「イスラム2.0」という宗教改革

イスラム2.0: SNSが変えた1400年の宗教観 (河出新書)
イスラム原理主義は狂信的なテロリストとしか見えないが、コーランには「神も終末も信じない者と戦え」と書かれている。日本では、この点を曖昧にして「本来のイスラムは平和的だ」という人が多いが、むしろ本来のイスラムの教義にもとづくジハード(聖戦)を各国政府が抑圧してきたのだ。

その抑圧がはずれたのが、2010年代の「アラブの春」だった。独裁政権が崩壊して民主化するという期待とは逆に、政府の権力が弱まって国内が混乱すると「イスラム国」のような原理主義の活動が強まった。これを著者は「イスラム2.0」と呼ぶ。

従来のイスラム1.0は、コーランやハディース(ムハンマドの言行録)の解釈の体系だった。そのテキストは膨大で、ほとんどのイスラム教徒は文盲だったので、その解釈は法学者が独占していた。ところが識字率が上がり、インターネットの普及でコーランなどを直接読むことができるようになり、一般の信徒が「真の神の教え」に目ざめたのだ。

これはキリスト教の宗教改革に似ている。カトリック教会でもラテン語訳の聖書は教会にしかなく、説教もラテン語で行われたので、一般の信徒にはお経を聞くようなものだった。しかし聖書のドイツ語訳が印刷されると、多くの信徒がそれを読んで教会の教えに疑問を持ち始めた。イスラム原理主義は、キリスト教の歴史を500年遅れで繰り返しているのだ。

続きは12月2日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

【再掲】中曽根康弘で終わった「新自由主義」

中曽根康弘 - 「大統領的首相」の軌跡 (中公新書)
中曽根元首相が死去した。世間的にはロッキード事件やリクルート事件で逃げ切った「汚い政治家」というイメージが強いが、政治的な実績は大きい。特に国鉄と電電公社の民営化は、他の政権にはできない大事業だった。これはレーガン政権の「小さな政府」の日本版だが、「新自由主義」という言葉は中曽根が1977年に使ったのが最初だといわれている。

弱小派閥の出身で「田中曽根内閣」といわれたほど政権基盤の弱体だった彼が5年の長期政権になった背景には、日米関係の変化があった。70年代までアメリカの忠実な部下だった日本の位置づけは、レーガン政権で大きく変わった。日本はアメリカの最大のライバルとなり、経済的な「自立」を求められたのだ。

中曽根首相は「戦後政治の総決算」を掲げたが、憲法改正は提案しなかった。彼が総決算しようとしたのは、戦後の「福祉国家」路線だった。その第1弾が民営化で、第2弾が間接税による財政再建だった。そのため中曽根は「売上税」を導入しようとしたが失敗し、「増税できる首相」として竹下登を後継者に選んだ。続きを読む

ヒューマニズムは人道主義ではない

ヒューマニズム考 人間であること (講談社文芸文庫)
本書の原著は1964年。半世紀以上たった復刊だが、今でも「ヒューマニズム」についての古典として読むに値する。Humanismは「人道主義」という意味で使われることが多いが、原義は聖書を研究する「人文学」という意味である。

ルネサンスのユマニスト(人文学者)は、中世の神学者が些末な論争に没頭しているのに対して「それはキリスト教と何の関係があるのか」と問いかけた。彼らはカトリック教会を批判したが、ルターやカルヴァンのような宗教戦争の指導者とも対立した。ユマニストの批判は聖書にもとづく人文主義的な批判であり、プロテスタントの教義とは必ずしも一致しなかったからだ。

それを象徴するのが、エラスムスの弟子カステリヨンとカルヴァンの対立である。カルヴァンは1553年、三位一体説を批判した神学者セルヴェを投獄し、拷問のすえ火刑に処した。これに対してバーゼル大学の神学者カステリオンは、批判者を処刑するのはカトリック教会の異端審問と同じだ、とカルヴァンを批判したため、教団から追放された。

宗教改革を実現したのはユマニストではなく、カルヴァンの教団の軍隊的な規律だったが、それはヨーロッパに果てしない宗教戦争を生み出した。その戦争を終わらせたのはユマニストの主張した寛容の精神だった、と本書は指摘する。

続きは11月25日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

「反日種族主義」という偽のアイデンティティ

反日種族主義 日韓危機の根源本書は今年7月、韓国で出版され、2ヶ月で10万部を超えるベストセラーになったが、中身はそれほどセンセーショナルではない。李承晩TVで行われた連続講義をまとめた、韓国の近代史を論じる論文集である。

