本書は30代の法律家4人の共著で、本としての完成度は高くないし、内容も常識的な話が多い。しかし若い法律家に、このように法律や裁判を経済合理性の観点から批判する(いい意味での)常識をわきまえた人々が出てきたことは、日本の法曹界にも少し希望を抱かせる。

特に第1章で、解雇についての判例を「合成の誤謬」という経済学用語で説明している論理は、当ブログの記事とそっくりだが、重要な問題なのであらためて紹介しておこう。これは東洋酸素事件の東京高裁判決(1979)で示された、次のような整理解雇の要件である:
  1. 事業の閉鎖:事業部門を閉鎖することが企業の合理的運営上やむを得ない場合であること
  2. 解雇しかない:従業員を他の事業部門の同一又は類似職種に充当する余地がないこと
  3. 手続きの公平:具体的な解雇対象者の選定が客観的、合理的な基準に基づくものであること
これに労働組合との協議を加えて「4要件」とする場合が多いが、労使協議は原判決では不可欠の要件とはしていない。しかし、その後の労働事件では、この4要件が踏襲され、労働基準法で認められている企業の解雇権が、司法的に非常にきびしく制限されることになった。その結果、派遣労働者や請負契約といった変則的な労働形態が増えたのである。

しかもこうした手厚い労働者保護が正社員以外にも適用されるのかといえば、日本郵便逓送事件のように「長期雇用労働者と短期雇用労働者では雇用形態が異なり、賃金制度も異なることを不合理とはいえない」として、非正規労働者を差別する判決が出て、これが踏襲されている。このように歪んだ労働市場を作り出し、大量のフリーターやニートを生んだ責任は、第一義的には家父長的な労働行政にあるが、目先の事後の正義にもとづいて正社員だけを保護してきた司法の責任も重い、と本書は指摘する。

これは当ブログでも何度も指摘してきたことだが、法律家自身も、同じような疑問をもち始めているのは心強い。特に労働市場の流動化による生産性の向上が日本経済の最大の課題となっている今も、30年前の解雇権濫用法理が踏襲されているのはおかしい。本書も最後に提言するように、裁判官もビジネスの現場を見て世の中の常識を身につけるとともに、判例に耐用年数を導入し、たとえば10年たったら無効とするような制度(あるいは慣例)をつくってもいいのではないか。

追記:今週(あす発売)の週刊ダイヤモンドも「裁判がオカシイ!」という特集を組んでいておもしろい。