ヒルズ黙示録

ヒルズ黙示録―検証・ライブドア

朝日新聞社

このアイテムの詳細を見る

ライブドア問題を早くから追跡してきたAERAの記者が、ニッポン放送事件の前にさかのぼって、一連の出来事をひとつのストーリーとしてまとめたもの。「影の主人公」は村上ファンドで、その裏にはフジサンケイ・グループの骨肉の争いがあったという見立てだ。

東京地検の捜査には、著者も懐疑的だ。政治家などの「巨悪」は結局、何も出てこなかった。「偽計」や「粉飾」とされる容疑も、山一やカネボウのように経営破綻をごまかすために数千億円の不良資産を隠していたのとは違い、公判で争う余地はある。ホリエモンは、大鶴特捜部長の「額に汗して働く人が憤慨するような事案」を摘発するという「国策捜査」のスケープゴートにされたのではないか。北島副部長が捜査の途中で更迭された異例の人事も、何か見込み違いがあったことをうかがわせる。

ライブドア事件の影響で、資本市場の規制が強化され、検察のターゲットともいわれた村上ファンドも、シンガポールに本拠地を移した。これで「ヒルズ族」のお祭りの季節はひとまず終わったが、インターネットはこれからも世界を変えてゆくだろう。

貧困の終焉

貧困の終焉―2025年までに世界を変える

早川書房

このアイテムの詳細を見る

Time誌の「2005年の人」には、貧困に苦しむ途上国の「よき隣人」として、U2のボノとビル・ゲイツ夫妻が選ばれた。これまであまり「おしゃれ」な話題ではなかった途上国の貧困が、「ホワイトバンド」のような形でファッションになったのは、まぁ悪いことではない。そのボノが「教師」とあおぐのが、本書の著者ジェフリー・サックス(コロンビア大学地球研究所長)である。

著者は28歳でハーバード大学の教授になった秀才だが、その学問的な評価はわかれる。とくに彼が顧問として招かれたロシアの経済改革においては、エリツィン政権の経済顧問として、急速な市場経済化による「ショック療法」(彼はこの言葉をきらっているが)を提案し、ロシアを貧困のどん底にたたきこんだ張本人として知られている。

その後、著者は国連のアナン事務総長の特別顧問として、途上国とくにアフリカの貧困対策に努力する。本書の中心となっているのも、毎日1万人以上がエイズやマラリアで死んでゆくサブサハラ地帯の貧困問題だ。しかし、この問題に取り組む国連の「ミレニアム・プロジェクト」の予算は、イラク戦争につぎこまれた戦費の1/100にも満たない。彼は「援助は腐敗した政治家の隠し財産になるだけだ」というシニカルな意見に反論し、「よいガバナンス」は必要だが、成長率とガバナンスとの間には相関はほとんどなく、「地に足のついた援助」は効果を発揮すると説く。

著者の情熱とヒューマニズムには、だれしも脱帽するだろうが、途上国援助を批判する者がすべて「人種差別主義者」であるかのような一面的な主張には、いささか鼻白む。またブッシュ政権の単独行動主義を批判する一方、「反グローバリズム」のデモに一定の理解を示す姿勢には、党派的なにおいも感じるが、著者の扱っている問題が、テロや地球温暖化よりもはるかに重要であることは疑いない。

量子コンピュータ

量子コンピュータについての会議が英国王立協会で開かれ、いくつかの異なった方向の成果が発表された。

コンピュータ素子の微細化は急速に進んでいるが、その極致が電子のスピンを使った量子コンピュータだ。普通のコンピュータが0か1かというbitの情報しか持たないのに対して、シュレーディンガーの波動関数であらわされる「純粋状態」の電子ではupとdownのスピンが一定の確率で重ねあわされている。この2値の状態ベクトルをqubit(quantum bit)とよび、これを利用して多くの計算過程を重ね合わせる超並列の高速コンピュータをつくろうというのである。このアイデアは1970年代からあったが、実際には電子を純粋状態におくことがむずかしく、実用化は不可能だと思われていた。今回の会議でも、いろいろな方法が提案されているが、実際に計算に使えるほど長時間、安定した純粋状態に電子をおくことはできていない。

