「環境と経済の好循環」は幻想である

亡国の環境原理主義
政府は今年6月にグリーン成長戦略を発表した。ここでは「環境と経済の好循環」を掲げ、その手段としてカーボンプライシング(炭素税)をあげているが、本書も指摘するようにこのメッセージは矛盾している。温暖化対策で成長できるなら、炭素税は不要である。

日経新聞のいうように「カーボンゼロ」でもうかるなら、政府が何もしなくても、企業は利潤追求のために脱炭素化に投資し、収益が上がるだろう。現実に「ESG投資」と称して脱炭素化投資が行われているが、それが収益を生む見通しはない。

現実に起こっているのは、その逆だ。「2040年までに石炭を禁止する」とか「ガソリン車を禁止する」というCOP26の目標のおかげで化石燃料の開発が止まり、原油や天然ガスの価格が暴騰してグリーンフレーションが起こっている。

つまり脱炭素化と経済成長はトレードオフなのだ。「脱炭素化で成長できる」という猪瀬直樹氏のモデルチェンジ日本のようなうまい話はない。この現実を認識しないで「グリーン成長」などという幻想をうたい上げると、失敗のもとになる。

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「無縁」は狩猟採集時代の記憶

無縁・公界・楽 増補 (平凡社ライブラリー)
網野善彦は今も人気があるが、実証史学の専門家には評判が悪い。彼が歴史の中に見出した「無縁」の民は存在したのだろうが、それが日本社会の主流になったことはない。少なくとも弥生時代以降の日本は農業社会であり、日本人の圧倒的多数は農民だった。

ではなぜ農業社会とは異質な「無縁」のエートスが日本社会に残っているのだろうか。それは中沢新一氏も指摘したように、農業社会の「底」が抜けた先に見えてくる石器時代の記憶かもしれない。

本書は網野の初期の代表作だが、最終章は「人類と「無縁」の原理」と題され、「無縁」の概念が未開社会に通じるのではないかと書いている。この問題は当時は実証的に明らかではなかったが、今では狩猟採集時代に形成された「古い脳」が人間の行動を支配していることが明らかになっている。

つまり網野が日本社会の異端と考えた「無縁」の民は、ホモ・サピエンスの歴史の中では圧倒的多数だった狩猟採集民(ノマド)なのではないか。網野のあげているエピソードには、そう考えると理解できる話が多い。続きを読む

贈与という平和維持システム

可能なるアナキズム──マルセル・モースと贈与のモラル
日本人の脳内に古代から続く「古層」があるという丸山眞男の説は、「検証不能な印象論だ」と実証主義の歴史学者には評判が悪いが、最近の行動経済学の「システム1」の概念と共通する面がある。これは最近の生物学や人類学で検証できるようになってきた。

ただその中にも2層ある。最下層の「第1層」にあるのは、文字通りの遺伝子(DNA)である。ホモ・サピエンスの歴史のほとんどは狩猟採集生活だったので、われわれの脳は移動生活に適した構造になっている。たとえば子供がしつけないと排泄の始末ができないのは、狩猟採集民が移動して生活していたので、排泄物をコントロールする本能が欠けているためだろう。

定住して農耕を始めるようになると、その上の「第2層」には定住に適した文化的遺伝子が発達したと思われる。モースが『贈与論』で探究した贈与は、このような文化的遺伝子だと思われる。なぜならその具体的な表現は部族によってさまざまで、遺伝的に決定されていないからだ。

たとえばアメリカ原住民の「ポトラッチ」と呼ばれる大規模な贈与は、儀式に招待した客に家に貯蔵した食物をすべてふるまったり、財産を村中に配ったりする。これは食糧を平等にわけるシステムといわれたが、それだけでは宴会で食物を使い果たしてしまう浪費は説明できない。

モースはこれを「対立しながらも殺戮し合わないようにする」ためのしくみだと考えた。つまり互いに贈り物をして相互依存的な「貸し借り」をつくり、部族の平和を維持するシステムだというのだ。

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環境原理主義で世界を「道徳的に征服」しようとするドイツ人

ドイツ・ナショナリズム 「普遍」対「固有」の二千年史 (中公新書)
今やドイツはEUの中心である。イギリスが離脱した後のEUは「ドイツ帝国」になり、ドイツ人は難民受け入れなどの「多様性」を指導し、ECBの中心として緊縮財政を南欧諸国に求め、「2050年ネットゼロ」をめざす環境原理主義を生んだ。

