法/政治

セクハラで空転する国会はデモクラシー末期


(写真はNHKより)

国会は今週ずっと、財務次官のセクハラ問題で審議が止まっている。野党6党は国会内で集会を開き、女性議員はセクハラ運動のプラカードを掲げ、喪服をつけて麻生総務相の辞任を求めた。これを見て私は、もう日本のデモクラシーは終わったと思った。

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下ネタで国会審議を空費するな



財務省の福田事務次官の「セクハラ発言」が話題になっている。本人の話によれば、自分の声だということは否定していないが、音声はそこだけ切り取られているので、文脈がわからない。相手の声も切っているので、訴訟を起こされても名乗り出ることは考えにくい。彼が「お店の女性と言葉遊びを楽しんだ」ときの音声だと主張したら、当の「女性記者」が出てこないと新潮社は勝てないだろう。

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「総力戦体制」としてのデモクラシー

歴史の教科書では、いまだに明治憲法は「遅れた不十分なデモクラシー」だったと教えているようだが、これは逆である。明治維新より前に近代国家ができていたのはフランスとイギリスぐらいで、ドイツ帝国は1871年、イタリアが統一されたのは1870年、アメリカは南北戦争(1861~5)でようやく連邦を統一したばかりだった。日本はむしろ近代国家としてのスタートは早かったのだ。

19世紀末から君主制と民主制の「制度間競争」が始まったが、第一次大戦で明らかになったのは、デモクラシーは総力戦に強いということだ。ドイツもオーストリアもロシアも、帝政は戦争ではなく国内の革命で転覆された。日本がそこから学んだのは「大正デモクラシー」で国民を政治に参加させることが、総力戦に国民を動員する上で重要だということだった。

この意味で、デモクラシーはナショナリズムに通じる。福沢諭吉が「政府ありて国民なし」と嘆いたとき、国民を動員する目的は戦争だった。彼が日清戦争に賛成したことが批判の的になるが、当時の日本にとっては朝鮮半島が防衛線だった。そして戦争を遂行するためにもっとも重要な思想が「自分の国のために死ぬ」というデモクラシーだった。

続きは4月16日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

日本に生まれなかった「自発的結社」

政治の世界 他十篇 (岩波文庫)
丸山眞男が戦後民主主義の担い手として期待したのは「自発的結社」だった。それは大衆社会のバラバラの「原子論的個人」ではなく、地域や企業を超えて連帯する自覚的な個人の集まりとして、デモクラシーを支える「主権者」となるはずだった。彼は1952年の論文「政治の世界」をこう結んだ。
長時間労働で身心を使い果たし、しかも失業の恐怖に不断に襲われている勤労者にとっては、組合への関心すらも日常的になりがちでしょう。そうなると結局民主主義が現実に民衆の積極的な自発性と活発な関与によって担われるためには、どうしても国民の生活条件自体が社会的に保証され、手から口への生活にもっとゆとりが出来るということが根本だということにならざるをえません(強調は原文)。
労働者が政治に無関心なのは「手から口へ」の貧しい暮らしを続けているからであり、彼らが豊かになれば労働組合を支持するようになるだろう。革新政党が弱いのは労働者が貧しいからで、その生活にゆとりができれば彼らの政治意識は高まり、労働組合が近代的個人を結集する「自発的結社」になるだろう――と丸山は予想したが、そこには致命的な見落としがあった。

続きは4月2日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

官僚支配という「裏の国体」

財務省の文書改竄事件で改めて感じるのは、日本の「国のかたち」は明治以来、一貫して官僚支配だったということだ。これは必ずしも悪い意味ではなく、ウェーバー的な理解では、官僚制は近代国家の合法的支配と同義である。外交・防衛の「表の国体」と「裏の国体」の図式を応用すると、こんな感じだ。
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「表の国体」では国民の負託を受けた国会が、法によって内閣(行政)を支配することになっているが、現実には行政の大部分は官僚の裁量で決まる。法で支配できるのは行政国家のごく一部なので、合法的支配というのはフィクションだ、とカール・シュミットはウェーバーを批判した。国家を統合するのは法という入れ物ではなく、国民の主権者としての意識なのだ。

明治憲法では「表の国体」は天皇主権だったが、新憲法では国民主権に変わった。しかし官僚支配という「裏の国体」は同じで、全体を統括する主権者がいない。こういう状態で「統帥権の独立」した軍部が独走したのが戦前の失敗だが、よくも悪くも戦後の日本はそうならない。「裏の主権」はアメリカにあるからだ。

続きは4月2日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

改竄について「課長打ち合わせ」はあったのか

きのうの佐川証言はおおむね予想通りだった。文書改竄に安倍首相などの政治家の指示がなかったというのは事実だろう。野党はそういう政局がらみの質問ばかり証拠もなく繰り返して、見苦しかった。

問題は、昨年2月に国会で追及され始めてからの事後処理について、理財局がどこまで他部局と相談したかだ。国会答弁を出すときは、普通は大臣官房が窓口で、文書課がとりまとめをする。この点で佐川氏は「書き換えは理財局と近畿財務局だけでやった」と答えたが、微妙な証言もしている。
民進党 小川敏夫議員 だからそれは一方的に答弁を入れたんじゃなくてですね。やはり官邸側の担当者とも、その答弁の内容について協議、打ち合わせをしたっていうことじゃないですか。

