NTTとNHKの止まった時計

通信・放送懇談会では、NTTの経営形態について「2010年には、通信関係法制の抜本的な見直しを行う」と提言したのに対し、自民党の通信・放送産業高度化小委員会(片山虎之助委員長)では「2010年から見直す」としていたNTT再々編問題は、竹中氏と片山氏との会談で、「2010年の時点で検討を行う」という表現で実質的に先送りされた。

こういう結果は、当ブログでも予想したとおりだ。あらためて痛感するのは、NTTを特殊会社として規制する法律の弊害である。現在の経営形態が、インターネット時代にそぐわないことは明らかだが、NTT法を変えようとすると、法律を改正する作業だけで3年ぐらいかかる。2010年に改正しようと思えば、今から審議会の議題にしないと間に合わない。2010年になってから検討したのでは、改正NTT法を施行するのは2015年ぐらいになるだろう。そのころには、今とはまったく違う通信技術が登場しているかもしれない。これでは永遠にいたちごっこだ。

他方NTTは、法律を改正すると、必ず「完全分割」論が出てきて不利な方向になると思っているから、今の経営形態がいかに窮屈でも、NTT法を変えてくれとはいわず、現在の法律のなかで換骨奪胎をはかっている。これは改革を迫る側も悪い。今回、規制改革会議や通信・放送懇談会で出てきた「NTT各社の資本分離」というのは、1982年に第2臨調が出した答申そのままだ。今の企業の境界に問題があるのに、その境界にそって資本分離せよという議論は理解できない。要するに、攻める側も守る側も、第2臨調以来の24年間、時計が止まったままなのだ。

NHKについては、「3波削減」のうちFMに反対論が出て、対象はBSの2波だけになったようだ。そのうち1波(BSハイビジョン)は、2011年に停波することが決まっているので、実質的には1波削減だが、それも「検討の対象とする」だけ(霞ヶ関語では何もしないということ)。受信料の支払い義務化は、08年度から導入されることが決まったようだが、義務化だけしても収納率は上がらない。罰則の導入は不可避だろう。

情報通信コストが下がり続けているなかで、受信料の値上げがもう不可能だということは、島桂次会長の時代からわかっていたことだ。島は「受信料に依存している限り、NHKの経営には限界がある」として、最終的にはMICOという孫会社を中心にしてNHKグループ全体を民営化する構想をもっていた。しかし1991年に彼が失脚して、こうした改革は白紙に戻されてしまった。その後の15年間(海老沢時代)は、たまたまBS受信料によって実質的に値上げできたため、改革は何も行われず、NHKの時計も止まったままだ。

インターネット時代の環境変化は、この古い時計を揺さぶっているが、今回もまた針を現在時刻に合わせる作業は失敗に終わった。もう時計を取り替えるしかない。3年で4倍という速度で技術革新が起こっている情報通信業界の中心的な企業を、改正の作業だけで3年以上かかる法律で規制するしくみが間違っているのである。NTT法の改正ではなく廃止を明示的な目標にし、そのために何が必要かを考えるべきだ。時計の針を戦前のような国営放送に戻そうとしているNHKに至っては、何をかいわんやである。