その内容は韓国では論議を呼んだが、日本人が読むとあまり違和感はない。日本と韓国の歴史認識が大きくわかれる植民地時代については、本書の見方は日本寄りといってもいい。韓国の教科書に書かれている「土地の40%が朝鮮総督府の所有地として収奪された」という話には実証的な根拠がない。

総督府は朝鮮半島全土の測量事業を行ったが、それは朝鮮人の土地を収奪するためではなく、日本の領土として永久に支配し、朝鮮人を日本に同化させるためだった。そのため測量は精密なもので、そのとき作られた土地台帳は、今も韓国で使われている。

続きはアゴラで。

「初代の天皇」は二人いた

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書)
即位の礼をきっかけに、皇位後継問題がまた話題になっている。男女同権派が女性・女系天皇も認めるべきだというのに対して、保守派は「男系が日本の伝統だ」と主張する。これは『日本書紀』以降の建て前論としては間違っていないが、現実の天皇家が男系で継承されたとは限らない。

その最大の反例は、天照大神が女神であることだ。皇統が男系なら神話で男系の正統性を語るはずだが、天照大神には性別の記述もない。これは『日本書紀』の出典となった古い層の神話では、男系という思想がなかったことを示唆する。

そもそも600年ごろまでの日本に「大和朝廷」という統一国家があったわけではなく、複数の王権が並立して戦争していたと考えられる。これを本書は「ヤマト王権」と呼ぶが、その実態は古墳が(宮内庁に管理されて)発掘できないため、よくわからない。

『日本書紀』にも、いろいろな神話が混在している。第10代の崇神天皇には「ハツクニシラススメラミコト」という名前がつけられている。これは「初めて国を統治した天皇」という意味だが、神武天皇にも同じ名前がつけられている。初代という意味の称号が2回使われたのはなぜだろうか?

続きは11月18日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

天皇制という「新しい伝統」の創造

天皇と儒教思想 伝統はいかに創られたのか? (光文社新書)
天皇家をめぐる論争では、天皇が「万世一系」だとか、男系天皇が日本の伝統だと主張するのが保守派だということになっているが、これは歴史学的にはナンセンスだ。 万世一系は岩倉具視のつくった言葉であり、「男系男子」は明治の皇室典範で初めて記された原則である。

これは日本の伝統ではなく、儒教の影響だ。儒教は中国の皇帝を正統化するイデオロギーとして漢代に国教となり、唐代に科挙や律令制度を支える思想となった。日本の政権がそれを輸入して、大宝律令ができたのは701年。それまで「倭」と呼ばれていた国々は「日本」と呼ばれることになった。

それまでの政権は万世一系どころか、継体天皇以前は王家としてつながっていたかどうかも疑わしいが、そのうち有力だった「大王」(おおきみ)が「天皇」と呼ばれた。中国の建国神話をモデルにして『日本書紀』が書かれ、8世紀から遡及して多くの天皇が創作され、天皇家が神代の時代から世襲されていることになった。

このように天皇支配は律令制度を支える儒教思想にもとづいていたが、律令は当時でさえ日本の実態とかけ離れていた。武士が実権を握るようになると、天皇は忘れられた。それを明治時代に「天皇制」としてよみがえらせたのが、長州藩の尊皇思想だった。それは「王政復古」を掲げていたが、実際には新しい伝統の創造だったのだ。

続きは11月11日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

「琉球処分」は日清戦争の序幕だった

興亡の世界史 大清帝国と中華の混迷 (講談社学術文庫)
沖縄の問題と韓国の問題が似ているのは偶然ではない。どちらも19世紀まで清の属国だったという共通点があるからだ。これは華夷秩序という中国の伝統的な外交関係で、琉球は清の属国だったが、実質的には島津藩に支配されていた。

日本が琉球を全面的な支配下に置かなかったのは、それが日清両属であることで中継貿易の結節点になったからだ。琉球はこの地位を利用して貿易で繁栄したが、こういう曖昧な関係は明治以降は維持できなくなった。

日本は台湾出兵を行い、それを既成事実として沖縄の領有権を主張した。国際法では、領土は先に占有権を主張した国のものになるからだ。これに対して清は有効な対抗策をとれず、日本は琉球国を沖縄県として領土の一部にした。この1879年の「琉球処分」が、日清戦争の前例となった。

