科学/文化

イノベーションは戦争から生まれた

京都大学が打ち出した「軍事研究の禁止」の方針が話題を呼んでいる。
本学における研究活動は、社会の安寧と人類の幸福、平和へ貢献することを目的とするものであり、それらを脅かすことに繋がる軍事研究は、これを行わないこととします。
「軍事研究」の定義が不明だが、「軍事的に利用できる研究」と理解すると、コンピュータもインターネットも京大では研究できない。前者は弾道計算のために、後者は核戦争に生き残る分散ネットワークとして開発されたものだからである。さらに原爆は相対性理論から生まれたので、京大では理論物理学の研究も禁止だ。

戦争はイノベーションの源泉である。生命を守るという至上命令のために、政府はコストを考えないで新技術を開発するからだ。21世紀の戦争は、ロボットやドローンなどの無人兵器が主力で、それを制御するのは人工知能である。これから京大では、ロボットもドローンも人工知能も研究できない。

続きは4月9日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

韓国人はなぜ日本人を恨むのか

韓国の文在寅大統領が「加害者の日本政府が『慰安婦問題は終わった』といってはならない」と発言したが、日韓併合は国際法にもとづく正式の条約であり、日本政府が「加害者」呼ばわりされるいわれはない。しかし韓国人から見るとどうだろうか。

明治維新で日本が急速な近代化を遂げたのに対して、清の属国だった李氏朝鮮の停滞は深刻だったので、金玉均などの独立派は朝鮮を近代国家に改革しようとした。彼らは福沢諭吉の指導で、1884年にクーデタ(甲申事変)を起こしたが失敗し、朝鮮が独立する可能性はなくなった。このため日本は、日清戦争で朝鮮半島の支配権を清から奪った。

これを朝鮮からみると、清を中心とする華夷秩序の中では、朝鮮は「華」の周辺国だったが、日本は「夷」だった。朝鮮の官僚機構は科挙をまねたが、日本は科挙を輸入しなかった。日本を支配していたのは、儒教秩序の中では卑しい身分の軍人(武士)だったからだ。それが成り上がって朝鮮を支配したことが、彼らにとっては屈辱だった。「われわれは日本人の兄貴分だ」という気分は、今でも韓国人には残っている。

続きは3月5日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。(まぐまぐに引っ越しました)

なぜ人々は差別を作り出すのか

今日のトーテミスム (みすずライブリー) (みすずライブラリー)
きのうアゴラの新年会で、ポリコレの話が盛り上がった。日本にもセクハラ騒動を輸入しようという人々が、顔を黒く塗った芸人を「人権問題」と騒いだりしているが、これには既視感がある。かつて日本でも部落解放同盟や朝鮮総連が「糾弾運動」で、役所やマスコミを攻撃した。ポリコレの最大の原因は民族差別だが、それはなぜこのように強いタブーになり、人の心を動かすのだろうか。

まず明らかなのは、差別の中身には意味がないということだ。肌が黒いことも、国籍が日本ではないことも、その人が劣っていることを意味するわけではない。だから民族差別は不合理だ、とポリコレ派は考えるが、これは誤りである。差別の意味は、他者を排除して自己のアイデンティティを作り出すことにあるのだ。

これはレヴィ=ストロースが探究した問題である。未開社会の人々が特定の動植物を「トーテム」として崇拝して(日常生活から切り離した)タブーにする意味は、それ自体では理解できない。トーテムは自他の境界を画す記号である、というのが彼の理論だった。このようなタブーは普遍的にみられ、日本のケガレもその一種と考えることができる。

ここで大事なのは何をタブーにするかという内容ではなく、一つの集団が同じタブー(記号)を信じているという形式である。タブーがお笑いと結びつくのも偶然ではない。自他の境界はもともと恣意的なものであり、「民族」の定義も不明だ。その境界を揺すぶることで、芸人(道化)は敵と味方を固定する集団に反抗しているのだ。

続きは1月22日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

柄谷行人氏の平和ボケは「日本人の無意識」か

毎日新聞に出ている柄谷行人氏のインタビューが、ちょっと話題になっている。論旨は「憲法9条を守って無防備になれば、国際社会が許さないので北朝鮮は攻撃できない」という平和ボケだが、最初から最後までナンセンスというわけではない。
長い戦国時代の後、戦争を否定する徳川幕府体制が生まれ、国内だけでなく、東アジア一帯の平和が実現されました。「徳川の平和」と呼ばれています。武士は帯刀しましたが、刀は身分を表す象徴であり、武器ではなかったのです。徳川の文化こそが9条の精神を先取りした「先行形態」です。
いろいろな偶然が重なって江戸時代に日本が250年も平和を享受したことが「無意識」に定着し、その後の日本人の(彼に代表される)平和ボケの原型になっている、という話は新しくないが当たっている。江戸時代の日本人の敵は外国ではなく災害だったのだ。

しかし明治以降の対外的な膨張主義はどう説明するのか。彼は「明治維新後に日本は徴兵制を始め、朝鮮半島を植民地化し、中国を侵略しました。9条が根ざしているのは、明治維新以後、日本人がやってきたことに対する無意識の悔恨です」というが、これは論理がつながっていない。やってから後悔するぐらいなら、初めから戦争なんかしないだろう。

続きは12月4日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

理系はなぜだめになったのか

NHKニュースが「日本からノーベル賞が出なくなる」と報道している。ノーベル賞そのものは単なるイベントだからどうでもいいが、理系の生産性が落ちたことは事実だ(文系はもともとだめだが)。これからもっとひどくなるだろう。優秀な若者が、日本で研究者にならないからだ。

