日本版FCC

5GHz帯についての答申案が出た。欧米並みに、レーダーの使っている帯域でも室内ではオーバーレイで無線LANを認めようというものだ。

5年前に今の「全面禁止」の方針が出たときも、批判が強かった。常識的に考えても、10mWの無線LANが数MWのレーダーに「干渉」することは考えられない。実測調査でも、レーダー画面に無線LANの部分で小さな点が出るだけだったが、審議会では「災害時に、もしものことがあったらどうするのか」という気象庁の主張が通ってしまった。

こういう議論をみていると、「日本版FCC」を作っても大した効果はないだろう。インカンバントの立場に立つ行政が、既得権をおかさない範囲でしか新規参入を認めないからだ。むしろ電気通信事業部や電波部の許認可権をなくし、Peter Huber(Law and Disorder in Cyberspace)のいうように、すべて裁判所やADR(紛争処理委員会)で決めたほうがいいのかもしれない。

事前規制と事後チェック

森祐治さんのblogに、私の勘違いでping spamを飛ばしてしまった。すいません。

ところで、私がpingを飛ばした森さんの記事や、私の30日の記事へのコメントにも書かれているように、弁護士のサービスへの不満は世の中にかなり強い。司法試験に受かることは、サービス業者としての質を必ずしも保証しないのである。また、試験が異常にむずかしいのに比べて、一旦なったら事後的なチェックがほとんどない。

これは逆で、参入を自由にして事後的な監視をきびしくするというのが規制改革の基本的な考え方だ。こういう改革は、「人減らし」という意味での行政改革には必ずしもならない。米国のSECのスタッフが金融庁の5倍以上いるように、業界を監視するwholesaleのシステムから個別の業者を取り締まるretailのシステムに変えると、直接経費は増えるかもしれない。

日本の政府予算のGDP比が先進国でもっとも低い一つの理由も、(治安も含めて)モニタリング・コストが低かったためだが、これには明らかに限界がみえている。参入規制を廃止して事後チェック型に変えていかなければ、今後の日本経済を支えるサービス業が発展しない。特に司法サービスは、もっとも重要なサービスの一つである。

他方、行政サービスの大部分は不要(あるいは有害)だが、ここに国・地方あわせて200万人以上の「余剰人員」がいる。そこで、私が前から(半分冗談で)提案しているのは、中央官庁のキャリアの法律職にすべて司法試験合格者の資格を与え、転職を奨励してはどうかという案だ。これで弁護士業界に競争を導入するとともに、彼らの天下り先を確保するための無駄な公共事業が減れば、一石二鳥だと思うのだが・・・

職業免許

職業免許のほとんどが資格認定で代替可能だという議論は、40年前にミルトン・フリードマンが『資本主義と自由』で主張し、経済学者には広く認められている。

フリードマンが、医師や弁護士などの職業免許は中世のギルドのなごりだとしていることは興味深い。彼はギルドを「特権を守るためのカルテル」という意味で使っているのだが、最近の経済史の研究では、中世に商人ギルドのあった地域のほうが、なかった地域よりもはるかに商業が発達していたことがわかってきた(Milgrom-North-Weingast)。

つまりギルドには、何者かわからない相手と取引するリスクを減らし、疑心暗鬼による「囚人のジレンマ」で取引が起こらない状態を避けるという意味が(少なくとも初期には)あったのだ。現代でも、中坊公平氏のように不正をやると業界から「村八分」(ostracize)にされるので、消費者保護に役立っている面はある。

しかしギルドには、こういう「情報の非対称性」を減らす機能と、既得権を守る機能が一体になっていた。両者は分離可能であり、ほとんどの場合、前者の機能は資格認定で十分である。私は、フリードマンのように医師免許も不要だとはいわないが、弁護士の無免許営業を禁止する意味は疑わしい。無資格の「ディスカウント弁護士」を使って裁判に負けるのも、消費者の自己責任だろう。それで裁判が混乱するというなら、裁判官も資格認定にし、民間のADRで決められる範囲を広げればよい。

