科学/文化

理性を超える「無意識」の正体は何か



来年1月からのアゴラ読書塾は「感情の科学」というテーマだが、人間を動かすのが理性を超える感情だという思想は新しいものではない。ニーチェはロゴスを超える「力への意志」が人類を動かすと考え、フロイトは意識を超える「無意識」が人間を動かすと考えた。こういう二元論は20世紀の思想に大きな影響を与え、構造主義やポストモダンにも受け継がれている。

ドゥルーズ=ガタリはフロイト的な発想で資本主義を精神分析し、「欲望機械」としてのグローバル資本主義が国家を破壊すると考えた。彼らは非合理的な感情を「コード化」して抑圧するのが国家であり、それをイノベーションで破壊して「脱コード化」する資本主義との矛盾が分裂病(統合失調症)をもたらすと主張した。

しかし最近の脳科学が示すのは、逆に感情が人格を統一し、理性をコントロールしているということだ。感情をつかさどる機能を失った患者は対人関係が崩壊し、支離滅裂な言動を繰り返すようになる。その知的能力が保たれていても、社会人としての生活ができなくなる。「私は私である」という同一性を維持しているのが感情なのだ。

続きは12月17日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

人はなぜ強欲な資本主義をきらうのか



ゴーン事件はまだ肝心の容疑事実がはっきりしないが、マスコミは「強欲な資本主義」や「新自由主義」の批判で埋め尽くされている。古代からどこの文化圏でもカネは「不浄」なものとされ、カトリックでもイスラムでも金利は禁じられた。その根底には独占や所有への嫌悪感がある。

なぜこのように強欲がきらわれるのかは、自明の問題ではない。新古典派経済学では効用は個人の消費のみに依存するので、他人の所得が増えて格差が拡大しても、自分の所得に影響しなければ怒る理由はない。だがチンパンジーでさえ、隣の猿の餌と自分の餌が違っていると怒る。これは不公平をきらう感情が、少なくとも霊長類には共通しているためと思われる。

こういう感情は、集団淘汰を考えると合理的だ。利己的な個体は利他的な個体に勝つが、利己的な集団は利他的な集団に負けるので、集団で行動する動物の脳には、利己的な行動を抑制する感情がそなわっているのだ。人間の場合には、その遺伝的な感情にもとづいて宗教ができ、それを信じる結束力の強い集団が戦争で勝ち残る共進化が起こった、というのが最近の進化心理学の理論である。

ところが利己的な行動を肯定する資本主義は、この遺伝的な感情と対立するので、つねに人々にきらわれるという脆弱性を抱えている。アダム・スミスはこの欠陥を「共感」で補完しようと考え、マックス・ウェーバーは金利を否定するカトリック教会が資本主義を抑圧したと指摘し、マルクスは所有権そのものを否定した。

続きは12月3日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

文化は暇つぶしから生まれた

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)
暇つぶしは、高齢社会の切実な問題である。サラリーマンの人生は65歳で終わり、やることが何もなくなる。そのあと20年ぐらいある退屈な余生をどうやって過ごすのか。これは人類が初めて直面した問題ではない。本書によれば、狩猟採集社会から定住社会に移った約1万年前から、退屈は重要な問題だった。

人類の脳は新しい食糧を求めて移動する狩猟採集社会に最適化されているので、つねに新しい刺激を求める。キャンプを移動して食糧をさがし、外敵から身を守る感覚が、遺伝的な「古い脳」の機能だが、定住して農耕を始めると変化が少なくなる。食糧は安定して供給され、外敵からは隔離されるので、脳への刺激が不足する。農作業が終わると、人々は長い夜を過ごすために神話を語り、壁画を描き、音楽を演奏し、芸能を楽しむようになる。

日本列島でこの変化を示す証拠が、縄文式土器だ。狩猟採集時代には実用的な石器しかなかったが、定住の始まった1万年ぐらい前から、土偶や複雑な模様の土器が出現した。

この土器は単なる容器ではなく、祭祀に使われたものと思われる。実用的な機能はないが、おそらく呪術的な意味があり、われわれの祖先はそれを使って儀式をやったのだろう。こういう文化は生存競争の役には立たないが、単調な生活に変化を与え、定住で解放された脳のエネルギーを消費する暇つぶしになったのだ。

