グーグル:迷い込んだ未来

きのうのICPFセミナーは、グーグル日本法人の村上社長をまねいて話を聞いた。聴衆は、定員120人の部屋で満員札止め。話が終わった後も、30分以上も質問の列が続いた。村上さんも、今年に入ってからの日本でのブームの過熱には驚いていた。やはり『ウェブ進化論』がきっかけだったようだ。

グーグルは最近、いろいろなビジネスに手を出しているが、どれも「検索」に関連するものであり、アドホックに「多角化」しているわけではないという。グーグルのコアには技術があり、その本質はインフラ会社である。コンピュータ・センターには、普通のPC用のCPUやメモリやディスクを大量に組み合わせた「超並列コンピュータ」がある。その処理・記憶コストは、普通のPCよりもはるかに低く、これが目に見えないグーグルの技術革新だ。

ニュースになりそうなネタとしては、AdSense for Magazineというサービスを実験的に始めたという話があった。これは、雑誌の記事の余白に、その内容に沿った広告を入れるもので、同様にAdSense for Radioというのも始めたそうだ。同じ発想で、AdSense for Videoというのも考えているという。Book Searchも日本で実験を始めたが、新刊だけで、昔の本はOCRによる読み取りがむずかしいそうだ。

意外だったのは、「広告モデルに統一したい」という話だった。世間では、グーグルがビデオ配信などで手数料を徴収するようになったことを「ビジネスモデルの多様化」と評価する向きが多いが、グーグル自身にとっては、手数料は邪道なのだという。「ポータル」として長時間ユーザーを引き留めるつもりもなく、世界中の情報を整理し、すべての人々に無償で利用可能にするという企業理念が最優先だそうだ。

グーグルのいう「広告」は、従来の代理店が仕切る広告とは違うのではないか、という質問には、村上さんも、グーグルは電通のようになるつもりはなく、「ロングテール」の尻尾の部分に重点を置いているので、従来の広告とも競合しないという。私(司会)が「では『狭告』ですかね」と冗談でいったら、「それはいいですね」。

多くの人が質問したのは「グーグルのビジネスは維持可能なのか」といった話だった。これに対して、村上さんの答は「利益を上げることは、グーグルにとって最優先の問題ではない。株主は大事だが、それよりも企業理念のほうが大事だ」というものだった。これには、みんな納得していないようだったが、私の印象では、これがグーグルのもっとも重要な点だと思う。

企業を効率的に運営するためのひとつの指標が株主価値だが、それを最大化することが企業理念と一致するとは限らない。古典的な資本主義では、物的資本をコントロールすることによって企業を支配するので、資本の価値を最大化することが企業価値の最大化につながるが、情報産業のように人的資本や知識など無形の資産が重要な産業では、物的資本のみによって企業をコントロールすることはできない。

創業者のラリー・ペイジは日本が好きで、グーグルも日本企業の家族的な雰囲気を取り入れているという。物的資本よりも人的資本を重視するという点で、両者には共通点があるが、日本の会社が徒弟修業や年功賃金で従業員を囲い込むのに対して、グーグルは知的環境によって技術者を囲い込む。創造的で自由な仕事ができ、優秀な同僚がいるということが、その最大の企業価値である。

日本が、1周遅れでやっと「株主資本主義」に目ざめた今、グーグルは資本主義の次の時代のモデルを示しているのかもしれないが、それが何であるのかは、グーグル自身にもよくわからない。グーグルは「未来の会社が、まちがって現代に迷い込んだのかもしれない」という村上さんの感想が印象的だった。

追記:「グーグル八分」などの検閲をしているのではないか、という質問もあったが、削除については次の3項目を基準にしているそうだ:
  • 違法なサイト(幼児ポルノ、麻薬販売など)
  • クローラーをだますサイト(白地に白文字でキーワードを列挙するなど)
  • 名誉毀損などの訴訟で削除要求が認められたもの
個人情報の取得などをめぐって「グーグルはインターネットを支配しようとしているのではないか」という類の質問もあったが、村上さんは「すべて検索のなかで完結する話」と答えていた。経産省のやろうとしている「国産検索エンジン」にも「自由におやりになれば」とのことだった。こういう具体的な根拠もない「グーグル脅威論」が日本で根強いことには、私もうんざりした。

インサイダー取引はなぜ犯罪なのか(その2)

