科学/文化

「八月革命」を発案したのは丸山眞男ではない

また細かい文献学で恐縮だが、「丸山眞男学」業界にとってはちょっとおもしろい話。「八月革命」という言葉を発案したのは丸山だというのが通説だが、文献的な証拠がない。『丸山眞男集』の年譜には、東京帝大の憲法研究委員会で「丸山が提示した八月革命説を、宮沢[俊義]は丸山の承諾をえて」論文に発表したと書かれているが、この出典がはっきりしない。ところが最近、彼の座談の中に次のような話が見つかった。
ポツダム宣言を受諾したことが国体変更になるという南原先生の説が正しい。そうすると、天皇が主権者でないということを、ポツダム宣言を受諾した瞬間に日本国政府が受け入れたことになっちゃう。宮沢先生の八月革命説はそこから起こっているんだ。八月革命説がいいかどうかは別として、国体の不連続というのは明白なんだ。(『丸山眞男話文集』続4、p.128)
これは1989年7月の座談会の記録で、2015年に初めて公刊された。「八月革命説がいいかどうかは別として」という表現は、明らかにそれを発案した人の言葉ではない。これを素直に読むと、「八月革命」は宮沢の発案した言葉だと解釈するしかない。

続きは9月18日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

教育サービスから「兵営」へ

江戸の教育力 (ちくま新書)
大学無償化が再分配政策としてナンセンスであることは明らかだが、公的教育投資としても効果がない。大学は個人の「格付け機関」であり、教育サービスとしては無意味だからだ。江戸時代の寺子屋はそうではなかった。それは公的補助をまったく受けない民間の教育サービスであり、そのために最適化されていた。

寺子屋の数は数万で、どんな小さな農村にも複数あったという。江戸時代から私的な教育投資が盛んだったのは、家庭では複雑な漢字の読み書きを教えられなかったからだ。教育サービスに学校という入れ物は必要ないので、初期には文字通り寺を借りて僧侶が教え、全員一律に「授業」するのではなく、師匠が寺子(生徒)ひとりひとりのペースに合わせて字を教えた。

それが明治初期の「学制令」で変わり、ヨーロッパをまねた公立学校ができた。その目的は教育サービスではなく軍事教練だったので、フーコーの指摘したように、すべての子供を同じ兵営に集めて訓練したのだ。学校は子供にとっては苦痛だが、それに耐えて試験でいい点をとる優等生がエリートになった。

続きは9月4日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

塾や専門学校にも使える「出世払いの奨学金」を



「大学無償化」が与野党で盛り上がってきたが、見ていて奇異に感じるのは教育バウチャーという言葉が出てこないことだ。例外は橋下徹氏ぐらいで、彼は5年前に大阪市で塾のバウチャーを導入したが、これは「無償化」とは似て非なるものだ。

続きはアゴラで。

大学無償化は「所得の逆分配」である

このところマスコミで「奨学金が返せない」という報道が繰り返されている。これは「教育無償化」キャンペーンの一環だろうが、それに対する反論は簡単だ。大卒の生涯賃金は高卒より平均6000万円ぐらい高いので、大学の私的収益率はきわめて高い。借金も返せないような大学に行くのは間違っている

所得を再分配して「貧しくて大学に行けない優秀な子」を無償化で支援したいという気持ちはわかるが、これは錯覚だ。少なくとも再分配政策としては、大学無償化は逆効果である――と書いたら、橋下徹氏が意味不明の反論をしている。

続きはアゴラで。

文系の真理は「学問政治」で決まる



いまだに2014年の閣議決定が「クーデター」だと言い張る石川健治氏は、東大法学部の学問政治の代表である。法学部の講座は、師匠に忠実な(師匠ほど頭のよくない)弟子が継承し、学説も継承する。そういう「通説」と違うことをいうと司法試験にも公務員試験にも受からないので、彼らが学界の「本流」になり、真理を独占する。

これは珍しいことではなく、真理はすべて政治的に決定されるのだ。実証主義も、学問政治の一種である。あなたが中世の天文学者だとすると、学会で地動説を唱えても他の全員が天動説を支持すると、天動説が「通説」なので、あなたはどこの大学にも職を得られない。それによって真理が決まると、それに反する説を唱える人はいなくなり、すべての人が天動説を信じる。

このように真理は学問政治(パラダイム)で決まるので、素朴なポパー理論のように事実で反証できない。経済学でも、マル経は同じだった。私の世代までは、東大経済学部の大学院入試で宇野理論と少しでも違う答案を書くと落ちたので、宇野派だけが教授になって真理を独占した。この学問政治のループを壊したのは「反証」ではなかった。

続きは8月21日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

大学無償化より「インセンティブ奨学金」を

安倍新内閣の目玉は「人づくり革命」という珍妙なネーミングの政策だ。茂木経済再生担当相は5つのテーマを発表したが、ポイントは教育無償化につきる。これは安倍首相の憲法改正案にも盛り込まれて大きな関心を呼んでいるが、政府が税金をばらまいても「人づくり」にはならない。文科省の政策は大学院重点化や法科大学院など、失敗の連続だ。

