ビル・ゲイツ『地球の未来のため僕が決断したこと』

地球の未来のため僕が決断したこと
ビル・ゲイツの地球温暖化への関心は、1990年代にアル・ゴアのスポンサーになったときから一貫している。2011年にGEPRを創立したのは彼の寄付によるものだが、そのときも温暖化懐疑論への批判を語っていた。本書ではIPCCの予測をベースにビジネスとして合理的なCO2排出削減の方法をのべている。

CO2濃度が今後どうなるかは不確実性が大きいが、それが自然に減ることはありえない。CO2が海に吸収されるスピードはそれが排出されるスピードよりはるかに小さく、元に戻るには100年ぐらいかかるので、排出量を減らす必要がある。先進国は2050年までに実質ゼロにすべきだという。

そのためには化石燃料の消費を減らすと同時に、巨額の技術投資が必要だ。その障害となっているのは、CO2の外部性のコストが安すぎることだ。ガソリンの価格がミルクより安いことが過剰消費をまねき、非化石燃料への投資不足が生じているので、価格の補正が必要だ。これを彼は緑のプレミアムと呼ぶが、普通の言葉でいえば炭素税である。

彼の提案するプレミアムは、たとえばガソリンに対して106%という高率の課税だが、それでも現在の技術の延長では、2050年にゼロエミッションは不可能だ。それを実現するには大きなブレイクスルーが必要だというのが、彼がザッカーバーグやベゾスや孫正義氏などとともにBreakthrough Energy Coalitionを立ち上げた理由である。続きを読む

リスク、不確実性、利潤

リスク、不確実性、利潤 (単行本)
20世紀の経済学の古典の、100年目の新訳である。リスクや不確実性の意味について本書の提起した問題には、いまだに答が出ていない。拙著『古典で読み解く現代経済』から紹介しよう(原著はセントルイス連銀のウェブサイトからダウンロードできる)。
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リスクというのは、サイコロとかコイン投げのように、母集団がたくさんあって、どういう確率で何が起こるかがよくわかっている事象です。これは事象の数を母集団で割るだけで簡単にリスクの確率は計算できます。客観的に確率がわかっているので、保険とか金融商品でヘッジすることができます。それに対して不確実性というのは、同じことが二度と起こらない。例えば北朝鮮からミサイルが飛んでくるかどうかとか、新製品がヒットするかどうかというのは、前例がないのでわからない。
 
ブッシュ政権の国防長官だったドナルド・ラムズフェルドの言葉に、known unknownsとunknown unknownsという区別があります。「わかっている未知数」と「わからない未知数」とでも訳せばいいのでしょうか。この分類でいうと確率のわかっているリスクはknown unknownsですが、起こるかどうかがわからない不確実性はunknown unknownsです。
 
でもわからないということは、いいことでもあります。リスクは保険のような方法でヘッジでき、保険金をどう計算するかはわかっているので、あまり大きな損をすることもないが大きな利益を出すこともできない。リスクはコモディタイズ(日用品化)しているわけです。
 
他方、不確実性は予測できないので、大きく当たればイノベーションになるが、大きく外れると金融危機が起こる。もうけても損しても非常に大きいということが不確実性の特徴です。しかも、それを客観的に測る物差しがないので、経営者が判断するしかない。そこに経営者の役割があるというのがナイトの主張です。

続きは8月23日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで(初月無料)

夏休みの読書ガイド

MORE from LESS(モア・フロム・レス) 資本主義は脱物質化する (日本経済新聞出版)
今年はカーボンニュートラルでにぎわっているので、地球環境問題を中心に選んでみた。
  1. マカフィー『MORE from LESS 資本主義は脱物質化する』
  2. 櫻川昌哉『バブルの経済理論』
  3. Nordhaus, "The Spirit of Green"
  4. 川口マーン恵美『メルケル 仮面の裏側』
  5. 杉山大志『「脱炭素」は嘘だらけ』
続きはアゴラ

