Economics

何もすることのない老人たち

きのうの記事で少し定年制についてふれたので、補足しておこう。私がサラリーマンをやめた一つの原因は、日本のサラリーマンのほとんどは年をとると何もすることがなくなるからだ。取締役(NHKでは理事)になるごく一部の人は超多忙になるが、それ以外は50過ぎると極端に暇になる。先週、内示されたNHKの人事異動では、私の同期の出世頭は東京のセンター長だが、あとはみんな地方の局長や関連団体の窓際ポストなどのノンワーキング・リッチだ。

マスコミ志望の学生は、NHKというと東京の放送センターでかっこいい仕事をすると思っているだろうが、ディレクター(PD)の勤務年数のほぼ半分が地方局、アナウンサーは5/6が地方勤務だ。特に50過ぎると地方から地方への転勤が多くなり、管理職の半分以上は単身赴任である。定年は60歳だが、このごろは関連団体の合理化で天下りポストが減り、東京の局長経験者以上しかポストはないようだ。それ以外の人は専門知識もないので再就職もできず、平均寿命の80歳まで何もすることがない。

アメリカなど定年制を年齢差別として禁止している国も多いが、日本では定年は廃止できない。年功賃金では、労働者は若いとき会社に貯金して年とってからそれを払い戻すので、Lazearが指摘したように、貯金(S)とその払い戻し(P)が等しくなったところ(60歳)で解雇する制度が定年なのだ。
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60歳といえば、まだ十分働ける年齢なのに、それから20年もブラブラして過ごすのは本人も不幸だし、労働人口の減る日本経済にも損失だ。定年を廃止するためには、年功賃金を廃止して同一労働・同一賃金にし、生産性の低い労働者は年齢にかかわらず解雇できるようにするしかない。働ける老人を活用し、少子化社会に対応するためにも、雇用規制の緩和は重要なテーマである。

発散する財政赤字

プライマリーバランス(PB)を黒字にするには、消費税を2019年までに12%に引き上げる必要があるという「骨太の方針」の原案が論議を呼んでいるが、これでも大甘の見通しだというのがIMFの見立てだ。Economistによれば、図のように日本の政府債務は主要国で群を抜いて最悪で、保有金融資産を差し引いたネット債務でもイタリアと並ぶ。

2014年には債務はGDPの2.3倍以上にふくらむので、財政赤字を維持可能にするには、少なくともPBの赤字を半減させる必要があるというのがIMFの予測だ。この控えめな目標を実現するだけでも、GDP比14.3%の増税が必要になる。これを消費税(税率1%でGDP比0.5%)だけでまかなうとすると、約29%増税して消費税率を34%にしなければならない。

それは無理なので、当面の歳入拡大策としては、Economistもいうように租税特別措置を廃止して課税ベースを広げるとともに、定年制を廃止して老人に長く働いてもらうことぐらいしかない。日本の場合は、納税者番号などによる徴税業務の合理化も必要だが、巨額の赤字には焼け石に水だ。PB赤字が続くかぎり財政赤字の発散は続くので、長期的には次のいずれかの「外科手術」が不可避である:
  1. PBの黒字化:消費税を60%以上に増税する
  2. 歳出の30%削減:年金給付の削減や特殊法人などの全廃
  3. 実質債務の削減:ハイパーインフレあるいは債務不履行の宣言
いずれも政治的にはきわめて困難なので、内閣の3つや4つはつぶれるだろう。たぶん最終的にはどの政策もとれず、長期金利が上昇して政府債務が逆に増え、「アルゼンチン化」して3に近い結果になるのではないか。幸か不幸か、日本人の目を覚ます破局的な事態は遠からずやってきそうだ。

追記:Inoue氏の指摘で数字を訂正した。失礼。

経済学者のバイアス

昔、経済学史のワークショップに出たことがある。学説の解説ばかりで退屈したので「経済学はself-interestを扱うのに、なぜ経済学者だけは私利私欲なしに真理を探究するすることになっているのか。実際には、みんな学界で出世するのが目的じゃないのか」と質問したら発表者が絶句してしまい、根岸隆氏が「おっしゃる通り経済学者もself-interestでやってるんだが、それを論じると社会学になってしまう」と助け船を出した。

昨今の経済危機について経済学者が何もいえないのも、こうしたバイアスが影響している、とSteven Levittは書いている:
In my opinion, the fundamental problem is this: from a modern academic perspective, the sorts of skills that accompany having a good working knowledge of the macroeconomy are not easily measured by, and are not rewarded in, the current incentive schemes for economists.