このようなドイツ人の行動に共通しているのは、彼らの利益が西欧の利益であり、それが人類の普遍的な利益だと信じて、世界に広める宗教的信念である。これを本書は西欧的=「普遍的」価値と呼ぶ。

このドイツ的普遍主義はプロテスタンティズムを生み、ヨーロッパで宗教戦争の続く原因となった。そこで多くの信者を集めたのは、信仰の普遍性だった。地域の伝統文化に根ざしたカトリックを否定することで、プロテスタントはドイツの宗教になったのだ。

他方でドイツ人には「固有性」を求めるナショナリズムがあり、それがナチズムのような暴力として爆発することもある。1945年以降はそれを懺悔して西欧的リベラリズムに同化しようとするハーバーマスなどの知識人が、ナショナリストを「道徳の棍棒」でたたき続けてきた。この状況は戦後の日本に似ているが、著者はこれを知的戒厳令体制と名づけている。続きを読む

日本は世界最大の「アナーキズム国家」

くらしのアナキズム
日本人にアナーキズムの傾向があるという話は昔からある。柳田国男は、狩猟採集民の生活様式を残す「山人」の姿を描き、網野善彦は農村共同体を超えて移動する「無縁の民」の中に日本人の原型を見出した。

グレーバーも指摘するように、ホモ・サピエンスの歴史の99%以上は狩猟採集社会であり、そこには国家がなかったので、人類の歴史はアナーキーだった。

この言葉には「無政府主義」とか「テロリズム」といった暗いイメージがついて回るが、実際の狩猟採集社会(人類学者の記録した未開社会)は、無秩序とは正反対である。たとえばレヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』で描いたナンビクワラ族の首長は、部族の会合で命令せず、意見が違うときは徹底的に他人を説得し、全員一致するまで意思決定はしない。

このように全員一致の合意なしでは決定しない傾向は、日本の民俗学者の調査した村も同じだ。宮本常一が調査した対馬の寄合でも、村の古文書を貸してほしいという依頼に対して、3日にわたって話し合いが続けられ、全員が納得して初めて貸してくれたという。

これは現代の自民党総務会も同じである。多数決はとらず、全員が納得するまで話し合う。どうしても同意できない人は、会合から抜けて決定に参加しない。日本人にとっては民主主義とは多数決ではなく満場一致だが、それは人類史の中では普遍的なルールだった。

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今年の良書ベスト10

バブルの経済理論 低金利、長期停滞、金融劣化
このごろ新刊を読むことが少なくなり、このリストも選ぶのに苦労するようになった。次の10冊は厳密には今年の新刊だけではないが、私が今年読んだ本のベスト10である。
  1. 櫻川昌哉『バブルの経済理論』
  2. Graeber & Wengrow: "The Dawn of Everything"
  3. マカフィー『MORE from LESS 資本主義は脱物質化する』
  4. Nordhaus: "The Spirit of Green"
  5. 川口マーン恵美『メルケル 仮面の裏側』
  6. ビル・ゲイツ『地球の未来のため僕が決断したこと』
  7. 杉山大志『「脱炭素」は嘘だらけ』
  8. フォルーハー『邪悪に堕ちたGAFA』
  9. 北岡伸一『明治維新の意味』
  10. 大西康之『起業の天才』
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人類はアナーキストだった

The Dawn of Everything: A New History of Humanity (English Edition)
社会をホッブズのように「万人の万人に対する戦い」とみるか、ルソーのように「高貴なる未開人」の堕落とみるかは、人生観の違いだろう。最近は政治史を戦争の歴史として描くフクヤマや、文明を暴力からの脱却として描くピンカーのようなホッブズ派(性悪説)が主流である。

彼らの議論の出発点は、石器時代の人類の最大の死因は殺人だったという考古学のデータである。ホモ・サピエンスは20万年前から戦争を繰り返しており、平均15%が殺されたという。文明を築いたのは、王が多くの民衆を支配する国家だった。

Graeber-Wengrowはこの通説に挑戦し、実証データをもとにして、性善説で人類の歴史を描く。その大部分を占める狩猟採集社会では、戦争は少なかった。他の部族と戦争するより、強い相手から逃げるほうが楽だからだ。戦争が増えたのは定住社会になってからだが、黄河文明にもメソポタミア文明にもインダス文明にも初期には国家はなく、王もいなかった。

