科学/文化

「安倍一強」で劣化した右派論壇誌

『新潮45』の特集「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」をめぐる波紋が、意外に大きくなっている。私は問題の発端になった杉田水脈氏の原稿も、今回の特集も読んでいない(これから読む気もない)が、小川栄太郎氏の「痴漢の触る権利を保障しろ」という原稿は、普通の雑誌ならボツだ。これを掲載した編集長の責任は問われるべきだが、それだけのことである。

ところがこれをきっかけとして「『新潮45』は廃刊しろ」というだけでなく、朝日新聞は「新潮社の本を棚から撤去」という記事で不買運動をあおり、新潮社の社長が謝罪した。これは著者の一部に執筆拒否の動きが出たためだろう。文芸出版社は、著者には弱い。『週刊新潮』にも『週刊文春』にも、作家のスキャンダルは出ない。それにつけ込んで新潮社に圧力をかけるのは言論弾圧である。

考えさせられるのは、こんな駄文が月刊誌に掲載されるようになった「論壇」の劣化だ。まだ『諸君!』が健在だったころは、右派論壇誌で外交や安全保障をめぐって「親米」か「反米」かといった論争もあった。そういう論争がなくなり、同じ顔ぶれで同じテーマばかり繰り返すようになったのは、安倍政権の「一強」が強まってきた最近の現象である。

続きは10月1日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

「支那」は差別語ではなく地名である

最近Facebookの検閲がきびしくなって、「支那」という言葉を使うとアカウントが停止されるようだ。グーグル日本語でも候補に出てこない。これはマスコミでは昔から禁止だが、根拠のないタブーである。その語源は5世紀ごろインドで中国を「シナ」と呼んだもので、このもとは「秦」だといわれる。中国には「漢」や「唐」などの王朝を超える地名がなかったため、シナやチャイナという呼称がヨーロッパでも使われた(今も使われている)。

支那という漢字も中国で当てたものだが、これは他称なので、中国人は使わなかった。日本に輸入されたのは平安時代で、江戸時代に広く使われるようになった。どちらの国でも「中国」という言葉は、ほとんど使われなかった。まれに中国人がそう呼ぶときは「南蛮北狄」などに対する世界の中心という意味で、「わが国」の尊称だった。

その事情が複雑になったのは、明治以降である。「支那人」を差別する日本人がいたことは事実だが、それは「支那」が蔑称だったからではなく、他にあの大陸を表現する言葉がなかったからだ。しかし中国から日本に来た留学生は、彼らの知らない「支那」という言葉を差別語だと感じたようだ。1930年に中華民国政府は、「支那」という言葉を使った外交文書を受け取らないと日本政府に通告した。これがタブーの始まりだった。

続きは9月24日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

就活ルールを廃止して「大学入学」を就職の条件に

経団連の中西会長が「就活ルールを2021年春から廃止する」と述べたことが話題になっている。この種の協定には拘束力がなく、規制と廃止を繰り返してきた。今は説明会は3月、面接は6月に解禁することになっているが、実際には3年生の年末から就活は始まっており、アンケート調査では5月までに内定を出した企業が4割近い。

経団連に入っていないIT企業や外資系企業は、通年で採用している。たとえばユニクロ(ファーストリテイリング)は1年生の4月から内定を出し、在学中は店舗でアルバイトをしてもらい、卒業と同時に店長にする。財界系企業だけ協定を守っていては、競争にならないという危機感があるのだろう。

新卒一括採用という日本独特の雇用慣行がなくなるのは、学生にとっても企業にとってもいいことだ。就活の前倒しは「学業のさまたげになる」という批判が強いが、それほど学業が重要なら、成績も確定しない3年生に内定を出すはずがない。

続きはアゴラで。

「サン・チャイルド」の小さな事件が示す大きな変化


サン・チャイルド像(作者ホームページより)

福島市長が、福島駅の近くに設置した「サン・チャイルド」という像を撤去することを決めた。これ自体は大した事件ではないが、福島をめぐる「空気」の変化を示している。作者のヤノベケンジ氏は、2011年にこれを制作した動機をこう語っている。
黄色い放射能防護服を着ていますが、ヘルメットを脱いで左手に抱え、顔に傷を負い、絆創膏を貼りながらも、空を見上げて逞しく立っています。胸のガイガー・カウンターは、ゼロを表示しています

子供は未来を表しており、それらは放射能の心配のない世界を迎えた未来の姿の象徴でもあります。そして、右手に持つ「小さな太陽」は、次世代にエネルギー問題や放射能汚染が解決される「未来の希望」を象徴しています。

続きはアゴラで。

なぜ大学教師はサラリーマンより生産性が低いのか

文部科学省は2019年度から、国立大学の教員に年俸制を導入し、業績給を拡大する方針だ。これに対して大学教師から反発の声が上がっているが、年俸制なんて普通の会社では当たり前だ。「業績の意味がわからない」という声もあるが、論文の引用数による業績の算定方法は(理系では)確立している。