The single easiest way to make a mark in a modern macro paper is to solve a problem that is really, really hard mathematically. Even if it is not that relevant to anything, it is seen as a sign that the author has “impressive skills,” which is enough to get a job - and even tenure sometimes - at top universities.
画期的な経済学の業績には、数学的に難解なものはあまりない。ハイエクやコースの論文には数式は1本もないし、フリードマンの数式は高校生でも読める。むしろそういう論文で本質的な問題を解くほうが、数式だらけの論文を書くよりはるかにむずかしい。だから普通の経済学者にとってはそういう厄介な(しかし重要な)問題を避け、計測可能な数学的スキルに特化することが、アカデミックに出世する上では合理的だ。これは企業が「成果主義」をとると、計測しやすい営業部門などに業務が片寄るバイアスと同じだ。

特にマクロ経済学では、Levittもいうように最近はmicrofoundationがないと論文が受理されないので、経済全体の動きを個人の条件つき最適化行動の集計として説明しなければならない。これは雲の動きを量子力学で予測しろというようなもので、「もののたとえ」以上のものではありえない。だからといってマクロ経済学は必要ないということにはならないが、彼らのバイアスを知っておくことは有益だろう。特に官僚は数字に弱いので、いい加減な「マクロモデル」を見せられると信じてしまう傾向があり、これがいつまでも「どマクロ政策」が横行する一因ではないか。

ハイパーインフレはブラック・スワンか

WSJによれば、ナシーム・タレブが顧問をつとめるヘッジファンドUniversaが、Black Swan Protection Protocol-Inflationというファンドを立ち上げた。これはアメリカ経済がハイパーインフレになった場合にもうかるファンドだ。Universaは、リーマン破綻の前にアメリカ株を空売りして100%の利益を上げたという。

たしかに、これはギャンブルの対象としてはおもしろい。テイラーメルツァーはpro、クルーグマンはconだ。理論的には、何かの理由で多くの投資家がインフレ期待(政府への不信)をもてばハイパーインフレが起こるが、最終的にFRBがインフレを制御できるという信任があるかぎりインフレ期待は起こらない。したがって問題は、ハイパーインフレが制御可能かどうかだ。テイラーもメルツァーも制御不可能になるおそれがあると警告しているが、今のところ市場にそういう懸念はない。ただ常識外のことが起こるのがブラック・スワンだから、どうなるかはわからない。FRBのやっているのは、ヘッジファンドに負けないきわどい賭けである。

これは日本にとっても他人事ではなく、アメリカでハイパーインフレが起きたらドルは暴落し、輸出産業はまた大打撃をこうむるだろう。私は・・・よくわからないが、少なくとも今、ドル建ての資産を買わないほうがいいことは確かなようだ。Black Swanファンドの最低購入額は2500万ドルだから、私には関係ないけど。

朝日新聞の「財界悪玉論」

けさの朝日新聞の1面トップに「CO2目標 縛る産業界」という記事が出ている(ウェブで公開されているのは一部)。政府の温室効果ガス削減中期目標についての企画だが、最近まれにみるひどい記事だ。「多くの生物が絶滅し、干ばつや洪水が広がり、食糧不足に陥る」といったセンセーショナルな話もさることながら、最大の問題はこの見出しにみられるように財界を槍玉にあげる古いレトリックだ。

この小林敦司と石井徹という編集委員は、例によって「欧米は積極的に排出削減枠を設定しているのに日本は・・・」と書くが、欧州がいまだに1990年比で大幅な削減幅を提案しているのは、東欧の編入によってCO2の排出量が大幅に上がった時点を政治的に利用するもので、アメリカが大幅な削減量を出したのは、今まで何もしてないのだから当たり前だ。同様に国内で家庭の削減量が多いのも、今まで何もしてないので、限界削減コストが低いからだ。