合法的な暴力装置というウェーバーの意味での国家は、ヨーロッパのローカルな現象であり、ホモ・サピエンスの歴史の1/100にもならない。暴力の強い国が戦争に勝利し、彼らに都合よく歴史を書いただけで、人類が暴力的な動物だというわけではない。人類は協力する動物であり、国家をきらうアナーキストなのだ。続きを読む

日本の「逆タテ社会」はなぜ続いているのか

タテ社会の人間関係 単一社会の理論 (講談社現代新書)
中根千枝氏が死去した。本書は110万部以上売れ、"Japanese Society"というタイトルで海外でもベストセラーになったが、日本は「タテの序列が強い階級社会だ」という誤解を広めてしまった。

中根氏ものちに弁明したように、これは逆である。タテ社会というのはタテ割りの小集団の自己完結性が強く、ヨコの連携が弱いという意味で、丸山眞男の「タコツボ」に近い。タテ社会の中の階層関係はむしろ弱く、平等主義的だ。

これを山本七平は逆方向のタテ社会と呼んだ。江戸時代にも大名と家臣の上下関係は弱く、主君だけで意思決定はできなかった。家臣のコンセンサスを踏み超える乱心の殿様や急進的な改革をする殿様は、主君押込によって隠居させられることが珍しくなかった。

こういう構造は一揆と同じで、鎌倉時代からあった。下剋上も戦国時代に特有の現象ではなく、タテ社会の中の序列は流動的だった。江戸時代に身分制度でそれを固定したのも、そうしないと農村の秩序が守れないからだった。

だから一揆と下剋上と押込は本質的には同じで、平等な小集団のリーダーが共同体のコンセンサスを破るとき、部下が「空気」に従わせる運動である。このような王殺しは未開社会によくみられるが、日本社会が珍しいのは、21世紀になっても超民主的な「逆タテ社会」が続いていることだ。それはなぜだろうか。

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コロナの「例外状態」はいつまで続くのか

政治神学 主権の学説についての四章(日経BPクラシックス) (NIKKEI BP CLASSICS)
11月24日の東京のコロナ感染者は5人。もはやゼロコロナといってもいい状況だが、政府は行動制限を解かない。このように人権を侵害する状況は、近代国家の例外状態である。

本書は20世紀の古典の新訳だが、冒頭の「主権者とは例外状態について決定をくだす者をいう」という言葉は、法学部の卒業生なら誰でも知っているだろう(そこしか読まなかった学生も多いと思う)。

コロナは最初、例外だった。移動の自由を制限するロックダウンは、近代国家の根本的な人権をおかすものだ、とアガンベンは警告したが、それはなし崩しに世界に広がり、例外は日常になってしまった。

移動の自由は近代国家のコアである。その原型となった都市国家は、権利を侵害する国や税金の高い国から移動するexitの権利が保障されていたから、競争が機能した。移動の自由を国家が制限するロックダウンや緊急事態宣言は、近代国家を規律づける原理を国家が否定するものだ。

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資本主義だけ残った

資本主義だけ残った――世界を制するシステムの未来
最近、中国がいろいろ話題になる。こういう「収奪的」な制度のもとで資本主義は維持できない、というのがアセモグル=ロビンソンなど欧米リベラル派の主張だが、習近平体制はいまだに崩壊しない。

それは資本主義が、民主政治を必要としないからだ。中国の体制は、生まれたときから「社会主義」ではなかった。毛沢東の革命は中国の伝統的な農民反乱であり、結果的には資本主義を生みだす「本源的蓄積」だった。それはヨーロッパでは新大陸からの略奪で行われたが、中国では地主からの略奪で行われたのだ。

鄧小平が指導者になった1978年以降、中国の国営企業は激減し、今は20%しかないが、政治的な独裁は強まっている。これを社会主義と呼ぶのは無理がある。今や経済システムの選択は、資本主義か社会主義かではなく、どんな資本主義かの問題である。

本書はそれをリベラル能力資本主義政治的資本主義の二つに分類する。前者の代表はアメリカ、後者は中国である。かつてフクヤマは冷戦終了のとき『歴史の終わり』で前者の勝利を宣言したが、それは時期尚早だった。資本主義は社会主義に勝利したが、リベラル資本主義が政治的資本主義に勝利するかどうかはまだわからない。

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