テレビ界「バカのクラスター」を一掃せよ

テレビ界「バカのクラスター」を一掃せよ
新型コロナは欧米では重要な感染症だが、日本ではインフル未満の風邪である。それが過剰に騒がれる原因は、マスコミが毎日、感染者数を報道して不安をあおることだ。たとえば7月21日の東京の新規感染者数(検査陽性者数)は237人だという数字は多くのメディアが報道したが、新規重症患者は1人、死者はゼロだったことは報じない。

このインフォデミック(情報災害)の主犯はワイドショーである。特に「羽鳥慎一モーニングショー」は一貫して過剰報道を続けてきた。本書はアゴラでおなじみの藤原かずえさんがそれを逐語的に紹介した本で、ふだん(私のように)テレビをまったく見ていない人には、ワイドショーがいかにひどいかわかって便利だろう。

著者も中立の立場で論評しているわけではないが、気になるのは、こういうワイドショーのスタンスが(特にTBSとテレビ朝日で)均質化していることだ。沖縄の基地と森友学園と新型コロナはまったく違う問題だが、ワイドショーは同じ立場でコメントする。それと違う意見のコメンテーターは出演させない。

他方で出演者も、その空気に迎合する。たとえば本書で「『アベが悪い』の千夜一夜物語」と酷評されている後藤謙次氏は、共同通信にいたころは中立の立場から政治を語っていたが、「報道ステーション」のコメンテーターになってから急速に左傾化した。

続きは7月27日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで(初月無料)。

海洋プラスチック問題の超簡単な解決策

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本書は「国連のグテーレス事務総長は環境デーで『プラスチックごみで地球を汚すのはやめよう』と呼びかけた…」と格調高く始まり、海洋プラスチックごみがいかに困難な問題であるかを世界各地の例で明らかにする。ここまではよくある話だが、最後の第4章の2「プラスチックごみは大問題なのか」に至って、トーンがこう変わる。
日本で出るプラスチックごみの7割が焼却処分されている。[…]焼却処分は、埋め立てなどで処分することになる最終的なごみの容量を減らすには有効な手段だ。外国へのプラスチックごみの輸出を含め、ごみ処理の正規ルートに乗らないプラスチックを減らすことにつながる可能性もある。
こう書いてプラスチック循環利用協会の資料を紹介するが、そこにはこの問題の超簡単な解決策が書かれている。プラスチックは全部燃やせばいいのだ。ピリオド。

本書も「リサイクルには焼却にくらべて多くの費用がかかる」と認める。レジ袋をリサイクルするコストは69.8円/kgだが、焼却すれば30.5円ですむという。プラスチックは焼却で分解してCO2が出るのがいけないというなら、今回のレジ袋有料化で対象外になっている生分解性プラスチックも分解してCO2と水になる。

ごみの9割は発電などで熱利用しているが、生ごみだけでは高温が出ないので、重油を混ぜている。プラスチックを燃やさなかったら重油を燃やすだけで、CO2排出量は変わらない。そもそもプラスチックはもとは石油なのだから、石油を燃やすのと同じだ…と自問自答するうちに、最後は「焼却処分がもっとも合理的だ」と認めてしまう。そんな簡単な解決策が、なぜ実行できないのだろうか?

あとはアゴラサロンで。

「皇国史観」という近代的フィクション

皇国史観 (文春新書)
皇国史観というと日本の古い伝統のようだが、万世一系の天皇という概念ができたのは明治時代である。天皇が古代から日本の中心だったという歴史観は徳川光圀の『大日本史』から始まったもので、一般には知られていなかった。それを尊王攘夷思想にしたのが19世紀の藤田東湖や会沢正志斎などの後期水戸学である。

しかし尊王攘夷が明治維新の理念だったという話は、明治政府が後からつくった話で、当時の尊王攘夷は水戸のローカルな思想だった。それを信じていた水戸藩の武士は天狗党の乱で全滅し、長州にそれを輸入した吉田松陰も処刑されたので、戊辰戦争のころはコアな尊王攘夷派はほとんど残っていなかった。