今月9日の「インサイダー取引はなぜ犯罪なのか」という記事には、たくさんのリンクやTBがついて、ブログでも話題になったようだが、意外に理解されていないのは、そもそもインサイダー取引が禁止されているのはなぜか、ということだ。以下は(前の記事では省略した)初歩的な解説なので、ちょっとくどい。知っている人は無視してください。

インサイダー取引が禁止されているのは、多くの人が素朴に信じているように、それが「詐欺」だからではない。だいたい「インサイダー取引」の定義さえ自明ではないのだ(インサイダー取引を説明する東証のパンフレットは50ページもあるという)。他人の知らない(未公開の)情報を使ってもうけることは、資本主義の鉄則であって、それが違法なら、世の中の企業秘密はすべて違法になる。

前にも書いたように、商品市場にも不動産市場にも、インサイダー規制はない。たとえば、サウジアラビアが原油の生産量を減らすという未公開情報を入手したトレーダーは、それがメディアで報道される前に、石油の買いを大量に入れるだろう。それで彼がもうければ、彼は優秀な相場師として賞賛されることはあっても、犯罪者とされることはない。機関投資家などの「玄人」が売買している分には、インサイダー取引は当たり前だ。事実、1980年代までの兜町ではそうだった。市場の話としては、ここで終わりである。インサイダー取引を禁止する自明の理由はない。

しかし証券市場が他の市場と違うのは、それが石油や不動産のような商品取引ではなく、企業の資金調達の場だということである。石油の相場がどうなろうと、世の中から石油がなくなることはないが、証券市場の参加者が少ないと、企業は十分な資金を調達できない。多くの「素人」が参加して証券市場の規模や流動性を高めることは重要だが、彼らと玄人の情報格差があまりにも大きいと、損失を恐れて素人は証券投資をしないだろう。したがって機関投資家と個人投資家を対等にするため、情報が公開されるまで取引を禁じるインサイダー規制ができたのである。

つまり「市場」にとってはインサイダー規制は有害だが、「資本主義」にとっては多くの投資家が資本市場に集まる必要がある。したがって市場に行政が介入することによって機関投資家の情報収集が制約される社会的コストと、それによって資本市場の規模が大きくなるメリットのどちらが大きいかが問題だ。これは理論的にはどちらでもありうるから、実証的な問題である。前回の記事でも補足したように、最近の実証研究によれば、インサイダー取引を禁止している国では、個人投資家の比率が高く、資本市場の規模と経済成長率には有意な相関があるから、証券市場の透明性を高めることは経済全体にとってプラスだと推定できる。

要するにインサイダー規制は、個人投資家を資本市場に参加させる「集客」の目的で設けられた規制なのである。磯崎さんの言葉でいえば、それはサッカーのオフサイドのように、それ自体はルール違反ではないが、それを許すとゲームがつまらなくなる(観客が集まらなくなる)からできた人工的なルールなのだ。だから47thさんも指摘するように、証券市場への行政の介入にはコストとメリットの両面があるということを「審判」が理解していることが重要だ。「ルール違反は厳罰に処すべきだ」という(それ自体は反対しにくい)建て前論によって、インサイダー取引の範囲が恣意的に拡大されると、証券市場の機能をかえって阻害することになりかねない。

追記:投資家の数が多いほどよい、というのは企業統治の観点からは必ずしも正しくない。昔の日本のように銀行が大口の融資をして企業をモニタリングする方式もありうるし、LBOでは投資家を減らす(負債に切り替える)ことによって企業を規律づける。ただ、資金調達がグローバルになると、銀行による規律は機能しなくなる。ここでアウトサイダーを「素人」と書いたのも必ずしも正しくなく、グローバルな市場では国内外の機関投資家の平等という意味もある。

ビジネスとしての社会貢献

世界第2位の大富豪、ウォーレン・バフェットが、その400億ドルにのぼる資産の85%を寄付することを表明した。しかも、その5/6はゲイツ財団に寄付するという。これによってゲイツ財団の資産は580億ドルと、全世界の途上国への公的援助の総額にほぼ等しい規模になる。

