カント哲学の奇妙な歪み

カント哲学の奇妙な歪み――『純粋理性批判』を読む (岩波現代全書)
カントは「ドイツ観念論」の元祖とされるが、著者もいうようにこれは奇妙だ。『純粋理性批判』はその逆、つまり世界には物自体しか存在しないという唯物論だからである。彼の目的は観念的な認識論ではなく、ニュートン物理学を正当化する(今でいう)科学哲学だった。

だが、その目的は達成できなかった。すべての人間がこの空間的・時間的な世界を同じように理解できる合理的な理由はないのに、なぜすべての人が一義的に理解しているのか。彼の答は「それは人々が世界を空間と時間という同一の先験的カテゴリーで構成しているからだ」というものだが、これは世界の座標系を座標系で説明する循環論法である。

これは多くの人が批判した問題だが、その答はいまだにない。最近の「思弁的実在論」も袋小路に迷い込んでいる。私はスコラ神学に、そのヒントがあると思う。すべての人々にとって世界が3次元空間と不可逆な時間で構成されているのは偶然だが、そうでないと人間が存在しえないのだ。

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新聞はなぜ満州事変で「大旋回」したのか

昭和戦前期の政党政治―二大政党制はなぜ挫折したのか (ちくま新書)
新聞が戦時中に競って戦意昂揚記事を書いたことはよく知られているが、1930年まで「軍縮派」だったことは意外に知られていない。ロンドン軍縮会議で日本が補助艦保有量を対米69.75%に制限されて6月に帰国したとき、新聞はすべてこれを歓迎した。その後の勇ましい論調から考えると奇妙だが、本書によると新聞の論調は二転三転したようだ。

1920年代まで新聞は軍縮派だった。第1次大戦で「戦争はもうこりごりだ」と思った世界の世論は絶対平和主義に傾いたので、日本の新聞もそれに従った。その後、軍部の力が増すと新聞は「艦隊派」に傾き、軍縮会議では「対米7割が最低線だ」という海軍の方針に同調したが、その防衛ラインは会議で破られた。

東京朝日の緒方竹虎は当初は艦隊派だったが、途中から対米7割は無理だとわかると、引っ込みがつかないので「会議を成功させるために7割にこだわるな」という論調に変更し、各社も横並びでこれにならった。それは単なる世論への迎合だったので、翌年満州事変が始まると「大旋回」したのだ。

今のマスコミの「安保反対」には当時の軍縮派ほどの論理もなく、終戦直後の一時的な厭戦気分でつくられた憲法を70年後も守っているだけだ。「第2次朝鮮戦争」が始まったら、1931年のようにマスコミが「大旋回」することは確実である。

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戦争を始めるのは誰か

戦争を始めるのは誰か 歴史修正主義の真実 (文春新書)
朝鮮半島は危機的な状態で、アメリカのトランプ大統領は単独先制攻撃の可能性を否定していない。しかし先に手を出した側が「戦争を始めた」とはいえない。日米戦争で先制攻撃したのは日本だが、日本政府にも日本軍にも積極的に戦争したい人はいなかった。

他方、ルーズベルト大統領には戦争する十分な動機があった、と本書は多くの証拠をあげる。これは「歴史修正主義」とばかりもいえない。ジョージ・ケナンも、1930年代にルーズベルトが「日本に執拗にいやがらせをした」のは賢明ではなかったと批判している。彼はソ連の承認に反対したが、ルーズベルトはスターリンを信頼していた。

ヒトラーがいなかったら第2次大戦は起こっていなかったが、本書もいうようにチャーチルとルーズベルトがいなかったら起こっていなかったかもしれない。第2次大戦は「民主主義とファシズムの戦いだった」というが、ソ連は民主主義だったのか。日米戦争はどちらにとっても無意味で、勝者はスターリンだったのではないか。

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人類は「共同主観的」な文化で生き残った

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福
原著は全世界で200万部も売れたベストセラー。中身は通説のおさらいだが、従来の常識と違うのは、人類を猿から区別するのは言語ではないということだ。食物や危険を伝える記号は、猿ばかりでなくミツバチやアリも持っている。人間の特徴は、トマセロも指摘するように、意図を共有して協力することだ。