デジタル時代を拒否するNHK

NHKの不祥事を受けてつくられた「デジタル時代のNHK懇談会」の最終報告書が出た。いくつもの審議会を兼務する御用学者と御用文化人を集めた懇談会には、もともと何も期待していなかったが、この報告書は、その予想をさらに下回るものだ。公共放送がなぜ必要かという部分では、こう書かれている:
公共的性格を備える放送を産業振興策や政争の具に使ってはならない。近年の放送と通信の接近を、公共性を旨とする放送の本質や使命の変化と見誤ってはならない。誰もが安価に参加しうる番組の制作と送出は、情報と文化の質的低下を招きかねず、視聴者ニーズを個別に把握する双方向技術は、商業主義の過剰な浸透につながりかねない。NHKは、技術的物珍しさや短期的収益性に惑わされることなく、民主主義社会のインフラとしての役割を果たすとともに、より確かな放送技術や番組・放送サービスの開発と普及を使命とすべきである。
通信と放送の融合は「産業振興策」(?)であり、インターネットは「技術的に物珍しい」だけで「商業主義の過剰な浸透」をまねくという。このように市場経済を蔑視し、「公共放送」がいつまでもメディアの中心だというのが「デジタル時代」への認識なのだから、恐れ入る。ところが最後の提言には、こう書かれている:
NHKが保有する番組アーカイブスの公開等、インターネットの積極的活用を進めるため、経費負担や著作権処理のあり方やNHKの業務範囲についての再検討が求められる。視聴者の声を汲み上げるためのブログ等の活用やそれとの交流も押し進めるべきである。
インターネットは「短期的収益性」を求めるもので、ブログのような誰もが安価に参加しうるメディアは「情報と文化の質的低下」をまねくんじゃなかったっけ? ここには、インターネットに対応して業務を再編することは拒むが、もうけになる部分だけはつまみ食いしたいという卑しいダブル・スタンダードがある。1年も懇談会をやって、出てくる提言が「視聴者第一主義」とか「組織統治の明確化」といったお題目ばかりで、業務も組織も変えないという以外の具体策は何も書かれていない。

こんな無内容な諮問機関は、今どき霞ヶ関にもみられない。総務省の通信・放送懇談会の報告書にも、チャンネルの削減とか受信料の値下げとか、それなりに目玉をつくろうという努力がみられた。ところが、このNHK懇談会では、チャンネルの削減も拒否し、受信料の支払い義務化を条件つきで容認しているところまで、NHK経営陣の見解のカーボンコピーだ。これを起草したのは、座長代行の長谷部恭男氏(東大教授)だといわれるが、彼はNHKべったりの御用学者として業界では有名だ。この報告書は、NHKがジャーナリズムとしていかに衰退したかを示す点では有益だろう。

追記:古川享氏が、この報告書について怒りのコメントをしている。別に私は答える立場にはないが、調達については、I通信機などには多くのOBが天下りしているので、他のメーカーと競争する民生品市場では安く売り、随意契約の「NHK価格」で利益を確保するしくみになっている。同様のからくりは、美術センターなどNHKの子会社にもよくある。タクシー代については、松原聡氏も「NHKのタクシー・ハイヤー代は月4億円で、霞ヶ関の全官庁に匹敵する」と『朝生』で怒っていたが、これでも昔に比べたら激減したんですよ・・・

「複雑ネットワーク」とは何か

「複雑ネットワーク」とは何か 複雑な関係を読み解く新しいアプローチ (ブルーバックス)
インターネットでおなじみの「ロングテール」は、数学的にいうと、ベキ法則、y=x-kに従うものである。この分布は一般の社会にも多く、たとえば英語に出てくる単語の数は、theを左上の頂点とし、ほとんど使われない単語を裾野とするロングテールになる。

また所得の分布も、少数の金持ちと大多数の貧乏人(ロングテール)にわかれるという事実は、19世紀にパレートが発見し、ベキ分布は「パレート分布」とも呼ばれる。バラバシは、これを「スケールフリー・ネットワーク」と名づけ、なぜこういう分布が出現するかをグラフ理論を使って明らかにした。

それは簡単にいうと、ネットワークが成長するとき、リンクの多い「ハブ」ほど多くの新しいリンクが張られる「優先的選択」によって拡大するためだ。したがってウェブも、インターネット(ルータの接続)も、mixiもスケールフリー・ネットワークになる。また、当ブログでも前に紹介した「スモールワールド・ネットワーク」も、グラフ理論で説明できる。伝染病の感染経路や脳のニューロンの結合が、このタイプだといわれている。