最近、こうした社会貢献への関心が高まっている。最近引退したシティグループの総帥、サンディ・ワイルも、14億ドルを「神との約束」に使うと表明した。Economist誌も指摘するように、社会貢献は公的援助にみられる「政府の失敗」を資本主義が補正する点で重要である。特に途上国への援助はあまりにも少なく、費用対効果の検証が行われていない。たとえば、2000年の九州沖縄サミットで「デジタル・デバイド」の解消と称して行われた日本政府の150億ドルの「IT支援」などは、公的援助の浪費の典型である。

ただ民間の財団の支出も、これまで費用対効果をあまり考えず、スポンサーの趣味で行われることが多かった。ビル・ゲイツがフルタイムで基金のマネジメントにかかわるという決定は、この世界に大きな革新をもたらすだろう。日本の税務当局は、いまだに社会貢献を道楽とみなし、寄付にきびしく課税する。これは、民よりも官のほうが正しい金の使い道を知っているという前提にもとづいているが、こうした偏見を打破するためにも、社会貢献をビジネスとして合理的に運営する必要がある。

ネットがテレビを飲み込む日

ネットがテレビを飲み込む日
池田信夫、西和彦、林紘一郎、原淳二郎、山田肇

Chapter 00
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情報通信政策フォーラムのメンバーの共著。「通信と放送の融合」の現状と課題を、通信、放送、著作権、メディア、技術といった色々な側面から論じる。特に一般の読者向けに、なるべくやさしく書いたのが特徴。

Neil Young

Living with War
Neil Young
Reprise

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ニール・ヤングの新譜だが、彼の公式ウェブサイトで全曲、ストリーミングで聞ける。このアルバムのブログもある。ブッシュ政権の政策に反発して、ほとんど数日で録音したというから、曲も演奏もラフだが、それほど悪くない。61歳になっても、こういう「青い」音楽をつくる精神的な若さには感心する。

彼の1970年の作品、After the Gold Rushが、私の初めて買ったレコードだった。そしてこれが今でも、これまで聞いたすべてのレコードのなかで、私のベスト・ワンである。ここには、タイトル曲のような繊細なフォーク・ミュージックと、"Southern Man"のような荒削りなロックが同居し、危ういバランスを保っている。アメリカン・ロックの青春時代を代表する作品だ。

一般には、次のHarvest(1972)がよく知られているが、これは音楽的にも劣るし、オーケストラをつけるなどのoverproductionで、曲が台なしになっている。むしろ幻の最高傑作は、両者の間に録音されたLive on Sugar Mountainとも呼ばれるライヴ・レコードかもしれない。これは発売前に海賊盤が大量に出回ったため、結局リリースされなかったが、"Sugar Mountain"は、曲として彼の最高傑作である。

Harvestが全米ヒット・チャートの第1位になってから、ニールは逆にコマーシャルな曲を拒否し、出来不出来の激しいアルバムを出すようになる。もう少しいいプロデューサーがついていたら、もっと完成度の高いアルバムができただろう。80年代以降は、音楽的にもつまらなくなったから、彼のもっとも完成されたアルバムは、1977年に作られたコンピレーション、Decadeである。

黒澤明vs.ハリウッド

db87a1b6.jpg黒澤明vs.ハリウッド―『トラ・トラ・トラ!』その謎のすべて

田草川弘

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黒澤が監督として起用されながら、撮影中のトラブルで降ろされた事件の真相を、米側文書も含む新資料で検証した本。黒澤の診断書や映画の契約書など、1次資料をもとにして、事件を微に入り細にうがって検証している。

映画についての日米の考え方の違いや、黒澤の人間性などがよくわかって興味深い。特に、彼が癲癇持ちだったという話は、初めて知った。なるほど、あの粘着質のリアリズムがドストエフスキーやゴッホと似ているわけだ。しかし、日誌や診断書などが生で何ページも引用されていたりして、やや冗漫だ。映画1本の話に480ページ以上もつきあうのは、黒澤ファンにはいいかもしれないが、ちょっと疲れる。

GLOCOMの自壊

国際大学GLOCOMの所長代行と東浩紀副所長が辞職した。もともと所長は不在なので、経営者のまったくいない研究所という異常な状態になる。

こうなることは、十分予想できた。所長を辞めたはずの公文俊平が「代表」なる肩書きで居座る一方、経営責任は持たず、無能なスタッフを甘やかしてきたからだ。こういうガバナンス不在の状況では、まともな研究者はいつかず、行き場のない連中だけが残って、派閥抗争を繰り返してきた。経営は慢性的に赤字で、不正経理問題も起こり、財政的にもいつまでもつかわからない。

