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心をつくる

経済学の依拠している功利主義は、独立した<私>がある財から得る<効用>を最大化すると想定しているが、このような素朴唯物論は心理学でも脳科学でも否定されている。本書もいうように、そもそも私という存在が無数のニューロンの刺激を合成した錯覚であり、それが外部の物体を直接に知覚することもありえない。脳はまず外界のモデルをつくり、その予測を経験によって修正しながら知覚するのだ。

こうした知覚が意味として成立するには、他人との相互作用によってモデルを共有する必要があり、認識は本源的に相互主観的だ――こうした認識論は100年前にフッサールが内省によって導いたものだが、最近の脳科学はそれを裏づけている。フッサールが地平と呼んだものが、脳内のモデルに対応している。こうした相互主観的な認識の成立する過程では、他人の気持ちを感じるミラーニューロンが重要な役割を果たす。

もう一つ重要な発見は、こうした知覚が身体化されていることだ。脳内にはホムンクルスと呼ばれる身体の地図があり、知覚は身体と対応している。デカルト以来の心身二元論は、脳には存在しない。メルロ=ポンティのいったように、身体が知覚を規定し、認識は行動によって条件づけられているのだ。

意味が形成される過程も、対象に表現が対応するといった記号論的なものではなく、コミュニケーションの中で個人のモデルの類似点や相違点を見つけながら、再帰的にモデルを修正する「言語ゲーム」によって行なわれる。これもウィトゲンシュタインが提唱したことだ。本書はこうした哲学や認知科学の議論を参照しているわけではないが、結果的に20世紀後半の「認知論的転回」を実証している。

ニューロンの変化がそのまま経済行動に反映すると想定する「ニューロエコノミックス」の素朴唯物論は、あまり意味のある成果を生んだとはいえない。むしろ脳内でどういうモデル(フレーム)が形成されるかを見たほうがいいのではないか。

経済危機は9つの顔を持つ

本書は日経ビジネスオンラインの連載をまとめたもので、テーマは経済危機後の世界と日本を考えるものだ。その批判のターゲットは池尾・池田本でも提唱した「内需拡大」だが、内容を正確に理解しないで、池尾さんのいう「藁人形」論法になっている。今年の経済財政白書も「成長を維持するには内需だけではだめで、輸出も重要だ」と書いているが、それは自明の理である。われわれは輸出の伸びには限界があり、製造業だけの「片肺飛行」では今回のようなリスクがあるので、国内型のサービス業の効率を上げて雇用を創造すべきだ、といっているだけだ。

ところが著者は、これを「内需をリーディング産業にしろ」とか「ものづくりは必要ない」という主張と取り違え、黒田東彦氏には「日本の輸出は世界経済に迷惑をかけていないので、今のままでいい」といわせ、藤本隆宏氏には「トヨタのものづくりは健在だ」といわせている。全体としては、日本の産業構造は今後も自動車や電機などの輸出産業が中核で、医療や介護などの内需産業は成長には貢献しない、という話になっている。

そうだろうか。自動車を除く工業製品は、ほとんど水平分業に転換しており、いくら要素技術の「技」を磨いても、収益の大部分はアーキテクチャをつくった欧米企業に持って行かれ、コモディタイズした工業製品は新興国との競争に負ける。その典型が、要素技術は世界一でありながら、端末のシェアは国内8社あわせて世界の1割にも満たない携帯電話だ。パソコンもルータも、IT産業は壊滅状態で、一度こうなると挽回は不可能に近い。自動車も、中国などではモジュール化が始まっている。

サービス業が内需に限られるわけでもない。通信サービスはグローバル化しており、グーグルのような情報サービスもグローバル産業だ。これまで内需型とみられてきた流通業もグローバル化し、ウォルマートやGAPも国際展開をはかっている。小売業は規制に守られて効率が低いので、ユニクロのような新企業がグローバル展開するのが理想だ。もうグローバル化=輸出産業=製造業という図式は成り立たないのだ。その意味では「内需拡大」という表現もミスリーディングで、「サービス業の効率化」といったほうがいいかもしれない。