当ブログで何度も書いているように、問題は温室効果ガス排出量を最小化することではなく、削減コストとその便益のトレードオフの中で社会的に最善の組み合わせを見つけることだ。したがって絶対的基準を決めて一律に排出を規制するのではなく、削減コストの低い(削減しやすい)部門が多く削減し、削減コストの大きい部門がその削減枠を買うのが排出権取引の考え方である。そんな初歩的な論理も理解してない記者が、目標の数値だけを比べて「産業界の削減量は少なすぎる」などと批判するのはあきれた話だ。彼らは業界が経産省に圧力をかけて削減枠を減らした例をあげて、こうしめくくる:
産業界はまず自分たちの生産量や省エネ努力で削減できる量を固め、それを政府の意思決定に反映させる。[・・・]産業界はすでに防波堤を築きつつある。日本経団連の関係者はこう話した。「決まった前提を変えるようなことはさせない。こちらにも手練手管がある」
最後のいかにも悪意に満ちた匿名コメントが笑いを誘うが、要するに財界=悪玉が役所を使って負担を家庭=被害者に押しつけているという図式だ。これは昔の「大資本が労働者を搾取する」という階級闘争史観の偽装だが、最終的に環境保護のコストを負担するのは企業ではない。誰が負担するかは複雑な議論が必要だが、間違いないのはコストを負担するのは人間だということである。

企業が過大な温室効果ガス削減を義務づけられると、そのコストは価格に転嫁されて消費者の負担になるか、雇用の削減によって労働者の負担になるか、利潤が減って株主の負担になる。マクロ的には成長率が低下して、全国民がコストを負担する。斉藤環境相は削減枠についての財界の「90年比4%増」という主張を「世界の笑いもの」と罵倒したが、それさえ本気で実現しようと思えば、ガソリン代の大幅値上げや店舗の夜間営業禁止などの統制経済が必要になる。

民主党などが主張する最大限の「90年比25%減」(2005年比30%減)をとった場合には、その直接コストだけでGDPは1%以上低下する。排出権取引が導入されたら、現行の枠組でも家計のエネルギー支出は低所得層で11%増えるという試算もある。他方、世論調査によれば国民が負担してもいいと思う環境コストは、「月1000円以下」が60%以上を占める。

このように資源配分の問題を階級対立にすりかえ、相手を悪玉に仕立て上げて正義の味方の顔をするのが万年野党の古い手口だ。社会的コストを考えるべきだという意見には「財界寄りだ」といったレッテルを貼って利害対立をあおり、合理的に解決できる問題を政治的なゼロサムゲームにしてしまう。きのうのシンポジウムでも、多くの参加者から雇用問題について「弱者」を英雄に仕立てるメディアの情緒的な報道を批判する声が出た。

自省をこめていうと、報道の現場にいると事実をもれなくフォローしなければならないというプレッシャーが強い一方、理論は専門家のコメントにまかせればいいので自前で勉強しない。しかしすべての事実は理論負荷的なので、特に環境のような経済問題について、経済学の初歩も理解しないで直感でものをいうのは間違いのもとだ。それによって恥をかくのは小林氏や石井氏ではなく、朝日新聞である。

創造的破壊の季節


「不況になると起業も減る」という話があるが、Economist誌は「不況のときこそ起業のチャンスだ」と説いている。

たしかに外部からの資金調達はむずかしくなるが、アメリカのベンチャーの80~90%は自己資金と友人からの借り入れで起業している。平均的な起業資金は7万8000ドルなので、好不況の影響はそれほど大きくない。それに不況ときは、見込みのない企業をやめて会社を起こす人が増え、彼らの退職金がその資金になる。昨年は不況にもかかわらず、全米で53万の企業が生まれた。不況のときできた会社は、慎重にビジネスプランを立てるため、好況のときに比べて生き残る確率が高い。マイクロソフトもアップルも、不況のさなかに起業した会社である。

アメリカは労働者をもっともクビにしやすい国だが、もっとも雇いやすい国でもある。2007年にアメリカの失業率は4.6%で、欧州平均の7.9%よりはるかに低く、アメリカ人の平均的な失業期間は4ヶ月未満で、欧州の15ヶ月よりはるかに短い。不況のときこそ役所がよけいな世話を焼かないで、資本主義のダイナミズムを生かすことが回復の最短コースである。