続きは11月19日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

「無駄な進化」には意味があるのか

進化はすべて生存競争による「適者生存」の結果だ、というダーウィン以来の進化論の原理によると、生物の機能はすべて環境に適応するためにできたもので、無駄な進化というのはないはずだ。しかし生物には一見すると、無駄な機能が多い。



オーストラリアにいるクジャクグモという体長5mmほどの小さなクモのオスは、背中に派手な飾りをつけ、それを広げてメスの前でダンスを踊る。メスはこのダンスを見て交尾するオスを決めるというが、どれも同じように派手な模様で、同じようなダンスをしているので、どれが生殖能力の高いオスかは(人間には)わからない。このダンスには本当に意味があるのだろうか。

これは進化生物学で重要な適応主義論争のテーマである。すべての進化が環境に適応するものだとすると、この無駄なダンスにも意味があるはずだ。敵に捕食されやすい飾りをつけて目立つダンスをするオスは、敵が来ても逃げられる能力をメスに誇示するという目的に適応した、と解釈するのがハンディキャップ理論だ。

だがグールドの批判によれば、それは適応主義の神話にすぎない。こういう無駄な機能は、ある環境に適応してできた形質が、役に立たなくなっても残る進化の痕跡、スパンドレルだということになる。人間の音楽もダンスも、今は生存に意味のないスパンドレルだ。そう思って見ると、これは人間の歌手のダンスに似ていないだろうか。

続きは10月22日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

進化は偶然だけで説明できるのか

盲目の時計職人
進化のメカニズムは自然淘汰と突然変異しかないが、人間のように複雑な生物がそういう偶然だけで説明できるのか、というのは昔から疑問とされてきた。18世紀の神学者ペイリーは「時計が時計職人なしで偶然にできることはありえない」とし、それが自然の設計者たる神の存在証明だと考えた。

これは表現を変えると「猿がランダムにタイプライターをたたいて、シェイクスピアの作品ができるのか」という問題だが、ドーキンスは「できる」という。彼があげる例は『ハムレット』の

 METHINKS IT IS LIKE A WEASEL

という28字の文だが、アルファベットと空白の27字をランダムにタイプしてこの目的の文が偶然できるには、2728=1040回の試行錯誤が必要だ。これは1秒に1回タイプしても、宇宙の寿命より長い時間がかかるので、猿にはシェイクスピアの作品は書けない。これに対して、たとえば任意に選んだ続きを読む

「徳川の平和」に回帰する日本

アゴラ読書塾「丸山眞男と戦後日本の国体」はきのうで終了したが、結論は残念ながら「戦後日本に意味のある政策論争はなかった」ということだ。1950年代に丸山を初めとする知識人が主張した「非同盟・非武装」という理念は、もともと政策として成り立たなかった。のちに彼も認めたように憲法第9条は「逆説」であり、これからもそうであるしかない。

では憲法改正が現実になるかというと、それも当面は無理だろう。岸信介の理想とした「自主防衛」で米軍基地を撤去しようという政治家は、今や自民党にもいない。かつて「改憲保守」のリーダーだった安倍首相は、今や「親米保守」になった。こういう状況で第9条を改正するかどうかは、もう政策論争として意味がない。

これは中国の圧倒的優位(冊封体制)のもとで平和を維持していた江戸時代の日本に似ている。清は形式的には日本を支配していたが、武力は行使しなかった。日本は250年の平和の中で兵農分離し、武器は鉄砲から刀に退化した。人々は各藩の中の「一国平和主義」を享受していたが、18世紀から人口も所得も増えなくなった。

同じ時期にヨーロッパでは、人口と所得が爆発的に増えた。その最大の原因は、新大陸の「発見」で領土が拡大し、軍事力が発達したことだった。日本が「徳川の平和」で局所最適化した時期に、ヨーロッパ人は世界征服という大域最適化を求めたのだ。こういう進化論的な差は、短期間に急速に拡大する。

続きは10月1日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

「安倍一強」で劣化した右派論壇誌

『新潮45』の特集「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」をめぐる波紋が、意外に大きくなっている。私は問題の発端になった杉田水脈氏の原稿も、今回の特集も読んでいない(これから読む気もない)が、小川栄太郎氏の「痴漢の触る権利を保障しろ」という原稿は、普通の雑誌ならボツだ。これを掲載した編集長の責任は問われるべきだが、それだけのことである。