こうしたモデルを使えば、「ネットワーク外部性」や「モジュール化」などの経済現象も説明できるかもしれない。ただ本書は入門書なので、実用的な教科書を求める読者には、同じ著者の『複雑ネットワークの科学』のほうがいいだろう。最近、原論文を集めたリーディングスも出たが、初心者向きではない。

The Theory of Corporate Finance

The Theory of Corporate Finance

Jean Tirole

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著者のもとで博士課程にいた研究者の話によると、著者は「普通の人の10倍のスピードで仕事をする」そうだ。もちろん質も高く、彼の書いた産業組織論の教科書やFudenbergと共著のゲーム理論の教科書は、いずれも古典である。本書も、企業金融や企業統治の教科書の世界標準となるだろう。まだ第1章「企業統治」しか読んでないが、最近の出来事と少し関連がありそうなので、紹介しておく(一部は版元のホームページからダウンロードできる)。

著者の立場は、いかにして企業価値を最大化し、それを株主に還元させるかという「狭い意味での企業統治」を論じるものである。「ステークホルダー」とか「社会的責任」などの問題は、契約や法で解決すべきで、企業経営にそういう色々な利害関係者を入れると、利益相反が生じやすい。

経営者のモラル・ハザードを防ぐには、ストック・オプションのような形で株主と経営者の利害を共通にする方法と、モニタリングを強化する方法がある。メディアは、企業買収や企業犯罪の摘発を大きく扱うが、こうしたカラフルな出来事が企業統治に果たす役割は、限られたものである。むしろ最終財市場がガバナンスに果たす役割が大きく、業績の悪化した企業の経営者が追放される率は、日米独の3ヶ国でほとんど変わらない。

Shleiferなどの行った企業統治についての一連の大規模な実証研究によれば、「直接金融」か「間接金融」かといった違いは企業統治の効率に無関係で、もっとも重要なのは投資家の保護である。しかし、SOX法のようにモニタリングを極端に厳格化し、しかも広い範囲に重い刑事罰を課す政策は、バランスを欠いた過剰規制になるおそれが強い。投資家保護が重要だというのは事実だが、それは特定の企業をスケープゴートにすることによって実現するものではない。

インサイダー取引はなぜ犯罪なのか

株取引のサイトでは、村上ファンド事件について「なんでこれが大犯罪なのか?」という疑問が多い。兜町でも、ちょっと前までは、インサイダーがその情報でもうけるのは当たり前だった。日本でインサイダー取引が禁じられたのは、1988年である。世界的にみても、米国が1960年代からインサイダー取引を刑事訴追しているのは突出して早く、英国でも1986年、EUでは2002年に取り締まりを強化しようというEU指令が出た程度だ。

そもそも市場で利益を得るのは、定義によって他人よりすぐれた情報をもっているからである。それを得たら取引してはいけないとなると、投資家が多くの情報を得ようとするインセンティヴが失われてしまう。インサイダーが好材料にもとづいて株式を買えば、株価が上昇することによって、その情報は価格に織り込まれる。逆に悪い情報も、インサイダー情報にもとづいて株式を空売りできれば、内部告発者が真実を語るインセンティヴが生じる――とミルトン・フリードマンは論じている。

法の公平性という点からみても、不動産や商品市場にはインサイダー規制はない。たとえば大手ゼネコンがビルの建設用地を買収するときは、建設計画を隠して複数の地上げ屋に「底地買い」させるのが常識であり、罪には問われない。またインサイダー情報が正しいとも限らない。ライブドアがニッポン放送株を買収すると聞いて、村上氏が秘かに株を買ったあとで、ライブドアが株を売ってしまったら、村上氏は損するリスクがある。新薬の発表のような情報でも、正式発表までに(兜町の噂で)市場が織り込んでいるため、逆に株価が下がったりすることは珍しくない。証券取引の、しかも情報の出所が経営陣やTOBなどの場合に限って刑事罰が課されるのは、不公平ではないか。

