フィッシャー・ブラック

金融工学者フィッシャー・ブラック

日経BP社

このアイテムの詳細を見る

いわずと知れたブラック=ショールズ公式の発見者、ブラックの生涯と金融工学の発展を重ね合わせて書かれたもの。伝記としては、よく取材していておもしろいが、ついでに金融工学の勉強も、というのはちょっと無理だろう。本書の柱になるCAPMやB-S公式については一応の説明があるが、初心者向きではない。これとは別に金融工学の入門書(*)を読んだほうが、本書のおもしろさもよくわかると思う。

ブラックは、スウェーデン銀行賞(通称ノーベル経済学賞)をもらう前に死んだので、受賞者はショールズとマートンだったが、本書を読むと、本当の発見者はブラックだったことがわかる。彼が公式を見つけたのは1969年だが、それを解くのに1年かかり、さらに論文が学術誌(JPEとREStat)に却下された。ミラーやファーマの口添えで書き直し、2度目の投稿でやっとJPEに発表されたのは1973年だった。

ただブラック自身は、オプション理論には大して関心がなく、主要な興味はCAPMを応用した「一般均衡理論」の構築だった。こっちのほうは、あらゆる学術誌に却下され、今日では忘れられているが、「実物的景気循環」の先駆ともみることができるようだ。ただ、彼は計量経済学がきらいだったので、理論モデルを計量モデルで検証するというマクロ経済学の「作法」に従わなかったことが拒否された理由らしい。

またブラックは、B-S公式も疑っていたようだ。この公式が一般に知られるようになってからは、すべてのトレーダーがこの公式を使って価格を計算するので、B-S理論は「自己実現的な予言」になってしまったのである。彼は、現実の市場が(B-Sの前提である)正規分布よりも裾野の広い「ファット・テール」になることを知っていた。彼は、マンデルブローとも付き合いがあったようだから、もう少し生きていれば「経済物理学」に近づいていたかもしれない。

(*)入門書といっても、「ブラック・ショールズ微分方程式」などと銘打ったものは、やめたほうがよい。野口・藤井『金融工学』(ダイヤモンド社)でも説明しているように、B-S公式は微分方程式なんか使わなくても、初等的な「2項モデル」で理解できる。ブラック自身も、このCox-Rubinsteinモデルを好んでいたようだ。

新聞は公共財?

新聞の「特殊指定」をめぐる記事を検索していると、こういうインタビューが出てきた。
--新聞の特殊指定制度廃止を急ぐ公取委の動きをどう見ますか。
 ◆公共経済学の問題だと思いますね。公共経済学ってのは要するに、世の中には、市場原理にゆだねてはいけない公共財というものがあるんだってことを経済学的に勉強するんです。
--新聞は公共財だと思いますか。
 ◆もちろん、そう思っています。(毎日新聞4/19)
答えているのは、長尾龍一氏(日大教授)。法哲学者でよかったね。経済学者が公の場でこんな発言をしたら、学者生命を失うだろう。公共財というのは「非競合的」で「排除不可能」な財だ、というのは大学1年生の教科書にも書いてある。新聞は、競合的で排除可能な「私的財」である。

こういう人の頭にある「市場原理」というのは、公共性と無縁なエゴとカネの世界なのだろう。しかし経済学のもっとも重要な発見は、市場原理は公共的な意思決定を分権的に行うメカニズムだ、ということである。取引は一見、個人が私的に行う活動だが、それが一定の条件のもとで市場で集計されると、社会的にも(政府による集権的な決定よりも)効率的な結果をもたらすのである。

もちろん、分権的な決定の集計が非効率的な結果をもたらすこともある。道路や街灯のような公共財は「外部性」が大きいので、私的に取引することは非効率的だ。ところが、NHKが「公共放送」だとか、新聞が「公共的な使命」を果たしているとかいうとき、漠然と「多くの人がともに使う」という意味で使われることが多い。そう使うのは自由だが、それは「市場原理にゆだねてはいけない」ことと無関係である。電力もガスも、多くの人がともに使うが、私的財として従量料金を取っている。

