選択的夫婦別姓は「古い自民党」をぶっ壊す小さな大問題

選択的夫婦別姓は、今度の自民党総裁選でようやく決着がつきそうだ。これは小さな問題だが、こんな自明の法改正が28年も店ざらしにされてきたことは、自民党の体質を考える上で興味深い問題である。



これはもともと政治的な争点だったわけではない。戦前の民法では長男が「戸主」として全財産を相続し、次三男にも女性にもまったく権利がなかったが、戦後改革でこの「家」制度は廃止された。だが夫婦同姓の規定が実質的に女性の男性への同化を強制しているので、これを廃止する改正案を、1996年に法制審議会が答申した。

民法750条は「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」と定めている。この「氏」は夫に合わせても妻に合わせてもいいので、法的には男女平等だが、別姓(正確には別氏)は認めていない。これが働く女性には不便なので、別姓も認めるように民法を改正することで法制審は満場一致した。

ところがこれに自民党右派が反発し、改正案が閣議決定に至らない異例の結果になった。この背景にいたのは神社本庁だった。彼らは「夫婦同姓の家制度は国体の根幹であり、これを崩すことは家族と国家を否定するものだ」と主張したのだ。当時の神道政治連盟の会長は橋本龍太郎首相だった。

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選択的夫婦別姓って何?

小泉進次郎さんが1年以内にやる「三つの改革」の一つとして、選択的夫婦別姓を認める民法・戸籍法の改正をあげました。

Q. 夫婦別姓って何ですか?

結婚したあとも夫婦が別の苗字(姓)を名乗ることです。たとえば衆議院議員の高市早苗さんの夫は、戸籍上は高市拓ですが、国会では山本拓です。

Q. それじゃ同姓か別姓かわからないですね?

日本の戸籍では夫婦同姓にしないといけないので、仕事でいつも使っている苗字や旧姓が使えないのです。それを戸籍でも別姓にできるようにするのが選択的夫婦別姓です。

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「カクレキリシタン」の隠れた歴史(アーカイブ記事)

カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容
日本は世界でもっともクリスチャンの少ない国である。その信徒数は、人口の1%を超えたことがない。私の父は洗礼を受けたクリスチャンだったので、私は小学校のころ日曜学校には行ったが、そのリアリティのなさにうんざりしてやめた。

その一つの原因は、日本に入ってきたのが16世紀に宗教改革で「近代化」した後だったことだろう。初期のキリスト教はローマ帝国の国教が各国の土着宗教と「習合」したもので、一貫した教義はなかった。クリスマスもイースターも、もとはゲルマン人の民俗信仰だった。

キリスト教をモデルとしたデュルケームやウェーバー以来の宗教社会学では、教義のない宗教などというものは「呪術」でしかないが、その意味では中世までのカトリック教会も呪術に近い。信徒はラテン語の聖書を読めず、聖職者の説教しか知らなかったからだ。それをドイツ語に訳して印刷したルターは「反逆者」だった。

これは日本人が仏教の教義を(僧侶以外は)知らないのと同じである。経文は葬式のとき漢文で読むだけで、誰もその意味は知らない。仏教は国家が庶民を統治するイデオロギー装置であり、大事なのは同じ宗派を近所の人も信じているという「空気」だった。

しかし日本にやってきたイエズス会の宣教師(カトリック)は、プロテスタントに対抗してその教義を伝えようとしたので、武士には信者ができたが、一般庶民には難解で受け入れられなかった。その例外が、九州に残ったカクレキリシタンである。

これは江戸時代に230年にわたって受け継がれ、今も長崎に残る庶民の信仰だが、17世紀初めに宣教師が殉教したあと口づてに伝えられたので、「オラショ」と呼ばれる祈りはラテン語がなまって意味不明になった。彼らの信仰は固く、摘発されて死罪になっても転ばなかったが、取り調べた役人は彼らが教義をほとんど知らないことに驚いたという。

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「増税ゼロ」で社会保障の赤字をチャラにするたった一つの方法

自民党総裁選に名乗りを上げた茂木敏充氏が「増税ゼロ」を公約して、話題を呼んでいる。その公約を読むと、「増税ゼロ」とは書いてあるが、その財源は防衛増税の中止などの非常識な話しか書いてない。



この「増税」には社会保険料は含まれていないと思われるが、今のままでは社会保障支出は今後15年で50兆円も増える。毎年3兆円以上のペースである。今の140兆円の支出のうち、社会保険料は80兆円しかない。残り60兆円の赤字を国費(消費税+国債)で埋めているが、増税ゼロでこの赤字をどうまかなうのか。



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正社員の過剰保護が「氷河期世代」を生んだ

日本的雇用慣行を打ち破れ: 働き方改革の進め方
河野太郎氏が問題提起して話題になっているが、日本の「雇用規制」は強くない。問題は解雇して訴訟になると、ほとんどの場合に会社が負けることだ。

たいていの訴訟は「不当解雇」の撤回を求め、会社は「正当な理由」を証明しないといけないからだ。その正当な理由は、1979年の整理解雇の4要件で決まり、事業をやめるときしか認められていない。

