民主化するイノベーション

今週のEconomist誌の特集は、New Mediaである。タイトルはちょっとダサいが、『ウェブ進化論』『グーグル』とは違って、メディアで起こっている変化について多くの1次情報に取材して書かれた、バランスのとれたサーヴェイである。

この特集は、いま起こっている変化を「イノベーションの民主化」ととらえる。かつてグーテンベルクによる活版印刷の普及が知識を教会の独占から解放したように、インターネットが通信制御を電話会社から解放したことによって、blog、Wikipedia、SNS、podcastなど多くの「参加型メディア」が登場し、既存メディアを脅かしている。その革命的な変化は、かつてのドットコム・ブームのときは幻想にすぎなかったが、今度は現実である。

しかし、こうした新しいメディアが社会をどう変えるかは明らかではない。活版印刷は個人を自立させたが、プロテスタントを生み出し、宗教戦争を引き起こした。いまメディアの世界でも、宗教戦争が起こりつつある。アンシャン・レジームの側では、革命を拒否するのか、それともそれを取り込もうとするのか、いろいろな試行錯誤が繰り返されている。LAタイムズやNYタイムズは、紙面をWikiのように読者に編集させようとしたが、多数の「荒らし」によってサイトを閉鎖した。

他方、革命派でも戦略はわかれる。ウェブ上の情報を徹底的に蓄積して選択はユーザーにゆだねるグーグルと、タイム=ワーナーからCEOをまねいて「メディア企業」になることをめざすヤフーの違いは、フランス革命のジャコバン派とジロンド派に似ている。革命は近代市民社会を生み出したという評価もあるが、エドマンド・バークのように混乱と流血をもたらしただけだという評価もある。すべての市民が「参加」する民主主義などというものは、幻想だからである。

おそらく、今後インターネットが成熟する過程で既存メディアとの「融合」が進み、「憲法」のようなルールができてゆくのだろう。しかし、それはかつての近代化の過程で行われた「建国」よりもはるかにむずかしい。新しい憲法は、グローバルでなければ効力をもたないからである。しかし、いま起こっている変化がグーテンベルク以来のスケールだということは、ほぼ明らかになったといえよう。

参考までに、エリック・フォン・ヒッペル『民主化するイノベーションの時代』(ファーストプレス)も同様の現象を分析している。

ポール・ローマーと経済成長の謎

ポール・ローマーと経済成長の謎
知識が経済にどのような影響を及ぼすかを、ポール・ローマーの有名な論文を中心に描いたもの。もとの論文を読んだ人には読む価値がないが、知識や情報が経済学でどのように扱われてきたかという経済学史の読み物としては、わかりやすく書かれている。

経済成長の最大のエンジンが技術革新であることは、アダム・スミスやマルクスの時代から認識されていた。価値の本源的な源泉は労働力(人的資本)だが、単なる肉体労働では価値は蓄積されない。それが物的資本として蓄積され、知識が技術進歩として実現することで、経済は成長するのだ。

マルクスのいう資本の有機的構成の高度化は、労働価値説でこの問題を明らかにしようとした最初の試みだった。技術進歩で労働力を節約すれば、利潤が上がる。職人が手作業で服を縫うより、その技術を自動織機に置き換え、職人をなくせば成長できるのだ。

これは当たり前の話だが、新古典派経済学は「完全情報」の世界を仮構して、知識の問題を無視してしまった。新古典派成長理論は、技術進歩を(理論的に説明できない)残差としてモデルの外に出したが、実証研究で明らかになったのは、皮肉なことに、成長の最大の要因がこの「残差」だということだった。

知識の「収穫逓増」

このパラドックスを解決し、技術革新を内生的に説明したのが、ローマーの論文である。そのポイントは、情報は「非競合的」な資源だから、技術情報が社会全体に「スピルオーバー」することによって、研究開発の効率が高まる、という考え方である。

初期の新古典派成長理論では資本と労働だけを考え、物的資源配分の効率性が成長を決めると考えたが、それだけなら「無政府的」な資本主義より資源を重化学工業などの戦略分野に傾斜配分できる社会主義のほうがすぐれている。しかし1950年代までは西側諸国をしのいでいたソ連の成長率は60年代に西側に抜かれ、その後も大きく低下した。

