日本人の法意識は「前近代的」か

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)
明治以降に日本の輸入した大陸法は、昔から日本人がもっていた慣習法的な意識と大きくずれていた。川島武宜は、それは日本が一人前の国であることを誇示して条約を改正するための飾りだったという。この輸入した法律と「日本人の法意識」とのずれを解明する学問が、彼のつくった法社会学だった。

本書で印象的なのは、きだみのるの話として書いているエピソードだ。彼が田舎でバスから降りようとすると、車掌に「煙草を落とさなかったですか」と質問された。ポケットをさぐると、確かに煙草がないのでそう答えると、車掌は後ろにいた老婆に「あんたいま煙草を拾ったでしょ。この方のだから返してあげなさいよ」というと、老婆は「おらあ落ちているものとべえ思ったよ」と笑って、煙草を返した。

若い車掌の意識では煙草の所有権は落とした持ち主にあるが、老婆の意識では拾ったものは自分のものだ。そしてこの村では、老婆の考え方のほうが普通だった。これは抽象的・排他的な所有権とは違う、日本社会のルールだった。川島はそれを「前近代的」と呼ぶが、一面的に批判するわけではない。そこには一定の合理性があるからだ。

続きは3月12日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

世界宗教の経済倫理

世界宗教の経済倫理 比較宗教社会学の試み 序論・中間考察 (日経BPクラシックス)
人が救済を求めるのは、死に直面したときや絶望したときだから、救済を約束する一神教の強さは、不幸の増加関数である。昔から戦争の多かったユダヤの宗教が、戦争や疫病が流行したヨーロッパで流行し、今でも戦争の多いアラブにイスラム教徒が多いのは偶然ではない。

ウェーバーの『プロ倫』などの実証研究は、今では陳腐化しているが、彼の思想には価値がある。彼の著作は膨大だが、その思想を要約したのが本書に収められている「中間考察」である。ここでは彼が晩年の心境を語り、意味や救済について論じている。ここにはニーチェの影響が明らかだ。
合理的・経験的認識が世界を呪術から解放して、因果的メカニズムへの世界の変容を徹底的になしとげてしまうと、宗教的要請との緊張関係はいよいよ決定的となる。なぜなら経験的でかつ数学による方向づけが与えられているような世界の見方は、原理的におよそ現世内における事象の「意味」を問うというようなものの見方をすべて拒否する、といった態度を生み出してくるからである。
近代科学はキリスト教を否定して出てきたのではなく、キリスト教神学の延長上に生まれた。それは世界を合理化して大きな富を生み出したが、人々を原子的な個人に分解して世界を「脱意味化」した――という物語は、ほとんどニーチェの「ヨーロッパのニヒリズム」である。

続きは3月5日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。(まぐまぐに引っ越しました)

「黒い福沢諭吉」をどう理解するか

論集 福沢諭吉 (平凡社ライブラリー)
福沢諭吉の名前を知らない日本人はまずいないが、その思想の全容を知っている人も少ない。ほとんどの人は『学問のすすめ』や『文明論之概略』の啓蒙的で退屈なイメージしか知らないだろう。そういう「白い福沢」のイメージを世の中に植えつけたのが丸山眞男である。

しかし『学問のすすめ』で「一身独立して一国独立す」という個人主義を説いた彼が、『通俗国権論』では「百巻の万国公法は数門の大砲に若かず」と書き、『時事小言』では「内国にありて民権を主張するは、外国に対して国権を張らんが為なり」と明言した。ここでは民権の目的は国権の拡張であり、それを達成する最高の手段は軍備である。

丸山以来の通説では、これを「白い福沢」の挫折による「黒い福沢」への変節と理解するが、これは無理がある。『文明論之概略』でも「国の独立は目的なり、国民の文明は此の目的に達するの術なり」と書いている通り、国権を目的とする福沢の認識は一貫していたからだ。本書の解説者も指摘するように、そこには西洋中心の「単系発展論」があったのではないか。

続きは2月26日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。(まぐまぐに引っ越しました)