日本の潜在成長率が低下した根本的な原因は、こうしたデジタル革命による産業構造の転換に対応できず、戦後の一時期に一部の製造業でたまたま成功した「すり合わせ」の成功体験にこだわってアーキテクチャ競争に敗れ、リーディング産業を失ったことにある。池尾さんも私も福祉や医療がリーディング産業になるとは思っていないが、雇用吸収力のあるのはそれぐらいしかない。G7諸国で最低になった労働生産性を、労働移動によってせめて平均ぐらいに戻そうというのが、われわれの慎ましい目標なのである。

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技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか

最近、IT業界で流行するバズワードはオープン・イノベーションだ。先日あるシンポジウムで、3人のITゼネコンの取締役が講演し、そのプレゼンテーションの最後のスライドがすべて「オープン・イノベーション」だったのには唖然とした。ひどいのは、役所の公的資金注入までオープン・イノベーションと自称している。

著者は、この言葉は使う人ごとに違う意味で都合よく使われ、ほとんど無定義語になっていると批判する。これはチェスブロウの2003年の本のタイトルだが、もともとかなり曖昧な概念だった。オープンの意味が「技術をすべて公開しろ」という意味ならナンセンスだし、「必要なものはオープンにしろ」という意味なら自明だ。何をオープンにして何をクローズドにするかという基準なしに流行語を使っても、戦略として意味をなさない。

本書のいささかベタなタイトルの答は、「いくら要素技術が優秀でもプラットフォームを取られたら負ける」というものだ。インテルにせよマイクロソフトにせよアップルにせよ、ゲームのルールを自分に都合よくつくった者が勝つのは当たり前で、そのルールのもとでいくらまじめに技術開発しても、iPodの売り上げの半分はアップルが取ってしまう。

特にアメリカ企業の戦略は、得意分野のソフトウェアに特化し、苦手な「ものづくり」を新興国にアウトソースして水平分業に持ち込むのが定石だ。これは新興国と利害が一致するので、日本は両者の挟撃を受けて不利な立場に立たされている。水平分業が最適だとは限らないが、「すり合わせの適した製品もある」などといっても始まらない。少なくとも情報関連産業では水平分業化の流れは変わらないので、日本もものづくりにこだわらないプラットフォーム戦略を考える必要がある。

前にも書いたように、イノベーションの本質はフレーミングだから、プラットフォームをつくった者が勝つのは当然だ。それは要素技術に分解できない「ゲシュタルト」としてリーダーが構想するもので、各部署のコンセンサスではできない。そのとき最大限にオープンに見せながら、コアの部分は特許や著作権で守るのが賢明な戦略である。「DRMをやめよう」といいながらFairplayを外部にライセンスしないスティーブ・ジョブズなどは、こうした「見せかけオープン戦略」の代表だろう。そういう狡猾なリーダーが、日本にも必要なのだ。


オバマのグリーン・ニューディール

長期的な政策なしにバラマキを競っている日本の与野党に比べて、オバマ政権は10年ぐらい先をにらんだ国家戦略を着々と進めている。日本では「グリーン・ニューディール」という名前から、環境政策ばかりに関心が集まっているが、本書もいうようにその本当のねらいはエネルギー戦略である。特に中東の石油への依存度を減らすエネルギー安全保障と、産業競争力の回復という要因が大きい。

こうした戦略のコアになるのが、スマート・グリッドと呼ばれる次世代電力網である。これは太陽光や風力などの自家発電を電力網に取り込むというのが表向きの理由だが、本当のねらいはボロボロになった電力網を更新して情報ネットワークと一体化することにある。グーグルやIBMがこれに力を入れているのも、電力網のグローバルな標準化によって、かつてのインターネットのような革命的な変化が起こる可能性があるからだ。