日米開戦を決めた「永田鉄山の亡霊」

昭和陸軍 七つの転換点 (祥伝社新書)
歴史にifは無意味だが、もし日本が対米開戦しなかったら、というのは日本人なら誰もが一度は考えるifだろう。本書はそれを中心にして、7つの転換点を検証したものだ。

最初の転換点は満州事変である。これは石原莞爾の暴走ではなく、永田鉄山を初めとする陸軍統制派の計画だった。それは成功したが、永田のねらいは満州だけではなく、華北も支配下に収めることだった。ヨーロッパで起こる世界大戦には、華北の資源が必要だったからだ。

それに続いて陸軍は華北分離工作を進めたが、1935年に永田が暗殺されて、計画は大きく狂った。命令系統が混乱して二・二六事件のようなクーデタやテロが頻発し、日中戦争が際限なく拡大した。石原のような不拡大派は主流から外され、武藤章を初めとする統制派が主導権を掌握する。

最後の転換点は、南部仏印進駐である。第二次大戦でドイツが勝つとみた松岡洋右は、勝ち馬に乗るつもりで三国同盟を結んだが、陸軍は消極的だった。そのころ陸軍は対ソ戦の準備を進めていたからだ。陸軍は関特演(関東軍特種演習)と称して85万人の兵力をソ満国境に集結させたが、開戦直前の1941年8月に中止した。

その原因は、アメリカの石油全面禁輸だった。日本は石油の75%をアメリカから輸入しており、これを禁輸することが対米開戦のきっかけになりうることは、ルーズベルト大統領もわかっていた。ではなぜ日本を挑発するような禁輸に踏み切ったのだろうか?

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世界はありのままに見ることができない

世界はありのままに見ることができない なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか
大した本ではないが、忘れないうちにメモ。本書のメインテーマは「人間の知覚は実在をありのままに見るためではなく、生存に適したものだけを見るように進化した」というFBT(Fitness Beats Truth)理論だ。

理系には素朴実在論を信じている人も多いので、それに対するアンチテーゼかもしれないが、哲学の世界ではヒュームあたりで終わった話である。行動経済学みたいな実験が多いが、こういうバイアスが生存に有益だという推論は実証する価値がある。

後半は量子力学の観測問題のおさらいで、これを著者はITP(Interface Theory of Perception)と呼んでいる。中身はそれほど新しい話ではなく、ベルの不等式が証明されたという話である。

…といっても文系の人には何のことかわからないだろうが、量子力学の教科書でおなじみの2スリット実験と同じである。昔は単なる思考実験だったが、最近日立が本当に電子を1個ずつ発射して証明したらしい。

電子を発射すると、最初は図のbのように1個ずつ痕跡ができるが、電子が増えると図のdのように干渉縞ができる。電子は1個だけなのに、干渉が起こるのだ。この現象は人間が電子がどっちのスリットを通ったか観測すると起こらず、電子は古典的な粒子として観測される。

fig2

これは直観には合わない。人間の認識が世界を決めるなら、私が目をつぶると、世界は消滅するのだろうか。それは理論的にはありうるというのが、最近の物理学の答らしい。ニュートンもアインシュタインもシュレーディンガーも当然と考えた時間と空間の一義性という前提が、間違っているかもしれないという。

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世界は確率論的に存在する

人間知性研究 (近代社会思想コレクション)
またコロナの大流行が始まり、原因はオリンピックだとかデルタ株だとか、いろんな説が乱れ飛んでいるが、誰も証明できない。事実として与えられているのは結果のデータだけであり、その原因は推測にすぎない。

こういう科学の本質的な限界を初めて指摘したのはヒュームである。本書は彼の主著『人間本性論』の要約のようなものと思われて重視されないが、カントが読んで「独断のまどろみ」から覚めたのは本書である。

