人はいかにして社会主義者になり、それを卒業するのか

昭和史と私 (文春学藝ライブラリー 歴史 30)
「若いとき左翼でない人には心がない。年をとってからも左翼の人には頭がない」というのはチャーチルの言葉とされるが、出典は不詳である。もとはフランス革命についての言葉だという説もあり、かなり普遍的な現象なのだろう。

もう社会主義の時代は終わったとみんな思っているが、忘れたころにまた「脱成長のコミュニズム」などという精神的幼児が出てくるのをみると、なぜ社会主義があれほどの影響力をもったのかを考え直すことには意味がある。

林健太郎は晩年に東大総長や自民党の参議院議員などをつとめて保守派だと思われているが、1913年生まれだから、若いときは(多くのインテリと同じく)左翼だった。社会主義が労働運動から生まれたのはヨーロッパの話で、戦前の日本には労働運動と呼べるものはほとんどなかった。その支持者の多くは著者のようなインテリだった。

日本共産党(コミンテルン日本支部)もコアの党員は数十人で、政治的には何の力もなかったが、マルクス主義は社会科学の世界では大きな影響力があった。著者も一高の教授として唯物史観を教え、終戦直後まで共産主義に共感をもっていたという。その共感を失った原因は、マルクス主義への疑問ではなかった。

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小泉進次郎氏は「解雇規制」を誤解している

12日に自民党総裁選が告示されてから何度か共同記者会見や討論会が開かれたが、Xのトレンドのトップはずっと「解雇規制」だった。他の候補の話が所得倍増とか増税ゼロとか陳腐な話ばかりだったのに対して、小泉進次郎氏の掲げた解雇規制の見直しは新鮮なテーマだったからだろう。

ところが「解雇規制が労働市場改革の本丸だ」というのはいいのだが、そのあと何を言っているのかわからない。出馬会見(15:30~)でも話が混乱している。



解雇規制は、今まで何十年も議論されてきました。現在の解雇規制は、昭和の高度成長期に確立した裁判所の判例を労働法に明記したもので、大企業については解雇を容易に許さず、企業の中での配置転換を促進してきました

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裏切りを許さない「ハイコンテクスト」社会

日本宗教史 (岩波新書)
自民党総裁選では、小泉進次郎氏の打ち出した「解雇規制の見直し」が大きなハレーションを呼んでいる。これに対して(河野氏以外の)他の候補が全面否定なのは当然だろう。「クビを切る」ことは日本社会の最大のタブーだからである。

日本人の歴史意識の「古層」が『古事記』や『万葉集』にあるという丸山眞男の発想は、文献学的には成り立たない。『古事記』が編纂されたのは712年だが、仏教はその200年ぐらい前に日本に伝来しており、記紀神話には仏教説話の影響がみられる。

日本人の「最古層」は、仏教や漢字の入ってくる前の口頭伝承である。それは記録に残っていないが、民俗学の調査から推測はできる。そこでは人々が死ぬまで同じ村で一緒に暮らし、プライベートな情報まで含んだハイコンテクストの文脈的知識を共有する。その文脈を断ち切る解雇は村の秩序を破壊する裏切りなのだ。

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アゴラ経済塾「日本経済は新陳代謝できるか」

自民党総裁選では全候補者が「改革」を語り、日本経済をふたたび成長軌道に乗せるとか、所得を倍増させるとか威勢のいい話をしていますが、具体策には見るべきものがありません。その最大の原因は、日本経済がなぜ行き詰まったのかという原因を理解していないからです。



1990年からの「失われた35年」の中で、日本の実質成長率はG7最下位でした。その大きな原因は高齢化による労働人口の減少ですが、1人あたりでみても図のように実質賃金の成長率はOECDの最下位グループです。



かつて世界ナンバーワンともいわれた日本が、30年あまりでここまで衰退したのはなぜでしょうか。

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解雇の「金銭解決ルール」を立法化するとき

自民党総裁選が告示され、9人の候補が届け出た。その中でも最有力とされる小泉進次郎氏には、他の候補から意地悪な質問が集中した。

高市氏のいう「日本の解雇規制は弱い」というのは、改革したくない政治家がいつもいう話だが、これは今月の記事でも書いたように間違いである。



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解雇の「金銭解決」はなぜ挫折したのか

解雇規制を問い直す -- 金銭解決の制度設計
自民党総裁選で解雇規制が争点になっている。小泉進次郎氏のいう「解雇規制の見直し」は中身が曖昧だが、河野太郎氏は「解雇の金銭救済制度」と明言した。これは今まで20年以上にわたって議論されて行き詰まった問題であり、今ごろ総裁選の争点になったのは意外だった。

行き詰まった原因は複雑だが、本書によると2003年の労働基準法改正が挫折の始まりらしい。この時期には不良債権の清算にともなう倒産や失業が大量発生し、労働者派遣法の改正など非正社員の規制緩和で失業者を救済する改革が行なわれた。

それに対応して正社員の解雇についても労働基準法に立法化することが提案されたが、その最大の障害は「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして無効とする」という解雇権濫用法理が最高裁の判例で決まっており、それに対応する金銭解決の制度がないことだった。