もう一つ、ガソリン・エンジンで壊滅したアメリカの自動車産業を、プラグイン・ハイブリッド電気自動車によって立ち直らせようというねらいもある。電気自動車は部品がモジュール化されて数百になるので、アメリカの得意とするグローバル水平分業に持ち込みやすい。これは電力網から充電するので、石油を電力に変えてエネルギー自給率を高めるねらいもある。アメリカの発電量の半分は石炭火力で、石炭はあと200年ぐらいもつからだ。

これに対して、日本の電力業界はスマート・グリッドには消極的だ。アメリカと違って電力網の品質は高く、更新する必要もない。自家発電がどの程度の電力をまかなえるのかも不明だ。本書の後半は「スマートグリッド先進国、日本」などと日本の業界を持ち上げているが、要素技術はあっても国際標準にあわないと、情報産業のようにガラパゴス化して全滅する。

要するにオバマ政権がねらっているのは、かつてインターネットによって情報産業で日米が逆転したように、スマート・グリッドによって省エネ先進国・日本を逆転し、情報とエネルギーの両面で国際標準を握ろうという壮大な産業政策なのだ。今のところ、それが成功するかどうかはわからない。クリントン政権の「情報スーパーハイウェイ」構想のように空振りに終わるかもしれない。しかし、この「ニューディール」の本質は「グリーン」ではなくエネルギー戦略だという点は、日本の政治家も認識したほうがいいだろう。

ビジネス・インサイト

イノベーションについての本を書くために経営学の本をいろいろ読んでみたが、「イノベーションの何とか」と題した本にはほとんどイノベーションがなく、いろいろな成功例を並べて結果論を語るだけのものが多い。その中で、本書は科学的な方法論を踏まえた数少ない本である。

著者は『マーケティングの神話』で、マーケティング・リサーチによって集めたデータからすぐれた商品を開発しようとする経営学が神話であることを明らかにした。本書はその延長上で、まず事実からイノベーションを「帰納」するという思想が、科学哲学で半世紀前に破産した論理実証主義の焼き直しであると断じる。その上で著者がよりどころにするのは、マイケル・ポランニーの暗黙知の概念である。

暗黙知というと、野中郁次郎氏などの一橋スクールによって経営学ではおなじみだが、著者は彼らの解釈はポランニー自身の思想とは違うと批判する。野中氏などのいう暗黙知は、職人芸のような「技」で、日本の製造業の得意な「すり合わせ」の世界だが、ポランニーのいう暗黙知は、マッハやディルタイの影響を受けた認識論的な概念で、心理学でいうゲシュタルトのような概念化の過程である。この概念を著者は「ビジネス・インサイト」と呼ぶ。

プランクが量子力学を発見したとき、彼の利用した実験データはすべて既知のものだった。プランクはそういう事実から帰納によって理論を導いたのではなく、「事実に棲み込む」ことによってインサイトとして思いついたのである。ポランニーの影響を受けたクーンも「パラダイム」の概念によって論理実証主義を否定した。著者は従来のビジネススクールのケース・スタディも否定し、仮説をさぐるために事実に棲み込む(顧客の立場になる)ケース・リサーチを提案する。

行動経済学の言葉でいえば、イノベーションの本質はフレーミングである。それはイノベーターが新しい世界に棲み込むことによって創発的に生まれてくるもので、技術や営業などの要素には還元できない。日本企業の取得する特許の数は世界一だが、それがイノベーションに結びつかないのは、既存のフレームの改良でしかないからだ。インサイトを生み出すのはコンセンサスではなくリーダーの信念であり、それが正しいかどうかは、事後的に市場で実験するしかない。「埋もれた特許」を産学連携で発掘しようなどという産業政策はナンセンスだ。イノベーションは、技術ではなくアートなのである。