インサイダー取引を規制するのは、多くの個人投資家の参加によって市場を活性化するためとされているが、そういう因果関係は証明されていない(*)。米国で規制がきびしいのは、市場規模が大きくなった原因ではなく、その結果である。60年代にインサイダー取引をめぐる訴訟が頻発したため、SECが取り締まりを強化したのである。逆に、行政が市場に強く介入することによって市場が萎縮する社会的コストも大きい。特に今回の事件のように、非公式の情報を聞いた後に当該株式の取引をしただけで刑事訴追されるとなれば、機関投資家の情報収集は大きく制約される。規制のコストと効果のどちらが大きいかはわからない。

私は、インサイダー情報がすみやかに開示されることは「効率的市場」が実現するために必要なので、それを開示する義務は負わせるべきだと思うが、それを利用した取引に刑事罰まで課す必要があるのかどうかは疑問だ。特に、市場の問題に検察が出てきて派手に摘発し、ライブドアのように生きている会社を殺してしまうのは、いかがなものか。証券取引等監視委員会の行政処分ぐらいでよいのではないか。それなのに、7日に成立した金融商品取引法では、違反行為は今より厳罰になってしまった。

追記:経済学者の標準的な意見では、「ナイーブな報道や映画や小説が描くのとは違って、インサイダー取引の功罪は、理論的にも実証的にも、よくわからない。現在の攻撃や規制の激しさは、その理解をはるかに超えている」。

追記2:10日の朝日新聞(朝刊15面)で、元東京地検検事の郷原信郎氏が、今回の事件の核心はインサイダー取引ではないと述べている。村上氏が最初からニッポン放送株の売り抜けをねらってライブドアに買収を持ちかけたとすれば、証取法157条1号の「不正の手段、計画又は技巧」にあたり、証取法のなかで最も罰則が重いそうだ。

(*)これはちょっとい言い過ぎだった。最近の実証研究のサーヴェイによれば、インサイダー取引を禁止している国では、投資家の集中度が低い(個人投資家が多い)。しかし、その効果は民事訴訟を容易にすることによるもので、SECのような公的機関による刑事罰の効果は有意ではない。

村上氏はなぜ嫌われるのか

逮捕される前の記者会見で、村上世彰氏は「なぜみんなが私を嫌うのか、それはむちゃくちゃ儲けたからですよ」といっていた。たしかに、合法的な投資であっても、彼のような貪欲な行動は嫌われる。それは先日も書いたように、日本だけではなく、米国でも同じだ。行動経済学の実験でも、人々の行動は、標準的な経済学の想定しているほど利己的ではない。他方、オープンソースのような「非営利」の行動は、道徳的に美しく感じられる。利己的な行動は醜く、利他的な行動は美しく見えるのは、なぜだろうか?

この種の問題の経済学的な説明としては、フランクの『オデッセウスの鎖:適応プログラムとしての感情』という本がある。その論理は、単純である:もしも人類が利己的な行動を美しいと思う遺伝子をもっていたら、人々は互いに殺しあって、とっくに滅亡していただろう。利他的な行動を美しいと思う感情が遺伝子に組み込まれている個体からなる群だけが生存競争に勝ち残ったのだ、というわけだ。

しかし進化論にくわしい人なら、この論理はおかしいと思うだろう。これは生物学では否定された「群淘汰」である。利他的な個体群のなかでは、利己的な個体は利他的な個体を食い物にして繁殖できるから、お人好しの共同体は進化的に安定ではない。進化は「利己的な遺伝子」(血縁淘汰)によって起こるのだ――というのが定説だが、これではやはり利他的な行動は説明できない。

最近では、これをさらにくつがえし、群淘汰を部分的に肯定する理論が登場した(Sober & Wilson, Unto Others)。その論理は簡単にいうと、群と群の間に闘争が起こると、団結の強い群が勝つ、ということだ。淘汰圧は、個体レベルだけではなく、群レベルでも、また細胞レベルでも働く。「利己的な細胞」を含む個体が生存できないのは自明だろう。人間の社会でも、たとえば戦友を助けて犠牲になる行為が美しく見えるのは、そういう利他的な感情で結ばれた軍隊が強いからだ。村上氏が嫌われるのは、人間の本能的な感情に逆らっているからなのである。