こういう素子の開発は、物理学にとっても重要な実験である。純粋状態の電子が観測されると、波動の干渉が消えて「混合状態」の古典力学的な物質となるのはなぜか、という「観測問題」は100年近く物理学者を悩ましてきた。アインシュタインやシュレーディンガーは、確率的な波動に見えるのは電子の「真の状態」についての情報が不足しているだけだという実在論的解釈をとったが、ボーアやハイゼンベルクは確率的な不確実性は本質的なものだという立場をとり、この「コペンハーゲン解釈」がながく物理学の主流だった。

しかし確率的な波動が本質的な状態だとすると、観測によってそれが消えるのはなぜか。これについて現在の標準的な解釈では、電子が外界と相互作用することによってdecoherence(非干渉化)が生じ、混合状態以外の波(合成された密度行列の非対角成分)が極小化して見えなくなると考える。したがって非干渉化が起こらないように純粋状態を持続することができれば、チューリング・マシンを超える強力なコンピュータができるとともに、非干渉化理論が実証され、観測問題も解決するわけだ。

かつては実際の物理現象と関係のない神学論争だと思われていた観測問題についての理論が、最先端のコンピュータの原理になるというのが自然科学の不思議なところだ。最初は数学基礎論の奇妙なパラドックスにすぎなかったゲーデルの不完全性定理(の証明技法)が、チューリングによってプログラム内蔵型コンピュータの原理とされたように、本質的な理論は本質的な技術革新を生むということだろう。

村上ファンド

村上ファンドの阪神電鉄に対する株主提案が話題を呼んでいる。阪神側が反発する最大の理由は、村上ファンドが経営権を握ったら不動産事業などを「切り売り」するのではないか、との懸念だという。しかし、これこそ投資ファンドの存在理由だ。

1980年代の米国でも多くの投資ファンドが登場し、「多角化」で水ぶくれした企業をLBOで買収し、不採算部門を売却するなどして効率化した。その理論的支柱となったのが、Michael Jensenの有名な論文である。Jensenは、成熟産業の経営者は余ったキャッシュフローを「帝国建設」的な規模拡大や多角化に使う傾向が強いので、それを阻止して利益を投資家に還元する手法としてLBOは重要だと指摘した。

LBOの効果には、賛否両論ある。米国でも社会的には「拝金主義」として批判を受けることが多く、Barbarians at the Gate(『野蛮な来訪者』)やDen of Thieves(『ウォール街・悪の巣窟』)など、企業買収を批判するノンフィクションがたくさん出た。しかし経済学的には、米国の資本主義が80年代までの閉塞状況を脱却するうえで、こうした「企業コントロールの市場」が大きな役割を果たしたという肯定的な評価が多い。

日本では、企業は「共同体」という意識が強いので、いまだに藤原正彦氏のように企業買収そのものに嫌悪を示す人が多く、特に事業売却はよほど追い込まれないとやらない。しかし今回のNHKをめぐる議論でもわかるように、企業に「規模を縮小せよ」と説得するのは無駄である。市場の力で適正規模に縮小させるしかない。資本市場が機能していなくても、効率の悪い企業は最終財市場から退場させられるから、市場が最強のガバナンス装置なのである。

破綻した受信料制度

先日の「朝まで生テレビ」の内容では、松原聡氏の話だけがニュースとして出ている。読売新聞によれば、「NHKのラジオとBSの電波が削減対象になる」という話と、「スクランブル化に否定的な見解を示した」という点がニュースになっている。