バブルという物語

版元とのトラブルで出版できなくなった"Bailout Nation"が、版元を変えてようやく出た。内容はよくも悪くもそれほど物議をかもすようなものではなく、今回の金融危機をウォール街のインサイダーがまとめ、歴史的な視点から銀行救済を考えるまじめな本だ。著者によれば、危機の責任者ワースト5は、
  1. アラン・グリーンスパン
  2. FRB
  3. フィル・グラム上院議員(金融規制を緩和した)
  4. 格付け会社
  5. SEC
やはりS&Pなどの格付け会社が、民間企業ではトップだ。私も問題のコアは「金融工学の限界」などという高級な話ではなく、AAAが乱発されたことだと思う。普通の投資家には金融工学なんかわからないから、「AAAならOK」という単純な基準で投資していた。ところが、この格付けの実態は、ほとんど定量的な基準もなく、わずかな数のアナリストが過去の業績とヒアリングをもとにして格付けを行ない、債券の発行元から高い手数料を取ってつけていたのだから、いい加減な評価になるのは当たり前だ。

これは行動経済学でいうフレーミングの典型だ。そもそも米国債と同じ格付けで、その何倍もの金利がつくというのがおかしいのだが、投資銀行が「最新の金融技術を使えばリターンを下げないでリスクをなくせる」とか何とかいう物語をつくり、複雑な目論見書を見せると、中身のわからない投資家はそれを信じてしまう。いったんこの物語を信じると、値下がりしたら逆に「買いのチャンスだ」と思い込み、農林中金はサブプライム危機が表面化してから証券化商品への投資を拡大した。

グリーンスパンに責任があることは疑いないが、単なる資金過剰だけではバブルは生まれない。日本の80年代には、経済の「ストック化」で日本はもっと豊かになるので、地価も株価もまだ低すぎる、という「計量研究」を発表した経済学者がいた。ITバブルのときは「ITによって在庫は瞬時に調整されるので、景気循環の消滅する『ニューエコノミー』が到来した」とBusinessWeekがキャンペーンを張り、それを批判する経済学者は「新しいパラダイムを理解できないのだ」と嘲笑した。

バブルには、このようにそれを正当化する物語が必ずついているので、それを予知することはむずかしい。PERやPBRなどの指標は、将来の成長を過大評価すれば何とでも理屈がつくので、基準にならない。それより農林中金のようにすべてをいい方に解釈して悪い話を聞かない認知的ゆがみがバブルの典型的な徴候だ、と本書はいう。BISがバブルを識別する基準を策定中とのことだが、それには経済学よりも認知科学のほうが役に立つのではないか。

誰から取り、誰に与えるか

きのうの「アゴラ起業塾」では時節柄、選挙の話が出た。堀江さんは「自民党も民主党も、老人のための政策しか掲げていない。40歳以上が人口の半数を占め、投票率も老人のほうがずっと高いので、若者は食い物にされる運命だ」といっていた。きのう出た自民党のマニフェストも、「責任力」をうたいながら長期の政策は何もなく、消費税の引き上げすらぼかしてしまう無責任なものだ。

「格差社会」が叫ばれ、選挙では所得再分配の政策ばかり出てくるが、本書も明らかにするように、日本の最大の格差は世代間格差である。賦課方式の年金というのは「国営ネズミ講」であり、人口増加と成長が止まると破綻する。ところが政治家が好むのは、個人間格差を埋めるバラマキ福祉や地域間格差を埋める地方への補助金だ。

著者は世代間格差の最大の原因となっている年金制度について、時間をかけて個人勘定に移行すべきだと提案している。その場合、自分の親の面倒をみる「個人勘定賦課方式」もありうる。逆に地域間格差を是正する政策は見直し、地方交付税はやめて、地域に関係なく、負の所得税のような方式で所得を直接補償する政策が望ましい。

また日本の税金の捕捉率は低く、クロヨンなどの職種による不公平が大きい。これを是正するには納税者番号が不可欠だが、所得が捕捉されるのをいやがる人々が政治家を使って先送りし、「私は番号になりたくない」と叫ぶ櫻井よしこ氏や毎日新聞などがこれと合流し、先進国で唯一、税を名寄せできない日本の税制の改革を阻んできた。

