財政を再建するシンプルな方法

財政破綻後 危機のシナリオ分析
日銀がインフレ目標を事実上放棄して、リフレ派はいつのまにかいなくなったが、最近、元リフレ派がよくいうのが「政府と日銀を統合バランスシートで考えれば問題ない」という話だ。これは前にも書いたが、理論的には正しい。日銀が国債を買うのは子会社が親会社の社債を買うようなもので、連結の政府債務は増えも減りもしない。

だから元リフレ派は、日銀が国債をすべて買い切って無利子の永久国債にすれば財政再建は完了するというのだが、これは論理的におかしい。連結でみると同じだというなら、日銀が国債を買う必要もなく、財政法を改正して財務省と日銀が合併し、すべての政府債務を日銀の債務(日銀券を含む)に付け替えれば財政再建は完了する。

これは荒唐無稽な話ではなく、本書も(否定的に)紹介するシムズの提案に近い。彼は政府と中央銀行のB/Sを統合し、全体としての債務を政府が管理し、議会が監視すべきだという。政府債務か日銀券かは、本質的な問題ではないのだ。これは経済理論的にもデモクラシーとしても正しいが、彼が見落としている問題がある。

続きは5月28日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

憲法に現実を合わせる東大法学部

法学の誕生:近代日本にとって「法」とは何であったか (単行本)
穂積八束といっても、知っている人はほとんどいないだろう。彼は帝国大学法学部の憲法学講座の初代教授で、天皇大権説で「国体」論の元祖となったが、「民法出デテ忠孝亡ブ」に代表される家父長的な法学の元祖とされ、現在の憲法学界ではタブーになっている。本書はその学説を再評価するものだ。

穂積は1880年代にドイツに留学し、プロイセンの公法理論を日本に移植しようとした。このとき彼がドイツ法学の中核と考えたのがナショナリズムで、その根幹には「宗教」があった。神が天地を創造したとか、イエスが復活したとかいう話は荒唐無稽で、ドイツの知識人も信じていたとは思えないが、それが国家の「機軸」だと伊藤博文は考えた。

伊藤の意を受けた穂積は、キリスト教の代わりに万世一系の天皇家を憲法の正統性の根拠とする家族主義国家観をとなえた。それも荒唐無稽だったが、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という条文の解釈としては、美濃部達吉の天皇機関説より自然だった。穂積は憲法に現実を合わせろという東大法学部の伝統の元祖だが、美濃部はそれを「条文法学」と呼んで批判した。

続きは5月21日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

戦後政治の「1940年体制」

占領と改革―シリーズ日本近現代史〈7〉 (岩波新書)
戦後の日本経済の原型になったのが、国家総動員法による「1940年体制」だったという野口悠紀雄氏の説はよく知られているが、政治にも1940年体制があった。その中枢は国家社会主義の「革新官僚」だった。東條内閣では、経済を統制下に置こうとする革新官僚と、財閥系の「自由主義者」が闘っていた。

1942年の翼賛選挙でも、466議席のうち85議席は大政翼賛会非推薦で、その中には鳩山一郎や河野一郎もいたが、彼らが平和主義者だったわけではない。彼らは財閥の支援を受け、東條内閣の中枢だった革新官僚に反対したのだ。彼らも敗戦は時間の問題だと知っていたので、敗戦で革新官僚が政権を掌握することを恐れて東條内閣を倒そうとした。

鳩山や岸信介の「反東條」の運動によって東條内閣は1944年7月に倒れ、終戦は早まった。戦争の責任は東條がすべて負ったが、GHQはそれを倒した鳩山らも公職追放してしまった。このため権力の空白ができ、傍流の吉田茂が首相になったので戦後処理が混乱し、アメリカの占領統治を延長する日米同盟ができてしまった。

だが官僚機構は内務省を除いて、無傷で残った。戦後改革の中枢は大蔵省で、占領軍の経済政策は彼らが立案したものだった。財閥解体や農地改革は、戦時中に革新官僚が計画した。健康保険や厚生年金も、戦争に国民を動員する制度だった。本書はそれを「協同主義」として肯定するトンデモ本だが、戦後改革が総力戦体制から始まったことは間違いない。

続きは5月21日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

ポピュリズムの生んだ「天皇シンボル」

戦前日本のポピュリズム - 日米戦争への道 (中公新書)
明治憲法は天皇大権だったが、民衆には天皇の権威はそれほど浸透しなかった。日露戦争後の日比谷焼き打ち事件は最初の民衆暴動だったが、天皇を崇拝する意識はあまりなかった。民衆の不満を集約するシンボルがなかったので、反政府運動は散発的な暴動に終わった。

天皇の権威が強まったのは、普通選挙の始まった昭和初期である。帝国議会はスキャンダルと政争に明け暮れ、腐敗した政党を超える権威として、民衆にもわかる天皇がシンボルとして利用されるようになった。教育勅語や御真影など、天皇を「現人神」として崇拝する教育が強化された。