経済学のトレーニングを受けた人とそうでない人の違いは、市場を意思決定や紛争解決のメカニズムととらえるかどうかにあると思う。これは現実の市場をみていてはわからず、それを「財空間」や「生産可能集合」のような抽象化されたモデルで考えないと理解できない。そういう点を系統的に書いた古典としては、T.C. Koopmans, Three Essays on the State of Economic Scienceがある(絶版だが、図書館にはあるだろう)。経済学の教科書を1冊だけ読むなら、私はこの本(の第1論文)をおすすめする。

来週のICPFセミナーでは、新聞協会の幹部に、新聞の「公共性」についてもじっくり話を聞く予定である

新聞の特殊指定を維持する独禁法改正案

高市早苗氏を中心とする自民党の有志が、新聞の「特殊指定」を維持するための独禁法改正案を議員立法で提出することになった。公取委が特殊指定を検討している最中に、それを検討できないように独禁法を改正するという異常な法案だ。

もっと異常なのは、この問題をめぐる各紙の「翼賛的」な報道だ。新聞だけ読んでいると、まるで特殊指定の解除に賛成している日本人はひとりもいないようだが、ウェブを見ると、逆である。グーグルで「特殊指定」を検索すると、トップは「新聞の再販制度と特殊指定はホントウに必要か?」と題するライブドアの記事で、当ブログの記事も第6位に入っている。その他のブログを見ても、新聞社の主張を支持しているのはほとんどない。

ちょっと前までは、新聞とテレビが「絶対反対」で足並みをそろえたら、国民にはそれ以外の情報は伝わらなかったが、今ではブログが「第2のジャーナリズム」の役割を果たし始めた。今回の問題は、古い寡占型ジャーナリズムと新しいブログ型ジャーナリズムの対決といってもいいかもしれない。そういう観点から、今月のICPFセミナーでは、この特殊指定の問題を取り上げることにした。

追記:自民党の「独禁法調査会」は、この改正案が「独禁法体系の中で異質な部分になる」として、保岡興治会長が公取委と協議することを決めた。公取委も「6月にはこだわらない」としているから、先送りするのだろう。

島桂次

昔、NHKの会長に島桂次(通称シマゲジ)という型破りな人物がいた。1991年に失脚し、96年に死んだので、いま放送業界を取材している記者も知らないことが多いようだが、彼のやったことを知っておくのは、今後の通信・放送融合時代にも役に立つだろう。

島は、池田勇人付きの「派閥記者」として頭角をあらわし、大平派では「派閥の序列No.2」として大平の隣に座ったといわれる。NHK政治部の主流からはきらわれ、報道番組部次長やアメリカ総局長に「左遷」されたが、彼はそうした経験を生かして、テレビの演出を変革した。アメリカ流の「キャスター」を使った「ニュースセンター9時」や、職域を超えたプロジェクトによる大型番組「NHK特集」をつくったのも彼である。

1989年に会長になってから島は、住友銀行の磯田一郎(当時の経営委員長)と組んで「商業化」路線を推進した。なかでもNHKエンタープライズの子会社として作った「国際メディア・コーポレーション」(MICO)は、NHKグループの中核会社として、放送法の制約を受けずに事業展開を行う予定だった。将来は、島はMICOの社長となって「日本のマードック」としてグローバルに経営を行い、NHKは逆にMICOの子会社にするつもりだった。その第1弾として、米ABCや英BBCと組んでグローバルにニュースを配信するGNN(Global News Network)という構想を正式に表明した。

島は他方で、NHKを抜本的にスリム化する構想も持っていた。彼は「NHKは波を持ちすぎだ」と公言し、教育テレビやラジオ第2放送を削減しようとした。また報道をのぞく番組制作部門はすべて外注すればよいという方針で、番組制作局の「部」を「プロダクション」と改称した。最終的には、NHKを24時間ニュース専門の「第1NHK」と、娯楽・スポーツなどを中心にする「第2NHK」に分割し、第2NHKは民営化する方針だったという。しかし、こうした構想は、島が失脚すると、すべて白紙に戻ってしまった。

いま思えば、島の構想は大風呂敷すぎたが、「半国営」で受信料収入に制約されたままでは自由にビジネス展開もできないと考え、民間資本を導入して企業としてのNHKを自立させようとした彼の見通しは正しかった。NHKを中心とする放送業界全体が政府に管理された状態では、日本の放送・映画・音楽産業の売り上げをすべて合計してもタイム=ワーナー1社に及ばず、国際的に通用しない質の低い番組を高コストでつくる体質は改善できない。