本書で重要なのは、因果関係を神の存在との関連で論じていることだ。無神論者と疑われて大学に職を得られなかったヒュームは、『本性論』ではこの問題を間接的にしか論じていないが、本書では(架空の2人の対話という形で)明示的に論じている。
私を攻撃する諸君は、神の存在(私が問題にしたことはない)を示す主要ないし唯一の論証が、自然の秩序に由来することを認めた。自然には知性とデザインのしるしが現れているので、その原因として偶然あるいは物質の盲目的な力を考えるのは法外である、と諸君は考える。(第11章105節、強調は引用者)
「世界の秩序がこれほど完璧なのは、その原因があるからだ」という議論の原因とは神の意図であり、現代のインテリジェントデザイン論と同じである。ヒュームはそのデザインを示す証拠がないかぎり、こういう議論は推測にすぎないという。これは当時としては大胆な無神論の表明である。
ある属性の痕跡が現在、現れているその程度においてのみ、われわれは、これらの属性が存在すると結論できる。これ以上の属性の想定は、単なる仮説である。(同上106節)
コロナの感染爆発の原因を「不十分な自粛が原因だ」としてロックダウンを主張する人も、「ワクチンのせいだ」として接種をやめるよう求める人も、その決定的な証拠を出すことはできない。それは医学が不完全な学問だからではなく、ヒュームが指摘したように、世界は確率論的に存在しているからだ。続きを読む

国債の「合理的バブル」はいつ終わるのか

バブルの経済理論 低金利、長期停滞、金融劣化 (日本経済新聞出版)
貨幣はバブルである。これは150年前にマルクスが「商品の物神性」として指摘したことだが、今も正しい。1万円札の使用価値は20円しかないので、その価値はバブルだが、人々がそれを1万円の商品を交換する限り続く。中央銀行は「国営バブル」を維持する機関ともいえる。

ゼロ金利の状況では国債も貨幣と同じであり、余剰資金を社会的に循環させる合理的バブルである。これには次のような特徴がある。
  1. 長期金利(r)が名目成長率(g)より低い限りバブルは維持できる
  2. r<gのときバブルは効率的である(将来世代との利害対立が発生しない)
  3. 必要な安全資産の総量は一定なのでバブルは代替する
ここで重要なのは3の条件である。1980年代後半にも、都心の地価は収益還元価格を超え、その利回りはマイナスだったが、それは安全資産として保有された。これをGDP比でみると、90年代以降、土地と国債を合計した安全資産の比率はほとんど変わっていない。つまり土地が国債にバブル代替されただけなのだ。

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バブルの代替(本書より)

国債がこのような安全資産になったのは、実はそう古い話ではない。日本でr<gになったのは、2013年に黒田日銀の量的緩和が始まってからの10年足らずである。この不等式が逆転してr>gになると、国債バブルは終わるのだ。

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明治維新という奇蹟はいかにして可能になったか

明治維新の意味(新潮選書)
明治維新は、世界史でもまれな奇蹟だった。アジアの東端の発展途上国だった日本がほとんど内乱なしに「無血革命」をなしとげ、驚異的なスピードで近代化に成功したのはなぜか――本書はこの古い問いに対して新しい答を出しているわけではないが、バランスのとれた概観である。

第一の要因は、江戸時代の長い平和の中で成熟した官僚機構である。幕末に活躍した幕府の官僚は、勝海舟や川路聖謨など、下級武士や農民の出身で、身分制度は実質的に崩れていた。そういう実力主義の中で、下級武士が実権を掌握する「宮廷革命」として明治維新は起こった。

第二の要因は外圧である。中国がヨーロッパ諸国に敗北したことは、当時のエリートにとっては衝撃だった。彼らは軍人だったので、ペリーの黒船を見ただけで、戦争をしても勝てないことを即座に理解した。その後も政府の指導者が1年以上ヨーロッパに視察に行き、西洋のシステムを丸ごとコピーした。