たしかに、後者には私も驚いた。彼が『Voice』2005年12月号に書いた記事では、「デジタル放送では、B-CASカードを介して個々の視聴者を特定して、放送を送ることが可能となっている」と書き、両論併記のような形になっていたのに、先週の話では、このB-CAS方式(スクランブル)を明確に否定したからだ。

その理由として、松原氏は「スクランブル化すると、公共放送としての根拠がなくなる」という点をあげているが、それが民営化というものだ。受信料制度が(彼も認めるように)公共料金として破綻しているのだから、公共放送をやめるしかないのである。これに対して「NHKの収入が減る」という心配を宮崎哲弥氏がしていたが、『週刊東洋経済』にも書いたように、視聴料にすれば捕捉率は100%になり、1台ごとに課金できるので、視聴者が半減したとしても採算は合う。そもそも有料放送にしたら視聴者が半減するとすれば、今は本来の視聴者の倍の人々に無理やり見せているということになる。

さらに問題なのは、前にも書いたように、不払いの視聴者は、個人・法人ふくめて最大2700万世帯もあると推定されるが、彼らからどうやって受信料を取り立てるのか、ということだ。これだけ膨大な数の催告状を裁判所から出してもらうには、印紙税だけで100億円ぐらいになるだろう。さらに毎月2000円程度の受信料の不払いでいちいち差し押さえに行ったら、そのコストが取り立てる料金を上回る。要するに、現在の受信料制度は、もうenforcementが不可能なのである。

もちろん民営化する最大の理由は、朝生でも出席者全員が認めていたように「NHKと政治の距離が近すぎる」ことである。これは番組の内容にかかわるだけでなく、経営陣がつねに政治家や役所のほうを向いて経営を行うため、放送ビジネスについて無知な「政治屋」が出世し、デジタル放送のようなナンセンスなプロジェクトが進められるという点でも弊害が大きい。少なくとも、NHK予算を国会で承認するしくみはやめるべきである。BBC予算はOfcomが承認しているが、日本にはそういう独立行政委員会もない・・・

追記:朝日新聞(3日)のインタビューで、NHKの橋本会長は、地上デジタルで「料金を払え」という横断幕を画面に出す方針を示唆している。通信・放送懇談会のいう「取り立て強化」という対策に効果がないことがわかっているからだ。改革の対象よりも後退した提言しか出せない懇談会って何なのか。

IPv6

総務省の委託でインテックネットコアなどが調べたIPv6の普及度調査の結果が、ウェブサイトに出ている。それによれば、のように、v6のトラフィックは2002年の2.5%をピークとして減少し、今年は0.1%にも満たない。

RFC2460(v6の基本仕様)が出てから8年たってもこういう状況では、もう「次世代のアドレス体系」ではありえない。WIDEでも最近は「v4をv6に置き換える」という表現をやめて「v6を普及させる」としているようだ。v6はローカル・アドレスと割り切れば、それなりの用途はある。v4サイトから見えないぶん、安全だというメリットもある。

Windows Vistaには、出荷時からv6のアドレスがつく予定だが、これは混乱のもとになる。NTTやIIJなどの一部のv6専用サービス(閉じたネットワーク)で、すでにv6のアドレスをもっているユーザーは、1つのホストに2つのグローバル・アドレスをもつことになるからだ。ローカルのサーバにアクセスしたらVistaのアドレスで同定されてはじかれる、といったトラブルが起こるおそれが強い。これはマイクロソフトがVistaの仕様で複数のv6アドレスの優先順位を決めるなどの対応をするしかないが、マイクロソフトはその気はないという。

こういう混乱が起こるのは、しょせんローカル・アドレスでしかないv6をWIDEが「次世代」のアドレスとして宣伝したり、それを真に受けた政府が「国策」としてv6を推進したりした結果だ。v4のアドレスが「涸渇」することはありえない、という事実は、山田肇氏と私が4年前の論文で指摘したことだ。この論文は1年で3万回もダウンロードされ、IETFのシンポジウムでもテーマになったが、事実関係は村井純氏も認めた。