GLOCOMは、1991年に村上泰亮を所長として発足した。東大の「中沢事件」で辞職した村上と、リクルート事件で辞職した公文を救済しようという中山素平(興銀特別顧問)の温情で、興銀の取引先の企業から寄付をつのってやってきた。特に彼が社外取締役だったNTTからの寄付が大きく、いわば興銀とNTTの丸抱えでやってきたのである。郵政省とNTTが経営形態をめぐって対立した時期には、NTT分割に反対する「別働隊」として政治的な役割も果たした。

しかし社会科学系の研究所が、寄付だけでやっていくのは不可能である。NTTが1999年に再編された後は、郵政省との関係も修復され、NTTにとってGLOCOMの利用価値はなくなった。興銀もみずほFGに吸収され、他のスポンサーも中山の個人的な人望でつなぎとめていたので、彼が死去した今となっては、もうGLOCOMには存在基盤も存在理由もない。本体の国際大学も、大幅な定員割れで赤字が続いているので、GLOCOMが解体されるのは時間の問題だろう。

村上起訴

村上世彰氏が起訴された。案の定「聞いちゃった」という記者会見のストーリーは、検察の証拠で崩され、故意を認めて「完落ち」した、というお粗末だ。この筋書きは、ほとんど『ヒルズ黙示録』と同じだが、違うのは、大鹿記者がライブドアの「決断」を05年1月17日としているのに対して、当の村上氏がそれを04年11月8日までさかのぼる検察の筋書きを丸呑みしたことだ。

常識的には、ライブドアがまだニッポン放送株を買っていない段階で、一社員から「願望」を聞いただけで、それを「5%以上買い占める」という重要事実だと認定するのはむずかしいはずだが、検察には決め手があったらしい。NHKのニュースによれば、「N社について」という企画書とは別に、04年11月に「ITとメディアの融合をうたった事業計画書」(*)を村上氏が書いてライブドアに渡していたという。これが事実なら、相手がそれに同意すれば重要事実と考えても無理はないだろう。

しかし、村上氏が抱えていたニッポン放送株をライブドアに買わせて売り抜けたという行為は、インサイダー取引にあたるのだろうか。この場合は、逆にライブドアが(村上氏が買い占めるという)「重要事実を知つて買い付けた」インサイダーになるのではないか。これに該当する条文が証取法にないからインサイダー取引として起訴するのだとすると、おかしな話である。公判で、弁護人が「起訴事実は証取法167条違反に該当しない」と主張したら、どうなるのだろうか。

167条では「公開買付け等の実施に関する事実を当該各号に定めるところにより知つたもの」が当該有価証券を買い付けてはならない、としているが、村上氏は自分から仕掛けたのだから、ライブドアに聞いて「知つた」わけではない。これは確かに不正行為ではあるが、インサイダー取引とは違う類型の犯罪である。前にも紹介した郷原信郎氏や小幡績氏のいうように、157条の包括規定で起訴して、判例で類型を規定するのが本筋だったのではないか。

(*)この「事業計画書」は、NHK以外のメディアには出てこない。NHKのスクープなのか誤報なのか不明だが、私の経験では、NHKの司法クラブがこういう危ないネタで他社を抜いたことはないので、後者である疑いが強い。

追記:47thさんから、コメントとTBで詳細な解説をいただいた。それによると、問題はむしろ村上氏とライブドアの行動が「共同買付」にあたるかどうかだという。両者が一体の「共同買付者」である場合にも167条を適用すると、「5%以上買い付けることを決定したファンドが、その事実を公表せずに買付を行うこともインサイダー規制に該当する」というおかしなことになり、企業買収の実務に影響が大きいそうだ。法律ってむずかしいですね。

メディアの1940年体制

「1940年体制論」というのは、野口悠紀雄氏の著書などでおなじみだ。戦時中の「国家総動員体制」に対応して、銀行中心の金融市場などができたという話だが、マスメディアにも「戦時体制の遺産」があることは、あまり知られていない。

