江戸時代化する日本

文明としての江戸システム 日本の歴史19 (講談社学術文庫)
21世紀の日本は、よくも悪くも「江戸時代化」している。これは與那覇潤氏が「中国化」と対比した特徴だが、少なくとも次の3点で現代は江戸時代と似ている。

 ・平和が長く続く
 ・人口が増えない
 ・経済が停滞する

これは江戸時代全般ではなく、18世紀以降の特徴だ。江戸時代前期は経済が成長し、人口も急増した。著者の推定によれば、1600年の人口は1500~1600万人だったが、1700年には3100~3200万人ぐらいになったと思われる。100年で2倍の急成長だが、その最大の原因は平和になって農業が発展し、市場経済が拡大したことだ。

それはわかりやすいのだが、人口増加は1700年ごろぴたっと止まり、幕末までほとんど増えていない。150年間で90万人ぐらいしか増えなかった。その原因は気候の寒冷化による飢饉だとか出生抑制(間引き)だとかいわれるが、決定的な理由はわからない。はっきりしているのは、その結果、経済が停滞し、大名の財政が悪化して武士が貧しくなったことだ。

続きは11月5日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

中央銀行という不思議な存在

中央銀行: セントラルバンカーの経験した39年
日銀の白川前総裁の回顧録だが、マスコミの期待するような内情暴露やアベノミクス批判はなく、淡々と一般論で「中央銀行のあり方」が語られる。著者もいうように「中央銀行は不思議な存在である」。日銀は政府機関でありながらジャスダックに上場し、日銀法で独立性が保障されているが、これは自明のルールではない。

理論的には政府と中央銀行のバランスシートは、統合して考えることが合理的だ。法的にも、民主国家で行政機関が内閣から独立すべきかどうかには議論がある。独立性が保障されるようになったのは、スタグフレーションで政府の介入がインフレを加速させた経験によるもので、独立性が明文化されるようになったのは1990年代である。1998年の日銀法改正も、バブル崩壊の影響で実現したものだ。つまり中央銀行の独立性は、インフレを防ぐ制度なのだ。

とすればインフレにしようとしてもできない時代に独立性を保障する必要はない、という議論もあるが、著者はこれに反論する。中央銀行の仕事を「インフレファイター」に限定するのは、経済の不均衡はインフレやデフレという形で出てくるという考え方にもとづいているが、これは一面的だ。不均衡は資産バブルという形で蓄積され、その崩壊による金融危機として表面化する、というのがここ30年の先進国の経験である。

この点で、著者は「主流派マクロ経済学のバイアス」にも疑問を呈する。世界の中央銀行が採用している動学マクロ理論(DSGE)によれば、経済の動きは成長トレンドとその攪乱で成り立っており、中央銀行の役割は金融政策で攪乱を最小化することだということになっているが、これでは金融危機は説明できない。

続きは10月29日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

高坂正堯の孤独な現実主義

高坂正堯―戦後日本と現実主義 (中公新書)
今の学生が高坂正堯の本を読んでも、あまりおもしろくないだろう。たとえば彼の代表作といわれる『国際政治』の「力の体系」として国際政治をとらえる現実主義は、モーゲンソーやキッシンジャーとあまり変わらない。その意味で普遍性はあるのだが、独創性はない。

だが論壇では、高坂は孤独だった。それは彼が京大出身だったことと無関係ではないだろう。1962年に彼はデビュー作「現実主義者の平和論」で坂本義和の中立論を批判したが、坂本は反論せず、議論は噛み合わなかった。東大法学部を中心とする論壇の主流は非武装・非同盟の理想主義であり、彼らにとって現実主義とは既成事実に屈服する保守政治だった。

こういう論壇の空気を読まないで「日米同盟なしで日本は守れない」という常識を説くことが、高坂の独創性だった。彼には「御用学者」のイメージがつきまとい、マスコミでは数少ない保守派の代表として使われるようになったが、その後継者はいない。論壇はなくなったが、今もマスコミの主流は彼の批判した一国平和主義である。

続きは10月29日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

「新自由主義」を生み出した英国病の末期症状

マーガレット・サッチャー: 政治を変えた「鉄の女」 (新潮選書)
サッチャー首相とレーガン大統領が戦後の世界政治を変えたことには疑問の余地がないが、それは「新自由主義」といわれるほど普遍的な主義だったのだろうか。少なくともサッチャーに関しては、彼女が経済政策について最初から信念をもっていたとは考えにくい。本書も指摘するように「サッチャリズムは20世紀後半にイギリス社会が直面した状況から生み出された、すぐれて歴史的な産物なのである」。