これが労働政策審議会で議論され、①解雇権濫用法理を立法化すると同時に、②解雇無効となった場合の金銭解決制度を整備する予定だった。ところが①は労働基準法18条の2として2003年に立法化されたが、②の金銭解決の条件をめぐって労使が合意できず、立法化が見送られた。

2007年に労働契約法という新たな法律で契約ベースの労使関係を構築することになったが、このときも金銭解決の条件で労使が合意できず、労基法18条の2が労働契約法16条に移されただけに終わった。

本来は①不当解雇の範囲を明確化した上で②金銭で救済するはずだったのが、②なしで①だけが立法化された結果、当初の意図とは逆に、救済制度なしで解雇規制が強化されてしまった。その後も厚労省は何度も検討会や研究会を重ねたが、②はいまだに実現していない。そこには大きな見落としがあったのではないか。

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「小泉ジュニア首相」のための10の政策

もし小泉進次郎がフリードマンの『資本主義と自由』を読んだら2011年のマンガ『もし小泉進次郎がフリードマンの「資本主義と自由」を読んだら』で予想した「小泉ジュニア首相」のシナリオが、予想以上に早く実現するかもしれないので、この本でも紹介した『資本主義と自由』の政策を紹介しておこう。

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選択的夫婦別姓は「古い自民党」をぶっ壊す小さな大問題

選択的夫婦別姓は、今度の自民党総裁選でようやく決着がつきそうだ。これは小さな問題だが、こんな自明の法改正が28年も店ざらしにされてきたことは、自民党の体質を考える上で興味深い問題である。



これはもともと政治的な争点だったわけではない。戦前の民法では長男が「戸主」として全財産を相続し、次三男にも女性にもまったく権利がなかったが、戦後改革でこの「家」制度は廃止された。だが夫婦同姓の規定が実質的に女性の男性への同化を強制しているので、これを廃止する改正案を、1996年に法制審議会が答申した。

民法750条は「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」と定めている。この「氏」は夫に合わせても妻に合わせてもいいので、法的には男女平等だが、別姓(正確には別氏)は認めていない。これが働く女性には不便なので、別姓も認めるように民法を改正することで法制審は満場一致した。

ところがこれに自民党右派が反発し、改正案が閣議決定に至らない異例の結果になった。この背景にいたのは神社本庁だった。彼らは「夫婦同姓の家制度は国体の根幹であり、これを崩すことは家族と国家を否定するものだ」と主張したのだ。当時の神道政治連盟の会長は橋本龍太郎首相だった。

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選択的夫婦別姓って何?

小泉進次郎さんが1年以内にやる「三つの改革」の一つとして、選択的夫婦別姓を認める民法・戸籍法の改正をあげました。

Q. 夫婦別姓って何ですか?

結婚したあとも夫婦が別の苗字(姓)を名乗ることです。たとえば衆議院議員の高市早苗さんの夫は、戸籍上は高市拓ですが、国会では山本拓です。

Q. それじゃ同姓か別姓かわからないですね?

日本の戸籍では夫婦同姓にしないといけないので、仕事でいつも使っている苗字や旧姓が使えないのです。それを戸籍でも別姓にできるようにするのが選択的夫婦別姓です。

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「カクレキリシタン」の隠れた歴史(アーカイブ記事)

カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容
日本は世界でもっともクリスチャンの少ない国である。その信徒数は、人口の1%を超えたことがない。私の父は洗礼を受けたクリスチャンだったので、私は小学校のころ日曜学校には行ったが、そのリアリティのなさにうんざりしてやめた。

その一つの原因は、日本に入ってきたのが16世紀に宗教改革で「近代化」した後だったことだろう。初期のキリスト教はローマ帝国の国教が各国の土着宗教と「習合」したもので、一貫した教義はなかった。クリスマスもイースターも、もとはゲルマン人の民俗信仰だった。

キリスト教をモデルとしたデュルケームやウェーバー以来の宗教社会学では、教義のない宗教などというものは「呪術」でしかないが、その意味では中世までのカトリック教会も呪術に近い。信徒はラテン語の聖書を読めず、聖職者の説教しか知らなかったからだ。それをドイツ語に訳して印刷したルターは「反逆者」だった。

これは日本人が仏教の教義を(僧侶以外は)知らないのと同じである。経文は葬式のとき漢文で読むだけで、誰もその意味は知らない。仏教は国家が庶民を統治するイデオロギー装置であり、大事なのは同じ宗派を近所の人も信じているという「空気」だった。

しかし日本にやってきたイエズス会の宣教師(カトリック)は、プロテスタントに対抗してその教義を伝えようとしたので、武士には信者ができたが、一般庶民には難解で受け入れられなかった。その例外が、九州に残ったカクレキリシタンである。

これは江戸時代に230年にわたって受け継がれ、今も長崎に残る庶民の信仰だが、17世紀初めに宣教師が殉教したあと口づてに伝えられたので、「オラショ」と呼ばれる祈りはラテン語がなまって意味不明になった。彼らの信仰は固く、摘発されて死罪になっても転ばなかったが、取り調べた役人は彼らが教義をほとんど知らないことに驚いたという。

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