その原因は、物的な生産要素よりもイノベーションのほうが重要になってきたたためと考えられる。初期の新古典派成長理論では技術進歩を外生的に仮定するだけだったが、内生的成長理論はこれを理論的に説明した。ローマーのモデルのエッセンスは、次の動学方程式にある:

 ⊿A=δHAA

ここでAは社会全体に蓄積された知識の量、δは生産性パラメータ、HAは研究開発に使われる人的資本である。つまり知識の増分⊿Aは社会全体に蓄積された知識のストックAの増加関数だから、社会に蓄積された知識が大きくなると成長率が高まる収穫逓増が起こる。資本は蓄積される一方で減耗するが、知識が減ることはないのだ。

人的資本への投資が成長の源泉

これは「成長の源泉は人への投資である」という自明の話で、Lucasはこれを「人的資本の蓄積」として定式化した。こっちのほうが理論としてはエレガントだが、1990年代にローマーのモデルが大流行した。

上の式のAは狭い意味の技術革新とは限らず、シュンペーターの「新結合」という意味でのイノベーションである。Aghion-Howittは、そういうロジックを説明する内生的成長理論を提唱している。

他方、技術がすべて公開されてしまうと、知識に投資するインセンティブがなくなるので、ローマーはこれを独占的競争のモデルで考えた。Acemogluなどは、知的財産権の保護や民主主義の成熟などの制度的要因を強調している。

このようにイノベーションを説明する経済理論には、まだ定説といえるものはないが、共通認識としていえるのは、先進国では物的資本の蓄積より人的資本の質の向上のほうが重要だということである。

この意味では教育に重点を置く成長戦略は間違っていないが、今の大学に投資しても人的資本は蓄積できない。技術開発も、特定の分野への補助金より、労働市場を柔軟にして成長分野に労働人口を移動させ、起業や対内直接投資でイノベーションを促進することが効果的だろう。

自動公衆送信

IPマルチキャストについては、「有線放送」扱いとすることで文化庁も動き出したようだ。その最大の理由は、2011年にアナログ放送を停止するというデッドラインがもう水平線上に見えてきたからである。こういう点では、地上デジタル放送も役に立つ。

しかし実は、もっと根本的な問題が残っている。そもそも通信と放送で著作権処理が異なるのはなぜか、という問題である。この原因は、1997年の著作権法改正で文部省(当時)が「自動公衆送信」という概念を創設し、インターネットをその対象としたことにある。当時の著作権課長だった岡本薫氏(現・政策研究大学院大学教授)は、「インターネットに対応する世界に誇るべき制度」だと自画自賛しているが、WIPOではこの概念を承認したものの、日本以外でこの概念を法制化した国はない。

おかげで日本では、ファイルを送信しなくても、ウェブサイトに置くだけで「送信可能化」する行為として処罰できるようになった。Winny事件を含めて、日本のインターネットをめぐる刑事事件のほとんどの根拠は、この送信可能化権侵害である。合法的に音楽ファイルをインターネットで利用するには、著作者だけではなく、実演者やレコード会社などの著作隣接権者の許諾が必要で、現実には不可能に近い。このため、米国では何万局もあるインターネット・ラジオも、日本では営業が成り立たない。

これに対して、放送(CATVを含む)の場合には、隣接権者の許諾は必要なく、JASRACと包括契約を結ぶだけでよい。なぜこのように放送だけが特別扱いされるのかという理由は明らかではないが、放送局には一定の公共性があるとか、事業者の数が限られていて利用状態が把握しやすいといった理由があるものと考えられる。

しかし著作権の及ぶ範囲と、通信か放送かというのは、本来は別問題であり、メディアの違いによって権利処理が違うのはおかしい。こういう規定はベルヌ条約にもあるが、もともとは通信を1対1の電話のようなものと想定して区別したのであり、インターネットのような両者を包括するメディアが普及した今日では、通信と放送で著作権の扱いが違うということが時代錯誤である。