それなのに、現在のNHK経営陣には、良くも悪くも島のようなリーダーシップはなく、ひたすら既存の制度を守ることに汲々としている。通信・放送懇談会も、日本のコンテンツ産業の足かせになっているNHKと民放の「二元体制」による寡占状態を変えないことに決めてしまった。もしも島がいま生きていれば、懇談会に乗り込んでNHKの「全面民営化」をぶち上げたかもしれない。

ヒルズ黙示録

ヒルズ黙示録―検証・ライブドア

朝日新聞社

このアイテムの詳細を見る

ライブドア問題を早くから追跡してきたAERAの記者が、ニッポン放送事件の前にさかのぼって、一連の出来事をひとつのストーリーとしてまとめたもの。「影の主人公」は村上ファンドで、その裏にはフジサンケイ・グループの骨肉の争いがあったという見立てだ。

東京地検の捜査には、著者も懐疑的だ。政治家などの「巨悪」は結局、何も出てこなかった。「偽計」や「粉飾」とされる容疑も、山一やカネボウのように経営破綻をごまかすために数千億円の不良資産を隠していたのとは違い、公判で争う余地はある。ホリエモンは、大鶴特捜部長の「額に汗して働く人が憤慨するような事案」を摘発するという「国策捜査」のスケープゴートにされたのではないか。北島副部長が捜査の途中で更迭された異例の人事も、何か見込み違いがあったことをうかがわせる。

ライブドア事件の影響で、資本市場の規制が強化され、検察のターゲットともいわれた村上ファンドも、シンガポールに本拠地を移した。これで「ヒルズ族」のお祭りの季節はひとまず終わったが、インターネットはこれからも世界を変えてゆくだろう。

貧困の終焉

貧困の終焉―2025年までに世界を変える

早川書房

このアイテムの詳細を見る

Time誌の「2005年の人」には、貧困に苦しむ途上国の「よき隣人」として、U2のボノとビル・ゲイツ夫妻が選ばれた。これまであまり「おしゃれ」な話題ではなかった途上国の貧困が、「ホワイトバンド」のような形でファッションになったのは、まぁ悪いことではない。そのボノが「教師」とあおぐのが、本書の著者ジェフリー・サックス(コロンビア大学地球研究所長)である。

著者は28歳でハーバード大学の教授になった秀才だが、その学問的な評価はわかれる。とくに彼が顧問として招かれたロシアの経済改革においては、エリツィン政権の経済顧問として、急速な市場経済化による「ショック療法」(彼はこの言葉をきらっているが)を提案し、ロシアを貧困のどん底にたたきこんだ張本人として知られている。

その後、著者は国連のアナン事務総長の特別顧問として、途上国とくにアフリカの貧困対策に努力する。本書の中心となっているのも、毎日1万人以上がエイズやマラリアで死んでゆくサブサハラ地帯の貧困問題だ。しかし、この問題に取り組む国連の「ミレニアム・プロジェクト」の予算は、イラク戦争につぎこまれた戦費の1/100にも満たない。彼は「援助は腐敗した政治家の隠し財産になるだけだ」というシニカルな意見に反論し、「よいガバナンス」は必要だが、成長率とガバナンスとの間には相関はほとんどなく、「地に足のついた援助」は効果を発揮すると説く。

著者の情熱とヒューマニズムには、だれしも脱帽するだろうが、途上国援助を批判する者がすべて「人種差別主義者」であるかのような一面的な主張には、いささか鼻白む。またブッシュ政権の単独行動主義を批判する一方、「反グローバリズム」のデモに一定の理解を示す姿勢には、党派的なにおいも感じるが、著者の扱っている問題が、テロや地球温暖化よりもはるかに重要であることは疑いない。

量子コンピュータ

量子コンピュータについての会議が英国王立協会で開かれ、いくつかの異なった方向の成果が発表された。

コンピュータ素子の微細化は急速に進んでいるが、その極致が電子のスピンを使った量子コンピュータだ。普通のコンピュータが0か1かというbitの情報しか持たないのに対して、シュレーディンガーの波動関数であらわされる「純粋状態」の電子ではupとdownのスピンが一定の確率で重ねあわされている。この2値の状態ベクトルをqubit(quantum bit)とよび、これを利用して多くの計算過程を重ね合わせる超並列の高速コンピュータをつくろうというのである。このアイデアは1970年代からあったが、実際には電子を純粋状態におくことがむずかしく、実用化は不可能だと思われていた。今回の会議でも、いろいろな方法が提案されているが、実際に計算に使えるほど長時間、安定した純粋状態に電子をおくことはできていない。

