自由はどこまで可能か

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)
自由主義には、二つの系譜がある。エドマンド・バークのような古典的リベラルは、伝統的な自然法を尊重して人為的な人権思想を否定し、権利の根拠を慣習に求めた。これがイギリスのホイッグ党だが、最近では保守党に近い。

これに対してジョン・ロックに始まる自然権の思想は、人間は生まれながらに自由権や財産権などをもっていると考える革命思想で、フランス革命の人権宣言やアメリカの独立宣言に影響を与えた。これがリバタリアンである。

森村進氏は自分でもいうように日本でも数少ないリバタリアンで、本書はそれを法哲学の立場から解説したものだ。リベラルとリバタリアンの違いを図で示すと、次のようになる。

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この分類でいうと、日本には小さな政府を求める党はない。自民党は政治的にも経済的にも保守で「権威主義」に近い。野党は政治的には反自民だが、経済的には大きな政府の「日本的リベラル」だ。つまり日本にはリバタリアンは皆無である。

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バブルの「悪漢」から見た日本経済

蒲田戦記: 政官財暴との死闘2500日 (文春文庫 さ 40-1)
日経平均が1989年の最高値を抜いたことで「バブルの再来か」などといわれるが、当時それを取材した私の実感では、まったく違う。あのときのような全社会が浮かされたような熱狂は(よくも悪くも)二度と日本には来ないだろう。

桃源社の佐佐木吉之助元社長は2011年に死去したが、1992年に桃源社の蒲田駅前ビルが挫折した騒動のあとインタビューしたことがある。蒲田ビルの入札が行なわれたのは1987年3月で、国鉄の集荷場跡地を国鉄清算事業団が払い下げたものだ。

これを桃源社は総額657億円、一坪4500万円という破格の値段で落札し、バブルの象徴として注目された。この落札価格は二番札の3倍で「非常識な高値」といわれたが、当時は銀座の公示地価が坪4億円だった時代で、品川の再開発では興和不動産(興銀の子会社)が坪5000万円で落札した。

佐佐木は「興銀に裏切られた」といっていた。大蔵省の不動産融資総量規制を批判して「バブルをこんな急につぶしたら、どんな会社も生きていけない」と主張し、「日本経済救済協会」という団体を組織し、全国の破産した不動産業者を集めて「政府が債務を免除しろ」という要求を掲げた。

本書は佐佐木の側から見たバイアスがあるが、裁判(競売妨害)では事実関係が明らかになっており、控訴審では彼の言い分も認められて執行猶予になった。バブルの実感を知る参考になるかもしれない。

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アナーキー・国家・ユートピア

アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界国民負担率が50%に近づいて「大きな政府」への不満が高まっているが、1970年代にアメリカ経済がインフレと財政赤字でボロボロになったとき、ケインズ的な福祉国家への批判として出てきたのが、「小さな政府」を掲げたリバタリアンだった。

1974年に出た本書は、ロールズの『正義論』への批判として書かれ、その後のレーガン政権の新保守主義の支柱ともなった。その特徴はロールズの「無知のヴェール」にならって、思考実験で人々の安全を守るために最小限必要な制度とは何かを考えたことだ。

個人が集まって生活するとき、生命や財産を守るための組織としての保護組合(protective association)が必要になるが、複数の保護組合が衝突すると、暴力的な紛争が日常化する。それを防ぐために、一定の地域内で公権力が暴力を独占し、他の保護組合を武装解除するのが最小国家である。

ノージックは、国家に必要不可欠な機能は暴力装置としての軍事・警察・外交だけだとして、所得の再分配などを行なう福祉国家を否定したが、実際の国家がノージックのいうような手順で発生したわけではない。これについては「ロールズと同じく空想的な国家論だ」という批判があり、以後ノージックは一度も政治哲学の本を書いていない。

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マックス・ウェーバーのニヒリズム

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書 新赤版 503)
日本人はニーチェが好きだ。彼はヨーロッパ(特にドイツ)では無神論者としてきらわれているが、日本では『超訳 ニーチェの言葉』などという偽書が100万部以上も売れた。その中身は「初めの一歩は自分への尊敬から」とか「いつも機嫌よく生きるコツ」といったハウツーものだ。天然ニヒリストの日本人にとっては、神が死んだかどうかなんてどうでもいいのだろう。

他方で日本には、大塚久雄以来の「ウェーバー学」の伝統がある。これは講座派マルクス主義の変種で、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を金科玉条として「日本人の精神的自立」を説くもので、膨大な文献学の蓄積がある。

