科学/文化

なぜ大学教師はサラリーマンより生産性が低いのか

文部科学省は2019年度から、国立大学の教員に年俸制を導入し、業績給を拡大する方針だ。これに対して大学教師から反発の声が上がっているが、年俸制なんて普通の会社では当たり前だ。「業績の意味がわからない」という声もあるが、論文の引用数による業績の算定方法は(理系では)確立している。



続きはアゴラで。

私立大学は「裏口」だらけ

文部科学省の局長が逮捕された事件は、まだ事実関係がはっきりしないが、「贈賄側」の東京医大の理事長と学長は、「入試の点数に加点した」ことを認めているようだ。賄賂は現金に限らず、職務上の地位が賄賂と認定された判例もあるらしいが、「裏口入学」が贈賄と認定されたら、私立大学は賄賂だらけになる。

続きはアゴラで。

日本の大学教師はなぜダメなのか

Facebookでうろ覚えの数字を書いたら反響があったので、訂正かたがた書いておく。日本の大学改革でよく「新自由主義で雇用が不安定になったから大学の業績が落ちた」という話がある。これが正しいとすれば、日本より雇用の不安定なアメリカでは、もっと業績が落ちるはずだ。世界一といわれるハーバード大学はどうだろうか。

キャプチャ


これは大学の公式サイトに出ている数字だが、学部スタッフ2026人のうち、テニュア(終身雇用資格)をもっているスタッフは910人、45%である。日本では全大学を平均して終身雇用が約60%なので、雇用の安定している日本のほうが業績が上がるはずだが、もちろんそうなっていない。

雇用保証が労働生産性を高めるかどうかは、仕事の性格に依存する。工場労働者のようなチーム生産の利益が大きく、個人の能力にあまり依存しない労働では、雇用を保証して「企業特殊的スキル」を身につけることが重要なので、日本の製造業の生産性は高い。ホワイトカラーの生産性は低いが、人事異動や出世競争という強いインセンティブがある。

これに対して研究はチーム生産の利益が小さく、個人の能力に大きく依存するので、雇用保証する意味が少ない。大学では人事異動もないので、競争原理がまったく働かない。この意味で大学の雇用慣行は最悪で、日本的雇用が知識集約的な産業でダメになるモデルケースだが、それは最近さらに悪化している。若い研究者だけに「業績主義」が適用されているからだ。

続きは5月21日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

研究成果をいかにマネタイズするか



科研費の問題はまだいろいろリアクションが来るが、私は科研費そのものは必要だと思う。たとえば素粒子論で巨大な実験設備が必要な研究を、大学の経費でやることはできない。その成果を収益化することもできないし、する必要もない。知識の外部性は大きいので、研究の価値を研究者に還元するのはむずかしい。ざっくりいうと、その方法は次の4つある。
  1. スポンサーに金を出してもらう
  2. 知識を独占して「知的財産」として販売する
  3. 学生に学歴を与えて「授業料」として料金をとる
  4. 政府が裁量的補助金を出す
続きはアゴラで。

「研究を通じた教育」というトリック

フンボルト理念の終焉?―現代大学の新次元
「文系に科研費はいらない」という私のツイートに大きな反響があるが、大学は教授の生活を学生が支える集金装置なので、文系の教授はサラリーで十分生活できるはずだ。科研費は実験器具などを使う「科学研究」に限るべきだが、研究支援のシステムは必要だ。むしろ研究費を「大学教育」という無意味なサービスの対価として徴収する大学制度に問題がある。

今のような大学ができたのはそれほど古い話ではなく、中世のユニバーシティとは無関係だ。19世紀ドイツでフンボルトやフィヒテなどがつくったベルリン大学は、研究者の養成機関だった。教授は「実験室」(ラボラトリ)単位で数十人の学生を集め、彼らを使って研究をおこなった。その経費は、授業料という形で学生の親から徴収した。

つまりドイツの大学は研究を通じた教育と称して、研究費を授業料でまかなうトリックだったのだ。専門的な教育は一般の労働者には役に立たなかったが、エリートを養成する制度としてはよくできていた。他の国のカレッジは教養科目だけだったので、優秀な研究者はドイツに集まり、特に物理学では20世紀初頭までの主要な業績をドイツが独占した。しかしそれは第1次大戦後に凋落し、大学の中心はアメリカに移った。それはなぜだろうか。

続きは5月14日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

文系に「科研費」は必要か

山口二郎氏のグループが4年間で4.5億円の科研費を取ったという話がネットで騒がれているが、「国賊に国が金を出すな」というのは筋が悪い。手続き的な違法性のない話を騒ぐのは、加計学園と同じだ。私は山口氏の研究に社会的な価値はないと思うが、そういう価値判断で科研費の可否を問うことはできない。

科研費は個人に出たわけではなく山口氏のグループに出たのであり、日本政治学会長だった彼の役得だろう。4.5億円というのも、グループとしては突出して多いわけではない。政治学なんて業績の客観的評価はできないから、学界のボスに科研費が集まるのはしょうがない。それより根本的な問題は、文系に「科学研究」の補助が必要かということだ。

私もその恩恵にあずかった経験があるが、はっきりいって文系に科研費なんか必要ない。しいていえば国際会議と海外出張には経費がかかるが、あとは大学の経費でできる。最近は科研費がポスドクの雇用対策になっているようだが、いずれにしても人件費なので、理系のようにハードウェアに実費がかかる「科学研究」とは性格が違う。