水戸学の最大の影響は、水戸家出身の徳川慶喜が「大政奉還」という形で政権を投げ出したことかもしれない。これは代々「日本の国は天皇のものだ」という教育を受けてきた慶喜が天皇に名目的な権威を奉還するという形で幕府の延命をはかったものだが、薩長は幕府と徹底抗戦した。

戊辰戦争で幕府は圧倒的に不利だったわけではないが、慶喜が鳥羽伏見の戦いのあと大坂城を脱出したため、幕府軍は総崩れとなり、あっけなく決着した。このときも慶喜の頭には父の斉昭から教わった水戸家の教えがあったため、「朝敵」として戦うことができなかったのではないかと本書は推定している。

日本は天皇の統治する国だという歴史観は、反政府勢力だった薩長が掲げたものだが、幕府もそれを認めて江戸城を明け渡したため、皇国史観が国家をまとめるイデオロギーになった。明治維新は国民の大部分が知らないところで起こった「宮廷革命」であり、ばらばらの日本をまとめるのは天皇というフィクションしかなかったのだ。

続きは7月20日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで(初月無料)。

優生学は人種差別の思想ではない

優生学と人間社会 (講談社現代新書)
れいわ新選組の大西恒樹氏の「命の選別」発言が「優生思想だ」と批判を浴びた。自民党のツイッター騒動でも、マスコミはこれを「優生学だ」と槍玉にあげた。ここでは優生学が悪の代名詞になっているが、それは科学的には自明ではない。

日本には「優生保護法」という法律が1996年まであった。今は「母体保護法」と名前を変えているが、不妊手術や妊娠中絶手術を合法化する中身は同じだ。強制的な不妊手術については憲法違反だという訴訟が起こされているが、「経済的理由」による中絶は自由である。

優生学はナチスと結びつけられるが、人種差別や民族浄化とは無関係である。それは個人の能力がどこまで遺伝によるものかを検証する学問で、マックス・ウェーバーも支持していた。ケインズはイギリス優生学協会の会長だった。それは極右の思想ではなく、むしろフェビアン協会などの社会民主主義者が支持していた。

1907年に犯罪者や精神障害者の不妊手術を合法化する「断種法」が世界最初に制定されたのは、アメリカのインディアナ州だった。1930年代から優生学の中心になったのは北欧で、デンマークやスウェーデンでは強制的な不妊手術が行われた。社会保障の負担になる障害者を減らす産児制限は「福祉国家」の一環だったのだ。続きを読む

「聖なる汚物」としてのコロナウイルス

汚穢と禁忌 (ちくま学芸文庫)
きょうも東京では新型コロナの感染者が243人出たと騒いでいるが、コロナウイルスを見た人はいない。圧倒的多数の人々にとってはそれは想像上の危険でしかないが、それをこれほど多くの人が恐れるのは興味深い。

感染症が病原体によって起こるとわかったのは150年ぐらい前である。それまでは疫病の正体は見えないので、死体や排泄物は汚物として日常生活から排除された。汚物は両義的な意味をもち、聖なるシンボルとして儀礼で重要な役割を果たす。本書は1966年に書かれた文化人類学の古典である。

たとえば葬儀に糞尿を使う慣習は未開社会に広く見られる。葬式の前後には、性的なタブーも解除される。こういう慣習は現代にも残っており、ニューオーリンズでジャズが生まれたのは、墓地に隣接する売春街だった。日本でも、吉原の遊郭は鶯谷の墓地に隣接していた。死や性などのタブーにふれることで人は日常の抑圧から解放され、秩序をリセットするのだ。

こうした儀式は近代社会では力を失ったが、社会を脅かすリスクがなくなったわけではない。かつては神罰を恐れた人々が今日ではコロナウイルスを恐れるが、目に見えないのは同じだ。このため人々は、ウイルスを排除するためにはいくらコストをかけてもかまわないと思うのだ。ゼロリスク信仰は「聖なる汚物」を排除する儀式である。