こういう素子の開発は、物理学にとっても重要な実験である。純粋状態の電子が観測されると、波動の干渉が消えて「混合状態」の古典力学的な物質となるのはなぜか、という「観測問題」は100年近く物理学者を悩ましてきた。アインシュタインやシュレーディンガーは、確率的な波動に見えるのは電子の「真の状態」についての情報が不足しているだけだという実在論的解釈をとったが、ボーアやハイゼンベルクは確率的な不確実性は本質的なものだという立場をとり、この「コペンハーゲン解釈」がながく物理学の主流だった。

しかし確率的な波動が本質的な状態だとすると、観測によってそれが消えるのはなぜか。これについて現在の標準的な解釈では、電子が外界と相互作用することによってdecoherence(非干渉化)が生じ、混合状態以外の波(合成された密度行列の非対角成分)が極小化して見えなくなると考える。したがって非干渉化が起こらないように純粋状態を持続することができれば、チューリング・マシンを超える強力なコンピュータができるとともに、非干渉化理論が実証され、観測問題も解決するわけだ。

かつては実際の物理現象と関係のない神学論争だと思われていた観測問題についての理論が、最先端のコンピュータの原理になるというのが自然科学の不思議なところだ。最初は数学基礎論の奇妙なパラドックスにすぎなかったゲーデルの不完全性定理(の証明技法)が、チューリングによってプログラム内蔵型コンピュータの原理とされたように、本質的な理論は本質的な技術革新を生むということだろう。

村上ファンド

村上ファンドの阪神電鉄に対する株主提案が話題を呼んでいる。阪神側が反発する最大の理由は、村上ファンドが経営権を握ったら不動産事業などを「切り売り」するのではないか、との懸念だという。しかし、これこそ投資ファンドの存在理由だ。

1980年代の米国でも多くの投資ファンドが登場し、「多角化」で水ぶくれした企業をLBOで買収し、不採算部門を売却するなどして効率化した。その理論的支柱となったのが、Michael Jensenの有名な論文である。Jensenは、成熟産業の経営者は余ったキャッシュフローを「帝国建設」的な規模拡大や多角化に使う傾向が強いので、それを阻止して利益を投資家に還元する手法としてLBOは重要だと指摘した。

LBOの効果には、賛否両論ある。米国でも社会的には「拝金主義」として批判を受けることが多く、Barbarians at the Gate(『野蛮な来訪者』)やDen of Thieves(『ウォール街・悪の巣窟』)など、企業買収を批判するノンフィクションがたくさん出た。しかし経済学的には、米国の資本主義が80年代までの閉塞状況を脱却するうえで、こうした「企業コントロールの市場」が大きな役割を果たしたという肯定的な評価が多い。

日本では、企業は「共同体」という意識が強いので、いまだに藤原正彦氏のように企業買収そのものに嫌悪を示す人が多く、特に事業売却はよほど追い込まれないとやらない。しかし今回のNHKをめぐる議論でもわかるように、企業に「規模を縮小せよ」と説得するのは無駄である。市場の力で適正規模に縮小させるしかない。資本市場が機能していなくても、効率の悪い企業は最終財市場から退場させられるから、市場が最強のガバナンス装置なのである。

破綻した受信料制度

先日の「朝まで生テレビ」の内容では、松原聡氏の話だけがニュースとして出ている。読売新聞によれば、「NHKのラジオとBSの電波が削減対象になる」という話と、「スクランブル化に否定的な見解を示した」という点がニュースになっている。

たしかに、後者には私も驚いた。彼が『Voice』2005年12月号に書いた記事では、「デジタル放送では、B-CASカードを介して個々の視聴者を特定して、放送を送ることが可能となっている」と書き、両論併記のような形になっていたのに、先週の話では、このB-CAS方式(スクランブル)を明確に否定したからだ。

