP2Pで行い、インターネット全体を超並列コンピュータとして使うようなアプリケーションが出てくるかもしれない。そしてP2Pの原理は、E2Eに他ならない。インターネットは、変わっているようで変わっていないのである。

(*)誤解のないように付け加えると、私はウェブがマスメディアになるといっているのではない。初期のユーザーは、いわば「ヘッド」だけだったが、ウェブが普及するにしたがって「ロングテール」の部分が伸びているのである。ドットコム・ブームのころにもprosumerという言葉が流行したが、現実にはヘッドとテールは質的にはっきりわかれている。

社会的オプションとしてのベンチャー・キャピタル

先月のICPFシンポジウムでも話したことだが、1990年代前半、だれもが次世代のメディアは光ファイバーによる「マルチメディア」だと信じ、フロリダでタイム=ワーナーが大規模なビデオ・オンデマンドの実験を行った。同じころ、イリノイ大学のウェブサイトで「NCSAモザイク」が公開された。歴史を変えたのはタイム=ワーナーではなく、モザイク(のちのネットスケープ)だった。

こういうとき大事なのは、どっちが成功するかということではなく、どっちのオプションも排除しないということだ。1994年、シリコンバレーの名門ベンチャー・キャピタル、クライナー=パーキンスがネットスケープに400万ドル投資したとき、その売り上げは無に等しかった。そして今、「死が近い」ともいわれるYouTubeに、同じく名門VC、セコイアが1100万ドル以上投資する事実は、アメリカという国のオプションの広さを示している。

多様なオプションをもつことでリスクをヘッジする手法は、金融商品ではよく知られているが、これを実物資産に応用したのが「リアル・オプション」である。大プロジェクトに10億円投資して失敗したらゼロになってしまうが、それをモジュール化した2億円のプロジェクトを5つ作り、そのうち失敗したものは撤退するリアル・オプションがあれば、ゼロになることは避けられる。これが拙著で論じた「制度の柔軟性」の概念である。

今後の新しいメディアの本命は「通信と放送の融合」ではなく、YouTubeのような「ブロードバンド2.0」かもしれないし、そうではないかもしれない。何が本命かは、誰にもわからない。こういうときは、いろいろなものに実験的に投資して、そのうち一つでも成功すればよい、と割り切るしかない。VCは、いわばこうした社会的オプションとしての機能を果たしているのである。

ところが、日本にはこういう「裏」のオプションがないので、単独で事業を立ち上げるリスクを減らすために、テレビ局とメーカーが談合して「サーバー型放送」をつくるとか、官民一体で「日の丸検索エンジン」をつくるという話になりがちだ。しかし実は上に述べたように、このようにみんなで一緒にやることは、オプションを狭め、リスクを高めてしまうのである。これが国策プロジェクトの失敗する原因だ。

資金調達のオプションが少ないことも問題だ。政府と銀行が一体になった「開発主義」的な金融システムがいまだに残っているため、銀行や大企業に認知されていない(怪しげな)プロジェクトに投資することが非常にむずかしいのである。これは「直接金融か間接金融か」という問題ではない。VCの投資先との関係は、実は日本の銀行と融資先の関係に似ている。問題は、日本ではリスクをプールするしくみが銀行しかないため、大口の投資家が大きなリスクをとって投資する手段がほとんどないことだ。

いま日本に必要なのは、ファイナンス業界の淘汰と新規参入によって、こうしたオプションを広げることだ。90年代の不良債権処理で、不良企業の多くは淘汰されたが、肝心の不良金融機関は、公的資金によって延命されてしまった。ライブドアや村上ファンドの事件で、株主資本主義を否定する風潮が強まっているが、否定しなければならないような株主資本主義は、まだ日本にはほとんど育っていないのである。

富田メモは「世紀の大誤報」?

今週の『週刊新潮』に「『昭和天皇』富田メモは『世紀の大誤報』か」という記事が出ている。内容は、先々週から先週にかけて2ちゃんねるやブログで騒がれた話だ。詳細は、たとえば「依存症の独り言」にもあるが、テレビで撮影された手帳の裏側にうっすら見える字を左右反転して解読したもので、糊で貼り付けられた部分の「全文」は次のとおり読めるそうだ。太字にしたのが、日経の引用した部分である(改行などは整理):

              63.4.28 [■]
☆Pressの会見
                            
[1] 昨年は
  (1) 高松薨去間もないときで心も重かった
  (2) メモで返答したのでつくしていたと思う
  (3) 4.29に吐瀉したが その前で やはり体調が充分でなかった
  それで長官に今年はの記者 印象があったのであろう
   =(2)については記者も申しておりました
 
[2] 戦争の感想を問われ 嫌な気持を表現したが それは後で云いたい
  そして戦後国民が努力して 平和の確立につとめてくれたことを云いたかった
  "嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長の靖国発言中国への言及にひっかけて云った積りである