のちにマネタリズムとかサプライサイド経済学と呼ばれる政策を彼女が実行したのは、1970年代の「英国病」が完全に行き詰まった状況で、他に手段がなかったためだ。最大の敵は長期にわたってストライキを繰り返す労働組合、特にその中核である炭鉱労組だった。この点では保守党内の意見は一致していたが、違うのは手法だった。

ヒース首相は保守党の本流だったが、イギリス的な紳士だったので、炭鉱労組との対決を回避した。彼は財政出動で失業とインフレを止めようとしたが、スタグフレーションが悪化し、それを所得政策などの介入で止めようとして党内の反発を呼んだ。おりからの石油危機でイギリス経済が崩壊する大混乱の中で、党内の異端だったサッチャーが「反ヒース」の急先鋒としてかつぎ出されたのだ。

続きは10月22日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

人類は「集団主義」で生き残った

友達の数は何人?―ダンバー数とつながりの進化心理学
近代社会では個人主義が当たり前で、「集団主義」というのは悪い意味に使われるが、人類の歴史の大部分だった狩猟採集社会では、先祖は数十人の集団で移動しながら生きてきた。集団が滅びると個体も滅びるので、脳には集団主義の感情が遺伝的に組み込まれている。

霊長類が進化で生き残った原因は、大きな集団をつくる脳が発達したことだが、中でも最大の集団をつくるのが人類だ。集団の自然な大きさは脳の新皮質の大きさで決まり、人類の場合は150人だ、というのが「ダンバー数」という著者の説である。これは狩猟採集社会の話なので、現代社会にはもっと大きく複雑な集団があるが、個人が顔を覚えられるのは150人ぐらいが限界だという。

人類の大きな脳は敵と味方を識別し、集団をつくって身を守るために発達したと考えられている。類人猿は「毛づくろい」で集団をつくるが、人類は言葉で集団をつくる。だから猿がしょっちゅう毛づくろいをするように、人間はいつも無意味な噂話をしている。その目的は話の中身ではなく、互いが仲間だと確認することなのだ。

続きは10月22日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

戦後の「裏の国体」を代弁した読売新聞の権力ゲーム

渡邉恒雄 メディアと権力 (講談社文庫)
来年10月に消費税が10%に引き上げられるとき、軽減税率が導入される予定だ。圧倒的多数の専門家がこれに反対しているが、マスコミはまったく取り上げない。新聞が軽減税率の対象になっているからだ。これをリードしてきたのは読売新聞であり、その社論を決めるのは92歳の「主筆」である。

こういう点で、読売の影響力は意外に大きい。朝日新聞が戦後日本の「表の国体」を代表したとすれば、読売は自民党を中心とする「裏の国体」の代弁者だった。朝日の左翼的な美辞麗句は、論壇では多数派だったが、政治的には多数派になれなかった。それは既得権を守って現状を維持する、自民党的な日本人の本音をとらえることができなかったからだ。

渡辺恒雄を通じて本書の描く読売の戦後史は、およそジャーナリズムとは縁遠い、政治部と社会部の派閥抗争の歴史だ。渡辺は「番記者」として得た自民党の権力を利用して社内で出世し、社内で得た地位を利用して自民党を動かした。こういうきわどい権力ゲームを演じるのは、特異な才能である。彼もたびたび危機に直面したが、きわどく生き延びた。

続きは10月15日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

戦後の知識人はなぜ大人になれなかったのか

昭和史と私 (文春学藝ライブラリー)
「若いとき左翼にならない人は心がないが、年をとっても左翼を信じる人は頭がない」というのはチャーチルの言葉だとされる(出典は不明)が、私のちょっと上までの世代には当てはまった。知識人にとってはマルクス主義という万能の理論を基準にして資本主義を批判することが常識だった。

林健太郎も旧制高校でマルクス主義に心酔し、戦後しばらくまで共産党に共感していたという。終戦直後は「二十世紀研究所」で清水幾太郎や丸山眞男などと一緒に活動したこともあるが、そのうちソ連に不信感をもつようになった。それが決定的になったのはソ連の東欧支配、特に1948年のベルリン封鎖だった。

終戦直後はヨーロッパの知識人にもマルクス主義の影響が強かったが、1950年代には冷戦の激化で親ソ派は少なくなり、西ドイツ以外にはNATOに反対する運動はほとんどなくなった。ところが日本では50年代にも進歩的知識人はソ連との「平和共存」を信じ、全面講和や安保反対の論陣を張った。なぜ日本の知識人は、年をとっても左翼を卒業できなかったのだろうか。