軍部が「統帥権の干犯」を問題にしたのは、1930年のロンドン海軍軍縮条約のときだ。このときまで新聞は軍縮派だったが、1931年の満州事変で新聞は主戦派に「大旋回」した。右翼はそれまで通説だった天皇機関説を槍玉に上げ、天皇親政を掲げる青年将校のクーデタが頻発した。このような政党政治の自壊が生んだのが大政翼賛会だった。「政党政治が足りなくて大政翼賛会に行き着いたのではない。行き過ぎてそれを招来したのだ」。(本書p.285)

天皇から「天皇シンボル」へ

このようなシンボルの重要性に早くから気づいていたのが北一輝だった。彼は怪写真が流布された「朴烈事件」の首謀者として検挙され、「統帥権干犯」という言葉も彼が発案したといわれる。そして彼は二・二六事件で死刑になった。

北は共和主義者で、社会主義革命を起こして彼が独裁者になろうとしたのだが、天皇を「玉」として利用して青年将校の支持を得た。二・二六事件そのものは無謀なクーデタだったが、それが「皇道派」によって国民の広範な支持のもとに行われたことは重要だ。それは明治憲法の名目的な天皇とは違う「天皇シンボル」の利用価値が高まったことを示している。

大衆のエネルギーは、それを集中するシンボルがないと大きな運動にはならない。明治期には散発的な暴動に終わった大衆のエネルギーが、昭和期には天皇シンボルに集約され、軍部のクーデタや右翼のテロが起こった。それを治安維持法で弾圧する政府も「国体」を利用したので、天皇が政党を超えたシンボルになった。

昭和日本の大衆のエネルギーの爆発は、天皇大権の明治憲法によって生まれたのではなく、明治憲法を超える天皇シンボルによって可能になったのだ。その点では、天皇を「象徴」と規定した新憲法は、実質的には明治憲法とあまり変わらない。違うのは、それを利用する軍事的な主権がないことだ。この点では、戦後の天皇は、よくも悪くも戦前よりはるかに安全である。

総力戦なき総力戦体制

近代日本一五〇年――科学技術総力戦体制の破綻 (岩波新書)
明治150年を何と総括するかについてはいろんな考え方があるが、著者は「総力戦体制」と呼ぶ。これは私も賛成だ。明治政府の目的は帝国主義戦争に生き残ることであり、そのために経済を成長させる「富国強兵」だった。それは経済力が勝敗をわけた第一次世界大戦で決定的になり、戦後も「1940年体制」として続いた。高度成長を支えたのは、通産省を中心とする「総力戦なき総力戦体制」だった。

賛成できるのは、そこまでだ。あとは岩波でお約束の絶対平和主義と反資本主義の宣伝が繰り返され、国家権力に協力した科学者を告発し、最後は反原発のアジテーションで終わる。では原子力がなかったら、著者も警告する地球温暖化の脅威はどうするのか。その答は彼もいうように「成長をあきらめる」ことしかない。先の長くない後期高齢者はそれでもいいだろうが、子孫は今より貧しくなってもいいというのか。それこそ老人のエゴイズムだろう。

続きは5月7日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

日本の官僚はなぜまじめで清潔なのか

Political Order and Political Decay: From the Industrial Revolution to the Globalisation of Democracy
国会では野党の「合同ヒアリング」で官僚たたきが続いているが、法的根拠もないヒアリングに朝から晩までつきあう官僚は、ご苦労様というしかない。実質的な力関係では圧倒的に強い官僚が、無力な弱小野党にまじめに付き合うのは、武士の時代からの伝統かもしれない。フランシス・フクヤマはそう論じている。

本書は『政治の起源』の続編(なぜか4年たっても訳書が出ない)だが、近代国家の発展にとって政治腐敗を防ぐことが重要だったと論じている。その中で、非西洋世界のモデルとされているのが日本である。フクヤマは江戸時代の武士を「当時の世界でもっとも清潔な合理的官僚だった」とし、その原因を儒教に求めている。

しかし儒教の本場である中国では、科挙によって高度な知的エリートが生まれたが、大規模な腐敗も生まれた。官僚自身は公正な試験で選ばれたが、それに合格するには幼いころから巨額の教育投資が必要だった。そういう秀才は数万人の親族集団(宗族)の中から選ばれ、科挙に合格すると親族を宮廷に入れて養う義務を負うため、腐敗が制度化されてしまった。これを監視するのが宦官だったが、彼らも腐敗する。

これに対して日本では科挙のような能力主義はなく、武士の家は長子相続で世襲されたが、中国のような腐敗は起こらなかった。その原因は儒教でないとすると何だろうか。

続きは5月7日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

悔恨共同体としての論壇

論壇の戦後史―1945‐1970 (平凡社新書)
日本の野党は戦後70年以上たっても、大人になることができないが、その黄金時代は1950年代だった。戦後の左翼の出発点は丸山眞男の「悔恨共同体」で、その舞台になったのは岩波書店の『世界』だった。「全面講和」を特集した1951年11月号は、15万部も売れた。この時期の編集長は『君たちはどう生きるか』で今もよく知られている吉野源三郎である。