               4.28 [4]
  前にあったね どうしたのだろう
  中曽根の靖国参拝もあったか
  藤尾(文相)の発言。
   =奧野は藤尾と違うと思うが バランス感覚のことと思う
  単純な復古ではないとも。

  私は 或る時に、A級が合祀され その上松岡、白取までもが、
  筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
                      
  松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
  松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
  だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ


     ・ 関連質問 関係者もおり批判になるの意

これが「徳川義寛・元侍従長の他の発言と符合する」というのが、この記事の趣旨だが、これもブログでさんざんいわれた話である。ところが、この記事にはブログの話はもちろん、全文も出てこない。この「特集」とは別の櫻井よしこ氏のコラムでは、上の全文が出所を示さずに引用されているが、徳川氏にはふれていない。ウェブで2週間も前に出た話の一部を、大手週刊誌が別々の記事で、出所も明示せずに取り上げたことになる。これは画像を解析した結果を示している2ちゃんねるの書き込みよりも信用性が低い。

この全文については、他の新聞・雑誌も黙殺している。少なくとも、これを撮影したテレビ局は、メモの裏側に書かれた[1][2]を撮影することもできたはずだが、それもしていない。第1報のときも「日経新聞によると」というクレジットはなく、あたかも独自に取材したかのように、各社とも太字の部分だけを引用している。

信憑性については、[4]の部分は画面からも読み取れるので、間違いない。[1][2]についても、[3]が抜けている([4]の裏側で貼り付けられた可能性もある)点を除けば、おおむね妥当な解読結果だろう。しかし、これを徳川氏の話と考えるのは無理がある。このメモにはどこにも徳川氏の名前が出てこないし、彼はこの前後に「Pressの会見」をしていないからである。

この「会見」とは、素直に読めば、1988年4月25日に行われた昭和天皇の記者会見のことだろう(当時の記録とも一致する)。この会見は天皇の体調不良のため、15分で打ち切られたので、29日の天皇誕生日の記事のために、富田朝彦・宮内庁長官(当時)が会見を補足する「記者レク」の材料を天皇に取材した、と考えるのが常識的だ。

ただし問題の太字の部分は、明らかに記者レクで話せる内容ではないし、「A級」という表現も、天皇の発言としては不自然だ。これは天皇のオフレコの話を富田氏がメモしたものとも解釈できるが、全体が徳川氏からの伝聞で、[4]の部分が徳川氏自身のコメントだということも考えられる。いずれにしても、このテキストによる限り、どこにも主語が天皇だとは書かれていない。「昭和天皇が不快感」と日経が断定的に報じた部分が天皇の発言だという根拠もないのである

通常の文献考証の手続きとしては、少なくともこの糊付け部分だけでも全文を解読し、筆跡鑑定をするとともに、発言者がだれかを確認することが第一である。ところが、こうした基本的な調査もしないで、「首相の靖国参拝に影響」とか「勢いづく分祀論」といった政局ネタだけは一生懸命追いかける。先走る前に、まず問題の手帳の原文を専門家が厳密に検証する必要がある。

消えた「デジタル・ニューディール」

きのうはスラッシュドットから大量のアクセスが来て、当ブログはgoo blogのアクセスランキングで12位になった。「情報大航海プロジェクト・コンソーシャム」が発足したというニュースの関連だ。こういう産業政策がなぜ失敗するかは、今までにもブログやPC Japanなどで書いたので、繰り返さない。スラッシュドットでも、肯定的な意見は見事に一つもなかった。

ここで紹介するのは「デジタル・ニューディール」(DND)というプロジェクトである。2001年に産官学の連携で技術情報の交流を行う「産業技術知識交流サイト」として、当初18億円の予算で立ち上げられたが、2ちゃんねるから大量の不正アクセスが行われ、サイトは閉鎖された(この経緯も当時のスラッシュドットにくわしい)。当時のデータはすべて削除され、今は「大学発ベンチャー起業支援」という別のプロジェクトに化けている。

DNDプロジェクトはRIETIに事務局を置き、「元請け」は国際大学GLOCOMだったが、これは富士通のダミーで、開発は富士通の下請けに丸投げだった。しかしプロジェクトが中断されたため、予算の大半が宙に浮き、GLOCOMの所長代理(当時)が経産省の官僚を過剰接待するなどの不正経理問題が起こった。所長代理は解任され、のちに辞職したが、余った数億円の国家予算はどこへ行ったのか、いまだに不明である。国際大学の赤字補填に使われたのではないかともいわれるが、「企業の社会的責任」がお得意の小林陽太郎理事長には説明責任があるのではないか。

こういうプロジェクトの問題は、失敗することではない。ITの世界で、プロジェクトが失敗するのは当たり前である。問題は、このように失敗を隠蔽してしまうため、その教訓が生かされないで、同じ失敗が繰り返されることだ。日の丸検索エンジンとよく似ている「シグマ計画」も、多くのエンジニアのトラウマになったが、その事後評価はおろか、痕跡さえウェブには残っていない。

