「希望の国、日本」に書かれていない絶望的な未来

日本経団連の会長が御手洗富士夫氏になって初めて公表された政策ビジョン「希望の国、日本」が話題になっている。マスコミ的には、消費税の2%引き上げを求めたとか憲法改正を提言したとかいうのが関心を呼んでいるが、そのページを見てまず目につくのは「全文のPDF版が閲覧いただけます(印刷は出来ません/冊子版が後日発売される予定です) 」という表示だ(*)

ふーん、経団連って金持ち企業の集まりだと思ってたけど、意外に金に困ってるんだ。自分たちのいちばん大事な主張を世の中に伝えるより、冊子を売って小金をもうけるほうが大事らしい(でもそんな冊子を買う人がいるんだろうか)。これって情報の流通を阻害することが「知財立国」だと思い込んでるキャノンの社長が考えたのかもしれないけど、こういう大事と小事の優先順位のおかしい人たちが提唱する「国のかたち」に説得力があるんだろうか・・・

全体に説教くさく、「精神面を含めより豊かな生活」とか「公徳心の涵養」などの精神論が多い。行財政改革に多くのページがさかれ、労働市場について「ビッグバン」を提唱しているが、実はもっとも重要なメッセージはここに書かれていないことにある。145ページの冊子の中に、日本経済の最大の課題である資本市場改革についての記述が1行もないのだ。

これについての経団連の考え方は、昨年12月に出た「M&A法制の一層の整備を求める」という提言に書かれている。それによれば「消滅会社が上場会社である場合、現金又は日本上場有価証券(あるいは日本の上場基準を満たす有価証券)以外を対価とする合併の決議要件は、たとえば特殊決議とするなど、厳格化すべきである」という。

ちょっとわかりにくいが、これは要するに三角合併ができないようにしてほしいということだ。三角合併とは、外資が日本企業を買収するとき、日本に子会社をつくって株式交換で買収することだ。2005年にできた会社法で認められたが、財界の反対で施行が07年5月に延期されていた。通常の企業買収は、株主の過半数が出席してその2/3が賛成する特別決議で成立するが、今度の提言ではそれを株主数で過半数かつ議決権で2/3以上の賛成が必要な特殊決議を条件とすることで、やりにくくしろというのだ。

彼らが外資を恐れるのは、日本の会社の資本効率が(したがって株価も)低いからだ。たとえばグーグルの株式の1割を使えば、株式交換で日立グループ885社を全部買収できる。行政には「聖域なき改革」を求め、貿易についてはFTAなどによる市場開放を求める財界が、自分の会社だけは聖域にして「鎖国」したいのである。対内直接投資のGDP比が世界で158位という日本で、「株価至上主義」の脅威を恐れているのは無能な経営者だけだ。

そもそも財界団体が3つもある状態さえリストラできない財界のおじさんたちが、改革を口にする資格があるんだろうか。こんな人々が経営者としてリードする「希望の国」の未来は絶望的だ。

(*)コメントで指摘されたが、このファイルは引用(一部コピー)もできないように制限がかかっている。しかしBrava! Readerなどの互換リーダーで読めば、コピーも印刷もできる。(追記)この冊子が発売された。定価は1260円だそうである。

遅れてきた保守主義

安倍政権が迷走している。もともと松岡利勝氏を農水相にした時点で、この政権はだめだなと思っていたのだが、やはり彼が朝日新聞にねらわれた。彼の愛人にからむ事件で検察も動いているようだから、これが命取りになるおそれも強い。安倍政権は、ほとんど仕事をしないうちに終わりそうだが、その最大の問題はスキャンダルではなく、安倍首相が何をしようとしているのか見えないことだ。

安倍氏のいう「戦後レジームからの脱却」は、GHQによって武装解除され、メディアや日教組によって精神的に去勢された「戦後民主主義」を否定し、ナショナリズムを復活させようというものだろう。これは彼が祖父から引き継いだ悲願だが、今の日本では妙に浮いたスローガンに見える。彼が憲法改正の前哨戦として力を入れた教育基本法の改正も、「愛国心」をめぐって野党とメディアは騒いだが、一般国民はほとんど関心をもたなかった。