クニがあっても「国家」のない国

ネイションとエスニシティ―歴史社会学的考察―
ネット上で右派と左派がもめる最大の原因が国家である。右派は「国難」を強調し、安倍政権を「中韓に弱腰だ」と批判するが、左派は「強すぎる国」を批判して「国家はフィクションだ」という。確かに主権国家はウェストファリア条約以降の制度だが、それは国家に何の根拠もないことを意味するわけではない。

アンソニー・スミスのいうエトニ(ethnie)は、氏族社会より大きな文化的・言語的に同質の集団として古代からあった。日本語のクニは、このエトニに近い自然生長的な集団で、古代には「郷土」という意味だったが、次第に地方国家という意味になり、明治以降には国民国家になった。

このようにエトニが同心円状に拡大して「国家」になった文化圏は珍しい。漢語の「国」は人口の1%に満たない「皇帝と官僚機構」のことで、「中国」という名称は20世紀になって梁啓超のつくった言葉である。ヨーロッパでは、内戦で国(地方国家)が他の国を征服して統一国家になるのが普通で、イギリスもドイツもスペインも、いまだに地方対立を抱えている。

だからヨーロッパでは国家=国民(nation)としての意識が形成されたが、日本人は内戦をほとんど経験しなかったため、福沢諭吉が嘆いたようにネーションという主体がない。明治政府は長州藩というクニを拡大した藩閥政権で、国家という抽象的な概念を理解できない人民には天皇という記号が与えられたが、その意味は空白だった。

続きは2月26日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。(まぐまぐに引っ越しました)

吉田茂はなぜ不平等条約を結んだのか

安保条約の成立―吉田外交と天皇外交 (岩波新書)
1951年のサンフランシスコ条約は戦後史の最大の分かれ目であり、このときの吉田茂首相の判断が今なお政治に決定的な影響を及ぼしている。このとき講和条約は「単独講和」として批判を浴びたが、いま考えればそれ以外の選択はなかった。「全面講和」は不可能だった。

問題は米軍基地を日本のどこにでも置ける安保条約(および行政協定)で、これは明らかな不平等条約だった。当初は吉田は、日本側首席全権としてサンフランシスコに行くことを拒否した。最終的には講和条約には全権6人が署名したが、安保条約には吉田が1人だけで署名した。これは安保条約への不満を示したものと思われるが、日米交渉の最高責任者としては異常な行動である。

なぜ吉田はこんな不平等条約を急いで結んだのか。安保条約に不満なら、なぜ時間をかけて対等な条約にしなかったのか。これは今も謎だが、本書はそれを説明する「仮説」を提案する。それは安保条約の早期締結が昭和天皇の意思だったというのだ。この仮説を裏づける証拠はまったくないが、状況証拠はないわけではない。

続きは2月19日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。(まぐまぐに引っ越します)

人間原理という「コペルニクス反革命」

宇宙は無数にあるのか (集英社新書)
近代科学の元祖は、コペルニクスの地動説である。それは天動説という人間中心の宇宙を否定し、普遍的法則にもとづく宇宙を示したからだ。地動説では絶対的な存在は宇宙を支配する法則であり、それは神の摂理のメタファーだった。科学はキリスト教を否定して生まれたのではなく、キリスト教から生まれたのだ。

だが最近の物理学は、この「コペルニクス革命」を逆転しているようにみえる。1973年に人間原理(anthropic principle)が主張されたとき、それは「コペルニクス原理の逆転」だったと本書はいう。この宇宙のあらゆる定数が人間の生存に都合よくできているのは人間が生存しているからだ、というトートロジーは、当時は反証不可能な茶飲み話として一笑に付された。

いま人間原理を冷笑する物理学者はいない。無数の可能な宇宙の中でこの宇宙だけが存在している原因は、人間原理以外では説明できないからだ。ニュートンが万有引力の法則によって神の摂理を証明したとすれば、人間原理は科学の法則を疑い、あらゆる普遍的原理を否定する知的アナーキズムである。