ところが霞ヶ関では、まだこの程度の基本的な認識もない。あるとき某省の審議官にv6についてのレクチャーを求められ、「v6はv4と完全互換ではない。v4のサイトからv6のアドレスは見えない」と説明したら、審議官が「それは本当か」と驚いていた。こんな初歩的なことも知らないでv6に100億円以上の補助金をつける無謀さには、こっちが驚いた。v6をめぐる混乱は、要素技術に政府が介入するとろくなことにならないという好例である。

民主化するイノベーション

今週のEconomist誌の特集は、New Mediaである。タイトルはちょっとダサいが、『ウェブ進化論』『グーグル』とは違って、メディアで起こっている変化について多くの1次情報に取材して書かれた、バランスのとれたサーヴェイである。

この特集は、いま起こっている変化を「イノベーションの民主化」ととらえる。かつてグーテンベルクによる活版印刷の普及が知識を教会の独占から解放したように、インターネットが通信制御を電話会社から解放したことによって、blog、Wikipedia、SNS、podcastなど多くの「参加型メディア」が登場し、既存メディアを脅かしている。その革命的な変化は、かつてのドットコム・ブームのときは幻想にすぎなかったが、今度は現実である。

しかし、こうした新しいメディアが社会をどう変えるかは明らかではない。活版印刷は個人を自立させたが、プロテスタントを生み出し、宗教戦争を引き起こした。いまメディアの世界でも、宗教戦争が起こりつつある。アンシャン・レジームの側では、革命を拒否するのか、それともそれを取り込もうとするのか、いろいろな試行錯誤が繰り返されている。LAタイムズやNYタイムズは、紙面をWikiのように読者に編集させようとしたが、多数の「荒らし」によってサイトを閉鎖した。

他方、革命派でも戦略はわかれる。ウェブ上の情報を徹底的に蓄積して選択はユーザーにゆだねるグーグルと、タイム=ワーナーからCEOをまねいて「メディア企業」になることをめざすヤフーの違いは、フランス革命のジャコバン派とジロンド派に似ている。革命は近代市民社会を生み出したという評価もあるが、エドマンド・バークのように混乱と流血をもたらしただけだという評価もある。すべての市民が「参加」する民主主義などというものは、幻想だからである。

おそらく、今後インターネットが成熟する過程で既存メディアとの「融合」が進み、「憲法」のようなルールができてゆくのだろう。しかし、それはかつての近代化の過程で行われた「建国」よりもはるかにむずかしい。新しい憲法は、グローバルでなければ効力をもたないからである。しかし、いま起こっている変化がグーテンベルク以来のスケールだということは、ほぼ明らかになったといえよう。

参考までに、エリック・フォン・ヒッペル『民主化するイノベーションの時代』(ファーストプレス)も同様の現象を分析している。

ポール・ローマーと経済成長の謎

ポール・ローマーと経済成長の謎
知識が経済にどのような影響を及ぼすかを、ポール・ローマーの有名な論文を中心に描いたもの。もとの論文を読んだ人には読む価値がないが、知識や情報が経済学でどのように扱われてきたかという経済学史の読み物としては、わかりやすく書かれている。

経済成長の最大のエンジンが技術革新であることは、アダム・スミスやマルクスの時代から認識されていた。価値の本源的な源泉は労働力(人的資本)だが、単なる肉体労働では価値は蓄積されない。それが物的資本として蓄積され、知識が技術進歩として実現することで、経済は成長するのだ。

マルクスのいう資本の有機的構成の高度化は、労働価値説でこの問題を明らかにしようとした最初の試みだった。技術進歩で労働力を節約すれば、利潤が上がる。職人が手作業で服を縫うより、その技術を自動織機に置き換え、職人をなくせば成長できるのだ。

