日本はなぜ開戦に踏み切ったか: 「両論併記」と「非決定」 (新潮選書)国会事故調の報告書は非科学的であるばかりでなく、社会科学的にも幼稚だ。問題が経済学でおなじみのregulatory captureだとすれば、対策は簡単である。監視機関の独立性を強化して徹底的に規制すればよい。「原子力規制庁」をめぐる議論も、もっぱらこういう規制強化論だが、私はほとんど効果がないと思う。

それは日本の組織の欠陥が、規制当局の命令を業者が実行しないという(経済学の想定する)プリンシパル・エージェント問題にはないからだ。サラリーマンならよく知っているように、日本の大企業の意思決定の特徴は、小さな問題から先に決め、大きな問題を先送りすることだ。本書は、これを両論併記非決定という言葉で要約している。

日本の組織には最終決定権者がいないため、みんなの合意が得やすい小さな問題については何回も打ち合わせして入念に決めるが、その前提となる大きな問題は意見がわかれるので、事務局が両論併記した玉虫色の素案をつくり、最終決定を避ける。福島第一原発の津波対策についても、東電は「しない」という結論を出したわけではなく、報告書もいうように「津波の確率論的安全評価が技術的に不確実であるという理由で対策の検討を先延ばしにしていた」のである。

本書は太平洋戦争の開戦までの過程を詳細に分析しているが、印象的なのは最初から最後まで対米戦争の目的がわからないことだ。最初に対米開戦論が陸軍から出たのは、1941年7月に南部仏印進駐に対してアメリカが資産凍結などの制裁を出したことがきっかけだった。仏印(ベトナム)や蘭印(インドネシア)の石油資源が日中戦争の継続に必要だったからである。

今からみると、日中戦争の物資調達のためにアメリカと戦争するなんて本末転倒もいいところだが、陸軍は「自存自衛」のために対米報復するという案を出し、御前会議では両論併記の「帝国国策遂行方針」が決まる。このあとも正式には結論を出さないまま、次第に開戦論に軸足を置く「国策」が何度も策定される。海軍は「3年目以降は責任がもてない」と抵抗したが、近衛首相は陸海軍の対立を調停できないまま内閣を投げ出した。東條首相になって開戦の方針が決まったが、東條は開戦の夜に首相公邸で泣いた。

著者もいうように、詳細にみてもいつ誰が開戦を決めたのかは不明で、「これでよく開戦の意思決定ができたものだと、逆の意味で感心せざるをえない」(p.212)。御前会議の出席者の関心事は、組織の中で自分がいかに生き残るかで、「国策」の流れから取り残されることは避けなければならなかった。対米戦争に勝算がないことは誰もが知っていたが、3年目以降は「わからない」という海軍の曖昧な表現が、やり方次第では勝てるかもしれないという楽観論を生んだ。

このように御前会議のメンバーは自分の組織内リスクを避けるために成り行きにまかせ、結果的には国が滅びるリスクを取ってしまった。対米戦争の目的は何で、その達成のためにどういうコストが必要かという検討は御前会議では行なわれなかった。開戦は、誰も望まなかった事故のようなものだった。日本の組織は国会事故調のいうように「集団主義」で決めるのではなく、このように集団にただ乗りする個人の非決定の結果、問題を先送りして破局をまねくのだ。

こういう事態を避けるために必要なのは、監督機関の組織いじりではなく、誰が何を決めたかを個人名で公表し、その結果については官民ともに(異動後も)個人に責任をとらせることだ。この点で、事故調の報告書で当時の担当者の名前が明記されていないのはおかしい。「責任追及より真相解明のほうが重要だ」というのが政府事故調の方針なら、国会事故調は責任追及に徹してもよかったのではないか。