ところがこれをきっかけとして「『新潮45』は廃刊しろ」というだけでなく、朝日新聞は「新潮社の本を棚から撤去」という記事で不買運動をあおり、新潮社の社長が謝罪した。これは著者の一部に執筆拒否の動きが出たためだろう。文芸出版社は、著者には弱い。『週刊新潮』にも『週刊文春』にも、作家のスキャンダルは出ない。それにつけ込んで新潮社に圧力をかけるのは言論弾圧である。

考えさせられるのは、こんな駄文が月刊誌に掲載されるようになった「論壇」の劣化だ。まだ『諸君!』が健在だったころは、右派論壇誌で外交や安全保障をめぐって「親米」か「反米」かといった論争もあった。そういう論争がなくなり、同じ顔ぶれで同じテーマばかり繰り返すようになったのは、安倍政権の「一強」が強まってきた最近の現象である。

続きは10月1日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

「支那」は差別語ではなく地名である

最近Facebookの検閲がきびしくなって、「支那」という言葉を使うとアカウントが停止されるようだ。グーグル日本語でも候補に出てこない。これはマスコミでは昔から禁止だが、根拠のないタブーである。その語源は5世紀ごろインドで中国を「シナ」と呼んだもので、このもとは「秦」だといわれる。中国には「漢」や「唐」などの王朝を超える地名がなかったため、シナやチャイナという呼称がヨーロッパでも使われた(今も使われている)。

支那という漢字も中国で当てたものだが、これは他称なので、中国人は使わなかった。日本に輸入されたのは平安時代で、江戸時代に広く使われるようになった。どちらの国でも「中国」という言葉は、ほとんど使われなかった。まれに中国人がそう呼ぶときは「南蛮北狄」などに対する世界の中心という意味で、「わが国」の尊称だった。

その事情が複雑になったのは、明治以降である。「支那人」を差別する日本人がいたことは事実だが、それは「支那」が蔑称だったからではなく、他にあの大陸を表現する言葉がなかったからだ。しかし中国から日本に来た留学生は、彼らの知らない「支那」という言葉を差別語だと感じたようだ。1930年に中華民国政府は、「支那」という言葉を使った外交文書を受け取らないと日本政府に通告した。これがタブーの始まりだった。

続きは9月24日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

就活ルールを廃止して「大学入学」を就職の条件に

経団連の中西会長が「就活ルールを2021年春から廃止する」と述べたことが話題になっている。この種の協定には拘束力がなく、規制と廃止を繰り返してきた。今は説明会は3月、面接は6月に解禁することになっているが、実際には3年生の年末から就活は始まっており、アンケート調査では5月までに内定を出した企業が4割近い。

経団連に入っていないIT企業や外資系企業は、通年で採用している。たとえばユニクロ(ファーストリテイリング)は1年生の4月から内定を出し、在学中は店舗でアルバイトをしてもらい、卒業と同時に店長にする。財界系企業だけ協定を守っていては、競争にならないという危機感があるのだろう。

新卒一括採用という日本独特の雇用慣行がなくなるのは、学生にとっても企業にとってもいいことだ。就活の前倒しは「学業のさまたげになる」という批判が強いが、それほど学業が重要なら、成績も確定しない3年生に内定を出すはずがない。

続きはアゴラで。

「サン・チャイルド」の小さな事件が示す大きな変化


サン・チャイルド像(作者ホームページより)

福島市長が、福島駅の近くに設置した「サン・チャイルド」という像を撤去することを決めた。これ自体は大した事件ではないが、福島をめぐる「空気」の変化を示している。作者のヤノベケンジ氏は、2011年にこれを制作した動機をこう語っている。
黄色い放射能防護服を着ていますが、ヘルメットを脱いで左手に抱え、顔に傷を負い、絆創膏を貼りながらも、空を見上げて逞しく立っています。胸のガイガー・カウンターは、ゼロを表示しています

子供は未来を表しており、それらは放射能の心配のない世界を迎えた未来の姿の象徴でもあります。そして、右手に持つ「小さな太陽」は、次世代にエネルギー問題や放射能汚染が解決される「未来の希望」を象徴しています。

続きはアゴラで。






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