・・・というような話をすると国際的な問題になって、是正はほとんど不可能になってしまうが、現実的には、小倉秀夫さんの提案するように、音楽についてはメディアを問わず強制許諾(compulsory license)とする著作権法の改正を行えば十分だろう。同様の提案は、EFFもしている。

ハイエク

『国家の品格』は早くも170万部を突破し、『バカの壁』を抜く最速のペースだという。たしかに、とりとめなくて何がいいたいのかよくわからない『バカの壁』に比べれば、『国家の品格』の主張はよく悪くもはっきりしており、話題になりやすい。担当の編集者は、私の本の担当でもあるので、とりあえずはおめでとう。

しかし、専門家の評価は低い。阿部重夫編集長ブログによると、『国家の品格』の国粋主義と『ウェブ進化論』の米国礼賛は、「対極にいるように見えるが、前回書いたように『無知』をブラックボックス化してしまう点で双方ともハイエクの手のひらを一歩も出ていないのだ」という。

これには少し解説が必要だろう。ハイエクは、デカルト的合理主義を否定し、ヒューム的な経験主義から出発した。彼にとっては、市場は完全情報の合理的主体が無限の未来までの価格をもとに計算を行うものではなく、部分的な情報しかもっていない人間が価格を媒介にして外部の情報を取り入れ、無知を修正して進化するメカニズムである。

『ウェブ進化論』の絶賛するグーグルは、断片的なウェブの情報を系統的なデータベースに組織するという意味で、ハイエクの市場モデルに近い。しかし、それは価格という「こちら側」とのリンクをもたないため、SEOなどによって容易に欺かれてしまう。グーグルは「あちら側」だから、理解できないほうが悪いのだ、と思考停止してしまうのは、バブルによくみられる群衆行動だ。

『国家の品格』に至っては、非論理的な「情緒」を絶対化し、市場原理や民主主義を否定する。たしかに何が正しいかを先験的に知っている神のような視点からみれば、エリートが大衆を善導すればよいので、人間の行動を相互作用によって修正する市場メカニズムは不要だろう。しかしそんな特権的な立場は、存在しえないのである。

したがって、人間が無知であるということを前提にして、情報を集計して秩序を維持するルールを設計しようというのが、ハイエクのアプローチである。彼の理論は、新古典派のような数学モデルにはならないので主流にはならなかったが、最近の「経済物理学」「行動金融理論」などは、ハイエクの進化的モデルのほうが実際の市場データをうまく説明することを示している。

こうした新しいモデルの特徴は、人間を孤立した合理的個人と考えるのではなく、複雑に相互作用する「ネットワーク」的な存在と考えることである。だから、話題になった本は多くの人が買うことによってさらに話題になる・・・という正のフィードバックが働く。最近、新書で100万部以上のメガ・ベストセラーが相次いでいる原因も、ウェブなどの情報交換によってこのフィードバックが強まっていることにあるのではないか。

活字文化があぶない

きのう新聞協会は、新聞の「特殊指定」をめぐって「活字文化があぶない!~メディアの役割と責任」と題するシンポジウムを開いた。ところが、このシンポジウムには当の公取委はおろか、新聞協会の見解と違う意見の持ち主も出席していない。最初から特殊指定の見直し反対派だけを集めて、いったいどんな議論が行われたのだろうか。ライブドアの「パブリック・ジャーナリスト」小田記者によると、
「道路が裂かれても、体が凍えても、一軒一軒のポストに新聞を届ける人がいた」などと感情に訴えたり、中には、特殊指定撤廃があたかも新聞業界を殺すかのような報道もあった。こと「特殊指定」報道に関しては、新聞は理性を失っているとしか言いようがない。
このシンポジウムについて、中立的な立場から報じているメディアがライブドアしかないという事実が、日本の活字文化がいかに「あぶない」かを示している。

