サルトルの世紀

朝日新聞と日経新聞の書評で、ベルナール=アンリ・レヴィ『サルトルの世紀』(藤原書店)がそろってトップに取り上げられていた。たしかに、論証に荒っぽいところはあるが、サルトル論としては圧倒的におもしろい。

もはや「忘れられた哲学者」に近いサルトルの戦前の著作を再評価し、そこに「物の味方」としての「第一のサルトル」を見出すという発想は斬新で、またそれなりに説得力がある。マロニエの木の根元を見て吐き気をもよおすロカンタンの姿に「本質の不在」というポストモダン的なテーマを見ることは可能である。

しかし、初期サルトルの「反本質主義」を「反ヒューマニズム」と置き換えるのは、ちょっと乱暴だ。本質に先立って実存する主体は「自己」であり、サルトルはその主体(人間)そのものは疑っていないからだ。むしろ、ヘーゲル的な主体=実体を否定しつつ、実体なき主体としての自己を認めたところに、サルトルの中途半端さがあったのではないか。

これは戦後の「第二のサルトル」の惨憺たる失敗をどう理解するかという問題ともからむ。著者は、これを「第一のサルトル」と並列し、二人のサルトルが晩年まで同居していたのだとして、両者の関連についての説明を放棄しているが、これはいかがなものか。むしろ初期の哲学からあった「強いエゴ」が肥大化して「党」の絶対化につながったのではないか。

未整理で冗漫な部分も多いが、語り口はジャーナリスティックで読みやすく、900ページも一気に読める。良くも悪くも、サルトルが20世紀を代表したことは間違いない。彼の矛盾は、われわれの時代の矛盾でもあるのかもしれない。

逆囚人のジレンマ

道路公団をめぐる談合事件は、元理事が逮捕されるに至り、公団職員の関与も疑われている。しかし財界の動きはにぶく、経団連の奥田会長も「長年の慣習で、簡単にはやめられない」などと歯切れがよくない。これは談合に(少なくとも主観的には)一種の合理性があることを示唆している。

談合は、ゲーム理論でおなじみの「フォーク定理」で合理的に説明できる。1回かぎりの入札では抜け駆けで得をしても、それによって業界から追放され、指名入札に入れてもらえなくなったら、長期的には損をするからだ。しかし談合の場合には、この「サブゲーム完全均衡」は犯罪であり、ばれたら全員が最悪の状態になる。つまりここでは、通常の囚人のジレンマとは逆に、非常にリスクの大きな「協力」=談合に全員がトラップされているのである。

こういう「逆囚人のジレンマ」を壊すのは簡単である。すべての工事を一般競争入札にして、抜け駆けできるアウトサイダーを入れればいいのだ。しかしこういう解決法では、手抜き工事が行われる可能性があるので、工事の監視をきびしくするなどの事後的な行政コストが高くなる。談合は、業界内で互いに監視して品質を管理する役割もになっていたわけだ。

こういう「自主監視」のしくみは、終戦直後のような混乱した時期には必要だったかもしれない。しかし工事の質が上がり、行政による監視も厳重になった現在では、談合の積極的な意味はもう失われたのだ。奥田会長のいう「自由競争にしたら弱い会社が生き残れない」というのは理由にならない。競争が長期的には会社を強くすることは、トヨタがいちばんよく知っているはずだ。

核燃料サイクルはなぜ止められないのか

原子力と政治:ポスト三一一の政策過程
アゴラにも書いたように、核燃料サイクルがビジネスとして成り立たないことは、電力会社の経営者も技術者もわかっている。役所も2004年に「19兆円の請求書」を出したときからわかっていた。それなのに、なぜ20年近く止まらないのか。

それは「使用ずみ核燃料は青森県六ヶ所村の再処理工場に送る」という前提で、全国の原発が動いているからだ。これを知らないで2012年に「革新的エネルギー・環境戦略」で「原発ゼロ」を打ち出した民主党政権は、青森県知事に拒否権を発動されて挫折した。