続きは5月14日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

イノベーションは戦争から生まれた

京都大学が打ち出した「軍事研究の禁止」の方針が話題を呼んでいる。
本学における研究活動は、社会の安寧と人類の幸福、平和へ貢献することを目的とするものであり、それらを脅かすことに繋がる軍事研究は、これを行わないこととします。
「軍事研究」の定義が不明だが、「軍事的に利用できる研究」と理解すると、コンピュータもインターネットも京大では研究できない。前者は弾道計算のために、後者は核戦争に生き残る分散ネットワークとして開発されたものだからである。さらに原爆は相対性理論から生まれたので、京大では理論物理学の研究も禁止だ。

戦争はイノベーションの源泉である。生命を守るという至上命令のために、政府はコストを考えないで新技術を開発するからだ。21世紀の戦争は、ロボットやドローンなどの無人兵器が主力で、それを制御するのは人工知能である。これから京大では、ロボットもドローンも人工知能も研究できない。

続きは4月9日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

韓国人はなぜ日本人を恨むのか

韓国の文在寅大統領が「加害者の日本政府が『慰安婦問題は終わった』といってはならない」と発言したが、日韓併合は国際法にもとづく正式の条約であり、日本政府が「加害者」呼ばわりされるいわれはない。しかし韓国人から見るとどうだろうか。

明治維新で日本が急速な近代化を遂げたのに対して、清の属国だった李氏朝鮮の停滞は深刻だったので、金玉均などの独立派は朝鮮を近代国家に改革しようとした。彼らは福沢諭吉の指導で、1884年にクーデタ(甲申事変)を起こしたが失敗し、朝鮮が独立する可能性はなくなった。このため日本は、日清戦争で朝鮮半島の支配権を清から奪った。

これを朝鮮からみると、清を中心とする華夷秩序の中では、朝鮮は「華」の周辺国だったが、日本は「夷」だった。朝鮮の官僚機構は科挙をまねたが、日本は科挙を輸入しなかった。日本を支配していたのは、儒教秩序の中では卑しい身分の軍人(武士)だったからだ。それが成り上がって朝鮮を支配したことが、彼らにとっては屈辱だった。「われわれは日本人の兄貴分だ」という気分は、今でも韓国人には残っている。

続きは3月5日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。(まぐまぐに引っ越しました)

なぜ人々は差別を作り出すのか

今日のトーテミスム (みすずライブリー) (みすずライブラリー)
きのうアゴラの新年会で、ポリコレの話が盛り上がった。日本にもセクハラ騒動を輸入しようという人々が、顔を黒く塗った芸人を「人権問題」と騒いだりしているが、これには既視感がある。かつて日本でも部落解放同盟や朝鮮総連が「糾弾運動」で、役所やマスコミを攻撃した。ポリコレの最大の原因は民族差別だが、それはなぜこのように強いタブーになり、人の心を動かすのだろうか。

まず明らかなのは、差別の中身には意味がないということだ。肌が黒いことも、国籍が日本ではないことも、その人が劣っていることを意味するわけではない。だから民族差別は不合理だ、とポリコレ派は考えるが、これは誤りである。差別の意味は、他者を排除して自己のアイデンティティを作り出すことにあるのだ。

これはレヴィ=ストロースが探究した問題である。未開社会の人々が特定の動植物を「トーテム」として崇拝して(日常生活から切り離した)タブーにする意味は、それ自体では理解できない。トーテムは自他の境界を画す記号である、というのが彼の理論だった。このようなタブーは普遍的にみられ、日本のケガレもその一種と考えることができる。

ここで大事なのは何をタブーにするかという内容ではなく、一つの集団が同じタブー(記号)を信じているという形式である。タブーがお笑いと結びつくのも偶然ではない。自他の境界はもともと恣意的なものであり、「民族」の定義も不明だ。その境界を揺すぶることで、芸人(道化)は敵と味方を固定する集団に反抗しているのだ。

続きは1月22日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

柄谷行人氏の平和ボケは「日本人の無意識」か

毎日新聞に出ている柄谷行人氏のインタビューが、ちょっと話題になっている。論旨は「憲法9条を守って無防備になれば、国際社会が許さないので北朝鮮は攻撃できない」という平和ボケだが、最初から最後までナンセンスというわけではない。
長い戦国時代の後、戦争を否定する徳川幕府体制が生まれ、国内だけでなく、東アジア一帯の平和が実現されました。「徳川の平和」と呼ばれています。武士は帯刀しましたが、刀は身分を表す象徴であり、武器ではなかったのです。徳川の文化こそが9条の精神を先取りした「先行形態」です。
いろいろな偶然が重なって江戸時代に日本が250年も平和を享受したことが「無意識」に定着し、その後の日本人の(彼に代表される)平和ボケの原型になっている、という話は新しくないが当たっている。江戸時代の日本人の敵は外国ではなく災害だったのだ。

しかし明治以降の対外的な膨張主義はどう説明するのか。彼は「明治維新後に日本は徴兵制を始め、朝鮮半島を植民地化し、中国を侵略しました。9条が根ざしているのは、明治維新以後、日本人がやってきたことに対する無意識の悔恨です」というが、これは論理がつながっていない。やってから後悔するぐらいなら、初めから戦争なんかしないだろう。

続きは12月4日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。






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