類人猿は他の個体の指示する記号に従うことはできるが、共同作業ができない。社会性昆虫は共同作業はできるが、遺伝的に固定された記号しか使えない。それに対して人類は大きな脳で複雑な文を構成し、共同主観的(intersubjective)な神話を共有する文化によって新しい環境に適応できたのだ。

人類のもう一つの特徴は、外界を物体と見ることだ。昆虫の外界に対する感覚は、光や熱やにおいが連続的に分布しているが、人類は解像度の高いレンズで周囲の環境を「不連続な物体の集まり」として知覚する。廣松渉の言葉でいうと、世界を物象化して見ることで共同作業が可能になったのだ。フッサール以降の哲学者が観念的に語ってきた問題を、人類学が実証しつつある。

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ルターの復古主義は「中世の終わり」

プロテスタンティズム - 宗教改革から現代政治まで (中公新書)
今年は「宗教改革」500周年である。1517年10月31日、マルティン・ルターがヴィッテンベルク教会の扉に、カトリック教会の贖宥状(いわゆる免罪符)を批判する「95ヶ条の提題」を釘で打ち付けたことから近代が始まった…と教科書には書かれているが、彼がこの提題を貼り出した形跡はない。ルターがカトリック教会を否定したこともない。

彼らの運動は改良(Reformation)と呼ばれたが、カトリック教会は彼らを「教会に反抗する者」としてプロテスタントと呼んだ。トレルチも指摘したように、ルターの教義は初期教団に回帰する復古主義であり、近代の始まりというより「中世の終わり」と考えたほうがよい。彼のビラが印刷されてこれほど大きな反響を呼んだのは、終わりかけていたローマ教会のヨーロッパ支配に最後の一撃を与えたためだった。

それは日本でいうと、幕末に似ている。「神聖ローマ帝国」の実態はドイツのバラバラな領邦で、その全体を統括する精神的権威はローマ教皇にあった。贖宥状はルターの前から多くの聖職者が批判していたが、その背景にはドイツの俗権とイタリアの教権の対立があった。ルターがローマ教皇を批判するとき、神の代理にすぎない教皇を超える神の権威を利用したのは、長州藩士が徳川家を倒す復古主義に「天皇」を利用したのと似ている。

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「鎌倉仏教」というオリエンタリズム

戦国と宗教 (岩波新書)
日本人の宗教についての理解は、いまだにキリスト教をモデルにしている。浄土真宗や日蓮宗などの「鎌倉仏教」は宗教改革に似ており、それは一向一揆という「市民革命」を生んだが、織田信長につぶされた――というのが従来の理解だが、これは宣教師の報告にもとづく「オリエンタリズム」である。

当時の仏教の主流は、まだ天台宗や真言宗だった。親鸞の「信仰のみによって救われる」という教義がルターに似ていると宣教師は報告したが、実際の真宗は各地の神仏と混合した雑多な信仰だった。それが広まったのは『歎異抄』(16世紀まで知られていなかった)のような高度な教義のおかげではなく、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えていれば極楽にいけるという単純な信仰が民衆に受け入れられたからだ。

「一向一揆」という言葉は中世の史料にはなく、本願寺を設立した蓮如も「一向宗」という言葉は使わなかった。本願寺は武士と戦う「反権力」の教団ではなく、いろいろな戦国大名と連携して戦う軍団だった。信長と一向宗の「石山合戦」も後世につくられた物語で、石山という地名は同時代の史料にはない。そもそも宗教と世俗権力の対立という図式がオリエンタリズムであり、信仰の中心は戦国大名だった。

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人間はなぜ合理的に考えるのか

A Natural History of Human Thinking
経済学では、人間が合理的に考えるのは当然で、感情的な行動は「バイアス」だと考えるが、これは非現実的というより完全に倒錯している。感情は霊長類に普遍的にみられるが、理性は人類にしかない特殊な能力だからである。それが進化の過程でなぜ有利だったのかははっきりしないが、その一つの要因は言語による伝達を容易にしたことだろう。

猿は自分で経験したことしか記憶できないが、人間は他人に言語で経験を伝えて協力できる。動物が身振りで伝えられる内容は限られているが、人間は文法的な再帰性(recursiveness)で複雑な知識を表現できるからだ。たとえば「穴があると落ちる」という事実と「落ちると死ぬ」という事実から、「穴に落ちると死ぬ」という知識を組み立てることができる。