青森県と電力会社の結んだ協定では、六ヶ所村でつくるプルトニウムは、他に運んで核燃料として利用することになっていた。しかし原発ゼロにするなら核燃料サイクルもなくなるので、再処理は必要ない。六ヶ所村にあった約3000トンの核廃棄物は「すべて発電所に送り返す」と青森県知事は通告したのだ。おかげで民主党政権は「戦略」を閣議決定できなかった。

もし河野太郎氏が首相になると、同じ問題に直面するだろう。彼が「核燃料サイクルをやめる」と決めると、青森県は「使用ずみ核燃料を送り返す」と通告するかもしれない。河野氏は民主党政権と違ってこの分野のエキスパートだから、その対策は考えているはずだ。

最終処分地は六ヶ所村にある

技術的には、この問題は解決できる。全国の各原発のサイト内で使用ずみ核燃料を乾式貯蔵し、十分冷却してから最終処分地に運べばいいのだ。これは今でも地元との協定を結んでやっている発電所があり、50年でも100年でも「中間貯蔵」することは可能である。

六ヶ所村も同じだ。フォン・ヒッペルなどの専門家が提言しているように、再処理工場でキャスクに入れて乾式貯蔵すればよい。今は協定で50年以内に搬出することになっているが、これを延長して半永久的に貯蔵すればいいのだ。

むつ小川原は、かつて石油コンビナートを建設するために造成されたが、それが挫折したまま放置され、図のように再処理工場に使われているのはごく一部で、今でも約250km2が空いている。

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これは大阪市とほぼ同じ面積で、使用ずみ核燃料を300年分以上、収容できる。再処理工場を建設するとき、地盤などの問題はすべてクリアしたので、使用ずみ核燃料を置くには適している。

反対派を説得できるのは河野氏しかいない

ではなぜこの問題が迷走しているのか。それは国と青森県との間で六ヶ所村を最終処分地にしないという確認書を歴代の知事とかわしたからだ。民主党政権でも、2012年8月に枝野経産相が三村知事に対して「青森県に最終処分場をお願いすることはない」と確認した。

これには複雑な経緯があり、かつて激しい反対運動に対して「六ヶ所村は工場であって核のゴミ捨て場ではない」といって住民を説得した経緯もあるらしい。この約束には法的拘束力はないが、地元の了解なしに国が方針を変更することはできない。

これは福島第一原発の処理水と似たような問題である。再処理工場の敷地の用途を変更することは法的には問題がなくても、「約束違反だ」とか「六ヶ所村を核のゴミ捨て場にするな」という反対運動が起こる可能性がある。それを説得できるのは、河野氏しかいない。この問題のコアは技術ではなく感情なので、政治が解決できるのだ。

RIETIの「名誉の挫折」

先日、ある政治学者に「RIETIの挫折は、ある意味では必然だった。あれは名誉の挫折だ」といわれた。霞ヶ関が研究所を独立行政法人にしたとき、思い描いていたのは経済社会総合研究所のような人畜無害なもので、浜田所長も期待されたとおり「お飾り」の役割を演じただけだった。それに対してRIETIは、制度設計の段階から青木所長が「独立」という理念を本気で実現したため、霞ヶ関のコントロールがきかなくなった。だから、彼らにつぶされたのだ。

特に大きかったのは、他の省庁の政策を公然と批判したことだ。大学改革や通信政策を経産省の「外郭」が論じるというのは、霞ヶ関の常識にはない事態だった。これに対する他省庁の苦情に経産省が「対応」した結果が、今回の解体処分だったわけだ。事前には「霞ヶ関全体に対する"プランB"を提案する」などと格好いいことをいっておいて、実際には省益の圧力でつぶしたというのは、いかにも日本的だ。その建て前を信じて政策提言をした私がバカだったのだろう。

従来は、こうした外郭研究所は、官僚の決めた政策を合理化する資料を集める手段にすぎなかった。結論は霞ヶ関が知っており、学者はその土俵のなかで利用する対象でしかなかったのだ。ところがRIETIは意識的に、その土俵を踏み超えた。官僚が日本のthe best and the brightestであるという前提を否定したのである。これが彼らのプライドを傷つけたのだろう。

