科学/文化

「高等教育無償化」で大学の価値は下がる

教育には、人的資本を高める効果とシグナリングの機能がある。小・中学校の教育は人的資本を高める効果が高いが、高校教育の効果は疑問だ。大学(特に文系)が人的資本を高める効果はほとんどないが、一流大学の私的収益率は高い。それは「私の能力は高い」と示すシグナリングの効果が大きいからだ。

これを簡単な図で考えよう。2人の労働者AとBがいて、生涯賃金も勉強のコストも教育年数の増加関数だが、Aの勉強コストはBより高いとする。企業がAとBのどちらを雇うか判断するとき、どちらも「私の能力は高い」といっても、Aが高卒でBが大卒だと、Bのほうが勉強のコストが低いことがわかる。Bの生涯賃金よりコストが高くなる教育レベルが高いからだ。

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勉強のコストが能力の減少関数だとすると、企業は2人の能力を知らなくても、学歴というシグナルを見ればよい。だから大学で人的資本が高まる効果がゼロだとしても、大学の存在価値はある。学歴というシグナルで、企業が有能な労働者を選別するコストを節約できるからだ。

ここで大学(高等教育)を無償化すると、Aの勉強コストが下がってBと同じになるとしよう。そうすると両方とも大卒になるから、企業はどっちが有能かわからないので、2人をランダムに採用して同じ賃金を払う。有能な労働者はそんな企業には行かないので、無能な労働者だけが来る逆淘汰が起こってしまう。つまり高等教育を全面的に無償化すると、大学のほとんど唯一の効果である情報節約機能がなくなるのだ。

続きは5月15日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

日本的雇用は「後入れ先出し」の大学から崩壊する

一橋大学から香港科学技術大学に移籍する経済学者が話題になっているが、彼もいうように経済学では珍しいことではない。理系ではとっくに、優秀な研究者は日本の大学に残らない。これは日本語のハンディもあるが、根本的な問題は准教授以上は自動的に終身雇用(テニュア)になるからだ。

これは大企業と同じだが、大きな違いは大学教師には転勤がないことだ。日本のサラリーマンに競争がないというのは大きな間違いで、出世競争は激しい。給料や形式上の職位は横並びだが、たとえばNHKでいうと東京の特報部長と北見の放送部長は、給料が同じでも社内ランクはまったく違い、これが強いインセンティブになっている。

ところが大学教師には転勤がないので、准教授になったら論文を書かなくても授業だけやっていれば、定年まで雇用が保障される。ここで大学教師の定員を減らすと、後入れ先出しになる。論文を1本も書いていない老人の既得権を守って、その何倍も業績を上げている若い研究者が任期つきになり、5年で切られるのだ。このため優秀な研究者は日本の大学でテニュアをとれず、それを見た学生は大学院に進学しなくなった。

続きは5月1日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

「忖度」は遺伝的なメカニズム

今週の金曜から、アゴラ経済塾「合理的に考える」がスタートする(申し込みは木曜まで受付中)。合理的な思考力は字を読む能力と同じく、遺伝的にすべての人がそなえている能力ではない。それはコストのかかる「遅い思考」なので、普通の人は近道して「速い思考」で判断する。

人間の脳に特有の機能は、人間関係をアレンジすることだ。特に「空気」を読んで他人の気持ちを忖度することが重要だ。それは特殊日本的な文化ではなく、最近の人類学では、意図の共有は遺伝的な機能と考えられている。命令されなくても「共同主観的」な信仰で協力して戦うことによって、人類は繁殖した。

協力を効率的に行うためにできたのが言語を使った論理だが、その本質は同じ文法を繰り返し適用する再帰的な構造である。それを高度化したのが数学的証明やコンピュータのコーディングだが、これは多くの人が苦手だ。忖度は遺伝的な能力だが、論理的な「遅い思考」は自然には身につかないのでトレーニングが必要だ。それが今回の経済塾の目的である。

続きは4月3日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

「宗なき教」としての教育勅語

私はFacebookの始まったころからのユーザーだが、初期はほとんど英語で、海外との連絡に使っていた。"Atheist"(無神論者)というグループに入ったら、たくさん質問が来て驚いた。よくきかれたのは「日本人は宗教なしで、どうやって高いモラルを保っているのか?」という話だが、それは日本人にもよくわからない。

たぶん明治の日本人もそうだったのだろう。JBpressにも書いたように、井上毅が教育勅語を書いたのも、彼の訳した「宗教」という概念を日本に定着させるためだった。ヨーロッパで文明国をみた井上は、日本に欠けているのは「国教」だと考え、「世に宗教なきときは政府たるもの幾分か此の宗教の力をかりて以て治安の器具となさざる事を得ず」と書いた。

彼は「国民多数の信仰ある宗旨を用ふべし」と書いて仏教を国教にしようとしたが、それは「葬式仏教」になっていて国民を統合することはできなかったので、教育勅語を起草した。長州閥は儒教を国教にしようとしたが、井上は元田永孚などの儒学者の抵抗を押し切って中立な勅語にした。