新聞記事には、そもそも特殊指定とはどういう規定で、公取委がなぜその見直しを検討しているのかという基本的な事実関係も書かれていない。特殊指定とは、「新聞社や販売店が地域・相手方により異なる定価を設定して販売すること等を禁止」しているだけで、それを廃止しても、定価販売がなくなるわけではない。公取委も指摘するように
新聞業界においては,新聞発行本社は販売地域内では一律の価格で再販制度を運用するとしており,また,今回の新聞特殊指定見直しの議論においても価格差を設けるべきでないとしていることから,少なくとも不当な価格を当該新聞発行本社自身が設けるということはそもそも存在し得ないはずである。
したがって特殊指定を廃止しても価格競争が始まるわけではないが、かりに競争が始まるとしても、
その結果,戸別配達網が崩壊するとする根拠は全く不明であり,当委員会として新聞業界に対し,新聞特殊指定により極めて強い規制を行う根拠とはし難い。[・・・]新聞特殊指定が制定される前から戸別配達は定着していたものであり,新聞特殊指定がなければ戸別配達が成り立たないという主張は極めて説得力に欠ける。
新聞各社が世論調査などで示しているように、新聞の宅配制度が圧倒的多数の国民に支持されているなら、それを法的に補強する必要もないだろう。まして特殊指定の廃止が「活字文化の危機」をもたらすというのは問題のすりかえであり、この両者にはいかなる因果関係もない。このようなバランスを欠いた報道をすべての新聞で繰り返し、地方議会まで動員して「見直し反対決議」を出させる新聞社の異常な行動こそ、冷静で客観的な活字文化の危機である。

追記:12日の朝日新聞で、2面ぶち抜きでこのシンポジウムが紹介されている。あきれたことに、出席者全員が「特殊指定の廃止→宅配制度の崩壊」という前提で「市場原理主義」を非難している。

『国家の品格』と『ウェブ進化論』

このところなぜか、この2冊のベストセラーについてのTBが多い。グーグルで書名を検索してみると、私の『国家の品格』についての記事は21位、『ウェブ進化論』の記事は6位に出てくるので、TBを飛ばして「おまえのコメントは見当違いだ」といいたいのだろうか。そこで、私の書評をアマゾン風に書いてみた。

国家の品格 新潮新書

おすすめ度:★☆☆☆☆ 冗談としてはおもしろいが・・・ 2006/4/3

社会科学の専門家でもない著者が、「民主主義」や「市場原理」を罵倒して「武士道」を賞賛する本。しかも、その論法たるや、民主主義の元祖がジョン・ロックだという話から、ロックの思想は「カルヴァンと同じである」と断じ、ゆえに民主主義は「キリスト教原理主義」のイデオロギーだから、「自由も平等もフィクションだ」という結論に飛躍する。最初は、おもしろい冗談だと思って読んだが、その後も新聞やテレビで著者が同じ話を繰り返しているのをみると、どうやら本気でそう信じているらしい。

民主主義が欠陥の多い制度だということは、だれでも知っている。しかしチャーチルの有名な言葉のように、民主主義は最悪の制度だが、それよりもましな制度は歴史上なかったのである。著者のいう「エリート」による政治というものがかりに可能だとして、そのエリートはだれが選ぶのか。民主主義によらないで、「武士道」で決めるのか。

著者は、「大事なのは、論理ではなく情緒だ」という。たしかに数学の世界では、論理(無矛盾性)だけでは命題の真偽は判定できない。どんな非現実的な仮説からでも、無矛盾な論理は構築できるからだ。しかし実証科学では、仮説から演繹された結論は、実験や観測などのテストを受け、それにあわない仮説は棄却される。民主主義も市場原理も、歴史のテストを受けて成熟してきた制度であり、「情緒」で決めたものではないのである。

著者は「数学のような役に立たない学問の盛んな国は繁栄する」というが、これは逆である。日本は経済的に繁栄したから、著者のような役に立たない数学者でも、公務員として身分が保証されているのだ。彼の給料を稼いでいるのは、「市場原理」のなかで働いている納税者である。彼の本が100万部も売れて、7000万円以上の印税が入るのも、市場原理のおかげだ。そんなに市場原理がきらいなら、印税を捨てて北朝鮮に移住してはどうか。

ウェブ進化論 ちくま新書

おすすめ度:★★☆☆☆ 入門書としては読みやすいが・・・ 2006/4/3

入門書としては読みやすいし、「ブログ」とか「ウィキペディア」って何だろうという、おじさんが知りたい(でも今さら聞くのは恥ずかしい)疑問にとりあえず答えてくれる。しかも四半期の利益が8億ドルのグーグルの時価総額が1000億ドルを超えるのは、それが「あちら側」にいるからで、日本のおじさんたちはみんな「こちら側」だから、アメリカのまねをしてがんばろう、と目標まで決めてくれる。

