「初代の天皇」は二人いた

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書)
即位の礼をきっかけに、皇位後継問題がまた話題になっている。男女同権派が女性・女系天皇も認めるべきだというのに対して、保守派は「男系が日本の伝統だ」と主張する。これは『日本書紀』以降の建て前論としては間違っていないが、現実の天皇家が男系で継承されたとは限らない。

その最大の反例は、天照大神が女神であることだ。皇統が男系なら神話で男系の正統性を語るはずだが、天照大神には性別の記述もない。これは『日本書紀』の出典となった古い層の神話では、男系という思想がなかったことを示唆する。

そもそも600年ごろまでの日本に「大和朝廷」という統一国家があったわけではなく、複数の王権が並立して戦争していたと考えられる。これを本書は「ヤマト王権」と呼ぶが、その実態は古墳が(宮内庁に管理されて)発掘できないため、よくわからない。

『日本書紀』にも、いろいろな神話が混在している。第10代の崇神天皇には「ハツクニシラススメラミコト」という名前がつけられている。これは「初めて国を統治した天皇」という意味だが、神武天皇にも同じ名前がつけられている。初代という意味の称号が2回使われたのはなぜだろうか?

続きは11月18日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

天皇制という「新しい伝統」の創造

天皇と儒教思想 伝統はいかに創られたのか? (光文社新書)
天皇家をめぐる論争では、天皇が「万世一系」だとか、男系天皇が日本の伝統だと主張するのが保守派だということになっているが、これは歴史学的にはナンセンスだ。 万世一系は岩倉具視のつくった言葉であり、「男系男子」は明治の皇室典範で初めて記された原則である。

これは日本の伝統ではなく、儒教の影響だ。儒教は中国の皇帝を正統化するイデオロギーとして漢代に国教となり、唐代に科挙や律令制度を支える思想となった。日本の政権がそれを輸入して、大宝律令ができたのは701年。それまで「倭」と呼ばれていた国々は「日本」と呼ばれることになった。

それまでの政権は万世一系どころか、継体天皇以前は王家としてつながっていたかどうかも疑わしいが、そのうち有力だった「大王」(おおきみ)が「天皇」と呼ばれた。中国の建国神話をモデルにして『日本書紀』が書かれ、8世紀から遡及して多くの天皇が創作され、天皇家が神代の時代から世襲されていることになった。

このように天皇支配は律令制度を支える儒教思想にもとづいていたが、律令は当時でさえ日本の実態とかけ離れていた。武士が実権を握るようになると、天皇は忘れられた。それを明治時代に「天皇制」としてよみがえらせたのが、長州藩の尊皇思想だった。それは「王政復古」を掲げていたが、実際には新しい伝統の創造だったのだ。

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「琉球処分」は日清戦争の序幕だった

興亡の世界史 大清帝国と中華の混迷 (講談社学術文庫)
沖縄の問題と韓国の問題が似ているのは偶然ではない。どちらも19世紀まで清の属国だったという共通点があるからだ。これは華夷秩序という中国の伝統的な外交関係で、琉球は清の属国だったが、実質的には島津藩に支配されていた。

日本が琉球を全面的な支配下に置かなかったのは、それが日清両属であることで中継貿易の結節点になったからだ。琉球はこの地位を利用して貿易で繁栄したが、こういう曖昧な関係は明治以降は維持できなくなった。

日本は台湾出兵を行い、それを既成事実として沖縄の領有権を主張した。国際法では、領土は先に占有権を主張した国のものになるからだ。これに対して清は有効な対抗策をとれず、日本は琉球国を沖縄県として領土の一部にした。この1879年の「琉球処分」が、日清戦争の前例となった。

李氏朝鮮も清の属国だったが、その関係は国際法上は明確ではなかった。日本はそこに介入し、日清戦争後の下関条約で「朝鮮の独立」が明記された。日清戦争は、華夷秩序と国際法の制度間競争だったのだ。これによって華夷秩序は解体され、 朝鮮は大韓帝国となったが、それは日本の保護国になる第一歩だった。

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モンゴル帝国のグローバル化はなぜ挫折したのか

アジア近現代史-「世界史の誕生」以後の800年 (中公新書)
本書の副題は「世界史の誕生以後の800年」。ここでは世界史が誕生したのは、チンギス・ハンがモンゴル帝国の初代カアンに就任した1206年である。それ以降モンゴルは中国から東欧に至るユーラシア大陸の大部分を版図に収め、世界史上最大の帝国を築いた。