大鶴特捜部長の国策捜査

ライブドアから村上ファンドまでの一連の捜査は、検察があらかじめ書いたストーリーに沿って捜査が行われている。佐藤優氏のいう「国策捜査」である。今度の一連の捜査の掲げる国策は、明白である。小泉政権で進められた金融分野の規制改革によって出現したマネーゲームに歯止めをかけ、市場を国家のコントロールのもとに置くことだ。東京地検特捜部の大鶴部長は、法務省のウェブサイトでこう書いている:
額に汗して働いている人々や働こうにもリストラされて職を失っている人たち,法令を遵守して経済活動を行っている企業などが,出し抜かれ,不公正がまかり通る社会にしてはならないのです。
こういう「プロジェクトX」的な精神主義で、日本はよくなるのだろうか。ライブドアや村上ファンドの行ったことは、合法か非合法かは別として、資本市場で他人を出し抜いてもうける「鞘取り」である。これは大鶴氏には、汗をかかないでもうけるアブク銭にみえるかもしれないが、資本主義の本質は鞘取りなのだ。

フィッシャー・ブラックは、オプションなどの派生証券を「賭博」だとして、社会的価値を認めなかったという。これは、ブラック=ショールズ公式の成立するような「完備市場」では正しい。すべての情報を織り込んだ市場では、投資は純粋なギャンブル(期待値ゼロ)になるので、村上ファンドのようなビジネスが成立するはずがないからである。

しかし村上氏は「2000億の原資を4000億円にした」と公言していた。このような高い収益率を上げることができるのは、市場が完備ではないからだ。特に日本では、保有する現預金の残高よりも時価総額が低いといった公然たる鞘のある企業が、数多く存在する。村上氏のようなファンドが、その鞘を取ることによって市場の歪みが是正され、企業の資本効率が高まる。だから投資は、単なる賭博ではないのだ。

ただ日本では「持ち合い」などに阻まれ、こうした公開情報だけで鞘を取ることはむずかしいため、村上氏は次第に非公開の情報を利用するようになったのだろう。これも、すべて悪とはいえない。だれでも知っている情報で収益を上げることはできないのだから、投機が成功するには、多かれ少なかれインサイダー的な要素は必要だ。しかし今回の事件は、一線を越えてしまったという印象が強い。

日本も世界最大の純債権国となったのだから、額に汗するだけでは、この資産は活用できない。子孫に財政赤字だけでなく資産を残すためにも、資本市場で資産を有効に運用する必要がある。だから検察の国策捜査が投資を萎縮させると、長期的な日本の国策には逆行する。今回の事件を教訓として、もっと透明な市場と合理的なルールをつくらなければならない。この意味で村上氏は、自分でもいっていたように「市場が効率化したらいなくなる徒花」なのかもしれない。

追記:村上氏が一連の買収工作を仕組んだとしても、ライブドアがニッポン放送株を5%以上買収するという決定をしたあと、村上ファンドがニッポン放送株を買っていなければ、インサイダー取引にはならない。しかし読売新聞によれば、2004年10月20日にライブドア側から村上ファンド側に「購入資金として200億円(ニッポン放送株の12%相当)を用意する準備ができた」という電子メールが送られ、その日のうちに村上ファンドはニッポン放送株を25万株購入したという。これが事実だとすれば、インサイダー情報を得たのは10月20日ということになり、11月8日に「聞いちゃった」かどうかは法廷では争点にならないだろう。

訂正:SMZMさんからのTBで指摘されたが、ここで問題なのは市場の「完備性」ではなく「効率性」だった。後半は「効率的市場」の話として読んでください。ただし「効率的な市場では、市場に対して勝ち続けることはできない」という論旨は間違っていないと思う。