現実の弁護士の仕事の大部分は、法廷における弁論以外の税務などの代理人業務である。そういう周辺的な業務は税理士などにまかせ、弁護士は裁判に集中してはどうか。前の記事のコメントにもあるように、不動産取引についての弁護士の評判はよくない。何より重要なのは、競争を導入することだ。かつて不便な「小荷物」しかなかった業界に宅配便が参入した結果をみればわかるように、競争こそがサービスの質の向上をもたらすのである。

法化社会

私は、小泉内閣の重点課題である不良債権処理や郵政民営化は重要だと思うが、これは日本の「国のかたち」を変える第一歩にすぎない。最大の問題は、日本では「三権分立」が建て前にすぎず、行政にすべての権力が集中していることだ。

これはRIETIにいた3年間で痛感した。レッシグも、今年の春のお別れパーティで、日本の印象として「官僚の影響力が、法律家に比べて質量ともに圧倒的だ。米国はその逆で、私はこれを憂えているが、日本の状況もいかがなものか」といっていた。

こういう傾向は欧州にも共通らしいが、日本は明治の初めに極端に行政中心の大陸法を輸入したため、立法府がいまだに未発達で、一般国民のわからないところで「政令」とか「逐条解釈」とかいう形で事実上の法律が決まってしまう。つまり日本は、法治国家という建て前だが、実態は「官治国家」なのである。

私は今、原告として裁判にかかわっている。司法業界の非効率性も相当なものだが、これは行政もいい勝負だから、全体としては司法のほうがはるかに健全だと思う。それは、最後は第三者の「常識」で決まるからだろう。RIETI騒動のように、非常識な行政がとことん居直ることはできない。

司法改革の目標は「法化社会」とされているが、これも奇妙な言葉だ。それは現在の日本社会が法によって統治されていないということを意味しているからである。私は、これこそもっとも重要で、かつもっとも改革の困難な問題だと思う。なにしろ、この伝統には100年以上の「経路依存性」があるのだから。

安全神話崩壊のパラドックス

安全神話崩壊のパラドックス―治安の法社会学
オウム真理教の事件が起こった1995年ごろから、日本社会の「安全神話の崩壊」がいわれるようになったが、私は疑問に思っていた。オウムが殺した人数は27人だが、地下鉄サリン事件の直後に起こったオクラホマ州政府ビル爆破事件だけで168人が犠牲になったし、アルカイダの犠牲者はさらに一桁多い。オウム程度のテロリストが騒がれる日本は、むしろまだまだ安全なのではないか。

本書は、これを統計的に実証する。統計上の犯罪が増加している最大の原因は、警察が犯罪被害の届け出を受理しない「前さばき」が減ったため、実際の犯罪件数と統計とのギャップが縮まったことだ。検挙率の低下している原因も、この母集団の増加にくわえて、軽微な犯罪や余罪の追及に要員をさかなくなったことでほぼ説明がつくという(ただし、捜査能力が低下していることは事実だ)。

日本社会は、今も相対的には安全で、たとえば殺人事件の実質的な発生率は米国の1割以下だ。ただ従来は、凶悪犯罪は暴力団などの特殊な隔離された社会で行われてきたが、都市型犯罪によって一般社会にも広がってきたため、実感上の「安全神話」がゆらいでいる、というのが結論である。

著者の父親は河合隼雄氏だが、彼の「ユング心理学」なるものは、街の占い師と大して変わらない。本書の後半の日本人論は、父親のそれと同じく凡庸で冗漫だが、前半の実証データはおもしろい。

1970年体制

日本の経済システムを戦時体制の延長上にある「1940年体制」とよんだのは野口悠紀雄氏だが、原田泰氏などは「1970年体制」という考え方を提唱している。一般には、石油危機をきっかけに日本は「成熟経済」に入ったと理解されているが、成長率の減速は石油危機の前から始まっており、原油価格が下がっても元に戻らなかったからだ。

増田悦佐『高度経済成長は復活できる』(文春新書)は、田中角栄が「弱者保護」と称して都市の金を地方に再分配するシステムを作り出したことが成長率低下の原因だと主張する。たしかにそういう面はある(その典型が放送業界だ)が、これが田中個人による「社会主義革命」だというのは、短絡的にすぎよう。