戦後の日本政治では、奇妙にねじれた対立構造が続いてきた。他の西側諸国では、自由経済を掲げる保守政党と社会主義の影響を受けた社民政党(アメリカの民主党を含む)の政権交代があったのに対して、日本では政権交代がなかったため、社民的な対立軸が育たなかった。ところがGHQ民政局の行った社会主義的な戦後改革と憲法改正によって、空想的平和主義が国是になり、財政負担を軽減するためにこれを利用した吉田茂の「軽武装主義」が自民党の路線となった。いいかえれば、日本の保守主義はその中核に社民主義を抱え込んできたのである。

このねじれは当時から意識されており、安倍氏の祖父は憲法を改正してこのねじれを解消しようとしたが果たせず、逆に日米安保によって軍事的な独立が押さえ込まれた。しかもメディアの主流は社民で、東大法学部を中心とする知識人の主流も左翼だったため、「頭は左翼、下半身は保守」というねじれがずっと続いた。

社民主義は、世界的には1970年代から破綻し始めていたが、それを決定的にしたのは社会主義の崩壊だった。左翼という対立軸を失った保守から、新保守主義という対立軸が生まれ、英米の「小さな政府」への転換が成功したことで、対立軸は旧保守新保守になった。日本でも『日本改造計画』を著したころの小沢一郎氏は、新保守への転換を志向していたが、彼の戦略が失敗に終わったため、日本の政治は対立軸を失ったまま漂流を続けた。

小泉政権の行った改革は、経済的には教科書どおりの新保守主義だったが、政治的には靖国参拝などで混乱したシグナルを出すにとどまった。安倍氏は政治的な面で新保守主義のカラーを出そうとしていると思われるが、もともと日本人はそういう理念には興味をもたない上に、こうした政治的な保守主義がリアリティを失ってしまっている。

保守主義は、経済的には小さな政府を求める一方、軍事や政治の面では強い国家を求める二面性をもっている。このうち経済的な自由主義はますます強まっているが、政治的なナショナリズムは世界秩序の<帝国>化によって有効性を失いつつあるというのが、佐々木毅『政治学は何を考えてきたか』の見立てだ。

日本でナショナリズムが復権しているように見えるのも、戦後ずっと続いた左翼的インターナショナリズムの反動にすぎない。文春系の雑誌の編集者と話していると、彼らのナショナリズムが朝日新聞などの主流メディアに不満をもつ読者をねらうマーケティングであることがよくわかる。こういう「すきま商法」としてのナショナリズムは、エスタブリッシュメントの社民主義が崩壊すると存在意義を失ってしまうのである。

小さな政府と強い国家がバンドルされていたのは、冷戦のなかでは自由主義を守るために対外的な軍備が必要だったからである。冷戦が終わった今、両者をアンバンドルし、国家の肥大化に政治的にも経済的にも歯止めをかけることが新たなアジェンダである。今ごろからナショナリズムを強めようとする安倍氏の「遅れてきた保守主義」は、空振りに終わるおそれが強い。

ハイエクと知的財産権

先日も少し紹介したが、最近、経済学者のブログでハイエクがちょっとした話題になっている。サックスが「ハイエクは間違っていた」と論じたのをイースタリーが批判し、さらにサックスが反論している。ポイントは、ハイエクが30年前に「スウェーデンのような福祉国家は社会主義国と同じ運命をたどるだろう」とのべたことだ。実際には、北欧諸国の経済的なパフォーマンスは良好で、日本でも「北欧型をめざせ」という議論がある。