これは当たり前の話だが、新古典派経済学は「完全情報」の世界を仮構して、知識の問題を無視してしまった。新古典派成長理論は、技術進歩を(理論的に説明できない)残差としてモデルの外に出したが、実証研究で明らかになったのは、皮肉なことに、成長の最大の要因がこの「残差」だということだった。

知識の「収穫逓増」

このパラドックスを解決し、技術革新を内生的に説明したのが、ローマーの論文である。そのポイントは、情報は「非競合的」な資源だから、技術情報が社会全体に「スピルオーバー」することによって、研究開発の効率が高まる、という考え方である。

初期の新古典派成長理論では資本と労働だけを考え、物的資源配分の効率性が成長を決めると考えたが、それだけなら「無政府的」な資本主義より資源を重化学工業などの戦略分野に傾斜配分できる社会主義のほうがすぐれている。しかし1950年代までは西側諸国をしのいでいたソ連の成長率は60年代に西側に抜かれ、その後も大きく低下した。

その原因は、物的な生産要素よりもイノベーションのほうが重要になってきたたためと考えられる。初期の新古典派成長理論では技術進歩を外生的に仮定するだけだったが、内生的成長理論はこれを理論的に説明した。ローマーのモデルのエッセンスは、次の動学方程式にある:

 ⊿A=δHAA

ここでAは社会全体に蓄積された知識の量、δは生産性パラメータ、HAは研究開発に使われる人的資本である。つまり知識の増分⊿Aは社会全体に蓄積された知識のストックAの増加関数だから、社会に蓄積された知識が大きくなると成長率が高まる収穫逓増が起こる。資本は蓄積される一方で減耗するが、知識が減ることはないのだ。

人的資本への投資が成長の源泉

これは「成長の源泉は人への投資である」という自明の話で、Lucasはこれを「人的資本の蓄積」として定式化した。こっちのほうが理論としてはエレガントだが、1990年代にローマーのモデルが大流行した。

上の式のAは狭い意味の技術革新とは限らず、シュンペーターの「新結合」という意味でのイノベーションである。Aghion-Howittは、そういうロジックを説明する内生的成長理論を提唱している。

他方、技術がすべて公開されてしまうと、知識に投資するインセンティブがなくなるので、ローマーはこれを独占的競争のモデルで考えた。Acemogluなどは、知的財産権の保護や民主主義の成熟などの制度的要因を強調している。

このようにイノベーションを説明する経済理論には、まだ定説といえるものはないが、共通認識としていえるのは、先進国では物的資本の蓄積より人的資本の質の向上のほうが重要だということである。

この意味では教育に重点を置く成長戦略は間違っていないが、今の大学に投資しても人的資本は蓄積できない。技術開発も、特定の分野への補助金より、労働市場を柔軟にして成長分野に労働人口を移動させ、起業や対内直接投資でイノベーションを促進することが効果的だろう。

自動公衆送信

IPマルチキャストについては、「有線放送」扱いとすることで文化庁も動き出したようだ。その最大の理由は、2011年にアナログ放送を停止するというデッドラインがもう水平線上に見えてきたからである。こういう点では、地上デジタル放送も役に立つ。

しかし実は、もっと根本的な問題が残っている。そもそも通信と放送で著作権処理が異なるのはなぜか、という問題である。この原因は、1997年の著作権法改正で文部省(当時)が「自動公衆送信」という概念を創設し、インターネットをその対象としたことにある。当時の著作権課長だった岡本薫氏(現・政策研究大学院大学教授)は、「インターネットに対応する世界に誇るべき制度」だと自画自賛しているが、WIPOではこの概念を承認したものの、日本以外でこの概念を法制化した国はない。

おかげで日本では、ファイルを送信しなくても、ウェブサイトに置くだけで「送信可能化」する行為として処罰できるようになった。Winny事件を含めて、日本のインターネットをめぐる刑事事件のほとんどの根拠は、この送信可能化権侵害である。合法的に音楽ファイルをインターネットで利用するには、著作者だけではなく、実演者やレコード会社などの著作隣接権者の許諾が必要で、現実には不可能に近い。このため、米国では何万局もあるインターネット・ラジオも、日本では営業が成り立たない。

