科学/文化

なぜ人々は差別を作り出すのか

今日のトーテミスム (みすずライブリー) (みすずライブラリー)
きのうアゴラの新年会で、ポリコレの話が盛り上がった。日本にもセクハラ騒動を輸入しようという人々が、顔を黒く塗った芸人を「人権問題」と騒いだりしているが、これには既視感がある。かつて日本でも部落解放同盟や朝鮮総連が「糾弾運動」で、役所やマスコミを攻撃した。ポリコレの最大の原因は民族差別だが、それはなぜこのように強いタブーになり、人の心を動かすのだろうか。

まず明らかなのは、差別の中身には意味がないということだ。肌が黒いことも、国籍が日本ではないことも、その人が劣っていることを意味するわけではない。だから民族差別は不合理だ、とポリコレ派は考えるが、これは誤りである。差別の意味は、他者を排除して自己のアイデンティティを作り出すことにあるのだ。

これはレヴィ=ストロースが探究した問題である。未開社会の人々が特定の動植物を「トーテム」として崇拝して(日常生活から切り離した)タブーにする意味は、それ自体では理解できない。トーテムは自他の境界を画す記号である、というのが彼の理論だった。このようなタブーは普遍的にみられ、日本のケガレもその一種と考えることができる。

ここで大事なのは何をタブーにするかという内容ではなく、一つの集団が同じタブー(記号)を信じているという形式である。タブーがお笑いと結びつくのも偶然ではない。自他の境界はもともと恣意的なものであり、「民族」の定義も不明だ。その境界を揺すぶることで、芸人(道化)は敵と味方を固定する集団に反抗しているのだ。

続きは1月22日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

柄谷行人氏の平和ボケは「日本人の無意識」か

毎日新聞に出ている柄谷行人氏のインタビューが、ちょっと話題になっている。論旨は「憲法9条を守って無防備になれば、国際社会が許さないので北朝鮮は攻撃できない」という平和ボケだが、最初から最後までナンセンスというわけではない。
長い戦国時代の後、戦争を否定する徳川幕府体制が生まれ、国内だけでなく、東アジア一帯の平和が実現されました。「徳川の平和」と呼ばれています。武士は帯刀しましたが、刀は身分を表す象徴であり、武器ではなかったのです。徳川の文化こそが9条の精神を先取りした「先行形態」です。
いろいろな偶然が重なって江戸時代に日本が250年も平和を享受したことが「無意識」に定着し、その後の日本人の(彼に代表される)平和ボケの原型になっている、という話は新しくないが当たっている。江戸時代の日本人の敵は外国ではなく災害だったのだ。

しかし明治以降の対外的な膨張主義はどう説明するのか。彼は「明治維新後に日本は徴兵制を始め、朝鮮半島を植民地化し、中国を侵略しました。9条が根ざしているのは、明治維新以後、日本人がやってきたことに対する無意識の悔恨です」というが、これは論理がつながっていない。やってから後悔するぐらいなら、初めから戦争なんかしないだろう。

続きは12月4日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

理系はなぜだめになったのか

NHKニュースが「日本からノーベル賞が出なくなる」と報道している。ノーベル賞そのものは単なるイベントだからどうでもいいが、理系の生産性が落ちたことは事実だ(文系はもともとだめだが)。これからもっとひどくなるだろう。優秀な若者が、日本で研究者にならないからだ。

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その原因をこのニュースは「国立大学の法人化が悪い」とか「政府が科学技術にカネを出さない」という話にしようとしているが、図を見れば明らかなように、政府の科学技術予算は横ばいで、大学の定員は減ったので、教員一人あたりではかなり増えた。つまり問題は大学の予算ではないのだ。

大学教師なら誰でも知っているように、この時期に新規採用も減り、ほとんどが任期つきになった。教授や准教授の既得権(テニュア)を認めたまま、若手だけを「非正規」採用したので、40代で非常勤のままという研究者が増えた。そういう状況を見て、優秀な若者が日本の大学院に進学しないのは当然だ。

これは日本社会の縮図である。大企業が「正社員」の既得権を守って新規採用を減らしたので、若手が「非正規」のまま昇給しない。おかげで賃金が下がって雇用は増えたが、新陳代謝が止まって労働生産性は低下した。これを「アベノミクスで完全雇用になった」と自画自賛している政治家は、無知でなければ嘘つきである。

続きは9月25日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

「八月革命」を発案したのは丸山眞男ではない

また細かい文献学で恐縮だが、「丸山眞男学」業界にとってはちょっとおもしろい話。「八月革命」という言葉を発案したのは丸山だというのが通説だが、文献的な証拠がない。『丸山眞男集』の年譜には、東京帝大の憲法研究委員会で「丸山が提示した八月革命説を、宮沢[俊義]は丸山の承諾をえて」論文に発表したと書かれているが、この出典がはっきりしない。ところが最近、彼の座談の中に次のような話が見つかった。
ポツダム宣言を受諾したことが国体変更になるという南原先生の説が正しい。そうすると、天皇が主権者でないということを、ポツダム宣言を受諾した瞬間に日本国政府が受け入れたことになっちゃう。宮沢先生の八月革命説はそこから起こっているんだ。八月革命説がいいかどうかは別として、国体の不連続というのは明白なんだ。(『丸山眞男話文集』続4、p.128)
これは1989年7月の座談会の記録で、2015年に初めて公刊された。「八月革命説がいいかどうかは別として」という表現は、明らかにそれを発案した人の言葉ではない。これを素直に読むと、「八月革命」は宮沢の発案した言葉だと解釈するしかない。