こうした近代化論的なウェーバーの読み方は日本特有のもので、歴史学では『プロ倫』は否定されている。『世界宗教の経済倫理』などの宗教社会学も、ドイツ語訳の2次文献に依拠したもので、学問的価値はほとんどない。

本書はこういう日本的な読み方を離れ、彼がニーチェの影響を強く受けたという観点から、いわば「ヨーロッパのニヒリズム」の終着点としてウェーバーの思想を考えるものだ。

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意識を超える宇宙は実在するのか

純粋理性批判 1 (光文社古典新訳文庫)
今年はカントの生誕300年だが、彼以降の近代哲学はすべて観念論である。カントはプラトン以来の「形而上学」を批判し、意識から独立の実在を否定したが、これはほとんどの人の直感には合わない。

私の目の前にあるコーヒーカップは、私が目をつむっても存在するはずだ。私がその存在を否定しても、それを倒したらコーヒーはこぼれる。それを疑う哲学者は、頭がおかしいのではないか――レーニンは『唯物論と経験批判論』で、このような「ブルジョア観念論」を罵倒した。

これは誤解である。カントは人間の外側の「物自体」の存在は認めたが、主観を超える先験的な本質が実在する根拠はないと論じたのだ。太陽の存在は認めても、それがあすも東から昇るという本質は帰納できない。それは主観的な経験則にすぎないからだ。

しかし現実には天体の運動は確率100%で帰納でき、宇宙の隅から隅まで同じ法則が成立している。それはなぜだろうか。カントはそれを先験的カテゴリーという概念で説明したが、これは先験的な本質を先験的カテゴリーに置き換えただけである。

最近の思弁的実在論はこの謎にあらためて取り組んだが、結局カントの袋小路に入ってしまった。宇宙の均質性は人間原理で説明するしかない。それはメイヤスーも批判するようにトートロジーだが、彼の実在論もトートロジーである。カントの取り組んだ謎は、いまだに解けていないのだ。

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「ヨーロッパのニヒリズム」の後に来るものは何か

ニーチェ全集 12 (ちくま学芸文庫 ニ 1-12)
「私の物語るのは、次の2世紀の歴史である。私は来たるべきものを、もはや別様には来たりえないものを、すなわちニヒリズムの到来を書きしるす」。本書の序文でニーチェがこう宣告して狂気の世界に旅立ったのは1889年。それから135年たち、彼の予言はリアリティを増しているが、その意味は誤解されている。

ニーチェはニヒリストではなく、それを克服しようとした哲学者である。彼が本書でヨーロッパのニヒリズムと呼んだのは、プラトン以来の形而上学だった。プラトンのイデアは現象の背後に普遍的な実在を想定する本質主義だったが、それがキリスト教に取り入れられ、超越的な神を世界の本質とするヨーロッパの世界観ができた。だが神は近代科学の法則に置き換えられ、世界は意味を喪失した。

ニーチェが「すべての価値の価値転換の試み」と名づけた草稿は、彼の狂気によって完成せず、草稿が断片のまま遺された。本書は妹エリザーベトがその草稿を恣意的に編集したもので、彼女がナチスのイデオローグとして兄を利用したことから、今日に至るまでニーチェはドイツ語圏では禁書に近い存在になっている。

しかしニーチェがニヒリズムを克服するために独裁的な「権力への意志」を志向したという通俗的な解釈は誤りである。彼が否定したのはヨーロッパの形而上学であり、その原因はプラトン以来の本質主義だった。それは多くの民衆を支配するために必要なイデオロギーだが、宿命的に挫折する。なぜなら世界には本質も意味もないからだ。

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プラトンの「イデア」はなぜ支配的な理念となったのか

反哲学史 (講談社学術文庫)
哲学的にはまったく異質なポパーとハイデガーには、一つだけ共通点がある――プラトン批判である。ポパーはプラトンの思想を本質主義と呼び、ハイデガーは形而上学と呼んで、それを解体する「反哲学」を構想した。

プラトンの哲学はイデア論としてよく知られている。これは日本では「理念」とか「理想」と混同されているが、原義は「形」という意味で、英訳ではformである。アリストテレスはこれを形相(エイドス)と呼んだが、語源は同じである。プラトンはそれを次のようなたとえで語る。

いま二つの家具のそれぞれを作る職人は、そのイデアに目を向けて、それを見つめながら一方は寝椅子をつくり、他方は机をつくるのであって、それらの製品をわれわれが使うのである。(『国家』第10巻)