特に顕著なのは、新聞である。「マスコミ不信日記」からの孫引きだが、桂敬一氏によると、1937年には全国で1420紙も新聞があったのに、検閲の手間を省くため、各県1紙に統合されたのだという。戦前は、新聞配達もあったが、一つの販売店が複数の新聞を配達する「合売店」だった。それが新聞の寡占化にともなって、現在のような「専売店」になった。だから新聞の再販がなくなると崩壊するのは「活字文化」ではなく「新聞専売店」にすぎない。

同じ理由で、出版の取次は2社に集約され、通信社も2社になった。電通が独占的な地位を得たのも、戦時中である。放送(ラジオ)は、もちろん国営放送として、国民を戦争に駆り立てるもっとも効果的な道具となった。こうしたメディアで「戦意発揚」の旗を振ったジャーナリストの多くは、戦後追放されたが、新聞社や放送局は残った。

1940年体制の中心だった銀行の護送船団行政は、1990年代に崩壊したが、こうしたメディアの戦時体制は、まだ残ったままだ。そして新聞は、部数の減少のなかで、大した意味もない特殊指定を死守しようとし、NHKは減少の一途をたどる受信料収入にすがりついている。彼らが競争を恐れるのは、無理もない。70年間市場経済を知らなかったソ連国民と同じように、彼らは自由競争というものを一度も経験したことがないのである。

NTTとNHKの止まった時計

通信・放送懇談会では、NTTの経営形態について「2010年には、通信関係法制の抜本的な見直しを行う」と提言したのに対し、自民党の通信・放送産業高度化小委員会(片山虎之助委員長)では「2010年から見直す」としていたNTT再々編問題は、竹中氏と片山氏との会談で、「2010年の時点で検討を行う」という表現で実質的に先送りされた。

こういう結果は、当ブログでも予想したとおりだ。あらためて痛感するのは、NTTを特殊会社として規制する法律の弊害である。現在の経営形態が、インターネット時代にそぐわないことは明らかだが、NTT法を変えようとすると、法律を改正する作業だけで3年ぐらいかかる。2010年に改正しようと思えば、今から審議会の議題にしないと間に合わない。2010年になってから検討したのでは、改正NTT法を施行するのは2015年ぐらいになるだろう。そのころには、今とはまったく違う通信技術が登場しているかもしれない。これでは永遠にいたちごっこだ。

他方NTTは、法律を改正すると、必ず「完全分割」論が出てきて不利な方向になると思っているから、今の経営形態がいかに窮屈でも、NTT法を変えてくれとはいわず、現在の法律のなかで換骨奪胎をはかっている。これは改革を迫る側も悪い。今回、規制改革会議や通信・放送懇談会で出てきた「NTT各社の資本分離」というのは、1982年に第2臨調が出した答申そのままだ。今の企業の境界に問題があるのに、その境界にそって資本分離せよという議論は理解できない。要するに、攻める側も守る側も、第2臨調以来の24年間、時計が止まったままなのだ。

NHKについては、「3波削減」のうちFMに反対論が出て、対象はBSの2波だけになったようだ。そのうち1波(BSハイビジョン)は、2011年に停波することが決まっているので、実質的には1波削減だが、それも「検討の対象とする」だけ(霞ヶ関語では何もしないということ)。受信料の支払い義務化は、08年度から導入されることが決まったようだが、義務化だけしても収納率は上がらない。罰則の導入は不可避だろう。

情報通信コストが下がり続けているなかで、受信料の値上げがもう不可能だということは、島桂次会長の時代からわかっていたことだ。島は「受信料に依存している限り、NHKの経営には限界がある」として、最終的にはMICOという孫会社を中心にしてNHKグループ全体を民営化する構想をもっていた。しかし1991年に彼が失脚して、こうした改革は白紙に戻されてしまった。その後の15年間(海老沢時代)は、たまたまBS受信料によって実質的に値上げできたため、改革は何も行われず、NHKの時計も止まったままだ。

インターネット時代の環境変化は、この古い時計を揺さぶっているが、今回もまた針を現在時刻に合わせる作業は失敗に終わった。もう時計を取り替えるしかない。3年で4倍という速度で技術革新が起こっている情報通信業界の中心的な企業を、改正の作業だけで3年以上かかる法律で規制するしくみが間違っているのである。NTT法の改正ではなく廃止を明示的な目標にし、そのために何が必要かを考えるべきだ。時計の針を戦前のような国営放送に戻そうとしているNHKに至っては、何をかいわんやである。


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