このように複雑な知識を互いに伝えることによって、個体としては弱い人間がグループで生き残った。つまり合理的思考そのものより、それによって協力する意図の共有が生存競争で重要だった、というのがトマセロの理論である。

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日本は「国家的アナーキズム」

アナキズム入門 (ちくま新書1245)
アナーキズムはプルードンの「所有は盗みだ」という思想と、クロポトキンの「相互扶助」の思想に尽きるが、いずれも荒唐無稽なものではない。プルードンの「社会的所有」の思想はマルクスに剽窃され、共産主義(国家的社会主義)に堕落した。

クロポトキンの思想はダーウィンの進化論に依拠しており、今の生物学でいうと集団淘汰の理論である。これは個体群のレベルでは正しいが、多くの中間集団が複合して「大きな社会」をつくるとき、全体を統括する国家(暴力装置)をつくらないで、ローカルな集団の協力で秩序を守れるかどうかは疑問だ。

プルードンとクロポトキンの思想は一体で、国家による所有権の保護なしで中間集団の相互扶助によって社会が維持できる、というのがアナーキズムの仮説である。こういう性善説は近代国家では内戦を誘発して悲惨な結果になるが、その唯一の例外が日本である。

「家」は相互扶助の単位だが、徳川家は全国で300の家を固定し、その中でさまざまな中間集団をつくった。明治以降もこのフラクタル構造は生き残り、意思決定はすべて中間集団で行われる。役所を超える天皇の意思は「忖度」されるだけで、究極的な決定主体としての国家はなかった。それは今も続く国家的規模のアナーキズムともいえよう。

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「十字架の神学」というマーケティング

パウロ 十字架の使徒 (岩波新書)
子供のころ教会学校に行かされ、毎週パウロの手紙について説教されたが、まったく納得できなかった。2000年前に死んだイエスが、どうやって今の私の「罪を贖う」のか。そもそも彼は処刑されたあと復活したのだから、罪をかぶっていないのではないか…などと論理的に追及すると、パウロの手紙は矛盾だらけだ。

本書もパウロの十字架の神学には、ユダヤ教に固有の「贖罪」と普遍主義的な「ゆるし」が混在していると指摘する。古代ローマ帝国でキリスト教が大流行した原因は、2世紀に疫病が流行したとき、特定の民族に依存しない「救済」を提供したからだと推定されている。それは初期には文字どおり医療による救護で、神を信じる人は誰でも救済した。

パウロはギリシャ語を使うローマ市民だったが、その教祖であるイエスが政治犯としてローマ帝国に処刑されたのは都合が悪かった。そこで彼はイエスが「すべての人類の罪を着せられて十字架で死んだが復活した」という奇妙な神学をつくり、刑罰の道具である十字架を救済のアイコンにした。この巧妙なマーケティングは大成功したが、その矛盾はキリスト教の拡大とともに深刻になった。

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脳は「空気」を読むためにできた

ヒトはどこまで進化するのか
E.O.ウィルソンは「社会生物学」の創始者だが、50年前に自分の唱えた包括適応度の理論を否定し、マルチレベル淘汰の理論を主張している。しかし学界の反応は冷たい。ほとんどの事実は従来の理論で説明できるからだが、それは一般読者にとっては大した問題ではない。

大事なことは、ヒトの真社会性(eusociality)がその優位性の源泉だという点で生物学者が一致していることだ。真社会性とは、蟻や蜂のように巣をつくって社会的分業を行う能力で、20種類の動物で発見されているが、霊長類の中ではヒトにしかない。他の類人猿に比べて肉体的にひ弱なヒトがここまで繁殖した原因は、この真社会性にある。

ヒトは脳が大きく、家族を超えて集団で行動する能力を発達させた。その集団行動の武器になったのが宗教である。食欲や性欲はチンパンジーにもあるが、宗教はヒトにしかない。ウィルソンは「脳は宗教のために、宗教はヒトの脳のためにあつらえられた」という。

ここでいう宗教は一神教だけなく、他人と同調する集団的な感情であり、日本人には「空気」といったほうがわかりやすいだろう。脳の中で論理的に思考する機能は小さく、大部分は人間関係の調整に使われている。経済学が合理的選択を基準にして感情を「バイアス」と呼ぶのは逆で、感情で集団を同調させる脳の機能から合理的な思考が派生したのだ。

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