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疫病が近代社会の「生権力」をつくった

ミシェル・フーコー講義集成〈7〉安全・領土・人口 (コレージュ・ド・フランス講義1977-78)
コロナで全世界に起こったロックダウンや自粛にからんで、フーコーがよく引き合いに出される。近代社会は「一望監視」システムによる監視社会だというのは1975年の『監獄の誕生』で出てくる概念だが、本書(1977年の講義)では撤回している。
一望監視は最も古い主権者の見る最も古い夢だともいえます。私の臣民は誰も逃れてはならない、私のいかなる臣民のいかなる身振りも私の知らぬところであってはならないという夢です。[…]それに対して今や登場するのは、正確には個人的現象ではないような特有の現象を統治(および統治者たち)にとって適切なものとするメカニズムの総体です。(本書81ページ)
一望監視装置は君主の見る夢で、現実には存在しなかった。現実に古代の君主権力が行ったのは、疫病患者の排除だった。それが適用されたのが癩病(ハンセン病)で、ここでは患者は家族からも国家からも完全に隔離される。

中世末期のペストのとき、イタリアで生まれたのが検疫だった。これはペストに感染した患者を隔離し、都市を格子で区切って外出を禁じるもので、都市は見張りを行う総代の監督下に置かれ、違反者は処刑された。このような都市封鎖はコストが高く、現代でもロックダウンは長期にわたって続けることができない。

それに対して1720年ごろから出てきた新しい技術が、種痘だった。これはメカニズムが不明だったので初期には危険な医療技術とされ、それを接種すべきかどうか論争が起こった。だがその効果は経験的に明らかだったので、ジェンナーが実用化してから予防接種が広く行われるようになった。

予防接種が成功すれば都市を封鎖する必要がなく、市民は自分の命を守るために接種に協力するようになった。これが人々が権力に自発的に服従する生権力の始まりだった、とフーコーはいう。この点でロックダウンは、ペストの時代の検疫への先祖返りともいえよう。

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環境原理主義の「偽の黙示録」が貧困と格差を生む

Apocalypse Never: Why Environmental Alarmism Hurts Us All (English Edition)
新型コロナの騒ぎをみると、ゼロリスク神話の根強さを痛感する。これは地球環境問題ではもっと大きく、グレタ・トゥーンベリの「人類は絶滅の危機に瀕している」といった終末論が、政府や国際機関に大きな影響を与えるようになった。

著者は環境保護派だが、環境原理主義に反対し、原子力に賛成している。本書もその立場から年来の主張をまとめたもので、主なポイントは次のようなものだ。
  • 地球の平均気温は上がっているが、異常気象は増えていない
  • 先進国では炭素排出量が減少している
  • 2003年以降、火災は世界中で25%減少している
  • 世界の食糧生産は需要より25%多く、余剰は増え続ける
  • 生物の大量絶滅は起こっていない
いま敵視されているプラスチックは自然破壊を減らした。たとえば50年ぐらい前まで、ビリヤードの玉やピアノのキーは象牙でつくられ、日本では海亀の甲羅で櫛やボタンがつくられていたが、今はなくなった。象や海亀の絶滅が止まったのは、それがプラスチックで代替されたからだ。

「自然に帰れ」というのが環境団体のスローガンだが、自然の中で暮らすコストは高い。途上国では、電気も水もない自然の中で多くの人が暮らしている。その生活を改善したのは都市化によるインフラ整備である。かつて都市への人口集中で環境が悪化するといわれたが、現実には都市のエネルギー効率は高く、環境は改善した。

成長を否定する環境原理主義は豊かな国のお遊びであり、途上国をますます貧しくし、先進国との格差を固定する。途上国が求めているのは安いエネルギーで豊かになることであり、それが結果的には地球環境を守る。豊かな国ほどエネルギー効率が上がり、CO2を出さなくなるからだ。

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黒人はなぜ隔離されるようになったのか

Viruses, Plagues, and History: Past, Present and Future (English Edition)
Black Lives Matterは日本人には無縁の騒ぎだが、アメリカ社会の恥部にふれる問題である。資本主義を生んだのは産業革命でもプロテスタントの倫理でもなく、植民地支配と奴隷貿易だった。それが英米人の原罪であり、彼らは永遠に許されない。

その黒歴史の中で、感染症は重要な役割を果たした。新大陸の侵略が容易だったのはスペイン人の持ち込んだ天然痘に免疫のなかった先住民が、病気でほとんど絶滅したからだが、これによって労働力がなくなり、スペイン人の植民地経営は失敗した。