究極の問題は、分配の分母となる所得をどうやって増やすのかということだ。自民党は「成長率2%」を掲げているが、それを実現する方法は「大胆かつ集中的な経済対策」。短期の景気対策と長期の成長戦略の区別もついていない。民主党に至っては、成長戦略はアジェンダにさえ入っていない。結果の平等だけを求める再分配政策は勤労意欲を奪い、成長率を低下させる。新しい企業がビジネスに参入し、労働者が自由に転職できる機会の平等を保証することが重要だ。

日本経済の最大のリスクは、経済の長期停滞を放置して目先のバラマキばかり力を入れ、若者から取り、老人に与える政治家である。与野党は子供手当や幼児教育の無償化を競っているが、その財源となる巨額の国債を増税で償還するのは、当の子供たちだ。彼らがそのしくみを理解したら、「親の犠牲になるのはいやだ」と泣くのではないか。

行動経済学とゲーム理論

The Bounds of Reason: Game Theory and the Unification of the Behavioral Sciences著者は1970年代にBowlesなどと一緒に「ラディカル・エコノミックス」の構築をめざし、当時から認知科学で効用を内生的に説明するといった理論を提唱していた。結果的には学生運動の退潮とともに、彼らの議論は忘れられてしまったが、その志が今も持続しているのは立派なものだ。

本書も前半はゲーム理論の教科書だが、後半は行動経済学の実験結果をゲーム理論で説明する試みだ。たとえば制度や規範が複数均衡からどうやって選ばれるのかという問題は、従来のゲーム理論では難問だが、本書では規範を相関均衡として理解している。他方、財産権は通常、法的な問題と考えられているが、実は霊長類には財産権に似た行動がかなり広く見られる。これは行動経済学の保有効果(自分が持っているものの価値を高く評価する)を考えると、タカ=ハト・ゲームの均衡として解釈できる。

このようにゲーム理論によって行動経済学の「バイアス」を合理的に説明する理論は、BenabouやTiroleなどの主流派も試みており、ネタのつきたゲーム理論が生き延びる方向としては有望だろう。哲学的な議論だけでは、社会学のような「お話」になってしまうので、継続的にパズルを作り出すシステムが、パラダイム競争では重要だ。

しかし普通の人間の習慣的な行動を相関均衡やBayesian Nash均衡など複雑なアルゴリズムの計算結果として説明するのは、不自然といわざるをえない。この点では、アカロフ=シラーがSchankのスクリプト理論など認知科学の概念を参照している方向のほうが有望だと思う。スクリプト理論は人工知能としては挫折したが、最近はメタファー理論の先駆として再評価されている。

著者は無理して伝統的なゲーム理論で行動経済学を説明しようとしているが、たぶんこの種の現象を一番てっとり早く説明できるのは、彼が昔やったマルクスだろう。『資本論』が「資本家社会の富は、商品という要素の集積として認識される」という言葉で始まるのは、富が商品というメタファーに物象化(概念化)されることが資本主義の根本的メカニズムだという、きわめて重要な洞察を示している。マルクス経済学には何の価値もないが、マルクスの経済学には再評価の価値がある。

日本語に主語はいらない

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)学校文法では、「文は主語と述語によって成り立つ」と教わる・・・という文には主語がない。こういう場合、学校では「生徒は」という主語が「省略されている」と教わるが、この基準で日本語の日常会話を分析すると、90%以上の文で主語は「省略」されている。世界の他の言語をみても同じで、主語が不可欠なのはインド=ヨーロッパ語族の一部に限られる。主語・述語モデルにもとづく生成文法も、「普遍文法」どころか「ヨーロッパ語文法」でしかない。

このように英語をモデルとして「日本語は主語がないので論理的ではない」という学校文法に対する批判も古くからあり、時枝文法や三上章など、「日本語の論理は英語とは違う」とする議論も多い。本書は、学校文法や生成文法を否定する点ではこうした理論と同じだが、「日本語特殊論」も批判し、日本語と英語は同じ論理の変種だと論じる。著者の理論的根拠とする認知言語学は第2章に要約されているが、くわしいことは著者の前著を読んだほうがいいだろう。