クルーグマン、リフレ政策を否定する

クルーグマンが、今度は「いくら通貨を供給してもインフレにはならない」と断固として主張している。
So is there any reason to think that inflation is coming? Some economists have argued for moderate inflation as a deliberate policy, as a way to encourage lending and reduce private debt burdens. I'm sympathetic to these arguments and made a similar case for Japan in the 1990s. But the case for inflation never made headway with Japanese policy makers then, and there’s no sign it’s getting traction with U.S. policy makers now.
ここで彼は、自分が1998年の論文で主張したリフレ論を明確に否定している。現在のFRBの非伝統的な金融政策はリフレ政策ではなく、長期金利の上昇を抑える政策なのだ。君子過ちては改めるに憚ることなかれだが、ハシゴをはずされたどこかの国の自称経済学者は、今度はどう言い逃れするのだろうか。

バーナンキの懐疑主義

先週、ボストンカレッジの卒業式で行なわれたバーナンキの演説が話題をよんでいる。彼は「きょうは金融政策については何も話さない」と前置きして、次のように語る(Murray Hill Journal訳):
天気予報がそうであるように、経済予測というものも、極めて複雑なシステムやランダムに発生するショックと対峙せねばならず、我々が持っているデータや理解は常に不完全であると思い知らされる。見方によっては経済予測は天気予報よりも難しいかもしれない。なぜなら、経済というものは物理学の法則にしたがって行動する分子の集合体ではなく、おのおのが未来を考えおのおのが独自の予測に影響されて行動を起こす人間の集合体であるからだ。
人間の行動が、脳という地球上でもっとも複雑なシステムによって決められる以上、その複合である経済の動きが単純な関数関係として表現できるはずがない。そう表現しないと分析できないことは確かだが、脳をすりつぶして成分を分析しても何もわからないように、見かけ上の定量的な関係は本質的な問題を隠してしまう。Daily Capitalistも指摘するように、これは1930年代にハイエクやミーゼスがケインズを批判した点だった。バーナンキはこう続ける:
何が起こるかをコントロールできないというのは、あきらめや宿命論の根拠になるかもしれないが、私はまったく違う教訓を引き出すようおすすめする。あなたがたが直面する困難やチャンスをコントロールできる範囲は限られているが、人生が与えたチャンスを(個人的あるいは職業的に)活用できるように心の準備をすることは自分でコントロールできる。
「新自由主義が終わってケインズが復活した」といった素人談義とは逆に、主流派の経済学者がオーストリア学派の懐疑主義をまじめに受け取りはじめている。今回の危機をもたらした一つの原因は、金融技術によってすべてのリスクが管理できるとか、金融政策で経済は完璧にコントロールできるという"pretence of knowledge"だった。金融工学や経済学の予測は不完全だということを前提にして、バーナンキもいうように「予期できない事態に対して心の準備をする」制度設計を考えなければならないのだろう。

経済危機と教科書

今回の危機を受けて、経済学の初等教科書は書き換えられるべきだろうか。Mankiwによれば、基本的な部分は変わらないが、いくつか修正が必要だという。
  • 金融機関の役割:普通の入門書では金融システムはほとんど説明しないが、今回の事件でその重要性がわかった。それはガードマンみたいなもので、うまく機能しているときは誰も気にしないが、機能しないと大変なことになる。
  • レバレッジの効果:資金を株式で調達するか負債で調達するかは初等教科書ではあまり気にしないが、実務的にはまったく違う。それは平時には資本効率を高めるが、有事には危機を拡大する。
  • 金融政策の限界:不況になったら金融を緩和すればいいというのが教科書的な答だが、名目金利がゼロになったらどうすればいいのかはわからない。非伝統的な金融政策の効果も、まだ不明だ。
  • 予測の失敗:経済学者が今回の危機を予測できなかったことは事実だが、それは多くを望みすぎだろう。医学が発達しても、豚インフルエンザを予測することはできなかった。経済学は水晶玉ではなく、経済現象を理解するツールにすぎない。
教科書も読まないで経済学をバカにする政治家には困ったものだが、経済学で不況が一挙に解決するかのようなリフレ派の主張も夜郎自大だ。経済問題のうち経済学で理解できるのは半分ぐらいで、そのうち経済政策で解決できるのは半分、つまり経済学は経済問題の1/4ぐらいしか解決できないというのが小宮隆太郎氏の意見だが、私もそんなものだと思う。