しかし、こういう話って、どこかで聞いたことがないだろうか。10年前にも、赤字企業のネットスケープ社の時価総額が数十億ドルになったことがあったっけ。そのときも「ビジョナリー」とよばれる人々が、「ドットコムの世界は別なのだ」とかいって、日本でもオン・ザ・エッヂというホームページ制作会社がIPOで数十億円を集めた。

「あちら側」というのは、要するにサイバースペースという意味で、新しい概念ではない。ウェブをOSにしようというのはネットスケープも試みたし、サンのStar Suiteも最初はサンのウェブサイトで使うサービスだった。マイクロソフトでさえ.NETで「ウェブサービス」を試みたが、みんな失敗した。ブログやオープンソースも、ビジネスとして「こちら側」よりも大きくなるとは思えない。

検索エンジンとしては、今やグーグルは断然トップというわけではない。他の検索サイトも、グーグルと同じようなアルゴリズムを採用して精度を上げているし、日本ではヤフーのページビューがグーグルのほぼ2倍だ。グーグルの検索結果は、ノイズが多く日付順ソートもできないので、最近は私はRSSリーダーテクノラティなどを使うことが多い。グーグルのビジネスモデルも、しょせん(GDPの)1%産業といわれる広告業にすぎないから、限界が見えてくるのは意外に早いだろう。

偽メール事件のお粗末

偽メール騒動は、結局、民主党の執行部が総辞職するという最悪の結果になった。わからないのは、この程度の問題の処理に、なぜこんなに手間どり、ここまでダメージを拡大してしまったのかということだ。民主党のウェブサイトで民主党 「メール」問題検証チーム報告書が公開されているが、それを読むと、問題は永田氏個人にはとどまらず、執行部全体の情報管理の甘さにあるという印象が強い。

まず2月16日の質問の前に、問題のメールの真偽について永田氏は、西澤孝なる「情報仲介者」の話を鵜呑みにし、まったく裏を取っていない。ライブドアをやめて「大手企業の系列会社」に勤務しているという「情報提供者」の存在さえ、いまだに確認できていない。メールの真偽にかかわる情報を要求すると、西澤は「情報提供者がおびえている」「成田から高飛びしようとしている」などと漫画のようなストーリーで逃げるのに、それ以上追及しない。

西澤が業界で札つきの詐欺師だということは、少し調べればわかったはずだ(週刊誌は質問の翌週すぐ報じている)。彼は、民主党に持ち込む前に、このメールをいくつかのメディアに持ち込んだともいっているが、三文週刊誌でも、こんな紙切れ1枚で自民党幹事長の贈収賄を断定する記事を書いたりしない。名誉毀損で訴えられたら、抗弁できる証拠能力がないからだ。

永田氏や野田氏がメールを本物だと信じたのは、それがライブドア社内で使われているEudoraで書かれているというのが、ほとんど唯一の根拠だったらしい。ところが、それが社内で使われていたVer.6.2ではないことが(ブログなどで)判明してからは、バージョン番号だけが塗りつぶされたメールが出てきた。しかも、社員なら一度は受け取ったはずの堀江氏の普段のメールの特徴(署名など)さえまねていない。おそらく「情報提供者」なるものは存在せず、これは西澤の自作自演だろう。

さらに問題なのは、疑惑が生じてからの対応だ。永田氏の質問後、いろいろなバージョンの偽メールが出回り、21日には
原口予算委員は、国会内で、居合わせた「対策チーム」メンバーに、送信元(from)と送信先(to)が同一の「メール」のプリントアウトを見せた。「対策チーム」メンバーは、この「メール」について協議したが、真偽の判断には至らなかった。(報告書 p.24)
という。この「対策チーム」は、いったい何を協議したのだろうか。ToとFromが同一だということは、偽造したという明白な証拠である。それなのに、翌22日には、党首討論で前原代表が「確証がある」などといって、問題を党全体に広げてしまった。しかも永田氏を「入院」させたり、中途半端な処分(6ヶ月の党員資格停止)でお茶を濁したりして、決着を遅らせた。

