東芝の西田厚聡氏は「だめなワンマン社長」だったのか

東芝解体 電機メーカーが消える日 (講談社現代新書)
本書はよくある東芝バッシングで、その理由も簡単だ:経産省と原子力村の陰謀が3・11で破綻した。日本をダメにしているのは、電力会社とNTTにぶら下がる電機メーカーの「ゼネコン体質」だという。それでは本書が槍玉にあげているソニーとパナとシャープはどうなるのか。

私もITゼネコンを批判する点では人後に落ちないつもりだが、そんな勧善懲悪で説明できるほど、製造業の問題は単純ではない。東芝の問題をすべて西田厚聡氏の「でたらめなワンマン経営」の責任にするのは、誰でもいえる結果論だ。

西田氏のグローバル経営には、見るべきものがあった。もちろん結果的には3・11で大失敗に終わったが、それは東芝の原子力技術の欠陥ではなく、民主党政権を中心とする感情的な東電バッシングのおかげだ。福島事故がなければ、東芝は日本の製造業の成功モデルになった可能性もある。それが『失敗の法則』の一つのテーマである。

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日本経済 最後の戦略

日本経済 最後の戦略 債務と成長のジレンマを超えて
アゴラで香川健介さんがほめているので読んでみたが、結論からいうと一般読者にはおすすめできない。マクロ経済学の研究者には最近の研究のサーベイとして役に立つかもしれないが、あれこれ紹介しているだけで、何をいいたいのかわからない。修士論文にはよくあるパターンだが、出版するレベルではない。

特に問題なのは、政府債務をテーマにしているのに、最大の問題である社会保障債務についてたった2ページ(pp.123~4)しか書いてないことで、その結論は「高齢化それ自体は大きな問題ではない」。全体に、政府に遠慮した表現が目立つ。著者は経済産業研究所のコンサルティング・フェロー(非常勤)だが、今はRIETIも自由にものをいえなくなったのだろう。これでは独立行政法人などという擬制はやめて「経済産業省経済調査部」としたほうがいい。

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経済学の元祖はダーウィンである

The Darwin Economy: Liberty, Competition, and the Common Good
いま経済学者に「経済学の元祖は誰か?」という質問をしたら、99%がアダム・スミスと答えるだろう。しかし著者は、100年後の経済学者が同じ質問を受けたら、過半数がチャールズ・ダーウィンと答えるだろうという。それはスミスの「見えざる手」が機能する状況は、ダーウィンの進化論の特殊な場合だからである。

これは生物学でも論争になっている問題だが、経済学の言葉で整理すると、スミスや新古典派の考えているのは均衡が一つしかない(答が一義的に決まる)凸空間で、ダーウィンや生物学の考えているのは、次の図のような非凸空間の最適化と考えることができる。明らかに前者は、後者の部分集合である。

Simulated-annealing

力学的ポテンシャルc(x)を最小化するxの値が複数あるとき、初期状態がx0だとすると、図の黒い玉のように部分最適で止まるが、x*だと赤い玉のように全体最適で安定する。どちらに到達するかは、古典力学的な(スミス的な)最適化モデルでは決まらないが、部分最適を全体最適に移行させるアルゴリズムは存在する。

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ナチスのトラウマ

神話・狂気・哄笑――ドイツ観念論における主体性 (Ν´υξ叢書)
世界的にヘーゲルの再評価が起こっている。近代哲学の元祖とされるカントはニュートン力学を正当化する「科学哲学」にすぎず、「物自体はなぜ存在するのか」といった本質的な問いを回避したが、ヘーゲルはすべての存在を世界内的なものと考えたからだ。

ガブリエルなどのポストモダン後の哲学も、「実在論」というよりヘーゲルの「客観的観念論」に近い。彼の敵は、ヘーゲルの存在論を捨象して言語論に「デフレ化」したハーバーマスである。ジジェクも「アリストテレスからカントに至る自然哲学」を乗り超えた哲学者として、ヘーゲルを高く評価する。