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その原因をこのニュースは「国立大学の法人化が悪い」とか「政府が科学技術にカネを出さない」という話にしようとしているが、図を見れば明らかなように、政府の科学技術予算は横ばいで、大学の定員は減ったので、教員一人あたりではかなり増えた。つまり問題は大学の予算ではないのだ。

大学教師なら誰でも知っているように、この時期に新規採用も減り、ほとんどが任期つきになった。教授や准教授の既得権(テニュア)を認めたまま、若手だけを「非正規」採用したので、40代で非常勤のままという研究者が増えた。そういう状況を見て、優秀な若者が日本の大学院に進学しないのは当然だ。

これは日本社会の縮図である。大企業が「正社員」の既得権を守って新規採用を減らしたので、若手が「非正規」のまま昇給しない。おかげで賃金が下がって雇用は増えたが、新陳代謝が止まって労働生産性は低下した。これを「アベノミクスで完全雇用になった」と自画自賛している政治家は、無知でなければ嘘つきである。

続きは9月25日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

「八月革命」を発案したのは丸山眞男ではない

また細かい文献学で恐縮だが、「丸山眞男学」業界にとってはちょっとおもしろい話。「八月革命」という言葉を発案したのは丸山だというのが通説だが、文献的な証拠がない。『丸山眞男集』の年譜には、東京帝大の憲法研究委員会で「丸山が提示した八月革命説を、宮沢[俊義]は丸山の承諾をえて」論文に発表したと書かれているが、この出典がはっきりしない。ところが最近、彼の座談の中に次のような話が見つかった。
ポツダム宣言を受諾したことが国体変更になるという南原先生の説が正しい。そうすると、天皇が主権者でないということを、ポツダム宣言を受諾した瞬間に日本国政府が受け入れたことになっちゃう。宮沢先生の八月革命説はそこから起こっているんだ。八月革命説がいいかどうかは別として、国体の不連続というのは明白なんだ。(『丸山眞男話文集』続4、p.128)
これは1989年7月の座談会の記録で、2015年に初めて公刊された。「八月革命説がいいかどうかは別として」という表現は、明らかにそれを発案した人の言葉ではない。これを素直に読むと、「八月革命」は宮沢の発案した言葉だと解釈するしかない。

続きは9月18日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

教育サービスから「兵営」へ

江戸の教育力 (ちくま新書)
大学無償化が再分配政策としてナンセンスであることは明らかだが、公的教育投資としても効果がない。大学は個人の「格付け機関」であり、教育サービスとしては無意味だからだ。江戸時代の寺子屋はそうではなかった。それは公的補助をまったく受けない民間の教育サービスであり、そのために最適化されていた。

寺子屋の数は数万で、どんな小さな農村にも複数あったという。江戸時代から私的な教育投資が盛んだったのは、家庭では複雑な漢字の読み書きを教えられなかったからだ。教育サービスに学校という入れ物は必要ないので、初期には文字通り寺を借りて僧侶が教え、全員一律に「授業」するのではなく、師匠が寺子(生徒)ひとりひとりのペースに合わせて字を教えた。

それが明治初期の「学制令」で変わり、ヨーロッパをまねた公立学校ができた。その目的は教育サービスではなく軍事教練だったので、フーコーの指摘したように、すべての子供を同じ兵営に集めて訓練したのだ。学校は子供にとっては苦痛だが、それに耐えて試験でいい点をとる優等生がエリートになった。

続きは9月4日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

塾や専門学校にも使える「出世払いの奨学金」を



「大学無償化」が与野党で盛り上がってきたが、見ていて奇異に感じるのは教育バウチャーという言葉が出てこないことだ。例外は橋下徹氏ぐらいで、彼は5年前に大阪市で塾のバウチャーを導入したが、これは「無償化」とは似て非なるものだ。

続きはアゴラで。

大学無償化は「所得の逆分配」である

このところマスコミで「奨学金が返せない」という報道が繰り返されている。これは「教育無償化」キャンペーンの一環だろうが、それに対する反論は簡単だ。大卒の生涯賃金は高卒より平均6000万円ぐらい高いので、大学の私的収益率はきわめて高い。借金も返せないような大学に行くのは間違っている

所得を再分配して「貧しくて大学に行けない優秀な子」を無償化で支援したいという気持ちはわかるが、これは錯覚だ。少なくとも再分配政策としては、大学無償化は逆効果である――と書いたら、橋下徹氏が意味不明の反論をしている。

続きはアゴラで。

文系の真理は「学問政治」で決まる



いまだに2014年の閣議決定が「クーデター」だと言い張る石川健治氏は、東大法学部の学問政治の代表である。法学部の講座は、師匠に忠実な(師匠ほど頭のよくない)弟子が継承し、学説も継承する。そういう「通説」と違うことをいうと司法試験にも公務員試験にも受からないので、彼らが学界の「本流」になり、真理を独占する。

これは珍しいことではなく、真理はすべて政治的に決定されるのだ。実証主義も、学問政治の一種である。あなたが中世の天文学者だとすると、学会で地動説を唱えても他の全員が天動説を支持すると、天動説が「通説」なので、あなたはどこの大学にも職を得られない。それによって真理が決まると、それに反する説を唱える人はいなくなり、すべての人が天動説を信じる。

このように真理は学問政治(パラダイム)で決まるので、素朴なポパー理論のように事実で反証できない。経済学でも、マル経は同じだった。私の世代までは、東大経済学部の大学院入試で宇野理論と少しでも違う答案を書くと落ちたので、宇野派だけが教授になって真理を独占した。この学問政治のループを壊したのは「反証」ではなかった。

続きは8月21日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。






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