村上ファンドの二つの顔

きのうの村上氏の会見で驚いたのは、ライブドアの話を「聞いちゃった」ことが、結果的には証取法違反になる、という法解釈をみずからしたことだ。村上ファンドのウェブサイトにある公式発表でも同様の解釈論が書かれているが、わざわざ自分に不利な法解釈をする容疑者というのは、見たことがない。

証取法167条でいう「公開買い付けに準ずる行為」とは、同法施行令31条で「当該株式に係る議決権の数の合計が当該株券等の発行者である会社の総株主の議決権の数の100分の5以上である場合における当該株券等を買い集める行為」と定義されている。2004年11月8日に、ライブドアの宮内氏が「ニッポン放送株ほしいですね。経営権取得できたらいいですね」といったことが「100分の5以上買い集める行為」にあたるかどうかは、常識的にはグレーゾーンだろう。磯崎さんも指摘するように、そういう話を聞いただけで、その株の取引をやめなければならないとしたら、投資家は危なくて茶飲み話もできない。

たぶん本当の争点は、そこではないのだ。ライブドアとの会話が「公開買い付けに準ずる行為」の告知だったかどうかを法廷で争うと、彼らの会話や交渉の経緯が、電子メールなどで洗いざらい出てくるだろう。そうすると、この話の主役が村上氏であることが明らかになって、情状酌量の余地はなくなる。これまでの取調べでも、ライブドア側は「村上さんが『一緒にニッポン放送の経営権をとろう』と持ちかけてきたのに、05年2月8日の時間外取引のあと株が値上がりしたら、市場で売り逃げてしまった」と村上氏の「裏切り」を批判しているらしい。

ここに村上氏の二面性がよくあらわれている。これまでも「ものいう株主」の顔は株価を上げるテクニックで、最後は「投機筋」の顔になって売り逃げる、というパターンだった。こういう「グリーンメール」自体は違法ではないが、今度の事件は、グリーンメーラー仲間を利用してインサイダー取引をやるという悪質な手口だ。村上氏は「聞いちゃった」というストーリーの調書に署名して、うまく逃げたつもりかもしれないが、朝日新聞でも検察幹部が「その気にさせて、その気になったのを知ったインサイダー。聞いちゃったという話ではない」と語っているように、検察が村上氏の筋書きに乗るとは思えない。

追記:『ヒルズ黙示録』の著者、大鹿靖明氏がGyaOに出演して、「村上氏を有罪にするのは非常にむずかしい」とコメントしている。ライブドアの熊谷元取締役も、テレビ朝日のニュースで「ニッポン放送の経営権を取得するという連絡を村上氏にしたのは1月28日だ」と述べ、その連絡を受けた村上氏は、28日にニッポン放送株を買うのをやめた。11月8日の段階ではライブドアの一取締役の「願望」にすぎなかった、という主張は十分可能だ。それを会見で「11月8日に5%以上買うという意味の話を聞いた」とまで言い換えたのは不可解だ。他によほど知られたくないことがあるとしか考えられない。

資本市場の通過儀礼

村上世彰氏の記者会見が、GyaOで全部、放送されている。この記事を書いている段階では、もう逮捕されたようだ。

「結果的には、違法行為があったことは事実」「起訴されてもしょうがない」という話の内容とは裏腹に、口調は一貫して強気だった。証取法違反は、犯情が軽ければ執行猶予がつくので、それをねらっているのかもしれない。故意を否定し、「ミステイク」だったことを繰り返し強調する一方、検察の批判めいたことは、誘導尋問されてもいわなかった。何か取引があったのだろうか。