しかしハイエクが生きていたら、こんな批判は一蹴しただろう。彼にとって社会主義の欠陥は経済的な非効率性ではなく、それが人間の自由を拘束すること自体だからである。彼は、非常に有名な1945年の論文で価格メカニズムの意味をこうのべる:
合理的な経済秩序の問題に特有の性格は、われわれが利用しなければならないさまざまな状況についての知識が、集中され統合された形では決して存在しないという点にある。[・・・]したがって社会の経済的な問題は、単に「与えられた」資源をいかに配分するかという問題ではない。それはだれにも全体としては与えられていない知識を[社会全体として]どう利用するかという問題なのである。
これはおそらく、インターネットの自律分散の思想をもっとも早い時期に提唱したものだろう。集権的国家のヒエラルキー構造では、必要な知識は官僚や専門家に集中しているが、変化の激しい社会ではその全体像を知っている人はだれもいない。社会全体に分散した膨大な情報を分散したまま利用するには、情報をもつ人が自由に意思決定を行うようにするしかない。その分散した情報を価格というパラメータを媒介にして調整するしくみが市場である。

あまり知られていないことだが、ハイエクは最近、『感覚秩序』(1952)でニューラルネットの原理を初めて提唱した科学者として「再発見」されている。脳も社会も、特定の中央集権的な計画なしに進化した自生的秩序だというのが彼の哲学だった。それは単に「与えられた」資源を効率的に配分するといった目標を最大化するのではなく、変化する環境に柔軟に適応できる自由度に最大の特徴があるのだ。

しかしハイエクは、価格メカニズムが「自由放任」によって機能すると考えたわけではない。むしろ晩年の彼は、市場が機能するための法秩序のあり方を研究し、大陸法の伝統である実定法主義(legal positivism)を批判して慣習や前例に従って判事がルールをつくるコモンローが望ましいとした。その基礎になるもっとも重要なルールが財産権である。それは、個人がコントロールできる物的な領域に境界を設けることによって他人や国家の干渉を防ぎ、その領域の中で自由な意思決定を可能にするからだ。では、ハイエクは「知的財産権」をどう考えただろうか。彼は、1948年の論文でこう書く:
私は、ここで発明の特許権、著作権、商標などの特権や権利を考えている。こうした分野に有体物と同じ財産権の概念をまねて適用することが、独占がはびこるのを大いに助長しており、この分野で競争が機能するには抜本的な改革が必要であることは疑問の余地がないように思われる。
知識をもっている人の物的な財産を守ることで意思決定の自由を確保する財産権とは逆に、特許や著作権は国家が知識の利用を集権的にコントロールすることによって、その自由な利用をさまたげている(cf. Wu)。それを正当化するのに、権利者の利益を守るという(疑わしい)理由をつけることは間違っている。自由な言論は自由な社会の究極的な目的であって、経済的な利益に従属する手段ではないからだ。

「市場原理主義」は金の亡者を賞賛するものだという通俗的な理解に反して、ハイエクは自由な社会の目的は富を最大化することではなく、自由を最大化することだと考えていた。実はこういう自由の概念は、彼のきらうヘーゲルやマルクスの自由論と似ている。マルクスにとっても、未来社会で重要なのは分配の平等ではなく、経済法則に支配される「必然(必要)の国」を脱却して「自由の国」を実現することだった。Economist誌によれば、晩年のフーコーも講義で「ハイエクを読め」と教えていたという。

私たちの社会が工業化の段階を過ぎて新しい段階に入ろうとしているとき、あらためて考える必要があるのは、社会の究極の価値とは何かということだろう。富は欠乏からの自由を得るための手段だったはずなのに、富の追求が目的になる資本主義社会は倒錯しているのではないか。まして著作者の富を守るために、他人の表現の自由を侵害する権利を認めてよいのだろうか。財産権を破棄することが自由な社会の条件だというマルクスの結論は間違っていたが、知的財産権についてはマルクスとハイエクの意見は一致するかもしれない。

メディアはマッサージである

ふだんはほとんどテレビを見ないが、正月ずっと家にいたので、いやでもテレビを見てしまう。しかし特に民放の番組は、ほとんど5分と見ていられない。せりふを字幕でなぞり、映像を見ればわかることをコメントでなぞり、ビデオ素材の内容をスタジオで「気の毒ですねぇ」などとなぞる。このしつこく相槌を打つ傾向はワイドショーでもっとも顕著だが、最近はニュース番組にも広がり、「報道ステーション」などはスタジオの時間の半分ぐらいはキャスターの個人的な感想だ。