続きは2月19日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。(まぐまぐに引っ越します)

進化は万能である

進化は万能である:人類・テクノロジー・宇宙の未来
宗教を信じる現代人は少ないが、ほとんどの人が科学を信じている。その法則が神の決めた必然のようにみえるからだが、これは錯覚である。物理学者は重力の加速度が与えられると微分方程式を解けるが、重力の加速度がなぜその値なのかは説明できない。本書もいうように、それは人間原理というトートロジーで説明するしかない。

つまり宇宙は本源的には無限に多様なマルチバースであり、このユニバースが存在するのは偶然なのだ。宇宙はニュートン的な法則だけで決まるのではなく、偶然の初期値と必然の法則という二つの次元で決まる進化だが、この宇宙しか見えないので、それが唯一の法則に見えるだけだ。

だから21世紀の科学のモデルは物理学ではなく、進化論だろう。ダーウィン以来おなじみのように、進化は偶然の突然変異と必然の自然淘汰で決まる。カタツムリの殻が右巻きか左巻きかは偶然に決まるが、右巻きの世界で左巻きの個体が生存できないことは必然である。

そして人間の社会では、偶然の初期値が歴史を大きく変える。あなたが妻(あるいは夫)と出会うのは偶然だが、それが人生に大きく影響する。新卒でどこの会社に就職するかは偶然だが、それが人生を決定する。大事な問題はほとんど初期値で決まってしまうので、現状を理解するには歴史を理解することが不可欠なのだ。

続きは2月19日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。(まぐまぐに引っ越します)

高度成長は「例外時代」だった

例外時代
21世紀の長期停滞は歴史的にみると、それほど異常な現象ではない。1948~73年に地球上の全住民の所得は一人あたり年3%増え、25年で倍増した。これほど高い成長率はそれ以前にはなく、その後は半減した。当時その屈折点は「石油危機」だと思われたが、変化はもっと大きく深いものだった。

成長の単純な説明は、第2次大戦で資本ストックが大幅に失われたことだ。特に日本とドイツの成長率が高かったのもそれで説明できるが、資本が蓄積されると成長は減速する。各国政府は1970年代には「景気対策」で危機に対応しようとしたが、スタグフレーションで行き詰まった。それを「小さな政府」で解決しようとした保守革命でも、成長率は上がらなかった。

資本蓄積以外にも成長の要因は多いので、それが減速した原因について経済学者はいろいろな仮説を立てた。どれにも決定的な説明力はないが、要するにいえるのは、戦後の成長は例外で今が普通だということである。だとすると、政府が成長を阻害することはできるが、黄金時代を取り戻すことはできない。

続きは2月5日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。(まぐまぐに引っ越します)

【再掲】なぜ世界は存在しないのか

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)
訳書が出たので再掲。世界が存在することは自明だが、カント以来の近代哲学はこれを証明できない。カントは「物自体」の存在を前提しただけでその証明を放棄し、ヘーゲル以降は存在を「括弧に入れて」そのありようを論じるのが哲学の仕事になった。それに対して「世界は存在する」と主張したのが唯物論だが、素朴実在論は認識論として成り立たない。

ヘーゲルの観念論を徹底するとニーチェのいうニヒリズムになり、超越的な存在を否定する「言語論的転回」が20世紀の哲学を支配した。ポストモダンはその極限形態だが、この種の「新ニーチェ派」にはみんな飽きた。そこで出てきたのが、ポストモダン的な「相関主義」を否定して、世界は主観に依存しないで存在すると主張する新実在論である。続きを読む

仮想通貨の信用は仲介業者の信用


コインチェックの事件が話題になっているが、これは仮想通貨のセキュリティの問題ではなく、仲介業者の盗難事件にすぎない。コインチェックは全資産をインターネットからアクセスできる「ホットウォレット」に置き、複数の電子署名で確認する「マルチシグネチャ」も導入していなかったというから、銀行の裏口をあけっぱなしで営業していたようなものだ。

続きはアゴラで。






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