霞ヶ関の権力のかなりの部分は、彼らの知的権威に根ざしている。少なくとも私の世代までは、法学部と経済学部でもっとも優秀な学生は官僚になり、その次が学者になったものだ。ところが、今では経済学部の一番人気は外資系の投資銀行で、官僚の人気はメーカー以下だ。権力だけは大きく、そこに二流の人物が入ってくるというのは、かなり危険な現象である。

大江健三郎

大江健三郎氏の「古希」インタビューが朝日新聞に出ている。それによると、彼は最近になって初めて「書くことがなくなってから本当の作家になる」と気づいたそうだ。それでは、今まで書いていた「憲法第9条」や「核戦争の恐怖」などをテーマにした駄作群はどうなるのだろうか。

とはいいながら、加藤周一氏などと一緒に「9条の会」を発足させたというから、結局なにも「成熟」していないわけだ。

NHK民営化の道(6)

日経新聞のアンケートで「NHKは民営化して受信料制度を廃止すべきだ」という意見が62.9%もあるのには驚いた。逆に「番組の質が高い」という意見は30%弱しかなく、意外にNHK民営化の議論の機は熟しているのかもしれない。

もともと受信料という制度は、アナログ放送では受信できないようにすることが技術的に不可能なためにできたもので、デジタルになればスクランブルをかけられるので、こういう曖昧な制度は必要ない。事実、BSデジタルでは、BS受信料を払わないと変な字幕が出るようになっている。

問題は、アナログ放送で受信料をやめられるかということだ。これは技術的には簡単である。NHKの映るテレビと映らないテレビをつくり、映らないテレビを買った人は「視聴料」を払わなくてもよいことにするのだ。現実には、そんなテレビをわざわざ買う人はほとんどいないだろうから、視聴料にしても大して減収にはならない。

また民営化するとき、料金の徴収システムも民間に開放してはどうだろうか。BSが1500万世帯も普及したのは「集金のおじさん」の力が大きい。NHK報道・NHK芸能・NHKスポーツというようにチャンネルごとに別会社にし、集金を別会社にして他の有料放送やケーブルテレビなどの集金も代行すれば、競争条件の平等化がはかれるし、有料放送が普及するだろう。

追記:トラックバックで指摘されたが、このアンケートはインターネットによるものだから、これは「インターネット・ユーザーの意識調査」というべきかもしれない。とすると、彼らはもともとNHKも含めてテレビを見てないのだから、この結果にはかなりバイアスが含まれている可能性がある。

文明史のなかの明治憲法

文明史のなかの明治憲法 (講談社選書メチエ)
いつまでも続く不毛な「歴史認識」論争を決着させるには、明治憲法以前にさかのぼる必要があるのかもしれない。本書は明治初頭(1871~)の岩倉使節団までさかのぼり、明治憲法ができるまでに西洋の何を学んだかをたどっている。

岩倉のころは、不平等条約の改正のためにいろいろな国の制度を勉強するというものだったが、その10年後の伊藤博文の憲法調査になると、プロイセンの国制をまねるための調査という色彩が強まり、ここで明治憲法の骨格が固まった。「憲法は花、行政法は根」という青木ドイツ大使の言葉が、そこで構想された「国のかたち」を象徴している。

伊藤の最大の問題意識は、「行政の肝要な部分は法律では決められない」というシュタインの「進化的」国家観だったという。それは「日々転変」する現実に即応するには、君主の命令でも議会の立法でもなく、官僚の裁量がもっとも適しているのだ、というものだった。

昨年のRIETIをめぐる騒動にもみられるように、この「行政中心主義」の遺伝子は、120年後の今日にも受け継がれている。日本が「坂の上の雲」をめざして近代化を急ぐときには、それでもよかったのかもしれない。しかし、坂を登りきった今、この伊藤の国家観まで立ち戻って考え直してみる必要があるのではないか。特に印象的なのは、こうした調査で司法の役割がほとんど問題になっていないことである。

