石破内閣の支持率が28%と発足直後としては前例のない低さになる一方、高市早苗氏は100人以上から応援を要請されて全国を飛び回り、分裂選挙の様相を呈してきた。多くの人が連想するのが、1979年の「40日抗争」である。
著者は当時の大平首相のアドバイザーで、政治家の駆け引きを(カネの話を除いて)赤裸々に描いている。当時は主流派(大平・田中)と非主流派(福田・三木・中曽根)の対立があり、前年の総裁選で大平が田中の支持を得て福田を破った経緯をめぐって怨恨が残っていた。
当時は第2次石油危機の最中で、財政が逼迫し、新たな財源の必要に迫られていた。大平は財政を再建するために一般消費税を創設しようと考えたが、党内では賛否両論があった。このため大平は解散・総選挙で国民の支持を得て増税を実行しようと考え、9月17日に解散した。
ところが選挙が始まってからも党内では反対論が続出し、地元で「私は増税に反対だ」と演説する議員まで出てきた。このため大平は方針を変更し、9月末に「一般消費税を断念する」と発表したが、時すでに遅く、10月7日の投票では248議席と自民党は過半数を割った。これに追加公認を加えても258議席で、過半数をかろうじて上回った2議席減となり、非主流派からは大平の退陣を求める声が上がった。
しかし田中派の支持を得た大平は譲歩せず、11月6日に開かれた臨時国会では、首班指名に自民党から大平と福田の2人が立候補する前代未聞の事態となった。このとき野党が福田に投票すれば福田が選ばれる可能性もあったが、結果は大平138票、福田121票だった。これが40日抗争だが、派閥抗争はこれで終わらなかった。
続きは10月21日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで(初月無料)
著者は当時の大平首相のアドバイザーで、政治家の駆け引きを(カネの話を除いて)赤裸々に描いている。当時は主流派(大平・田中)と非主流派(福田・三木・中曽根)の対立があり、前年の総裁選で大平が田中の支持を得て福田を破った経緯をめぐって怨恨が残っていた。
当時は第2次石油危機の最中で、財政が逼迫し、新たな財源の必要に迫られていた。大平は財政を再建するために一般消費税を創設しようと考えたが、党内では賛否両論があった。このため大平は解散・総選挙で国民の支持を得て増税を実行しようと考え、9月17日に解散した。
ところが選挙が始まってからも党内では反対論が続出し、地元で「私は増税に反対だ」と演説する議員まで出てきた。このため大平は方針を変更し、9月末に「一般消費税を断念する」と発表したが、時すでに遅く、10月7日の投票では248議席と自民党は過半数を割った。これに追加公認を加えても258議席で、過半数をかろうじて上回った2議席減となり、非主流派からは大平の退陣を求める声が上がった。
しかし田中派の支持を得た大平は譲歩せず、11月6日に開かれた臨時国会では、首班指名に自民党から大平と福田の2人が立候補する前代未聞の事態となった。このとき野党が福田に投票すれば福田が選ばれる可能性もあったが、結果は大平138票、福田121票だった。これが40日抗争だが、派閥抗争はこれで終わらなかった。
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