少なくとも私がテレビの仕事をしていたころは、字幕は絵を殺すので最小限にしろと教育された。特に日本人の言葉に字幕を入れるのは、方言が聞き取りにくい場合など、ごくまれにあったが、なまりをバカにしているように受け取られるので、なるべくやってはいけないことだった。ビデオからスタジオに返したとき余計な感想をいうのは野暮で、NHKの番組の受けコメントはたいてい演出サイドで書いた補足情報である。いつも勝手に余分な受けをつけた畑恵アナウンサーは、ニュースを下ろされた。

これって実は、男の感覚なのである。男同士で、たとえば困っているとき「気持ちはわかるよ」などと相槌ばかり打ってもらってもしょうがないし、そういう余計なことはいわないが、女同士の会話を横で聞いていると、この種の無意味な相槌が実に多い。この特徴はメディアでも顕著で、立花隆氏は女性週刊誌のアンカーをつとめていたころ、記者の書いた記事に「なんと悲しい話だろう」といった形容詞をたくさんつけて読者を感情移入させるのが編集の仕事だったと語っていた。

これに対して新聞や男性週刊誌は重複や感情移入をきらい、対象と距離を置いて皮肉な見方をするのがジャーナリストとされている。テレビでも、NHKの番組はこういう男の感覚でつくられているが、これは供給側の論理だ。視聴者の多数派である女性は情報よりも情緒を求めているので、それに忠実につくられた冗漫で大げさな民放の番組のほうが日本人の感覚を正直に表現しているのだ。ヒトラーは「大衆は女だ」と言ったというが、これは彼が大衆社会の本質を把握していたことを示している。

同じ傾向は、2ちゃんねるなどの匿名掲示板にも見られる。たとえば「死ぬ死ぬ詐欺」のスレでは同じ内容の攻撃的な言葉が繰り返され、それを制止する意見は出てこない。経済板では「構造改革よりリフレだ」といった意見ばかり集まり、論争が成り立たない。こういう現象は「サイバーカスケード」などと呼ばれ、インターネット上の言説の特徴である。このように群れる連中のほとんどは内容を理解していないが、問題は内容ではない。彼らは、自分の同類が世の中にたくさんいることを確認して慰めを得ているのだ。マクルーハンが言ったように、メディアはマッサージなのである。

Everything over IP?

NGNについて批判的なコメントを書いたが、私が「NGN反対派」だとか思われても困るので、少しフォローを・・・

私は、ネットワークをAll-IPにするというコンセプトに反対しているわけではない。私が日経新聞の「経済教室」で「次世代ネットワークのイメージ」として"everything over IP"の図を描いたのは、1998年の9月だった。同じ年の7月、ジュネーブで行われたINET'98のキーノート・スピーチで、Vint Cerfが"everything on IP"を提唱したといわれている。

同じ時期、NTTは"everything over ATM"による「情報流通企業」構想を掲げた。ここではIPはATM交換機で行われるサービスの一つであり、NTTのミッションは「ベストエフォート」のインターネットを脱却し、帯域保証を実現することだった。それから8年あまりたった今、NTTがようやくAll-IPのNGNを中期経営戦略の柱にすえたのを見ると、今昔の感がある。

しかしインターネットの現実を見ると、"everything over IP"の実現は意外にむずかしい。データと音声についてはいいとして、問題は映像である。NTSCの映像を流すには、H.264でエンコードすれば1Mbpsぐらいあればいいから、ADSLでもアクセス系の帯域は十分だ。しかしGyaoなどの現状をみると、ユーザーが増えるにつれてサーバの負荷が大きくなり、ほとんどユーザー数に比例してサーバを増強しなければならない状況だという。つまりオンデマンド配信については、ボトルネックは帯域ではなくサーバの容量なのだ。「ムーアの法則がすべてを解決する」というマントラは、ここではまだ実現していないのである。特に配信の対象が数百万世帯となるとオンデマンド配信は不可能だから、ニュースやスポーツなどリアルタイムで多くの人々が見るコンテンツについては、放送型が今後とも残るだろう。