これに対して、放送(CATVを含む)の場合には、隣接権者の許諾は必要なく、JASRACと包括契約を結ぶだけでよい。なぜこのように放送だけが特別扱いされるのかという理由は明らかではないが、放送局には一定の公共性があるとか、事業者の数が限られていて利用状態が把握しやすいといった理由があるものと考えられる。

しかし著作権の及ぶ範囲と、通信か放送かというのは、本来は別問題であり、メディアの違いによって権利処理が違うのはおかしい。こういう規定はベルヌ条約にもあるが、もともとは通信を1対1の電話のようなものと想定して区別したのであり、インターネットのような両者を包括するメディアが普及した今日では、通信と放送で著作権の扱いが違うということが時代錯誤である。

・・・というような話をすると国際的な問題になって、是正はほとんど不可能になってしまうが、現実的には、小倉秀夫さんの提案するように、音楽についてはメディアを問わず強制許諾(compulsory license)とする著作権法の改正を行えば十分だろう。同様の提案は、EFFもしている。

ハイエク

『国家の品格』は早くも170万部を突破し、『バカの壁』を抜く最速のペースだという。たしかに、とりとめなくて何がいいたいのかよくわからない『バカの壁』に比べれば、『国家の品格』の主張はよく悪くもはっきりしており、話題になりやすい。担当の編集者は、私の本の担当でもあるので、とりあえずはおめでとう。

しかし、専門家の評価は低い。阿部重夫編集長ブログによると、『国家の品格』の国粋主義と『ウェブ進化論』の米国礼賛は、「対極にいるように見えるが、前回書いたように『無知』をブラックボックス化してしまう点で双方ともハイエクの手のひらを一歩も出ていないのだ」という。

これには少し解説が必要だろう。ハイエクは、デカルト的合理主義を否定し、ヒューム的な経験主義から出発した。彼にとっては、市場は完全情報の合理的主体が無限の未来までの価格をもとに計算を行うものではなく、部分的な情報しかもっていない人間が価格を媒介にして外部の情報を取り入れ、無知を修正して進化するメカニズムである。

『ウェブ進化論』の絶賛するグーグルは、断片的なウェブの情報を系統的なデータベースに組織するという意味で、ハイエクの市場モデルに近い。しかし、それは価格という「こちら側」とのリンクをもたないため、SEOなどによって容易に欺かれてしまう。グーグルは「あちら側」だから、理解できないほうが悪いのだ、と思考停止してしまうのは、バブルによくみられる群衆行動だ。

『国家の品格』に至っては、非論理的な「情緒」を絶対化し、市場原理や民主主義を否定する。たしかに何が正しいかを先験的に知っている神のような視点からみれば、エリートが大衆を善導すればよいので、人間の行動を相互作用によって修正する市場メカニズムは不要だろう。しかしそんな特権的な立場は、存在しえないのである。

したがって、人間が無知であるということを前提にして、情報を集計して秩序を維持するルールを設計しようというのが、ハイエクのアプローチである。彼の理論は、新古典派のような数学モデルにはならないので主流にはならなかったが、最近の「経済物理学」「行動金融理論」などは、ハイエクの進化的モデルのほうが実際の市場データをうまく説明することを示している。

こうした新しいモデルの特徴は、人間を孤立した合理的個人と考えるのではなく、複雑に相互作用する「ネットワーク」的な存在と考えることである。だから、話題になった本は多くの人が買うことによってさらに話題になる・・・という正のフィードバックが働く。最近、新書で100万部以上のメガ・ベストセラーが相次いでいる原因も、ウェブなどの情報交換によってこのフィードバックが強まっていることにあるのではないか。


スクリーンショット 2021-06-09 172303
記事検索
Twitter
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
Creative Commons
  • ライブドアブログ