私は、きのうニュースを聞いて「永田氏の議員辞職はともかく、前原代表まで辞任することはないのでは」と思ったが、この報告書を読むと、第一義的な責任は執行部にある。これはメディアでいえば、駆け出し記者の入手した怪文書を、デスクも部長も見た上で、裏もとらずに報道したようなもので、朝日新聞の「田中知事架空インタビュー事件」のように経営者が責任をとるべき事件である。

民主党の問題は、今回の事件がはしなくも明らかにしたように、個々の議員の「個人営業」になっていることだ。自民党が霞ヶ関という大シンクタンクをもっているのに対して、民主党にはこの程度の問題を処理するスタッフもいない。「対案路線」などと大言壮語する前に、政策立案や情報管理を担当する専門家を雇ってはどうか。

廣松渉

哲学者の廣松渉が死んで、もう12年たつが、依然として彼についての本が刊行されている。最近では、『哲学者廣松渉の告白的回想録』(河出書房新社)という彼の生前のインタビューを集めた本まで出ている。彼の本の晦渋な悪文とは違って、彼の話はとても魅力的だったから、こういう座談集がもっと出てもよいと思うが、この本は彼のもっともだめな「革命論」が大部分を占めているので、お勧めできない。

私の人生で、だれにいちばん大きな影響を受けたかといえば、圧倒的に廣松である。私が大学に入った年は、彼がちょうど非常勤講師として駒場に来たときだった。科学哲学の大学院のゼミに潜り込んで、彼の講義を聞いたが、その内容はもっぱら新カント派などの伝統的な哲学だった。私の初歩的な質問にも、実にていねいに答える柔和な印象は、彼の文体からは想像もできない。

私のマルクスやヘーゲルなどの理解は、ほとんど廣松経由である。もとのテキストを読んでもさっぱりわからなかったのが、廣松のフィルターを通すと、実に明快にわかってくる。ただ、そのわかり方は、たぶんにドイツ観念論の図式的な理解で、いま思うと、やはり廣松は本質的にはヘーゲル主義者だったのだと思う。

それと印象的だったのは、すごいヘビースモーカーで、ゼミの間中もずっとタバコ(ピース)を吸い続けていたことだ。歯は真っ黒だった。当然のことながら、彼は60歳で退官した直後に肺癌で死んだが、あのタバコの吸い方は、ほとんど緩慢に自殺しているようなものだった。

彼の代表作は、晩年の『存在と意味』(岩波書店)ではなく、若いころの『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房)だと思う。私が最初に読んだ彼の本は『唯物史観の原像』(三一新書)だったが、これも名著だ。彼が名大をやめて浪人していた時期に書かれた『マルクス主義の成立過程』(至誠堂)や『マルクス主義の地平』(勁草書房)も傑作である。しかし彼が東大に就職してからは、同じ図式の繰り返しになり、私は興味を失った。

デリダは、社会主義の崩壊した1990年代に『マルクスの亡霊』を書いた。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は明らかに『資本論』を意識しており、ドゥルーズは最後の本として『マルクスの偉大さ』を構想していたといわれる。こうしたポストモダンの解釈に比べると、廣松のマルクス解釈は観念論的で古臭いが、日本の生み出した数少ない独創的な哲学であることは間違いない。

マスメディア集中排除原則

竹中総務相が「マスメディア集中排除原則」の見直しを示唆した。この規制は、今まで何度も「見直し」ては、結局なにも変えないままに終わっている。最大の障害は、地方民放を私物化している政治家が、再編成を拒んでいることだ。他局に買収されたら、「お国入り」をローカルニュースで放送させるなど、宣伝塔として使うことができなくなるからだ。

この原則が1950年にできたときは、米国のようにローカル局が自主編成を行って多様な番組を放送することを想定していた。ところが現実には、地方民放とキー局の資本関係は(集中排除原則のおかげで)20%以下なのに、地方局の番組の90%近くはキー局の垂れ流し、という奇妙な系列関係ができてしまった。この規制は地方民放を過小資本にしただけで、言論の多様性には何も貢献していない。おかげで、民放連の圧倒的多数を占める地方民放がキー局よりも大きな発言力をもち、放送業界の近代化をさまたげてきた。これは、貧しくても頭数の多い途上国が国連を支配しているのと同じ構図である。

