東洋経済の読書特集で一番おもしろかったのは、『国家の罠』の著者、佐藤優氏の「獄中読書記」である。拘置所では集中力が高まり、512日間で220冊読んだそうだが、彼がグローバル資本主義を理解する上でもっとも役に立ったのが、宇野弘蔵だったという。
私の学生時代、東大の経済学部には「原論」がAとBの二つあって、Aがマル経、すなわち宇野経済学だった。宇野の特徴は、マルクス経済学を「科学的に純化」し、イデオロギー性を抜きにして『資本論』の論理を洗練しようというものである。これは、世界的にみても珍しいマルクス主義の進化だった。もちろん「党」からの批判も強く、党の方針に従う人々は京大を中心にして「マルクス主義経済学」を名乗ったが、学問的な水準は宇野に遠く及ばなかった。
宇野の理論でグローバル資本主義を説明できる、という佐藤氏の直感は正しい。その論理構造は、ウォーラーステインの「近代世界システム」とよく似ている(というか宇野のほうが先)。要するに、資本主義は差異によって利潤を生み出すシステムだという考え方である。その限界が、宇野によれば恐慌なのだが、弟子の鈴木鴻一郎(*)や岩田弘などの「世界資本主義」派は、差異化のメカニズムを世界市場に拡大し、植民地との間にグローバルな差異をつくり出すことによって資本主義を延命したのが帝国主義だとする。こういう議論は岩井克人氏や柄谷行人氏の話でもおなじみだが、これはもちろん彼らが宇野をパクっているのである。
宇野のマルクス解釈は、「ポストモダン」を先取りしてもいた。デリダは『マルクスの亡霊』で、マルクスが価値の実体は「幽霊的」なものだとして古典派経済学の形而上学を批判したことを高く評価したが、結局は労働価値説に価値実体を求めたことを批判した。これに対して宇野理論は、「流通過程が生産過程を包摂する」という論理で、事実上、労働価値説を放棄しているので、近経とも接合しやすい。
均衡=同一性を原理とする新古典派経済学では、利潤が継続的に存在する事実を説明できない。それに対して、差異性を原理とする宇野の理論は、現実の市場を定性的にはよく説明しており、経済物理学や行動ファイナンスのように、均衡の概念を否定する最近の理論にむしろ近い。宇野のスコラ的な文体では使い物にならないが、これをうまくリニューアルして現代の経済学と接合すれば、新しい経済システム論を生み出す可能性もある。
ただ佐藤氏も指摘するように、宇野の限界は、こうした差異化のシステムの基礎に国家権力があるという側面を軽視したことだ。マルクスも最終的には、資本論→世界市場論→国家論という巨大な「三部作」構成を考えていたが、この場合の国家は、あくまでも「上部構造」として経済的な土台から説明されるものだった。これは「市民社会の矛盾を国家が止揚する」というヘーゲル法哲学の思想で、今なお社会科学の主流である。
現代の問題は逆に、貨幣とか財産権などの制度の背後に政治があるということだ。こうした制度が自明に見えているときには、グローバル資本主義は安定した秩序として維持できるが、通貨危機が起こってIMFが介入したり、「知的財産権」を侵害するデジタル情報がグローバルに公然と流通したりするようになると、その自明性は失われ、背後にある政治性(ワシントン・コンセンサスやハリウッドの文化帝国主義)が露出してくるのである。
(*)宇野と鈴木の名前を合成したペンネームが「宇能鴻一郎」だったというのは、嘘のようなほんとの話。
私の学生時代、東大の経済学部には「原論」がAとBの二つあって、Aがマル経、すなわち宇野経済学だった。宇野の特徴は、マルクス経済学を「科学的に純化」し、イデオロギー性を抜きにして『資本論』の論理を洗練しようというものである。これは、世界的にみても珍しいマルクス主義の進化だった。もちろん「党」からの批判も強く、党の方針に従う人々は京大を中心にして「マルクス主義経済学」を名乗ったが、学問的な水準は宇野に遠く及ばなかった。
宇野の理論でグローバル資本主義を説明できる、という佐藤氏の直感は正しい。その論理構造は、ウォーラーステインの「近代世界システム」とよく似ている(というか宇野のほうが先)。要するに、資本主義は差異によって利潤を生み出すシステムだという考え方である。その限界が、宇野によれば恐慌なのだが、弟子の鈴木鴻一郎(*)や岩田弘などの「世界資本主義」派は、差異化のメカニズムを世界市場に拡大し、植民地との間にグローバルな差異をつくり出すことによって資本主義を延命したのが帝国主義だとする。こういう議論は岩井克人氏や柄谷行人氏の話でもおなじみだが、これはもちろん彼らが宇野をパクっているのである。
宇野のマルクス解釈は、「ポストモダン」を先取りしてもいた。デリダは『マルクスの亡霊』で、マルクスが価値の実体は「幽霊的」なものだとして古典派経済学の形而上学を批判したことを高く評価したが、結局は労働価値説に価値実体を求めたことを批判した。これに対して宇野理論は、「流通過程が生産過程を包摂する」という論理で、事実上、労働価値説を放棄しているので、近経とも接合しやすい。
均衡=同一性を原理とする新古典派経済学では、利潤が継続的に存在する事実を説明できない。それに対して、差異性を原理とする宇野の理論は、現実の市場を定性的にはよく説明しており、経済物理学や行動ファイナンスのように、均衡の概念を否定する最近の理論にむしろ近い。宇野のスコラ的な文体では使い物にならないが、これをうまくリニューアルして現代の経済学と接合すれば、新しい経済システム論を生み出す可能性もある。
ただ佐藤氏も指摘するように、宇野の限界は、こうした差異化のシステムの基礎に国家権力があるという側面を軽視したことだ。マルクスも最終的には、資本論→世界市場論→国家論という巨大な「三部作」構成を考えていたが、この場合の国家は、あくまでも「上部構造」として経済的な土台から説明されるものだった。これは「市民社会の矛盾を国家が止揚する」というヘーゲル法哲学の思想で、今なお社会科学の主流である。
現代の問題は逆に、貨幣とか財産権などの制度の背後に政治があるということだ。こうした制度が自明に見えているときには、グローバル資本主義は安定した秩序として維持できるが、通貨危機が起こってIMFが介入したり、「知的財産権」を侵害するデジタル情報がグローバルに公然と流通したりするようになると、その自明性は失われ、背後にある政治性(ワシントン・コンセンサスやハリウッドの文化帝国主義)が露出してくるのである。
(*)宇野と鈴木の名前を合成したペンネームが「宇能鴻一郎」だったというのは、嘘のようなほんとの話。