おかげでたった315字の無内容な訓話になり、勅語は国民を精神的に統合できなかったが、全国民が暗唱する同調圧力にはなった。井上はいろいろな宗旨から独立の宗なき教として勅語を書いたのだが、それは実定法と道徳を乖離させ、法を超えた「詔勅」で行政の裁量が拡大する結果をまねいた。続きを読む

ニュートンの神学思想

豊洲の騒動でおもしろいのは、ワイドショーのコメンテーターが「石原慎太郎は悪いやつだ」という価値判断から「豊洲は危険である」という事実を導くことだ。これは今では笑い話だが、17世紀まで価値から事実が導けないことは自明ではなかった。

ニュートンは『プリンキピア』の序文で「本書の目的は神が天地創造された意図をさぐることである」と書いた。彼の神学理論は余技ではなく、量的には物理学の論文よりはるかに多い。彼は(無神論に近い)理神論ではなく、合理主義的なアリウス派だったらしい。

東洋でも、儒教は「天理」という社会的な倫理から自然界の事実を導いた。福沢諭吉はそれを惑溺と批判し、「物ありて然る後に倫あるなり、倫ありて後に物を生ずるに非ず」と書いた。それが彼のつくった「物理」という言葉の意味だが、ニュートンはキリスト教という倫理にもとづいて完璧な物理学を構築した。それはなぜ可能だったのだろうか?

まぐれ当たりだ、というのが現代の物理学の答である。重力が距離の2乗に反比例すべき論理的な必然性はないが、今のところ太陽系の中では例外は見つかっていない(銀河系全体ではあやしい)。そのもっともらしい理由は、重力がそれより大きくても小さくても地球が太陽のまわりを公転しない(したがって人類も存在しない)ということである。

続きは3月13日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

教育勅語とフランス国歌のどっちが危険か

森友学園の問題はわけのわからない方向に脱線し、稲田防衛相が「日本が道義国家をめざす」という珍妙な答弁をしたことで教育勅語の是非論になっている。朝日新聞の杉原里美記者は「臣民は戦争など国の非常時には、勇気をふるって身を捧げ、『君国』のために尽くす」と批判しているが、いい加減にしてほしい。

続きはアゴラで。

築地を「文化財」としてどう残すか



きのうは宇佐見典也さんと一緒に築地市場を見学したが、動画を見ればわかるように、豊洲の問題は単純である。

続きはアゴラで。

教育勅語は危険思想か


森友学園をめぐる下らない事件には興味がないが、おもしろいのは子供が毎日、教育勅語を朗読させられているという話だ。マスコミは勅語が日の丸や君が代より凶悪な危険思想だと思っているようだが、それを読んだことはないだろう。上の写真がその原文だが、これを素読して意味のわかる人もほとんどいないだろう。ウィキペディアの現代語訳は、こんな感じだ:
まず皇祖皇宗、つまり皇室の祖先が、日本の国家と日本国民の道徳を確立したと語り起こし、忠孝な民が団結してその道徳を実行してきたことが「国体の精華」であり、教育の起源なのであると規定する。続いて、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの友愛、学問の大切さ、遵法精神、一朝事ある時には進んで国と天皇家を守るべきことなど、守るべき12の徳目(道徳)が列挙され、これを行うのが天皇の忠臣であり、国民の先祖の伝統であると述べる。これらの徳目を歴代天皇の遺した教えと位置づけ、国民とともに天皇自らこれを銘記して、ともに守りたいと誓って締めくくる。
ここには「一億火の玉だ」とか「天皇のために死ね」とかいうアジテーションはなく、最初の「皇祖皇宗」のくだりで皇国史観を語っている以外は、平凡な徳目を並べただけだ。しかしそれが強烈な影響力をもったことも事実である。不思議なのは、こんな短い説教があれほどの影響力をもったのはなぜかということだ。

続きは3月6日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

大学教育は無駄だが職業教育は重要だ

与野党が一致して始めた教育ポピュリズムに対する私の批判は予想通り不評だが、論理的な反論は一つもなく、「日本がこれから知識社会で生きて行くには教育投資が必要だ」という類の建て前論が多い。

もちろん教育は重要だが、それは大学教育とは限らない。Economist誌も指摘するように、ここ30年でエリート大学卒の賃金が30%以上も上がる一方で、カレッジ(無名私大)卒の賃金は下がっている。これは教育の効果(人的資本)より学歴の効果(シグナリング)のほうが大きくなってきたことを示す。

続きはアゴラで。

重力はなぜ距離の2乗に反比例するのか

昔、廣松渉のゼミで、彼が「重力はなぜ距離の2乗に反比例するのか?」という問題を出したことがある。科学哲学はみんな理系だから、ある院生が「3次元空間だからです」と即答した。すると廣松が「この教室で実測して1.99乗だったらどうするの?」と聞くと、院生は言葉に詰まってしまった。廣松は「それはガリレオがいったように、世界は数学の言葉で書かれてるからだよ」と笑った。

物理学では、法則に反する事実が見つかったら法則は「反証」される。重力がどこで計測しても1.99乗にも2.01乗にもならないのは、偶然に過ぎない。これはヒュームの問題と呼ばれる重要なパラドックスで、ポストモダン界隈では今ごろそれを解決したと称する笑い話が出ているが、これは誤りである。その答は存在しない、というのが正しい答なのだ。

続きは2月13日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。






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