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江戸時代の平和を維持した「無駄の制度化」

教科書には書かれていない江戸時代
ヨーロッパで戦争の続いた近世に、250年も平和を維持した江戸時代は驚異的である。結果的には経済の停滞をまねいたという批判もあるが、それは権力と富の集中を防いだ制度による意図された停滞だった。全国260の藩は同格で、徳川家は他の大名家を直接支配できなかったので、徳川家を超える強大な権力を生まないように各藩の力を弱めることが平和を維持する上で重要だった。

そのために徳川家は多くの巧妙な制度をつくったが、中でも重要なのが参勤交代である。これは武家諸法度で正式に決められ、各藩は石高に応じて行列を組んだ。たとえば加賀百万石の前田家は、多いときで4000人ぐらいの家臣を江戸に連れてきた。この費用は藩の財政の3%程度だったが、江戸屋敷で家臣が暮らす費用が30%にのぼり、各藩の財政を圧迫した。

しかし武士は長い平和の中ですることがなかったので、参勤交代のような無駄の制度化で雇用が維持できた。膨大な数の武士が通る街道筋には多くの宿場町ができ、町人の雇用も創出された。参勤交代の財源は年貢で調達されたので、百姓から宿場町の町人に所得再分配が行われたわけだ。これは長期停滞の中で、国が社会保障で老人に所得を再分配する今の日本に似ている。

続きは10月15日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

社会生物学から進化心理学へ

ヒトの心はどう進化したのか: 狩猟採集生活が生んだもの (ちくま新書)
今週から始まるアゴラ読書塾「進化論的に考える」(まだ受け付け中)は、理系のテーマのようにみえるが、中身は文系である。社会科学を自然科学と統合しようという試みは昔からあり、それに成功した(ように見えた)唯一の例外がニュートン力学をまねた新古典派経済学だが、そういう「数理**学」の試みは他の分野では成功しなかった。

それに対して生物学による「科学の新しい統合」を提唱したのが、1975年のE.O.ウィルソンの大著『社会生物学』だった。これは大論争を巻き起こしたが、最近の『人類はどこから来て、どこへ行くのか』に至るまで、彼の主張は変わらない。それは初期に誤解されたような生物学的決定論ではなく、動物の集団行動は遺伝的に制約されているという当たり前の話だ。

人類の場合は、600万年の歴史の大部分が狩猟採集社会だったので、今では無意味な集団行動が発達している。たとえば宗教には現実的な利益はないが、どこの社会でも普遍的にみられる。これは何かを信じて集団を守る感情の強い個体が、狩猟採集社会の集団淘汰で生き残ったためと思われる。このように人間の行動を進化で説明するのが進化心理学で、さまざまな分野に影響を与えているが、社会科学を統合できるだろうか。

続きは10月8日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

役に立たない文系の教育は必要か

文系と理系はなぜ分かれたのか (星海社新書)
私が「文系の大学教育は役に立たない」というと、「学問の価値は役に立つかどうかで決まるものではない」という反発がある。彼らも文系の学問が職業に役立たないことは認めるが、そういう教養も社会人には必要だという。その通りである。

近代ヨーロッパ以外の文化圏では、学問は人口の1%以下のエリートのための教養であり、そのほとんどは古典を解釈する文献学だった。今でも同世代の5%ぐらいには、そういう教養が必要だろう。問題は進学率が50%を超えた大学で、そんな高度な教養をすべての学生に教え込む必要があるのかということだ。

12世紀ごろ始まった初期の大学では、公職につくエリートは神学・法学などの教養を学んだが、大部分の学生は農業、商業などの「下等な技術」を学んだ。こうした初期の大学は17世紀までに衰退し、学問の中心は大学の外の「アカデミー」に移った。そこでは技術的な知識が体系化されて、実証的な役に立つ学問としての科学が生まれ、資本主義の発展とともに飛躍的に発達した。

このようなアカデミーの科学を大学教育に取り入れたのが、19世紀にドイツで復活した近代の大学である。その中心は「実験」で理論を実証する「研究室」であり、教育は学生と対話する「演習」だった。これもエリート教育で、日本が明治時代に輸入したのは、この時期のドイツの大学だった。「科学」という訳語は専門分化した学問という意味で、伝統的な儒学とはまったく異なる知識だった。

続きは10月1日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。






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