戦後のドイツではナチスのトラウマで、ヘーゲルやニーチェのような「全体主義」は否定されてきた。丸山眞男も「戦後のドイツ哲学は退屈だ。フランスの哲学は新ニーチェ派といわれるほどニーチェの影響が強いが、ドイツ人はニーチェを否定しなければならないから、ハーバーマスのように優等生的な話しかできない」と辛辣な指摘をしている。

ハイデガーもカール・シュミットも、いまだに肯定的な評価が許されないことは、ドイツ人の大きなハンディキャップだ。ガブリエルは戦後70年たってようやくドイツにも出てきた、ヘーゲルの伝統の後継者ともいえよう。

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成功する人は偶然を味方にする

成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学
あなたが東証一部上場企業に勤務し、年収が1000万円だとしよう。労働人口の中で東証一部企業の比率は5%、そのうち年収1000万以上は10%しかいないので、あなたは日本のサラリーマンの0.5%しかいないエリートである。その地位は実力だろうか? それとも運だろうか?

それが実力だと思う人は保守派だから、所得はすべて自分のものだと考える。それが運だと思う人はリベラルだから、所得再分配が必要だと考える。著者はリベラルなので、運の要因が大きいと考える。あなた以外の99.5%の中には、あなたより能力のある人がいるはずだ。彼らがあなたに負けたのは、大学入試で失敗したからかもしれないし、就職のとき景気が悪かったからかもしれない。

アメリカの大企業のCEOの報酬は異常な高額になっているが、企業業績と経営手腕の相関は低い。大部分は運だが、巨額の報酬で他社のCEOを引き抜く市場ができると、彼を引き留めるために巨額の報酬を出さざるをえないという悪循環に陥る。アメリカ経済は1990年代からこういうひとり勝ち経済になり、バブル的な「悪い均衡」に陥っている。その原因はグローバル化とITだ、というのが著者の分析である。続きを読む

なぜ犬猫を殺してもいいのに人間はだめなのか

ジャック・デリダ 動物性の政治と倫理
アゴラこども版で「犬や猫に人権はない」と書いたら「けしからん」というコメントが来たが、定義によって犬猫に人権はない。問題は、なぜ「犬権」や「猫権」はないのかということだ。これはバカバカしい話みたいだが、最晩年のデリダのテーマだった。

彼は最後のセミナー『獣と主権者』でも、人間と動物の差別こそ本質的な問題だという。その境界は自明のようだが、そうではない。日本人にとっては犬猫もイルカも同じだが、自称エコロジストは両者を区別してイルカを人間の同類とし、日本人を「残虐だ」と批判する。

逆に人間の中にも「動物」がつくられる。江戸時代まで「非人」がいた。ヒトラーはユダヤ人を「人間以下の存在」と考えたから大量虐殺したが、その数より人類が殺した犬猫の数のほうがはるかに多い。ユダヤ人を殺すのが犯罪なら、なぜ犬猫を殺すのは犯罪ではないのか、とデリダは問いかける。

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政治家や官僚を黙らせる警察権力

警察手帳 (新潮新書)
加計学園騒動の裏の主役は、前川元次官を「注意処分」した杉田和博官房副長官(元警察庁警備局長)である。あの下ネタも、たぶん歌舞伎町の警察から上がってきた話だろう。本書は元警察庁キャリアがその組織の実態を書いた本として、霞ヶ関界隈のベストセラーになっている。

といっても本当にやばい話は書いてないが、ちょっとおもしろいのは政権との関係だ。警察を最終的に指揮するのは首相なので、政治利用されるリスクがある。それを監視する制度としてGHQがつくったのが、公安委員会である。これはアメリカの制度にならったもので、おもしろいことに国家公安委員長は閣僚だが委員ではない。政治的中立を守るためだ。

したがって警察庁のナンバーワンは長官で、政治家のいないピュアな官僚組織だ。4万人の小さな官庁だが、自治体警察(26万人)を合わせると30万人。霞ヶ関全体に匹敵する巨大組織である。テロリストから歌舞伎町に至るまで、日本中のあらゆる事件を知っている。KGBやゲシュタポのように命を取ることはないが、警察は政治家や官僚を黙らせる「スキャンダル」という武器をもっているのだ。