続きはアゴラで。

文学部は役に立つのか

阪大の金水文学部長のインタビューが話題を呼んでいる。彼は今年3月の卒業式で、経済界などで強まっている「税金を投入する国立大学では理系に重点を置き、文系は私学に任せるべきだ」という意見に対して「文学部で学ぶ哲学・文学などの学問の意義は、どのように答えたらよいのでしょうか」と問いかけた。

その答は「文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったとき」だというが、これは税金を投入する理由になっていない。「人生の意味は何か」と考えることはそれ自体が目的だから、他の何かに役立つわけがなく、役に立つ必要もない。それは一生かけて本を読んで自分で考えればよく、国立大学という「入れ物」に18歳の若者を集めて訓練する意味はない。

単位や成績評価という制度も無意味だ。学生は先生の話を聞くためではなく、単位を取るために授業に出る。先生は教育する気はなく、研究を維持するための義務として授業をする。就職先の企業も文系の学問なんか専門知識だとは思っていないので、大学教育は誰も求めていないサービスを4年間やっているのだ。

続きは7月31日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

「帝国大学」モデルの終わり

帝国大学―近代日本のエリート育成装置 (中公新書)
文学部バイアスの記事が思わぬ反響を呼んでいるので、誤解のないように補足しておこう。私は国立大学に文学部は必要ないと思うが、もっといえば文系学部はすべて必要ない。経済学部の最初の半年ぐらいはすべての学生の必修にすべきだと思うが、それ以外の文系の学問は(文学部だけでなく)役に立たないので、学生をキャンパスに集めて教える意味はない。

それは明治期に帝国大学をつくった伊藤博文も承知の上だった。初期の「東京大学」は開成学校などの専門学校の寄せ集めだったが、1886年にできた「帝国大学」は、ドイツから帰国した伊藤が、当時世界最高のレベルを誇ったフンボルト型大学をモデルにして設立したものだ。

ドイツ型の大学は研究者の養成機関だが、その研究費を「授業料」と称して学生から取る詐欺的なビジネスだった。これはアメリカに輸出されて「大学院」というさらに詐欺的なビジネスを生み、20世紀後半にはドイツは競争に敗れた。日本の帝国大学は、最初からドイツ型の教養主義で、高級官僚の地位を約束する代わりに高い学費を取るものだった。

大学の文系学部が役に立たないことは、今では誰でも知っているが、学歴のシグナリング効果(情報節約機能)がある限り、このビジネスは成り立つ。大学の私的収益率は10倍以上なので、無償化なんて必要ない。帝大は発展途上国だった日本がエリートを養成する役には立ったが、もうその役割は終わったのだ。

続きは7月31日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

日本は江戸時代から「暇つぶし先進国」

o-RALLY-570

日本の反政府デモは平均年齢が高い。上の写真は安保法制のときのハフィントンポストの記事だが、平均年齢はどう見ても60歳を超えている。「憲法9条を守れ」というような宗教的信念を刷り込まれたのは私以上の世代だが、年金は十分あるので働く必要はない。デモは彼らの暇つぶしなのだ。

普通のサラリーマンは50歳ぐらいで仕事がなくなり、60歳で肩たたきを受け、65歳で定年退職してから平均20年ぐらい何もすることがない。どうやって老後の暇をつぶすかは、高齢化する日本で深刻な問題である。マスコミで加計学園のような些細な話が盛り上がるのも、1日中テレビを見ている団塊の世代の影響が大きいと思う。

暇つぶしにかけては、日本は先進国である。何しろ江戸時代には250年以上、内戦も対外戦争もなかったのに、日本中の300近い「国」がそれぞれ軍人(武士)を抱えていた。彼らは人口の1割近くいたが、戦争をしない国で退屈をまぎらわすには、きわめて高度な技術が必要だった。江戸時代の文化は、そのおかげで洗練されたのだ。

続きは7月24日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

憲法学者は真理を政治的に決める「聖職者」



きのうは篠田英朗さんに戦後の憲法学の奇妙な歴史についてきいたが、途中で突飛な連想が浮かんだ。宮沢俊義の「8月革命」説がキリスト教の三位一体説に似ており、それを守る東大法学部の憲法学者が聖職者に似ているということだ。

近代の常識では、規範で事実を決めることはできない。たとえば憲法で「地球は太陽のまわりを回るべきではない」と決めても、地球が公転するという事実は変わらない。しかし歴史の大部分では、信仰で真理が決まった。三位一体説は「父と子と聖霊は三つだが一つである」という(8月革命と同じく)支離滅裂な話だが、4世紀以来ずっとキリスト教の正統である。それを信じない者は「異端」として政治的に排除されたからだ。

今でもイスラムでは、法学者は聖職者である。スンニ派とシーア派が戦争するのは、法解釈で真理が決まるからだ。歴史的には、規範と無関係に実験や観察で真理を決める実証主義は特殊な思想だが、カトリック教会も1992年に地動説を認めた。東大の法学者=聖職者が学問的真理を政治的に決める憲法学は、イスラムと同じである。続きを読む






title




連絡先(取材・講演など)

記事検索
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
Creative Commons