認知言語学では、意味から独立した統語論を否定し、文をメタファーの関係としてとらえる。ここでもっとも基本的なのは、外的な世界を概念化する過程であり、文法はその概念=メタファーの関係をあらわす形式にすぎない。そうした形式のルールは記号論理学として完成されており、そこには主語という概念は存在しない。たとえば「犬が走る」という文はf(x)のような関数(述語)として表現され、その複合が命題になる。多くの文は複数の述語の複合した命題であり、その論理的な関係は集合の包含関係に置き換えられる。

日本語の「象は鼻が長い」といった文が表現しているのは主体と客体の関係ではなく、象という全体集合の中に鼻という部分集合があるという包含関係だから、命題論理に近い。英語は、文の要素としての述語論理の構造に近い。両者は別の論理ではなく、同じ論理の異なる面である。出来事が「なる」ことを誰かが「する」ことだと考えるのはきわめて特殊な発想で、たとえば「雷がこわい」という文を"The thunder scares me"というように無生物を主語にする文は不自然である。主語=主体を特権的な概念とする欧米語の文法は、自己完結的な個人という西欧近代のフィクションを反映しているのだ。こうした「主体」の概念に対する批判は、ニーチェからフーコーに至る哲学者のテーマだったが、それが脳科学で検証できるようになったことは画期的だ。

20世紀の社会科学の主流は、生成文法や新古典派経済学のようなメカニカルな方法論だったが、その限界生産性はゼロに近づいた。21世紀の主流は「認知論的転回」になるのではないか。だからといって、それは新古典派が無意味だということを意味するわけではない。かつて人工知能の挫折によって人間の知的活動がアルゴリズムに帰着できないことが否定的に証明されたように、今回の金融危機で金融工学の限界が明らかになったことが、メタファー(アニマル・スピリッツ)にもとづく行動経済学を生み出し始めている。科学は理論と実証によって進歩するのではなく、このようにパラダイム(メタファー)とそれに対応する科学者集団の闘いによって変化していくのである。

超ガラパゴス戦略

今週のASCII.jpのコラムで紹介したが、NYタイムズまで日本の携帯電話を「ガラパゴス」と呼ぶようになった。しかし夏野剛氏もアゴラ起業塾で言っていたように、日本のケータイの技術は今でも世界一だ。資金も人材も十分だ。欠けているのは、それを世界に売り込む戦略を決断する経営者だけだ。

逆にいうと、経営者を入れ替えて戦略を立て直せば、ガラパゴスと馬鹿にされている技術を世界に売り込むこともできるはずだ。本書は、そのためのフレームワークを提唱し、いくつかのケースを「進化論」的な枠組で分析している。日本の製造業が要素技術ではすぐれていながら収益が上がらない原因は、モジュール化によって「すり合わせ」の優位性が生かせなくなったからだ、というのはおなじみの議論だが、この程度の認識もなしに「ものづくり」にこだわる経営者が多い。

問題は、どうすればこの隘路を突破できるのかということだが、そこに意味的価値という概念が出てくるのがおもしろい。iPhoneは、物理的な要素技術では日本の携帯に劣るが、そのおしゃれなデザインやソフトウェアとの連携、AppStoreによってユーザーがアプリを開発できるしくみなどのコンセプトがすぐれているのだ。こうした「意味」は要素技術に分解できず、コンセンサスで作り出すこともできない。スティーブ・ジョブズという個性によってしか生み出すことはできないのだ。

イノベーションを「産学連携」や「埋もれた知的財産の発掘」によって生み出そうという霞ヶ関のアプローチは、日の丸検索エンジンやスパコンの戦艦大和のような「奇形的進化」を生み出すだけだ。最近の認知科学が発見したように、最初にフレーム(意味)があって行動が決まるのであって、その逆ではない。そして多くのフレームの相互作用の中から意味が生成する言語ゲームは進化的なので、何が生まれるかは予測できない。必要なのは「国営マンガ喫茶」ではなく、新しい企業や新しい経営者によって、なるべく多くの突然変異を生み出す制度設計だろう。




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