もちろんIPでもマルチキャストは可能だから、問題はテレビのSTBに(ケーブルテレビと同様)RFで伝送するかIPパケットで伝送するかという差だけになる。どちらも技術的には可能だから、ここから先は技術というよりもビジネスの問題である。すでにSTBが百万台単位で普及し、技術が枯れていてコストも安いという点では、RFがまさる。これはスカパーとNTT東西がやっている「スカパー!光」や関西電力系の「イオ」などが採用しており、アメリカではベライゾンのFiOSがこの方式だ。しかし、ここでは一つの回線にIP(通信)とRF(放送)という2種類の多重化方式が必要なので、NTTは波長多重、関電はなんと2芯の光ファイバーを使っている。いずれも光でなければ不可能な方式で、どこまで一般化するかはわからない。

インフラに依存せず、All-IPのアーキテクチャとも両立するという点では、IPマルチキャストのほうがすぐれている。世界的には、ほとんどのIPTVがこれである。しかしこの方式の弱点は、IPのコーデックが標準化されていないため、STBがバラバラだということだ。おまけに、IPマルチキャストは放送ではなく「自動公衆送信」だと放送業界が難癖をつけているため、今度改正された著作権法でも「当該放送区域内」に限って地上波放送の再送信が許諾されるというハンディキャップが残る。

長期的にはSTBが標準化されれば、映像もIPTVに統合され、"everything over IP"が実現すると予想されるが、短期的にはRFも混在するだろう。IPTVの優位性を訴求するには、CSやケーブルテレビよりも低料金で多チャンネルを提供できるかどうかが重要だ。ところがNTTのNGNは、それと関係ない光ファイバー化とバンドルされているのでややこしい。実際には、NGNは現在のBフレッツを置き換えてIPv6を使った閉域網になり、アクトビラなどのアプリケーションも「フレッツ・スクウェア」のような会員制サービスになるのだろう。しかし光だけの閉域網では顧客ベースが小さくなってコストが上がり、採算がとれなくなるおそれが強い。

NGNに意味がないといっているのではない。"Everything over IP"にして交換機をルータに代えることによるコスト削減効果はきわめて大きいので、むしろ加速すべきだ。そのためにはIP化と光化をアンバンドルし、SIPもIPv6もやめてオープンなインターネットにし、BTのようにAll-IPでコストを削減することを最優先の経営戦略にしたほうがいいのではないか。それによって、たとえば通信料金が半分になるとかIP電話がすべて無料になるとかいうわかりやすいメリットがあれば、NGNはすぐ普及するだろう。ただ、これでは何が「次世代」なのかよくわからないが、交換機を全廃することは十分大きな世代交代だと思う。

The White Man's Burden

現在の地球規模の問題としてもっとも重要なのは、地球温暖化でもテロでもなく、途上国の感染症である。それについての関心が最近高まってきたのはいいことだが、「ホワイトバンド」やボノが問題を解決すると思うのは大きな間違いだ。感染症の問題の根本には貧困の問題があるという点でサックスは正しいが、彼のような計画的アプローチはこれまでことごとく失敗してきた、と著者(元世銀チーフエコノミスト)は指摘する。

戦後、先進国が行った途上国の開発援助の総額は2.3兆ドルにのぼるが、それによってアフリカ諸国の一人あたりGDPは半減した。ラテンアメリカ諸国のGDPは、世銀が融資しはじめてから減少した。旧社会主義諸国を市場経済化しようとして行われた「ショック療法」によってGDPは激減し、ロシアの一人あたりGDPはいまだに社会主義時代に及ばない(この点では著者の前著もおもしろい)。

政府に資金援助しても、途上国の貧困は改善されない。それは政府が腐敗している場合だけではなく、民主的な国でも同じだ。政府が金をばらまくこと自体が、働かないで政府に頼るモラルハザードをまねいてしまうからだ(日本の公共事業と同じ)。著者は、世銀や国連のように外部の「顧問」が中央集権的な開発計画を途上国の政府に押しつける手法を批判し、現地の住民の話を聞いて改良を重ねる断片的アプローチを提案する。