これはウォーラーステインのいう近代世界システムより300年近く早いグローバリゼーションだったが、モンゴル帝国は200年足らずで崩壊した。中国では1368年に明が元を滅ぼし、中央アジアでは1370年にティムールがモンゴルを滅ぼし、ロシアでは1380年にモスクワ大公がモンゴルに勝利を収めた。

このようにあっけなくモンゴル帝国が崩壊したのはなぜかというのは明快な答のない問題だが、本書はそれを軍事帝国の限界と考える。モンゴルの最大の武器は馬だった。モンゴル兵は馬から弓矢を射て、歩兵との戦いでは圧倒的な強さを発揮した。チンギスやクビライは戦略家としても一流で、敵が戦わずして降伏することも多かったという。

しかしモンゴルには固有の文化がなく、征服した民族を同化できなかった。モンゴル軍に降伏すれば相手を殲滅することはなく、宗教や言語も元のままでよかった。モンゴル帝国の権威を示す建物はほとんど建設されなかった。こういうゆるやかな支配では、土着勢力が同時多発的に反乱を起こすと、少数派のモンゴル人が鎮圧することはむずかしい。

続きは11月4日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

グローバル化はモンゴル帝国から始まった

興亡の世界史 モンゴル帝国と長いその後 (講談社学術文庫)
グローバリゼーションはヨーロッパが世界を支配した「長い16世紀」に始まった、というのがウォーラーステイン以降のグローバル・ヒストリーだが、ここでは13〜4世紀にユーラシア大陸の大部分を支配したモンゴル帝国が視野に入っていない。

それは短い時代だったが、地域ごとに分断されていたユーラシアを統合する大帝国を形成した。モンゴル帝国が解体した後も、帝国は清・ロシア・オスマンに継承され、それが最終的に消滅したのは第一次大戦後だった。モンゴルはユーラシア大陸をグローバル化し、700年にわたる「アジアの中世」を開始したのだ。

今ではほとんど忘れられたモンゴル人が、これほど短期間に大帝国を築くことができたのは、もともと遊牧民が軍団だったからである。遊牧民は夏には家族が分散して牧畜で暮らし、冬には多くの家族が集まって越冬する。冬の食糧は、秋に農民の土地に侵入して彼らの収穫した作物を略奪する。遊牧民の移動手段だった馬は、農民を殺して作物を持ち去る強力な武器でもあった。続きを読む

憲法はなぜ「捨て身の平和主義」になったのか

9条入門 (「戦後再発見」双書8)
憲法第9条をめぐる果てしない論争の最大の争点は、それが自衛権を放棄しているのかどうかである。その答は常識的に考えると明らかだ。およそ国家がその自然権たる自衛権を放棄することはできないので、日本国憲法も自衛権を放棄しているはずがない。

ところが憲法9条2項は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記している。これは素直に読むと、自衛のための戦力も保持しないと解釈するしかない。これは常軌を逸した規定だが、その原因は1946年2月にマッカーサーの書いたメモ(マッカーサー・ノート)にあった。その第2項目には、こう書かれていた。
国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
憲法草案を起草したケーディスは、これを非現実的と考えて「自己の安全を保持するための手段」という部分を削除しが、吉田首相は第9条は「自衛戦争も放棄したものだ」と答弁した。この捨て身の平和主義が今に至る混乱の原因だが、それは単なる理想主義ではなく、マッカーサーの大統領選挙キャンペーンの一環だった、というのが本書の仮説である。

続きは10月14日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

「家」という超血縁集団

世襲の日本史: 「階級社会」はいかに生まれたか (NHK出版新書)
現代の常識では、世襲は悪で、実力主義が善である。リーダーが世襲で決まるのは前近代的な血縁集団で、実力で決まるのが近代的な機能集団だといわれているが、現実にはその優劣はそれほど自明ではない。安倍首相もトヨタ自動車の豊田章男社長も世襲である。二代目が劣っているなら、とっくの昔に選挙や市場で淘汰されたはずだが、そうなっていない。

東アジアの中で、日本は世襲がもっとも長く続いた国である。中国では10世紀ごろから、科挙によって実力主義の官僚制ができたが、それは日本には輸入されなかった。その最大の原因は、同じ時期に日本社会で発達した「家」の原理と相容れなかったからだ、と著者は考える。