Re: 番組改変問題

今回のNHKの番組をめぐる問題について、読売の社説は、問題の本質は昭和天皇を被告として「強姦罪で有罪」とするような模擬裁判を取り上げた番組にあり、そんな非常識な番組をつくる「制作現場の自由」は認めてはならないとしている。

これは問題のすりかえである。私も、当の番組については問題があると思う。この「女性国際戦犯法廷」というのは、法的拘束力のない政治的イベントにすぎない。被告がすでに死亡しており、弁護人もつかないなど、裁判としての体もなしていなかった。検察官の1人は北朝鮮の工作員だったと、安倍氏は主張している。そもそも、これを1本の番組として扱うという企画が「ボタンの掛け違え」の始まりだったのだ。

教育テレビは放任状態だから、こういうおかしな企画が通ってしまうことはよくある。それをバランスのとれた番組に編集するのは当然だが、自民党にお伺いを立てるのはおかしい。安部氏に「予算の説明」をするのに、国会担当だけでなく放送総局長が同行したのは、この番組について釈明するためとしか考えられない。こういうことが許されると、自民党が実質的に番組を検閲できることになる。

だから問題の本質は番組の内容ではなく、それを編集する過程で自民党の意向を聞き、それに過剰反応して番組を改変した手続きにある。NHKが説明責任を負うのは、政治家ではなく視聴者である。この改変問題についても「検証番組」をつくるべきだ。

番組改変問題

慰安婦の番組をめぐる報道について、NHKが朝日新聞に抗議した。

私の経験から推測すると、朝日の記事は大筋で正しいと思う。中川氏については、両者の主張は明らかに食い違っており、どちらかが誤っていることになるが、安倍氏が事前に面会してコメントしたことは本人も認めている。彼が「公正にやってください」といっただけでも、NHK側は大きな「圧力」と受け止めるだろう。

「局長試写がしばしば行われる」とか「改変ではなく通常の編集だ」というのは、嘘である。NHKスペシャルでも、局長室で試写することなんかない。また、放送の3時間前になって放送時間を短縮するのは「通常の編集」ではありえない。民事訴訟でも証人申請が行われ、国会でも参考人として呼ばれるようだから、このさい事実関係を徹底的に究明してほしいものだ。

もしも、こういうことが「しばしば行われる」のだとすれば、NHKの現状は、私がいたころよりもはるかに悪くなっていることになる。

追記:中川氏は、朝日の記事について「4年前のことを聞かれ、記憶があいまいなまま答えた」とコメントした。これはそう答えたほうが悪いのであって、朝日新聞に「抗議する」というのは筋違いである。

NHK民営化の道(5)

慰安婦問題の番組の「改変」をめぐって、当時の担当デスクが記者会見をした。これは着服事件よりもずっと本質的な問題である。

この事件は、私の知人も裁判に巻き込まれたが、率直な印象は「ボタンの掛け違え」という感じだ。こんな問題になるなら、企画を通さなければよかったのに、最初は「教育テレビだから」と軽く考えて通したものの、あとになって右翼が騒ぎ始め、放送がNHK予算審議の直前だからということで、自民党に過剰に「配慮」したということだろう。最終判断をしたのは、明らかに会長である。

この事件のようにこじれたケースは珍しいが、こういう問題はよくある。一般にも知られているのは、1981年2月の「NC9カット事件」だろう。これは「ロッキード事件5周年」というニュースの一部(三木元首相インタビュー)を島報道局長(当時)が没にし、これに反対した職員が次の異動で大量に左遷されたという事件だ。

2002年に起こった私に対する脅迫状の事件も、2月だった。結果的には、この脅迫状がかえって国会で追及される材料になったのだが、NHK予算が審議される時期に、こういう事件が起こることが多い。つまり「税金ではなく受信料で運営することで政治的圧力からの独立性を担保している」という建て前は、絵空事にすぎないのである。

受信料という「税金もどき」の制度で運営するかぎり、こういう事件は後を絶たないだろう。これがNHK民営化の必要な、もっとも重要な理由である。



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