特に印象的なのは、エイズ対策がなぜ失敗したのかについての分析だ。エイズ対策資金の大部分はエイズ治療薬に使われるが、これは患者の発症を数年おくらせる効果しかない。しかも感染者は発症するまでの間にHIVをまき散らすので、治療薬はエイズ感染を悪化させるのである。コンドームや性教育などによって感染を予防する対策は、治療薬よりはるかに安価で効果が高いが、アメリカやカトリック系の国はコンドームに開発援助が使われることをきらう。こうした愚かなキリスト教道徳のおかげで、毎年何十億ドルもの援助が浪費されているのである。

だから途上国の貧困を救うのは多額の開発援助ではなく、貧困の現場に立ち会って住民の望むものを把握し、それを地域の中で自律的に実現するしくみをつくることだ。それは計画的アプローチのように壮大ではなく、ロック・スターのような華やかさもないが、それよりもはるかに安価で実用的だ。ハイエクが指摘したように、何が必要かは現地の住民が一番よく知っているのだから、彼ら自身の知識を活用することが最善の策なのである。

追記:著者とサックスの因縁は、著者が『貧困の終焉』を酷評したころから始まっており、最近もサックスが「ハイエクは間違っていた」と論じたことを著者が「Salma Hayekのことか」とまぜかえしている。

明けましておめでとうございます

年賀状は返事以外は出さないことにしているので、このブログでごあいさつに代えます。

ひも理論が正しいとすると、私たちの宇宙は10-500の確率で当たった宝くじみたいなものであり、その中で生命の出現する確率も同じぐらい低い。地球上のすべての生命が基本的に同じDNAを持っているところから、生命が出現したのは50億年間で1回だけだったと考えられています。そこから人類のような高等動物が進化するのもきわめてまれだから、私がいま存在しているのは、宝くじに何兆回も続けて当たるぐらいの幸運です。

そんな偶然があるはずはない、それはだれかがこの宇宙を設計した証拠だ――と考えるインテリジェント・デザインは自然な発想です。ドーキンスの"The God Delusion"がアメリカで大きな話題になっていますが、それも科学への「信仰告白」でしかありません。サスキンドの本の副題も"String Theory and the Illusion of Intelligent Design"ですが、インテリジェント・デザインの批判は半ページぐらいしかない。

こういう発想は、西洋の人間中心主義のような気がします。宇宙が人間に理解可能なものだという前提が、そもそも疑わしい。宇宙が物理学の法則で理解できるためには、それが到るところで一様だという条件が必要ですが、それ自体が(インフレーションの生み出した)偶然の産物かもしれません。人間に理解できるのは、この宇宙だけかもしれないのです。
The most incomprehensible thing about the world is that it is at all comprehensible. - Albert Einstein

宇宙のランドスケープ

宇宙のランドスケープ 宇宙の謎にひも理論が答えを出す
先週Smolinの本を読んで、宇宙論に興味をもったので調べてみたら、ちょうど主流派のリーダーの訳本が今週、発売された。もちろん結論はSmolinとは正反対で、物理学の理論としてどっちが正しいのかは私にはわからないが、話としてはこっちのほうがはるかに奇想天外でおもしろい。

ポイントは、Smolinの批判する人間原理(anthropic principle)を「物理学のパラダイム転換」と開き直って宇宙論の中心にすえたことだ。ひも理論の中身はわからなくても、人間原理はだれでもわかる。要は、この宇宙が今のような素粒子でできているのは、そうでなければ宇宙を観察する人間が存在しえないからだ。これは絶対に正しい。なぜなら同語反復だからである。続きを読む

2ちゃんねる化するウィキペディア

ウィキペディアの私に関する項目が、何度も削除されているらしい。いま残っているのは数行の経歴だけだが、これすら間違っている。私は「経済評論家」などと呼ばれたこともないし、名乗ったこともない。私が博士課程を中退したのは、1997年である。