日本の社会資本投資は、70年ごろまでは私的投資よりも収益率が高かったし、日本が急速な成長にともなう都市のスラム化を避けることができたのも、このためだ。公共事業は、高度成長にともなう過剰貯蓄を地方に再分配して票田を守る自民党の集票戦略だったが、こうした「弱者にやさしい政治」は与野党を問わないコンセンサスだった。

この「田中角栄型システム」は、バブル崩壊とともに破綻したが、1970年体制に代わる新しい「アーキテクチャ」ができていないことが、混乱の長期化する原因である。著者のいうように単なる都市化で「高度経済成長が復活できる」とは思えないし、それが望ましいわけでもない。

録画ネット

海外在住の日本人向けにテレビ番組を録画して配信するサービスを差し止めるようテレビ局が求めていた訴訟で、差し止めの仮処分決定が出た。

このサービスが違法なら、ケーブルテレビもDVDレコーダーも違法だ。グローバルな戦略のない日本のテレビ局も、ブロードバンドで地上波の番組の配信を許さないとかJASRACとの包括契約を許さないとか、著作権を名目にして既得権を守る戦術だけは、米国の業者に学んでいるようだ。

産業政策の終焉

今回のダイエー騒動には、不可解なことが多い。最初からメインバンクが「自主再建」では債権放棄に応じないといっているのだから、こういう結論しかないことは日本の常識だろう。死に体のダイエーがここまでねばったのは、経産省が「応援」したためだが、土壇場でハシゴを外されて立ち往生。これが「民間主導」とは笑わせる。

この迷走の最大の責任者が、北畑隆生・経産政策局長だ。省内でも「再生機構には経産省からも幹部を出しているのに、いい加減にしろ」「何か成算があるのか」と批判が強かったが、結局、何も策はなかった。「官邸が北畑の暴走を押さえ込んだ」という説もあるが、むしろ官邸の調整機能がなくなったから、ここまで泥沼になったのではないか。

北畑氏は、かつて通産省が繊維や造船を整理したときのような「産業政策」的な手法が、まだ通用すると思い込んでいたのだろう。今回のドタバタは、不良債権問題の最終局面の始まりとともに、彼に代表される「古い霞ヶ関」の終わりを告げているのだ。

経済学の「ノーベル賞」

今年の受賞者は、KydlandとPrescottだった。一番びっくりしたのは、本人だろう。理論的にも実証的にも葬られ、政策的にもナンセンスな「実物的景気循環」が、今ごろ学問の墓場からよみがえるとは・・・

この賞は、正確には"The Bank of Sweden Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel"であってノーベル賞ではない。ノーベル家の遺族からは「まぎらわしい名前は変えてほしい」という要望がかねてから出ており、最近の受賞者にも疑問が多い。

数学にノーベル賞がないのは、ノーベルが数学ぎらいだったからだというが、それなら応用数学にすぎない経済学が「ノーベル賞」を自称するのはおかしい。やめるのが一番いいと思うが、せめてメディアも通称を「スウェーデン銀行賞」に変えてはどうか。

Jaques Derrida

ジャック・デリダが死んだ。

学生時代に『グラマトロジー』を読んだときは、意味不明の造語でレヴィ=ストロースにからんでいるだけの小物だと思っていた。「音声中心主義」などというのは、フランスのローカルな習慣の問題にすぎない。特に1970年代後半に、小説みたいなわけのわからない文章を書き始めてから、読まなくなった。

しかし、1993年の『マルクスの亡霊』には強い印象を受けた。文献学的にはナンセンスだが、マルクスを形而上学の現代的形態として読む「脱構築」は、きわめて重要だ。廣松渉が本質的な人格的関係の錯視として認識論的な意味を与えた「物神化」のメカニズムを転倒し、物神=亡霊こそ本質なのだという読解は新鮮だった。

『亡霊』の訳本(藤原書店)が10年以上たっても出ないのは、レヴィ=ストロースの『神話学』の訳本(みすず書房)が30年以上たっても出ないのと並ぶ、日本文化に対する犯罪である。


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