その理由として、松原氏は「スクランブル化すると、公共放送としての根拠がなくなる」という点をあげているが、それが民営化というものだ。受信料制度が(彼も認めるように)公共料金として破綻しているのだから、公共放送をやめるしかないのである。これに対して「NHKの収入が減る」という心配を宮崎哲弥氏がしていたが、『週刊東洋経済』にも書いたように、視聴料にすれば捕捉率は100%になり、1台ごとに課金できるので、視聴者が半減したとしても採算は合う。そもそも有料放送にしたら視聴者が半減するとすれば、今は本来の視聴者の倍の人々に無理やり見せているということになる。

さらに問題なのは、前にも書いたように、不払いの視聴者は、個人・法人ふくめて最大2700万世帯もあると推定されるが、彼らからどうやって受信料を取り立てるのか、ということだ。これだけ膨大な数の催告状を裁判所から出してもらうには、印紙税だけで100億円ぐらいになるだろう。さらに毎月2000円程度の受信料の不払いでいちいち差し押さえに行ったら、そのコストが取り立てる料金を上回る。要するに、現在の受信料制度は、もうenforcementが不可能なのである。

もちろん民営化する最大の理由は、朝生でも出席者全員が認めていたように「NHKと政治の距離が近すぎる」ことである。これは番組の内容にかかわるだけでなく、経営陣がつねに政治家や役所のほうを向いて経営を行うため、放送ビジネスについて無知な「政治屋」が出世し、デジタル放送のようなナンセンスなプロジェクトが進められるという点でも弊害が大きい。少なくとも、NHK予算を国会で承認するしくみはやめるべきである。BBC予算はOfcomが承認しているが、日本にはそういう独立行政委員会もない・・・

追記:朝日新聞(3日)のインタビューで、NHKの橋本会長は、地上デジタルで「料金を払え」という横断幕を画面に出す方針を示唆している。通信・放送懇談会のいう「取り立て強化」という対策に効果がないことがわかっているからだ。改革の対象よりも後退した提言しか出せない懇談会って何なのか。

IPv6

総務省の委託でインテックネットコアなどが調べたIPv6の普及度調査の結果が、ウェブサイトに出ている。それによれば、のように、v6のトラフィックは2002年の2.5%をピークとして減少し、今年は0.1%にも満たない。

RFC2460(v6の基本仕様)が出てから8年たってもこういう状況では、もう「次世代のアドレス体系」ではありえない。WIDEでも最近は「v4をv6に置き換える」という表現をやめて「v6を普及させる」としているようだ。v6はローカル・アドレスと割り切れば、それなりの用途はある。v4サイトから見えないぶん、安全だというメリットもある。

Windows Vistaには、出荷時からv6のアドレスがつく予定だが、これは混乱のもとになる。NTTやIIJなどの一部のv6専用サービス(閉じたネットワーク)で、すでにv6のアドレスをもっているユーザーは、1つのホストに2つのグローバル・アドレスをもつことになるからだ。ローカルのサーバにアクセスしたらVistaのアドレスで同定されてはじかれる、といったトラブルが起こるおそれが強い。これはマイクロソフトがVistaの仕様で複数のv6アドレスの優先順位を決めるなどの対応をするしかないが、マイクロソフトはその気はないという。

こういう混乱が起こるのは、しょせんローカル・アドレスでしかないv6をWIDEが「次世代」のアドレスとして宣伝したり、それを真に受けた政府が「国策」としてv6を推進したりした結果だ。v4のアドレスが「涸渇」することはありえない、という事実は、山田肇氏と私が4年前の論文で指摘したことだ。この論文は1年で3万回もダウンロードされ、IETFのシンポジウムでもテーマになったが、事実関係は村井純氏も認めた。

ところが霞ヶ関では、まだこの程度の基本的な認識もない。あるとき某省の審議官にv6についてのレクチャーを求められ、「v6はv4と完全互換ではない。v4のサイトからv6のアドレスは見えない」と説明したら、審議官が「それは本当か」と驚いていた。こんな初歩的なことも知らないでv6に100億円以上の補助金をつける無謀さには、こっちが驚いた。v6をめぐる混乱は、要素技術に政府が介入するとろくなことにならないという好例である。


スクリーンショット 2021-06-09 172303
記事検索
Twitter
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
Creative Commons
  • ライブドアブログ