この「途上国」は、資本力が弱く経営基盤は不安定だが、危なくなったらキー局からもらう「ネット料」を増額させるので、つぶれる心配はない。地上デジタルは、ある面ではこの「放送業界の癌」を設備投資負担でつぶすための計画だったが、地方民放は政治家を使って「アナアナ変換」に国費を投入させ、ピンチを逃れた。しかし今後のデジタル化投資は、自己資金でやらざるをえない。キー局も、集中排除原則があるかぎり、設備投資を補助することはできない。

放送のデジタル化を効率的に進めるには、集中排除原則を撤廃して、地方民放をキー局の子会社にし、県域ごとの無駄な投資を省く必要がある。局舎は、たとえば九州なら福岡に1局あればよく、他の県には中継局と取材拠点があればよい。せまい日本で、県域ごとに免許を出す制度も改めるべきだ。またインフラは県ごとに統合して「受託放送事業者」とし、NHKも含めた共同中継局を建てるのが合理的である。

ただ、先日のICPFセミナーで深瀬槇雄氏も指摘したように、竹中氏の構想を小泉政権で実現するのはむずかしい。竹中氏は、6月までに通信・放送懇の結論を出して「骨太の方針」に入れるつもりらしいが、今はおとなしいNTTやNHKも、その既得権を脅かすような結論が出たら、激しいロビイングを展開するだろう。「死に体」になりつつある小泉政権に、その抵抗を押し切って改革を実行する力があるかどうかは疑わしい。本格的な改革は、次の政権がどうなるか次第だろう。

特殊指定

公正取引委員会が、新聞の値引きなどを禁じる「特殊指定」の廃止を検討しているのに対して、新聞協会が特殊指定の堅持を求める特別決議を出した。それによれば、
新聞販売店による定価割引の禁止を定めた特殊指定は再販制度と一体であり、その見直しは再販制度を骨抜きにする。販売店の価格競争は配達区域を混乱させ、戸別配達網を崩壊に向かわせる
のだそうである。「価格競争」が業界秩序を「崩壊に向かわせる」というのは、改革に反対する業界の決まり文句だが、それを批判する新聞が、自分のことになると典型的な「抵抗勢力」になるわけだ。これは、私が5年前に指摘したときとまったく変わっていない。

価格競争によって販売区域が変化し、販売店の淘汰が進むことは間違いないが、それが「戸別配達網を崩壊に向かわせる」とは限らない。同じ地域を多くの新聞販売店が重複して回るのは無駄だから、たとえば各社がまとめてヤマト運輸に配達を委託すれば、戸別配達網のコストはむしろ下がるだろう。

実際には、この決議が「全会一致」で採択されたほどには、業界は一枚岩ではない。価格競争が始まると、生き残るのは販売力の強い読売と、逆に直営店をもたない日経だろう、というのが業界の見方だ。他方、いまや聖教新聞の印刷・販売業となった毎日新聞と、フジテレビに赤字を補填してもらって生き延びている産経新聞は、販売網の維持が経営の重荷になり、むしろ整理・統合したいのが本音だという。

しかし、ここで再販をやめると、毎日や産経の経営が破綻し、それを買収して外部の資本が入ってくるかもしれない。海外でも、マードックやタイム=ワーナーなど、新聞はメディア・コングロマリットの一部に組み込まれるのが普通だ。日本の新聞社は資本力が弱いので、「勝ち組」の読売といえども安泰ではない。だから負け組の新聞社を「生かさぬよう殺さぬよう」残しているのが再販制度なのである。

追記:特殊指定について、民主党も「議員懇談会」を発足させ、安倍官房長官まで「維持が望ましい」とコメントした(24日)。公取委が出した方針を官房長官が否定するというのは異例だ。電波利権と並ぶ最後のタブー、新聞の再販もまだ健在らしい。


スクリーンショット 2021-06-09 172303
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