これに対してイギリス人は、アフリカから1500万人の奴隷をカリブ海に連れてきて砂糖のプランテーションを行ない、それをヨーロッパに売る三角貿易で巨額の利潤を上げた。この利潤がイギリスの資本家の本源的蓄積になった。

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天然痘に続いて新大陸では、黄熱病が流行した。それは西アフリカの風土病だったが、ウイルスが奴隷船で新大陸に運ばれたのだ。黄熱病には白人も免疫がなかったが、黒人は免疫があった。このため新大陸で黒人は最強の労働力となったが、白人は黒人を隔離するようになった。これが人種隔離(segregation)の起源である。続きを読む

イエスは「社会的隔離」を否定した

イエスとその時代 (岩波新書)
新型コロナの死者は累計で50万人を超えたが、これは毎年100万人以上が死んでいる結核やマラリアなどに比べれば、史上最大の疫病というわけではない。疫病は人類の最大の脅威であり、その正体は19世紀末までわからなかったので、病人を隔離する「社会的隔離」が共同体を守る唯一の手段だった。この点では現代も古代とあまり変わらない。

医療は病人を安静にして回復を祈ることぐらいしかできなかったので、医師と呪術師に本質的な区別はなかった。その意味でイエスは医師だった、と本書はいう。福音書に数多く描かれているイエスが病人を癒やしたという奇蹟物語は、キリスト教会では「ご利益宗教」として軽視されているが、むしろそこにイエスの特色がある。

それまでの預言者が「神の国」の到来を告げて権力を批判したのに対して、イエスは民衆の中に入って病人を救済した。もちろん現代的な意味で治療したわけではないが、家族から隔離された病人に「家族のもとに帰ってよい」という帰還命令を出すのがイエスの特徴だった。
そして彼のもとに一人の癩病人が来る。彼に頼んで、膝まづき、言う、「もしもお望みなら、あなたは私を清めることがおできになります」。彼は怒って、手をのばしてその男にさわり、言う、「望む。清められよ」。そしてすぐに、癩はその男を離れ、その男は清められた。そしてその男をきつく叱りとばし、すぐに追い出した。(マルコ1:40~43 田川建三訳)

ここで問題は、彼が癩病(ハンセン病)患者を治療したかどうかではなく、ユダヤ教の律法で罪人として隔離されていた患者を家族のもとに帰したことだ。それは公然たる律法の否定であり、差別されていた障害者や貧困層の共感を呼ぶ一方、ユダヤ教徒の反発を招いた。

今週の金曜から始まるアゴラ読書塾「疫病と文明」では、このような感染症という角度から宗教や差別の問題を考えたい(申し込みはまだ受け付け中)。

ヨーロッパ人はなぜコロナウイルスに弱いのか

銃・病原菌・鉄 上巻新型コロナは南米に拡大し、ブラジルでは死者が累計5万人を超えた。他方で日本の死者は21日は1人。アジア・アフリカに拡大する兆候はない。どうやらコロナは世界的なパンデミックではなく、ヨーロッパ文化圏に固有の風土病のように思われる。

こういう現象は歴史的には珍しくない。いま黒人の怒りの対象になっているコロンブスが新大陸に到着したあと、スペイン人がわずかな軍勢でアメリカ大陸を支配できた原因は軍事力ではなく、彼らの持ち込んだ天然痘が新大陸に急速に広がったことだった。

先住民の人口は、その後100年間に95%減ったと推定されているが、これは彼らにはヨーロッパ人の持ち込んだ疫病に対する免疫がなかったことを示す。先住民はモンゴロイドで、ベーリング海峡が陸続きだった時代にアジアから渡ったといわれている。遺伝的にはアジア人とほぼ同じなのに、なぜ彼らには免疫がなかったのだろうか?

本書はその原因を家畜に求める。ユーラシア大陸は東西に長いので、広い地域で同じ穀物を栽培して多くの家畜を飼育できたが、アメリカ大陸は南北に長いので大型哺乳類に適さず、1500年ごろには家畜が5種類しかいなかったという。このためユーラシアでは家畜からの感染で免疫ができたが、新大陸ではできなかったというのが本書の仮説である。続きを読む








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