私は、政府が科学技術に資金援助することがすべて悪だとは思わない。他ならぬインターネットも、国防総省とNSFの予算でできたものだ。しかしNSFでは毎年プロジェクト評価を行い、不合格のプロジェクトには援助が打ち切られる。先日もいった政府調達手続きとともに、官民プロジェクトの事後評価も徹底的に見直すべきである。

情報のハイパーインフレーション

資本主義から市民主義へ

岩井 克人/三浦 雅士

このアイテムの詳細を見る

岩井氏の『貨幣論』など一連の著作をまとめて、当節流行の「語り下ろし」で作った本。内容は、ほとんどこれまでの本と重複しており、それを読んだ人は本書を読む必要はない。逆に、本書1冊を読めば、これまでの本を読む必要はない。「貨幣は貨幣であるがゆえに貨幣である」「法は・・・」「言語は・・・」という同語反復を果てしなく繰り返す岩井氏の本は、もうこれで打ち止めにしてはどうか。

しかも「貨幣はデファクト・スタンダードだ」という本書の議論は誤りである。貨幣は、政府によって定められたde jure standardである。特に銀行口座でデジタル情報になった貨幣を複製するコストはゼロに等しいから、事後的には複製することが効率的だが、貨幣を複製することが許されるのは政府だけだ。複製を自由にすると、ハイパーインフレーションが起きて、貨幣の価値はなくなってしまうからである。貨幣は岩井氏のいうような単なる記号ではなく、国家権力という「実体」をもっている。この通貨発行権の独占によって、市場(資本主義)のレイヤーと法(国家)のレイヤーはリンクしているのである。

では情報(言語)のレイヤーと市場のレイヤーはどうリンクしているのだろうか。かつては、紙という媒体によって両者はリンクしていたが、デジタル情報では、そういう物理的なリンクは失われてしまった。今は著作権という(紙幣と同じぐらい古い)疑わしい権利によってかろうじてリンクされているが、インターネットによる情報のハイパーインフレーションで、その財産価値はますます疑わしくなってきた。

ハイパーインフレの原因としてもっとも多いのは、戦争などによる政府(通貨発行主体)への信任の喪失である。YouTubeなどの情報インフレの原因も、アメリカ主導の「知的財産権」レジームへの不信任ではないか。その政府が完全に崩壊したとき、ハイパーインフレも終るのだが・・・

クライアントなきサーバー型放送

日曜の「コピーワンス」についての記事には、意外に多くの反響があった。規格を総務省と業界が密室で決めたため、コピーワンス自体を知らなかった人も多いようだ。そこでもう一つ、コピーワンスが奇怪な「進化」をとげたケースを紹介しよう。

これは「サーバー型放送」と呼ばれる。ふつうサーバというと、サービスを供給する側にあるものだが、この場合は家庭に置かれるセットトップ・ボックス(STB)を「ホームサーバー」と呼ぶ。この名前は一昔前、テレビが「ホームオートメーション」の中心になると思われていたころの遺物だが、クライアントがどこにあるのか、よくわからない。Serverとは「給仕」のことで、clientは「客」である。客がいないのに、給仕だけがいるということはありえない。ネットワークの中心はユーザーであって、サービスを供給する側ではないのである。

このサーバーはどういうものかというと、以前の記事でも書いたように、いま家庭にあるHDDレコーダーとほとんど同じである。違いは、専用のSTBに埋め込まれている点と、詳細なメタデータがついている点だけだ。このメタデータには、番組名や内容だけではなく、放送局の発行する「ライセンス」が入っており、視聴者がコピーできるか、CMを飛ばせるか、何回再生できるか、まで放送側で決められる。コンテンツは電波で放送されるが、メタデータの送信には別途、インターネット接続が必要だ(詳細は学会発表参照)。

メタデータは、今のHDDレコーダーのEPG(電子番組ガイド)にも入っている。サーバー型放送が違うのは、このデータが放送局によって一方的につけられ、それをユーザーが変更できないことだ。要するに、佐々木俊尚さんの指摘するように「受信機のHDDはユーザーの所有物なのに、その中のコンテンツは放送局の所有物」なのである。携帯端末に転送するメディアがSDカードに限定されているのは、松下が中心だからだろうか。

ウェブで映像や音声を検索するためには、メタデータの整備が重要だ。先日も紹介したように、W3Cもグーグルもこの分野では苦労している。彼らは、どうすれば多くのユーザーに使ってもらえるか考えているのだ。ところが日本では、あいかわらず供給側の都合で、テレビ局の既得権を守るために独自規格のメタデータをつくり、これをARIB(電波産業会)で「政府公認標準」にする。このサーバーに、クライアントは現れるのだろうか?


スクリーンショット 2021-06-09 172303
記事検索
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
Creative Commons
  • ライブドアブログ