佐川氏 答弁作業は、そういう官邸の秘書官とか、大臣秘書官との打ち合わせは局長はやりませんので、たぶん実務的には課長とかそういう人たちがやっていたというふうに思いますが、ただ翌日私自身は、理財局が作成した答弁は見ております。
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自民党と財務省の25年戦争



戦後日本の「表の国体」は議院内閣制による政治主導だが、「裏の国体」は財務省を中心とする官僚主導だった。この政官共同体は、1980年代までは成長による果実の分配という共通利益で結びついていたが、90年代以降の負担の分配では利害が食い違い始めた。バラマキを続けたい自民党に対して、大蔵省は負担の増加を求めたのだ。

このとき小沢一郎氏は1993年に大蔵省と結託して増税しようとし、細川内閣で7%の「国民福祉税」を提案したが、一夜にして撤回した。その細川内閣が10ヶ月で倒れたあと、自民党の大蔵省に対する報復が始まった。予算編成権で官僚機構の中枢機能をもつ大蔵省に対して、自民党は人事権を握って人的な中枢機能で対抗しようとしたのだ。

それが橋本内閣から始まった官邸主導の改革である。その中心は「行政改革会議」だったが、事務局が不在で迷走した。1997年9月の中間報告では、図のように郵政省と農水省を消滅させる案が発表された。これをつくったのは通産省だったが、自民党にほとんど根回ししていなかったので、郵政省と農水省が族議員を使って猛然と巻き返した。

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続きは3月26日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

課長の強い日本の役所

森友文書の改竄事件は理財局の単独犯行だという財務省の主張は、常識では理解できないが、その反証も今のところ出ていないので、彼らのシナリオが正しいと仮定しよう。つまり佐川理財局長の指示で「理財局の一部職員」が近畿財務局に命じ、大臣官房にも首相官邸にも相談しないで決裁文書の「差し替え」を行なったというシナリオだ。

それが公文書偽造という犯罪にあたる可能性は彼らも知っていたと思われるが、もし日常的にその程度の改竄をやっていたら、理財局の中で「内々にやっておこう」という話になったことも考えられる。さらに国交省にも改竄を依頼したことになるが、そんなことはあるのだろうか。

中央官庁の課長は民間企業でいうと部長から本部長ぐらいで、権限が大きい(民間の課長は役所の課長補佐ぐらいだろう)。局長になると政治家との対外折衝が増えるので、部内の意思決定のコアは課長である。ほとんどの意思決定は課長級の「合議」で決まり、局長はそれを追認することが多い。

それは日本軍の伝統でもあった。御前会議に出る戦争の計画を決めたのは、省庁を横断する官僚と軍人の「課長打ち合わせ」だった。満州事変を起こしたのは関東軍主任参謀(課長級)の石原莞爾であり、その後の総動員体制をつくったのは陸軍省軍事課長の永田鉄山であり、日中戦争を始めたのは参謀本部作戦課長の武藤章だった。

続きは3月26日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

局益あって省益なく、省益あって国益なし

森友文書改竄事件で、佐川前理財局長の証人喚問が27日に決まったが、今の太田理財局長の答弁の域を出る証言は出ないだろう。嘘でも本当でも佐川氏が泥をかぶり、理財局の「一部職員」がすべてやったというのが、安倍政権と自民党のシナリオだ。これを物的証拠でくつがえすことはむずかしい。

野党は「忖度」がけしからんとか「政治家の介入」があったのではないかとかいう話ばかり追及しているが、そっちの方向では大した話は出てこないと思う。それより逆に、理財局長の答弁の通り政治家の介入も局長の命令もなしに理財局だけで改竄した(そういう慣例があった)とすると、そっちのほうが深刻な問題だ。

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問題は「忖度」でも内閣人事局でもない

近代日本の官僚 - 維新官僚から学歴エリートへ (中公新書)
森友学園の文書改竄では「忖度」を生む内閣人事局が諸悪の根源だということになっているが、こういう政治任用は先進国では当たり前だ。アメリカでは政権が交代するたびに、連邦政府の高官3000人以上が交代する。事務次官まで100%内部昇進の日本のような「純血主義」の官僚機構は、先進国では類を見ない。

日本でも戦前は、政治任用が当たり前だった。明治政府では長州閥が政府の主要ポストを独占したので、他の藩の優秀な人材が官吏にならなかった。このため伊藤博文は勅任官(政治任用)と奏任官(試験任用)の2種類の官吏をつくり、後者は高等文官試験で公平に選抜した。

各省の次官は政権の任命する政治任用だったが、大正期に政党政治が盛んになると情実人事が増えたので、山県有朋は勅任官も高文の合格者に限った。政党はこれに反発して政治任用を復活させようとし、その妥協の結果、各省の次官が政務と事務の2人いる奇妙な制度ができたが、実質的な権限は事務次官に集中した。

官僚の中心は枢密院と法制局で、特に法制局は各省庁が法案を提出する前に必ずチェックを受けなければならないため、弱い内閣に代わって政府の調整機能を果たした。法制局の長官は政治任用で、参事官は穂積八束や美濃部達吉など東大法学部の重鎮だったので、ここで法解釈も決まった。行政機関が立法も司法も行う日本型の官僚機構は、大正期にできたのだ。

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