古代社会は小さな親族集団の連合体を天皇家を中心とする「氏」としてまとめるしくみだったが、中世以降の「家」は武士を中心とする超血縁的な機能集団だった。 そのリーダーは長男が世襲することになっていたが、男が生まれなければ他の家から養子をとることは珍しくなかった。問題はDNAの連続性ではなく、家の連続性だったのだ。

続きは10月7日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

腐敗と格差の中国史

腐敗と格差の中国史 (NHK出版新書)
習近平政権では、よく「腐敗の追放」と称して幹部が粛清される。その実態は派閥抗争だが、海外に数千億円の資産をもっているといった桁違いの腐敗が報じられる。中国は伝統的に、と呼ばれるごく一部の特権階級と、と呼ばれる圧倒的多数の民衆の格差社会なのだ。

士は伝統的には世襲の貴族だったが、10世紀ごろから科挙で選ばれた官僚が「士大夫」と呼ばれるようになった。しかし科挙で選ばれるは1万人に一人ぐらいの秀才で、全国を転勤するので、地元のことはわからない。そこで地元で(日本でいうとノンキャリアの)が雇われ、ほとんどの実務は吏がやるようになった。

官には俸給が払われたが、吏は無給だったので、民衆から追加的な税という形で賄賂を取った。中国では腐敗が制度化されたのだ。官の選抜は厳格だったが、吏は官のコネで雇われたので、士大夫に寄生する数万人の宗族(父系の疑似親族集団)ができた。吏は民衆から賄賂を取って一族に分配することが義務になり、腐敗は組織的で大規模になった。

世襲の身分制度はなくなったが、四書五経を暗記する受験勉強は農民にはできないので、官は特権階級に独占され、事実上の身分制度になった。しかし身分の高い官の実権はほとんどなく、身分の低い吏が実権をもって民衆から賄賂を取る構造は社会に根づき、中国の政治を根本から腐らせてしまった。続きを読む

中国は「漢字文化」ではない

中国文明の歴史 (講談社現代新書)
中国を語るとき「漢字文化」とか「漢民族の伝統」という言葉で語るが、そういう文化が 2000年前からあったわけではない。漢字は中国にもともとあった言葉ではなく、古代に中国大陸に集まった多くの民族は、それぞれの口語を使っていた。

漢字はそれとはまったく違う、商人の人工的な共通語だった。もとは取引に使う符号だったので単純で、時制も接続語もなく、感情を表わす言葉がほとんどなかった。複雑な概念を表現するため、漢字を組み合わせて新しい漢字をつくったので、どんどん増えて発音もバラバラになった。

その読み方を統一したのが601年に書かれた『切韻』で、これが科挙の試験に採用された。民族にも身分にも関係なく、すべての男子から官僚を登用する科挙は、教育に大きな影響を与えた。初期の科挙は詩をつくる能力を試すだけだったので、漢字を教える学校がたくさんでき、人々は競って漢字を学んだ。

口語も漢字の文法に合わせて再編され、その組み合わせで表現できるようになった。多くの民族の雑多な言語が漢字で統一され、今の中国語の原型となった。漢民族という概念も、漢字によって生まれた。「中国」という概念はもっと新しく、19世紀にできたものだ。続きを読む

大学なんか行っても意味はない

大学なんか行っても意味はない?――教育反対の経済学
訳本が出たので再掲。訳題には疑問符がついているが、原題は『教育に反対する理由』。大学の私的収益率は高いが、社会的には浪費である。大卒で高い所得を得られるのは学歴のシグナリング効果であり、教育で能力が上がるからではない。したがって学校教育に税金を支出することは正当化できない。

これは経済学の通説に近いが、本書はそれを多くの統計データで検証している。大学教育が役に立たないことは多くの人が知っているが、高校教育も(少なくともそれに投じられる公費以上に)役に立つという証拠がない。初等教育は役に立つが、その私的収益率は高いので、コストは親が払えばよい。

だがこの過激な提言は実現しないだろう、と著者も認める。多くの人が学歴のメリットを知っており、子供への教育投資を増やしているからだ。このため世界中で学歴のインフレが拡大しているが、大学バブルは崩壊しない。この壮大な浪費は、どこの国でも巨額の補助金で支えられているからだ。続きを読む






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