続きはアゴラで。

私立大学は「裏口」だらけ

文部科学省の局長が逮捕された事件は、まだ事実関係がはっきりしないが、「贈賄側」の東京医大の理事長と学長は、「入試の点数に加点した」ことを認めているようだ。賄賂は現金に限らず、職務上の地位が賄賂と認定された判例もあるらしいが、「裏口入学」が贈賄と認定されたら、私立大学は賄賂だらけになる。

続きはアゴラで。

日本の大学教師はなぜダメなのか

Facebookでうろ覚えの数字を書いたら反響があったので、訂正かたがた書いておく。日本の大学改革でよく「新自由主義で雇用が不安定になったから大学の業績が落ちた」という話がある。これが正しいとすれば、日本より雇用の不安定なアメリカでは、もっと業績が落ちるはずだ。世界一といわれるハーバード大学はどうだろうか。

キャプチャ


これは大学の公式サイトに出ている数字だが、学部スタッフ2026人のうち、テニュア(終身雇用資格)をもっているスタッフは910人、45%である。日本では全大学を平均して終身雇用が約60%なので、雇用の安定している日本のほうが業績が上がるはずだが、もちろんそうなっていない。

雇用保証が労働生産性を高めるかどうかは、仕事の性格に依存する。工場労働者のようなチーム生産の利益が大きく、個人の能力にあまり依存しない労働では、雇用を保証して「企業特殊的スキル」を身につけることが重要なので、日本の製造業の生産性は高い。ホワイトカラーの生産性は低いが、人事異動や出世競争という強いインセンティブがある。

これに対して研究はチーム生産の利益が小さく、個人の能力に大きく依存するので、雇用保証する意味が少ない。大学では人事異動もないので、競争原理がまったく働かない。この意味で大学の雇用慣行は最悪で、日本的雇用が知識集約的な産業でダメになるモデルケースだが、それは最近さらに悪化している。若い研究者だけに「業績主義」が適用されているからだ。

続きは5月21日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

研究成果をいかにマネタイズするか



科研費の問題はまだいろいろリアクションが来るが、私は科研費そのものは必要だと思う。たとえば素粒子論で巨大な実験設備が必要な研究を、大学の経費でやることはできない。その成果を収益化することもできないし、する必要もない。知識の外部性は大きいので、研究の価値を研究者に還元するのはむずかしい。ざっくりいうと、その方法は次の4つある。
  1. スポンサーに金を出してもらう
  2. 知識を独占して「知的財産」として販売する
  3. 学生に学歴を与えて「授業料」として料金をとる
  4. 政府が裁量的補助金を出す
続きはアゴラで。

「研究を通じた教育」というトリック

フンボルト理念の終焉?―現代大学の新次元
「文系に科研費はいらない」という私のツイートに大きな反響があるが、大学は教授の生活を学生が支える集金装置なので、文系の教授はサラリーで十分生活できるはずだ。科研費は実験器具などを使う「科学研究」に限るべきだが、研究支援のシステムは必要だ。むしろ研究費を「大学教育」という無意味なサービスの対価として徴収する大学制度に問題がある。

今のような大学ができたのはそれほど古い話ではなく、中世のユニバーシティとは無関係だ。19世紀ドイツでフンボルトやフィヒテなどがつくったベルリン大学は、研究者の養成機関だった。教授は「実験室」(ラボラトリ)単位で数十人の学生を集め、彼らを使って研究をおこなった。その経費は、授業料という形で学生の親から徴収した。

つまりドイツの大学は研究を通じた教育と称して、研究費を授業料でまかなうトリックだったのだ。専門的な教育は一般の労働者には役に立たなかったが、エリートを養成する制度としてはよくできていた。他の国のカレッジは教養科目だけだったので、優秀な研究者はドイツに集まり、特に物理学では20世紀初頭までの主要な業績をドイツが独占した。しかしそれは第1次大戦後に凋落し、大学の中心はアメリカに移った。それはなぜだろうか。

続きは5月14日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

文系に「科研費」は必要か

山口二郎氏のグループが4年間で4.5億円の科研費を取ったという話がネットで騒がれているが、「国賊に国が金を出すな」というのは筋が悪い。手続き的な違法性のない話を騒ぐのは、加計学園と同じだ。私は山口氏の研究に社会的な価値はないと思うが、そういう価値判断で科研費の可否を問うことはできない。

科研費は個人に出たわけではなく山口氏のグループに出たのであり、日本政治学会長だった彼の役得だろう。4.5億円というのも、グループとしては突出して多いわけではない。政治学なんて業績の客観的評価はできないから、学界のボスに科研費が集まるのはしょうがない。それより根本的な問題は、文系に「科学研究」の補助が必要かということだ。

私もその恩恵にあずかった経験があるが、はっきりいって文系に科研費なんか必要ない。しいていえば国際会議と海外出張には経費がかかるが、あとは大学の経費でできる。最近は科研費がポスドクの雇用対策になっているようだが、いずれにしても人件費なので、理系のようにハードウェアに実費がかかる「科学研究」とは性格が違う。

続きは5月14日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。






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