続きは9月18日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

教育サービスから「兵営」へ

江戸の教育力 (ちくま新書)
大学無償化が再分配政策としてナンセンスであることは明らかだが、公的教育投資としても効果がない。大学は個人の「格付け機関」であり、教育サービスとしては無意味だからだ。江戸時代の寺子屋はそうではなかった。それは公的補助をまったく受けない民間の教育サービスであり、そのために最適化されていた。

寺子屋の数は数万で、どんな小さな農村にも複数あったという。江戸時代から私的な教育投資が盛んだったのは、家庭では複雑な漢字の読み書きを教えられなかったからだ。教育サービスに学校という入れ物は必要ないので、初期には文字通り寺を借りて僧侶が教え、全員一律に「授業」するのではなく、師匠が寺子(生徒)ひとりひとりのペースに合わせて字を教えた。

それが明治初期の「学制令」で変わり、ヨーロッパをまねた公立学校ができた。その目的は教育サービスではなく軍事教練だったので、フーコーの指摘したように、すべての子供を同じ兵営に集めて訓練したのだ。学校は子供にとっては苦痛だが、それに耐えて試験でいい点をとる優等生がエリートになった。

続きは9月4日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

塾や専門学校にも使える「出世払いの奨学金」を



「大学無償化」が与野党で盛り上がってきたが、見ていて奇異に感じるのは教育バウチャーという言葉が出てこないことだ。例外は橋下徹氏ぐらいで、彼は5年前に大阪市で塾のバウチャーを導入したが、これは「無償化」とは似て非なるものだ。

続きはアゴラで。

大学無償化は「所得の逆分配」である

このところマスコミで「奨学金が返せない」という報道が繰り返されている。これは「教育無償化」キャンペーンの一環だろうが、それに対する反論は簡単だ。大卒の生涯賃金は高卒より平均6000万円ぐらい高いので、大学の私的収益率はきわめて高い。借金も返せないような大学に行くのは間違っている

所得を再分配して「貧しくて大学に行けない優秀な子」を無償化で支援したいという気持ちはわかるが、これは錯覚だ。少なくとも再分配政策としては、大学無償化は逆効果である――と書いたら、橋下徹氏が意味不明の反論をしている。

続きはアゴラで。

文系の真理は「学問政治」で決まる



いまだに2014年の閣議決定が「クーデター」だと言い張る石川健治氏は、東大法学部の学問政治の代表である。法学部の講座は、師匠に忠実な(師匠ほど頭のよくない)弟子が継承し、学説も継承する。そういう「通説」と違うことをいうと司法試験にも公務員試験にも受からないので、彼らが学界の「本流」になり、真理を独占する。

これは珍しいことではなく、真理はすべて政治的に決定されるのだ。実証主義も、学問政治の一種である。あなたが中世の天文学者だとすると、学会で地動説を唱えても他の全員が天動説を支持すると、天動説が「通説」なので、あなたはどこの大学にも職を得られない。それによって真理が決まると、それに反する説を唱える人はいなくなり、すべての人が天動説を信じる。

このように真理は学問政治(パラダイム)で決まるので、素朴なポパー理論のように事実で反証できない。経済学でも、マル経は同じだった。私の世代までは、東大経済学部の大学院入試で宇野理論と少しでも違う答案を書くと落ちたので、宇野派だけが教授になって真理を独占した。この学問政治のループを壊したのは「反証」ではなかった。

続きは8月21日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

大学無償化より「インセンティブ奨学金」を

安倍新内閣の目玉は「人づくり革命」という珍妙なネーミングの政策だ。茂木経済再生担当相は5つのテーマを発表したが、ポイントは教育無償化につきる。これは安倍首相の憲法改正案にも盛り込まれて大きな関心を呼んでいるが、政府が税金をばらまいても「人づくり」にはならない。文科省の政策は大学院重点化や法科大学院など、失敗の連続だ。

続きはアゴラで。

文学部は役に立つのか

阪大の金水文学部長のインタビューが話題を呼んでいる。彼は今年3月の卒業式で、経済界などで強まっている「税金を投入する国立大学では理系に重点を置き、文系は私学に任せるべきだ」という意見に対して「文学部で学ぶ哲学・文学などの学問の意義は、どのように答えたらよいのでしょうか」と問いかけた。

その答は「文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったとき」だというが、これは税金を投入する理由になっていない。「人生の意味は何か」と考えることはそれ自体が目的だから、他の何かに役立つわけがなく、役に立つ必要もない。それは一生かけて本を読んで自分で考えればよく、国立大学という「入れ物」に18歳の若者を集めて訓練する意味はない。

単位や成績評価という制度も無意味だ。学生は先生の話を聞くためではなく、単位を取るために授業に出る。先生は教育する気はなく、研究を維持するための義務として授業をする。就職先の企業も文系の学問なんか専門知識だとは思っていないので、大学教育は誰も求めていないサービスを4年間やっているのだ。

続きは7月31日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。






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