前の記事でも書いたように、私は日本のウィキペディアの品質には疑問をもっているので、このブログでもほとんどリンクを張らない。大部分は英語版の質の悪いダイジェストで、日本語版オリジナルの項目には事実誤認や個人への中傷が多い。西和彦さんの項目などは、学歴や職歴まで間違いだらけで、本人が怒って編集し、大バトルが繰り広げられた末、大部分は削除されて保護されてしまった。

このようにウィキペディア日本版の質が悪い原因は、ウェブで匿名が当たり前になっていることが影響していると思われる。歌田明弘氏によれば、アメリカのブログの8割は実名だが、日本の9割は匿名だという。日本でこれほど匿名性が強い原因は、実名で発言すると会社ににらまれるとか、友人にきらわれるなど「評判」が傷つくことを恐れているからだろう。

だから2ちゃんねるは、日本社会の汚物みたいなものだが、排泄物を見れば健康状態がわかるように、そこには社会の裏面が映し出されている。匿名の世界では会社などの「ムラ社会」の抑圧から解放されるため、そのストレスを悪口や民族差別で解消する。「他人志向」で自我が弱く、何かを主張するよりも他人の評判を傷つけることに快感を覚える。自分の意見というものがないから、一方的な悪口ばかりで論争や相互批判が成立せず、議論の客観性をチェックする習慣がない。

こういう「匿名文化」のなかで言論への責任意識が希薄になっているため、ウィキペディアまで2ちゃんねる化しつつある。日本人の品質管理を支えているのは、ムラの中で評判を守る恥の意識だが、それが機能しない匿名の世界では、質を維持するインセンティヴがないのだ。私についての項目のようないい加減な記述を表示するのは「百科事典」の恥である。もっとチェック体制を強め、一定の基準を満たすまで掲載しないなど、品質管理をきびしくすべきだ。

追記:問題の項目が修正された。現職(上武大学)が抜けている点など、おかしなところはあるが、大筋では間違っていない(12/28)。

追記2:匿名IPでしつこくいやがらせを書き込む人物がいて、保護されてしまった(12/31)。日本では、匿名IPを禁止したほうがいいのではないか。

イノベーション 破壊と共鳴

山口栄一

NTT出版

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「クリステンセンの誤りを正す」などと書いてあるが、破壊的イノベーションに代わって著者が提示する「パラダイム破壊型イノベーション」の概念は実質的にほとんど変わらない。破壊的イノベーションの性能は初期には既存技術に劣っているとされるが、実際にはトランジスタなどの重要な破壊的技術の性能は最初から既存技術よりも高い、というのがその違いだが、これは本質的な問題ではない。著者のいう「パラダイム」も、クリステンセンの「バリュー・ネットワーク」の概念とほとんど同じだ。

実質的な違いは、破壊的技術が開発されても実行されない理由にある。それは第一線の研究者の物理特性についての「勘」のようなものが資金を提供する資本家や経営者にうまく伝わらないことにあるという。これは本書の扱う半導体には当てはまるのかもしれないが、あまり普遍性のある話ではない。それに対して研究者と経営者の「共鳴場」をつくれという提案も、アドホックでよくわからない。最後は2005年の総選挙など、話がとっちらかったまま終わってしまう。

ただ、イノベーションをパラダイム論と接合する著者の発想(数ページしか展開されていないが)は悪くない。一昨日の記事でも書いたように、誤った理論は反証によって葬られるとか、よい技術は必ず成功するといったナイーブな科学(技術)信仰を克服し、技術が選ばれる社内の意思決定やマーケティングなどの政治的プロセス(著者のいう「場」)を分析することがイノベーション論の課題だろう。

破壊的イノベーションを企業が容易に受けつけないのは、それなりに合理性がある。既存の技術に埋没したサンクコストが大きい場合、設備や組織をすべて取り替える破壊的イノベーションを採用することはリスクが大きいからだ。このような「局所最適化」の淘汰圧は大きな組織ほど強いので、重要なのは既得権の少ない小組織で開発を行い、バリュー・チェーンを短くして要素技術に特化した「突然変異」を市場に出すことだろう。この点で「モジュール化」が重要だという結論に本書も行きついているが、これは新しい提言とはいえない。


スクリーンショット 2021-06-09 172303
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