ここではイデアは超越的な理念ではなく、家具をつくるために職人が思い描く形である。このように自然を<つくる>ものと考える思想は、自然と人間を一体とみなす古代ギリシャでも異質だった。それが西洋哲学の原型となり、現代に至るまで支配的な思想になったのはなぜだろうか。続きを読む

原子力とは何だろうか

技術とは何だろうか 三つの講演 (講談社学術文庫)
ハイデガーの主著『存在と時間』は、その第1部「現存在の解釈と時間の解明」だけが出版され、第2部「存在論の歴史の現象学的解体」は未完に終わった。その問題についてハイデガーが一つの答を出したのが、戦後に書かれた一連の技術論である。

そのキーワードが、技術の本質を表現する言葉としてハイデガーがつくったGe-Stellという言葉である。これは以前の訳本では「集-立」という意味不明な日本語になっていたが、本書では「総かり立て体制」。これも訳し過ぎだろう。

英訳ではenframing、「枠に入れること」という意味である。これでも何のことかわからないが、文中で何度も出てくる文脈から考えると、ハイデガーは原子力をイメージしていたと思われる。彼は核兵器に強い興味をもち、それにたびたび言及しているので、この1953年の講演も「原子力とは何だろうか」と読むことができる。

ハイデガーの技術論を「原子力時代における哲学」として読む試みは國分功一郎氏がやっているが、これは反原発カルトの思い込みで台なしになっている。

ハイデガーの語っているのはそんな陳腐な話ではなく、プラトン以来の西洋の形而上学の批判である。これは黒いノートにも書かれた彼の終生のテーマだったが、彼は原子力という異形のエネルギーの中にその一つの答を見出したのだ。

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保険医療の赤字の原因は経営効率の悪い医療体制

医療崩壊の真実
医療費の窓口負担一律3割は、医療体制を改革する上でも重要だ。新型コロナでも、日本の被害は欧米よりはるかに少なかったのに「医療が崩壊する」などと騒がれた。本書は新型コロナに対する病院の対応について、医療コンサルタントが全国700以上の病院のデータで分析したものだ。

日本の病床数は人口1000人あたり13.7床で世界一なのに、なぜコロナ患者で医療が破綻したのか――という問いは逆である。分母と分子を逆にすると病床あたり人口が世界一少ないので、経営効率は世界最悪なのだ。

医療の質は大規模な病院ほど高いが、日本の病院の8割が民間病院で、7割が200床未満の中小企業だ。急性期病床が多いが、重症患者の多くは大病院に入院するので地域病院の空床率は高い。それを埋めるために外来ですませてもいい患者を入院させ、長期入院で埋めているので、急性期病床の平均在院日数も16.2日と世界一である。

新型コロナの被害が欧米よりはるかに少なかった日本で「医療崩壊」が起こった原因は、戦後ずっと日本医師会が守ってきた開業医中心の医療システムなのだ。

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ハイデガーは「反ユダヤ主義」だったのか

ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで (講談社現代新書)
ハイデガーは20世紀最大の哲学者だが、彼にはナチスの暗い影がつきまとう。ドイツではナチスにかかわるものはすべて禁止なので、たとえばマルクス・ガブリエルはハイデガーを「筋金入りの反ユダヤ主義信者」、「完璧なまでのナチのイデオローグ」とこき下ろし、読むのをやめろという。

そういう偏見をさらに強化したのが、死後に発見された黒いノートである。2014年から刊行され始めたこの34冊に及ぶノートは、ハイデガーが備忘録として書いたもので、公開を前提としていなかったが、そこには一見して反ユダヤ主義が露骨に表現されていた。1939年のノートで、ハイデガーはそのころ始まった第2次世界大戦についてこう書いている。

端的に無目的性をめぐって戦われ、したがってせいぜい「戦い」の戯画でしかありえないこの「戦い」において「勝利する」のは、何者にも拘束されず、すべてを利用可能なものにする「地盤喪失性(ユダヤ性)」である。

これはユダヤ人が白人同士を戦わせて世界を征服しようとしているという陰謀論と読まれ、それまでハイデガーを擁護していた人も、ハイデガーが反ユダヤ主義だったことを認めた。

そうだろうか。そこにはもっと深い思索が含まれていたのではないか。ニーチェやハイデガーのような「黒い哲学」を切り捨てたために、戦後のドイツ哲学はガブリエルのような退屈な優等生ばかりになったのではないか。

続きは2月26日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで(初月無料)
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