「安心・安全」はタダではない

今週の経済財政諮問会議で配布された民間議員の提言は、これまでの成長重視路線から「安心保障政策」へと大きく舵を切っている。国民背番号(安心保障番号)や負の所得税(給付つき税額控除)の提案は注目されるが、全体として所得再分配の話ばかりで「活力との両立」に配慮された形跡はない。

安心・安全な社会にしようという話に反対する人はいないが、安心はタダではない。すべての失業者を安心させるのは、ある意味では簡単だ。在職中の賃金と同じ失業手当を、政府がすべての失業者に永遠に支給すればよい。これが問題の解決にならないことは明白だろう。重要なのは安心を最大化することではなく、そのメリットとコストのトレードオフの中から何を選ぶかという意思決定である。

「非正規等の失業者が経済危機の荒波を最も受けている」ことは事実だが、彼らの状況はこの提言にいう「生活支援給付」によっては解決しない。新卒で一括採用し、そこで失敗した労働者には一生、正社員になる道が閉ざされてしまう閉鎖的な労働市場を変えないかぎり、失業手当や生活保護の増額はバラマキにしかならない。

この提言で言及している「ジョブカード」も、こうした問題を改善する第一歩としては評価できるが、参加企業が少ないため普及していない。企業が労働者の転職に有利な情報を提供すると、彼の「裏切り」の確率が高くなるからだ。日本の企業は転職のリスクを最大化することによって労働者を拘束するタコ部屋構造になっているので、そのリスクを下げる情報を提供する企業は、よほどのお人好しである。

私が「終身雇用を廃止しろと主張している」などというばかげたコメントが多いが、すべての労働者に終身雇用を保障できれば理想的だ。しかし残念ながら資本主義はきわめて不安定なシステムなので、すべての人に絶対安全を保障することはできない。たとえば中高年のノンワーキング・リッチに安心を保障すると、そのコストは若年層のワーキング・プアにしわ寄せされるのだ。ところが日本では、この社会的コストが目に見えないので、安全はタダだと思い込み、日本的雇用慣行を美化する人が実に多い。たとえば中谷巌氏は、こうのべる:
「改革」は必要だが、それはなんでも市場に任せておけばうまくいくといった新自由主義的な発想に基づく「改革」ではなく、日本のよき文化的伝統や社会の温かさ、「安心・安全」社会を維持し、それらにさらに磨きをかけることができるような、日本人が「幸せ」になれる「改革」こそ必要であると考えたわけである。
彼は安心・安全が「日本のよき文化的伝統」だと本気で思っているのだろうか。「日本的システム」と称されるものが、戦時体制や戦後の高度成長期に形成されたものだという共同研究に彼も参加したはずだが、もう忘れたのだろうか。終身雇用は日本の「文化的伝統」ではなく、高度成長期の大企業でのみ可能だった特殊な慣行にすぎない。中谷氏が強調する「格差」の原因は「新自由主義」ではなく、90年代に終身雇用が維持できなくなった状況で、中高年社員の安心のコストを若年層に転嫁した結果なのだ。

金融工学の教科書の最初に書いてあるように、市場でリスクをゼロにすることは可能でも必要でもない。必要なのは、リスクを社会全体に分散し、すべての人がリスクとリターンの望ましい配分を実現することだ。そのために必要なのは、生産要素を効率的に配分する柔軟な労働市場と資本市場である。規制を撤廃しても、長期雇用は残る。欧米企業でも、幹部社員は長期雇用である。それを超えて政府が安心を強制するとリスクの配分がゆがみ、現在のような悲劇が起こるのだ。

昨今のインフルエンザをめぐる過剰反応や薬のネット販売の規制など、社会全体が「安心・安全」を理由にして過剰規制の方向に流れ、既得権を護持する動きが強まっている。こういうなかで諮問会議がそれに迎合し、活力を無視して安心だけを強調し、日本経済を「リスク最小・リターン最小」の特異解にミスリードすると、それによる長期停滞のコストは国民全体が負担する結果になる。

こうした考え方は経済学者の常識であり、諮問会議のまとめ役である吉川洋氏がそれを知らないはずはない(NIRAの提言をまとめたのは彼の同僚だ)。ケインズ派だった吉川氏は、小泉内閣では構造改革派に転向したが、麻生内閣ではバラマキ路線に先祖返りしたのだろうか。



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