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なぜ世界は存在しないのか

Why the World Does Not Exist
世界が存在することは自明だが、カント以来の近代哲学はこれを証明できない。カントは「物自体」の存在を前提しただけでその証明を放棄し、ヘーゲル以降は存在を「括弧に入れて」そのありようを論じるのが哲学の仕事になった。それに対して「世界は存在する」と主張したのが唯物論だが、素朴実在論は認識論として成り立たない。

ヘーゲルの観念論を徹底するとニーチェのいうニヒリズムになり、超越的な存在を否定する「言語論的転回」が20世紀の哲学を支配した。ポストモダンはその極限形態だが、この種の「新ニーチェ派」にはみんな飽きた。そこで出てきたのが、ポストモダン的な「相関主義」を否定して、世界は主観に依存しないで存在すると主張する新実在論である。

――と書くとむずかしそうな話にみえるが、本書はそれをやさしく解説して、欧米でベストセラーになった。「世界は存在しない」というのは奇妙な表現だが、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の冒頭の「世界は事の総体であって物の総体ではない」という定義による。

ウィトゲンシュタインは「事の総体」としての世界が一義的に存在すると想定したが、そういう世界は存在しない。なぜなら自動車や自転車などの物が一義的に存在しても、「自動車は自転車より大きい」とか「自動車は自転車より速い」といった事(命題)は無限に多義的なので、そのすべてを含む絶対的な世界は存在しないからだ。続きを読む

山本義隆氏のアリストテレス的世界

世界の見方の転換 1 ―― 天文学の復興と天地学の提唱
著者の畢生の3部作の完結編。『磁力と重力の発見』と『十六世紀文化革命』と合計すると3000ページを超える大作で、率直にいって長すぎるが、前2作に比べて考察は深まっている。

おもしろいのは、コペルニクスの地動説は古代的な「アリストテレス的世界」を完全に脱却していなかったという話だ。それは地球中心から太陽中心に座標系を変えただけで、説明力は天動説と大して変わらなかった。それは惑星の軌道は円であると想定していたので、実際の観測データを説明するには複雑な補正が必要だった。

真の意味で古代的な世界像に訣別したのは、ケプラーだったという。彼は惑星の軌道を楕円と考え、天上と地上を一元的に支配する太陽の引力を「動力因」と考える力学的世界像を構築したからだ。アリストテレス以来の自然哲学は、世界のあるべき姿から出発して事実を説明するので、惑星の軌道は(完全な図形である)円でないといけなかったが、ケプラーは初めて、それが「卵形ではないか」と考えたのだ。これが「世界の見方の転換」である。

あとがきで著者は原発を激しく批判するが、原発事故が「人類最大の悲劇」である理由は何も書いてない。福島事故で放射能による健康被害は出ていないので、これは原発ゼロという「あるべき姿」を基準にした予断である。アリストテレスのような「規範的世界観」の呪縛は、かくも強いのだ。

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イギリスという例外

先生も知らない世界史 (日経プレミアシリーズ)
日本人の頭には、いまだにイギリスを世界史の標準と考える発想が残っている。「ピューリタン革命」で近代市民社会をつくり、「産業革命」で資本主義をつくり、「自由貿易」で世界に冠たる帝国を築いた――というのが教科書に載っている標準的な歴史観だが、これらはすべて現在の歴史学ではあやしいとされている。

まず1641年から始まった内乱は「ピューリタン革命」という宗教戦争ではなく、イングランド・スコットランド・アイルランドの三王国戦争と呼んだほうがよいという。このときイングランドは一時的に共和制になったが、1660年から王政復古で元に戻った。最大の変化は、そのあとのクーデタ(名誉革命と呼ばれる)で起こった。

産業革命と呼ぶべき実態がなかったことは、私も『資本主義の正体』で紹介した通りだ。資本主義は大地主(ジェントルマン)による新大陸の奴隷貿易から始まり、大英帝国は植民地からの搾取で成長した。アダム・スミスは、植民地支配を「自由貿易」というスローガンで飾るイデオローグだった。イギリスは世界史の標準ではなく、例外的な成功例だったのだ。

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