これは温情主義の労働省が高度成長期の正社員保護の方針を変えなかったからだ。1970年代の石油危機で失業が増えたが、それは一時的な調整であり、会社が雇用調整して時間を稼げば、そのうち余剰人員はなくなるというのが前提だった。事実、1980年代後半にはバブルで有効求人倍率も1.46倍になった。

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しかしバブル崩壊後の1990年代の大不況は高度成長期とは違い、失われた雇用は二度と戻らなかった。このとき中高年の正社員の雇用を守って新卒採用を極端に絞ったため有効求人倍率は0.46倍に下がり、これに対応して労働者派遣法の改正などの規制緩和が行なわれた。この10年以上にわたる「就職氷河期」で非正規労働者が激増したのだ。

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老人医療無料化を終わらせた「健保連の乱」(アーカイブ記事)

少子化対策の「支援金」に批判が集まっているが、こういう拠出金は1983年に老人保健法でできた老健拠出金から始まった。これは老人医療の無料化による国民健康保険の赤字を健保組合からの拠出金で埋めるものだが、これに対して健保組合の不払い運動が起こった。

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厚労省の資料

反乱はサンリオから始まった。1999年5月、サンリオ健保組合は老健拠出金の納付を拒否した。拠出金が前年度から4割も増え、組合財政の赤字転落が確実になったからだ。同健保組合は「拠出金は行政の無能を組合に転嫁し、財産権を侵害するものだ」として厚生省に不服審査請求を提出し、拠出金の半額を支払わなかった。

この審査請求は却下されたが、サンリオに呼応して全国1800の健保組合の加入する健康保険組合連合会(健保連)が、7月分の老健拠出金の支払いの一時凍結を決めた。この健保連の乱は政府に大きな衝撃を与え、滞っていた老健制度の改革が一挙に進んだ。続きを読む

社会保険料と所得税を一体化して「社会保障税」に

河野太郎氏が社会保険料の引き下げを提案して、大反響を呼んでいる。このポイントは現役世代の健康保険組合などから老人医療に仕送りされている「支援金」などの不透明な拠出金を廃止することだが、問題はその財源である。

図でもわかるように、健保組合や協会けんぽから国保に3.6兆円の前期調整額、後期高齢者に6.3兆円の後期支援金の合計9.9兆円が支出されている。サラリーマンの健康保険料のほぼ半分が、自分の親でもない高齢者の医療費に使われているのだ。


医療費の窓口負担を一律3割にし、高額療養費などを圧縮すれば3兆円ぐらい老人医療費が削減できるが、それでも支援金をなくすには7兆円の財源が必要になる。これを消費税でまかなうと3%の増税になるが、所得税を増税する手もある。

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日本でも原則は「解雇自由」である(アーカイブ記事)

日本経済の長期停滞の最大の原因が労働市場にあるとの認識は、最近多くの人に共有されるようになり、解雇規制を緩和すべきだという意見がようやく公に議論されるようになった。

しかし実は、法律上の解雇の制限という意味では、日本の解雇規制はそれほど厳格ではなく、OECDの基準でも平均よりややゆるやかである。民法では、契約自由の原則で一方の当事者が申し出れば雇用契約は終了するので、解雇は自由である。

労働基準法では「30日の予告」を定め、組合活動などによる不当解雇を禁止しているぐらいだが、労働契約法16条では解雇権濫用法理が明文化された。これがほぼ唯一の実定法による解雇権の制限である。

最大の問題は、判例で整理解雇が事実上、禁止されていることだ。特に整理解雇の4要件が労基法と同等の拘束力をもっているので、事業部門を閉鎖するまで解雇できない。

大企業の人事部はそれを知っているから、指名解雇はしないで「肩たたき」で希望退職させる。これは解雇ではなく自己都合退職なので解雇規制とは関係ないが、他社でつぶしのきく人から退職し、やめさせたい人は残ってしまう。続きを読む

「謎の大量死」は終わったが、その原因は何だったのか

ネット上ではいまだに「謎の大量死」という言葉が使われるが、状況はもう変わった。

今年6月の死亡数は117.6万人。昨年の3.6%増である。これは高齢化のトレンドで、特に大量死したわけではない(超過死亡数は独自集計)。

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啓蒙の弁証法(アーカイブ記事)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)気候変動問題は、ある意味でフランス革命以来の啓蒙思想の極北である。それは世界を(人間には変えられない)神の秩序と考えたキリスト教に代わって、人間が神になって世界を改造する思想である。

啓蒙的な合理主義は、神話のように世界の意味を説明するのではなく、テクノロジーで自然を改造して支配する。そこで重要なのは自然の支配から逃れることではなく、それを人間が支配するための有用な知識であり、世界のどこでも有効な普遍性である。

それは大きな成功を収め、今や啓蒙的な西欧圏とそれ以外の差は歴然たるものだ。それよりはるかに古い歴史と伝統をもつ中国も、論文引用数でアメリカと争うようになった。そして現代を人間が地球を改造した「人新世」と呼び、ついには大気の組成を変えて地球の生態系を救おうとするドン・キホーテ的な活動家も出てきた。

アドルノとホルクハイマーがこれを見たら哄笑するだろう。人間がテクノロジーで自然を改造できるという啓蒙思想こそ、20世紀前半に悲惨な世界大戦をまねいた人間中心主義だからである。それはかつての大戦のように、人類に取り返しのつかない惨禍をもたらすだろう。

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