李氏朝鮮も清の属国だったが、その関係は国際法上は明確ではなかった。日本はそこに介入し、日清戦争後の下関条約で「朝鮮の独立」が明記された。日清戦争は、華夷秩序と国際法の制度間競争だったのだ。これによって華夷秩序は解体され、 朝鮮は大韓帝国となったが、それは日本の保護国になる第一歩だった。

続きは11月11日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

モンゴル帝国のグローバル化はなぜ挫折したのか

アジア近現代史-「世界史の誕生」以後の800年 (中公新書)
本書の副題は「世界史の誕生以後の800年」。ここでは世界史が誕生したのは、チンギス・ハンがモンゴル帝国の初代カアンに就任した1206年である。それ以降モンゴルは中国から東欧に至るユーラシア大陸の大部分を版図に収め、世界史上最大の帝国を築いた。

これはウォーラーステインのいう近代世界システムより300年近く早いグローバリゼーションだったが、モンゴル帝国は200年足らずで崩壊した。中国では1368年に明が元を滅ぼし、中央アジアでは1370年にティムールがモンゴルを滅ぼし、ロシアでは1380年にモスクワ大公がモンゴルに勝利を収めた。

このようにあっけなくモンゴル帝国が崩壊したのはなぜかというのは明快な答のない問題だが、本書はそれを軍事帝国の限界と考える。モンゴルの最大の武器は馬だった。モンゴル兵は馬から弓矢を射て、歩兵との戦いでは圧倒的な強さを発揮した。チンギスやクビライは戦略家としても一流で、敵が戦わずして降伏することも多かったという。

しかしモンゴルには固有の文化がなく、征服した民族を同化できなかった。モンゴル軍に降伏すれば相手を殲滅することはなく、宗教や言語も元のままでよかった。モンゴル帝国の権威を示す建物はほとんど建設されなかった。こういうゆるやかな支配では、土着勢力が同時多発的に反乱を起こすと、少数派のモンゴル人が鎮圧することはむずかしい。

続きは11月4日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

グローバル化はモンゴル帝国から始まった

興亡の世界史 モンゴル帝国と長いその後 (講談社学術文庫)
グローバリゼーションはヨーロッパが世界を支配した「長い16世紀」に始まった、というのがウォーラーステイン以降のグローバル・ヒストリーだが、ここでは13〜4世紀にユーラシア大陸の大部分を支配したモンゴル帝国が視野に入っていない。

それは短い時代だったが、地域ごとに分断されていたユーラシアを統合する大帝国を形成した。モンゴル帝国が解体した後も、帝国は清・ロシア・オスマンに継承され、それが最終的に消滅したのは第一次大戦後だった。モンゴルはユーラシア大陸をグローバル化し、700年にわたる「アジアの中世」を開始したのだ。

今ではほとんど忘れられたモンゴル人が、これほど短期間に大帝国を築くことができたのは、もともと遊牧民が軍団だったからである。遊牧民は夏には家族が分散して牧畜で暮らし、冬には多くの家族が集まって越冬する。冬の食糧は、秋に農民の土地に侵入して彼らの収穫した作物を略奪する。遊牧民の移動手段だった馬は、農民を殺して作物を持ち去る強力な武器でもあった。続きを読む

憲法はなぜ「捨て身の平和主義」になったのか

9条入門 (「戦後再発見」双書8)
憲法第9条をめぐる果てしない論争の最大の争点は、それが自衛権を放棄しているのかどうかである。その答は常識的に考えると明らかだ。およそ国家がその自然権たる自衛権を放棄することはできないので、日本国憲法も自衛権を放棄しているはずがない。

ところが憲法9条2項は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記している。これは素直に読むと、自衛のための戦力も保持しないと解釈するしかない。これは常軌を逸した規定だが、その原因は1946年2月にマッカーサーの書いたメモ(マッカーサー・ノート)にあった。その第2項目には、こう書かれていた。
国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
憲法草案を起草したケーディスは、これを非現実的と考えて「自己の安全を保持するための手段」という部分を削除しが、吉田首相は第9条は「自衛戦争も放棄したものだ」と答弁した。この捨て身の平和主義が今に至る混乱の原因だが、それは単なる理想主義ではなく、マッカーサーの大統領選挙キャンペーンの一環だった、というのが本書の仮説である。

続きは10月14日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。






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