この背景には、岩波を含む知識人が軍国主義を止められなかったという悔恨があった。講談社を中心とする大衆文化に対抗して、悔恨共同体を結集する場が『世界』であり、それは論壇そのものだった。それはやがて社会主義の代弁者になり、反米運動になった。保守勢力は大人になって合同したが、左翼はバラバラの抵抗運動から脱却できなかった。

「戦後の日本」を代表する悔恨共同体の知識人が「戦前の日本」を代表する岸信介をやっつけるという勧善懲悪のドラマは、60年安保でピークに達したが、岸の退陣で運動は目標を失う。そこには自民党に代わる「もう一つの国家構想」がなかったからだ、と本書は指摘する。戦後の日本は60年安保で夢見るのをやめ、通過儀礼を終えて大人になったのだ。

続きは5月7日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

数学の不条理な有効性

神は数学者か?―ー数学の不可思議な歴史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫〈数理を愉しむ〉シリーズ)
1854年、数学者ベルンハルト・リーマンは奇妙な幾何学理論を発表した。それはユークリッド幾何学における平行線の公理が成立せず、1点を通って他の直線と交わらない平行線が1本も存在しない理論だった。これは直感に反するが、無矛盾な公理系が構築できる。こうした「非ユークリッド幾何学」は、純然たる論理の遊びと考えられていた。

その50年後、アインシュタインは彼の特殊相対性理論を一般化して重力を「時空のゆがみ」と考えたが、それを数学的に定式化できなかった。彼が友人の数学者に相談したところ、友人がそれはリーマン幾何学で記述できるのではないかと提案した。アインシュタインはリーマン幾何学を知らなかったが、そのアイディアをリーマン空間で記述した一般相対性理論を1915年に発表した。これは1919年の皆既日食のとき、太陽の近傍で光が重力で曲がる現象によって正確に確認された。

数学が自然を正確に記述する先験的な理由はないが、このように数学者が純粋な論理体系として構築した数学理論が、あとから物理現象で実証されることは珍しくない。このような数学の不条理な有効性は多くの科学者や哲学者を当惑させてきたが、古典物理学をまねた新古典派経済学はその例外である。それは数学的には美しいが、実証データにあわないのだ。

続きは4月30日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

リベラルが大政翼賛会を生んだ

緒方竹虎とCIA アメリカ公文書が語る保守政治家の実像 (平凡社新書)
戦前の日本を「ファシズム」と呼ぶのはおかしい、と問題提起したのは伊藤隆氏だが、これは「リベラル」の役割を考える上でも重要だ。1930年代に日本が独裁者もいないのに「ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入」したのはなぜか、というのは丸山眞男以来ずっと日本の知識人を悩ませてきた問題である。それはヒトラーのような独裁者に指導されたのではなく、近衛文麿や朝日新聞のようなリベラルに指導されたのだ。

丸山はファシズムを「反革命の最も先鋭な最も戦闘的な形態」と規定したが、それは日本には当てはまらない。近衛首相は国民の圧倒的多数に支持されたので、大政翼賛会は反革命ではなく「挙国一致」の革命だった。朝日の主筆だった緒方竹虎は、内閣情報局参与として大政翼賛会の事務局となり、戦時中には情報局総裁として検閲を統括した。

戦後、緒方は公職追放されたが、復帰後は自由党の政治家として保守合同を指導した。吉田茂の次の首相候補と目され、CIAは彼に「ポカポン」というコードネームをつけて利用した。しかし最近公開されたファイルでは、CIAは資金力のない緒方を重視していなかったという。

続きは4月30日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

「武士のデモクラシー」の成功と限界

未完の明治維新 (ちくま新書)
近代社会がデモクラシーによってできたというのは神話である。名誉革命は市民革命ではなく単なる王位継承の争いであり、フランス革命の舞台となった三部会は聖職者と貴族と有産階級の3身分だった。アメリカ独立革命を戦ったのは、各州の支配者であって民衆ではなかった。

デモクラシーは近代国家の必要条件ではないが、それは「自分の国だ」という意識によって国民を総動員する暴力装置としては必要だ。それが全国民である必要はなく、むしろ軍事的に動員できる官僚組織が必要だ。日本の場合、江戸時代を通じて武士という軍事組織が人口の1割近くいたことが幸いだった。

「万機公論に決すべし」はレトリックではなく、武士の総意で列強に対抗するという意味だった。大政奉還したとき、徳川慶喜は藩主議会藩士議会によって「諸侯の公議」で政権の方針を決めようとした。明治維新は農民とも地主とも無関係な「武士のデモクラシー」だったが、それを大きく変えたのが廃藩置県だった。

続きは4月23日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。






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