質問する記者に対して、「大鹿さん」とよびかけるところは、彼の書いた『ヒルズ黙示録』が、今回の捜査の傍証になったことをうかがわせる。この本によれば、ニッポン放送株の買収を持ちかけたのは村上氏のほうなのだが、きょうの会見では、ライブドアのほうからやってきて、宮内元取締役が「やりましょう!」といったことになっている。検事に「(村上さんにニッポン放送株で)もうける気がなくても、それを聞いたら違反になる」といわれて「そういえば聞いちゃった」という筋書きで、早期決着をはかろうということか。

「金もうけして何が悪いのか」と開き直る一方で、「日本にはチャレンジャーを排除する風土がある」と嘆いていたが、企業買収が悪者扱いされるのは日本だけではない。1989年にマイケル・ミルケンなどが逮捕された事件でも、かなり強引に立件したジュリアーニ検事はヒーローになってニューヨーク市長になり、この事件を扱った本のタイトルは"Predator's Ball"とか"Den of Thieves"とかいうものばかりだった。当時ミルケンを擁護したのは、ジョージ・ギルダーとマイケル・ジェンセンぐらいのものだ。

しかし20年たってみると、経済学的な評価は逆だ。80年代には「斜陽の老大国」とみられていた米国経済が立ち直った大きな原因は、企業買収・売却によって「コングロマリット」が解体され、資本効率が上がったことだとされる。日本でも、村上氏の派手な活動によって、企業が資本効率を意識するようになったのは大きな功績である。このように一度は大きな刑事事件が起こることによって、合法・非合法のボーダーラインがはっきりし、普通の取引として企業買収が行われるようになるのだろう。その意味では、村上氏には気の毒だが、今回の事件は日本の資本市場が成熟するための「通過儀礼」なのかもしれない。

追記:村上氏があっさり「降伏」して「すべて自分の責任だ」と強調したのは、「隠れた主役」を守るためだという推測もある。

村上ファンド問題の隠れた主役

「村上ファンドに捜査」というニュースが、けさの各紙に大きく出た。しかし捜査が行われていることは、Economist誌でさえすでに報じた周知の事実だから、ニュースではない(*)。ニュースは、検察がこういう「観測記事」にGOを出したということだ。ライブドアの捜査で「主役」である村上ファンドの立件に自信をもったのか、それともシンガポールに証拠書類を全部移す前に強制捜査するということか。

もちろん村上氏も、捜査当局の動きを知っているはずだ。シンガポールに移る話も、最大の目的は捜査を逃れるためだろう。しかし、与謝野金融財政相も「ファンドの本拠地がどこにあろうと、日本の株式に投資しているかぎり、日本の法律が適用される」とコメントしている。シンガポールに亡命でもしないかぎり、捜査を逃れることはできない。

焦点は、ライブドアの時間外取引によるニッポン放送株の買収が、村上ファンドの筋書きによるものだったかどうかだ。『ヒルズ黙示録』も示唆しているように、その疑いは強い。ニッポン放送株を買い集めて、ホリエモンに買収の話を持ちかけたとすれば、明白なインサイダー取引である。時間外取引を利用する手口も、村上氏が去年、阪神株を買収したときと同じだ。

しかし最大の焦点は、村上氏ではない。彼の力のかなりの部分は、宮内義彦氏のバックアップに依存している。村上氏の荒っぽい手法が、これまで公的にはそれほど問題にされなかったのも、日本の企業には「資本の論理」が必要だ、という宮内氏の正論があったからだ。そのオリックスが、今度の引っ越しを機に手を引いたのは、情勢の変化があったからではないか。

もしも村上ファンドに強制捜査が入ったら、少なくとも宮内氏の結果責任はまぬがれない。当局が慎重に捜査しているのも、ひとつ間違えると、財界全体を敵に回すことを恐れているからだろう。検察の「国策捜査」の筋書きには、どこまで入っているのか、しばらくは目が離せない。

(*)ただ、Economistの記事がウェブに出たのは、日本時間のきょう午前0時ごろで、各紙に出たのは、けさの朝刊だから、もしかすると、このEconomistの記事が「解禁」のきっかけになったのかもしれない。


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