第三の要因は天皇である。尊王攘夷というのはスローガンにすぎず、明治政府の指導者がそれを信じていたわけではないが、各藩を超えた「日本」という国家の存在を民衆に意識させる記号として天皇を利用した。明治政府の実態は薩長の藩閥政権だったが、それを儒教的な秩序で正統化することに成功した。

しかしこの制度設計は内乱を指導した元勲のカリスマ性に支えられていたので、その中心だった大久保利通や伊藤博文が暗殺され、山県有朋が世を去ると、硬直化した官僚機構を統合する権威が失われ、国のバランスが狂ってゆく。

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法の支配とその敵

劣化国家
西村大臣の騒動は、日本にまだ法の支配がないことを痛感する事件だった。これを法治主義と混同する人が多いが、世界大百科事典も定義するように、
法の支配は法治主義とは異なる。法治主義という言葉も人によって若干用法を異にしているが,基本的には,統治が議会の制定した法律によって行われなければならないとする原理であるといってよい。これに対して,法の支配は,統治される者だけでなく統治する者も〈法〉に従うべきであるということを意味する。
法律によって国家を統治するという意味の法治主義は韓非子の時代からあるが、非人格的な〈法〉が統治者を拘束するという思想は、英米法に固有のものである。これは中世に王と貴族の紛争の中でできた概念で、この場合の〈法〉は自然法である。

本書の元になったのは、BBCラジオの「法の支配とその敵」というシリーズである。これは明らかにポパーの『開かれた社会とその敵』を意識したものだが、ファーガソンはポパーをきびしく批判している。

ポパーの本は1945年に出版され、共産主義やファシズムを西洋哲学の歴史の中で批判するものだが、西洋の社会を「開かれた社会」として理想化し、プラトン以来の全体主義、特にヘーゲルやマルクスの「歴史主義」をその敵として指弾する見当違いな話である。ポパーはヘーゲルもマルクスも理解していない。

ファーガソンが英米圏のコアにある価値観として擁護するのは、ポパー的な合理主義ではなく、法の支配である。それが西洋文明を生み、資本主義を生んだのであって、その逆ではない。続きを読む

国民皆保険という「国のかたち」が崩れる

教養としての社会保障
日本の社会保障は年金も医療も、ほぼ国民皆保険である。これは珍しいことで、アメリカでは公的医療保険がほとんど機能していない。ヨーロッパでも年金は企業中心(日本でいう厚生年金)で、国民年金や国民健保のような全国民が保険に加入する制度は少ない。

国民年金をつくったのは岸信介である。その動機は一種の国家社会主義だったようだが、このときつくらないとできなかっただろう。賦課方式の社会保障は、負担と給付が「助け合い」だという擬制がないと維持できないからだ。アメリカのように所得格差が大きいと、負担が給付よりはるかに大きい富裕層の反対が強く、皆保険にはできない。

国民年金のできた1959年の就業人口は4000万人だったが、そのうち厚生年金に入っていたのは1200万人だけだった。中小企業の労働者は無年金で健康保険もなかったので、そのセーフティネットとして国民年金と国民健保がつくられ、1961年からサービスが始まった。

そのころはみんな貧しく、若者が多かったから、負担が少なかった。それまで大家族で養っていた老人を政府が養う方式は、都市化を進める上で役に立った。核家族化によって、戦前にはほとんど減らなかった農村の人口が急速に減った。この人口移動が、戦後の高度成長のエンジンだった。

それが今、大きな曲がり角にさしかかっている。当初は農民が主な被保険者だった国民年金は、今では非正社員のものになったが、彼らの捕捉率は低く、国民年金の未納率は48%にのぼる。1990年代から増えてきた非正社員は、最高齢で50代になり、「高齢フリーター」が増えている。国民皆保険という「国のかたち」が崩れ始めているのだ。

続きは7月19日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。
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