「武士のデモクラシー」の成功と限界

未完の明治維新 (ちくま新書)
近代社会がデモクラシーによってできたというのは神話である。名誉革命は市民革命ではなく単なる王位継承の争いであり、フランス革命の舞台となった三部会は聖職者と貴族と有産階級の3身分だった。アメリカ独立革命を戦ったのは、各州の支配者であって民衆ではなかった。

デモクラシーは近代国家の必要条件ではないが、それは「自分の国だ」という意識によって国民を総動員する暴力装置としては必要だ。それが全国民である必要はなく、むしろ軍事的に動員できる官僚組織が必要だ。日本の場合、江戸時代を通じて武士という軍事組織が人口の1割近くいたことが幸いだった。

「万機公論に決すべし」はレトリックではなく、武士の総意で列強に対抗するという意味だった。大政奉還したとき、徳川慶喜は藩主議会藩士議会によって「諸侯の公議」で政権の方針を決めようとした。明治維新は農民とも地主とも無関係な「武士のデモクラシー」だったが、それを大きく変えたのが廃藩置県だった。

続きは4月23日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

宇宙はなぜ理解できるのか

隠れていた宇宙 上 (ハヤカワ文庫 NF)
「宇宙についてもっとも理解できないことは、それが理解できるということだ」とアインシュタインは言った。この広大な宇宙に唯一の法則が存在し、それが人間の書いた方程式で完全に記述できる必然性はないが、驚いたことにその例外は今のところ見つかっていない。

存在の一義性は、ドゥンス=スコトゥス以来の神学的なドグマで、宇宙に唯一の「摂理」が存在するという信念だが、近代科学はそれを「法則」という形で証明した。ニュートンが万有引力の普遍性を信じたのは、それが神の存在と同義だったからだ。

これはニーチェ以降の哲学の問題でもある。宇宙が一義的に存在するというのはキリスト教に固有の幻想だから、神が死んだ時代には無限に多様な空間があっていいし、永遠に回帰する時間があってもいい。最近の物理学の理論では、10500種類の宇宙がありうるという。それではわれわれが見ているこの宇宙が一義的なのはなぜか?

続きは4月23日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

ナベツネは原稿の書ける政治部記者だった

渡邉恒雄回顧録 (中公文庫)
放送法4条をめぐる騒ぎの原因がどうやらナベツネらしいと聞いて、彼の回顧録を読んでみたが、思ったより常識的な人だった。意外なのは、主筆になってからも自分で原稿を書いていることだ。そんなこと当たり前だと思うだろうが、政治家に都合の悪い原稿を「おさえる記者」が政治部では出世する。

NHKの海老沢勝二氏はその典型で、その前の島桂次は派閥のボスだった。朝日新聞でも三浦甲子二(テレビ朝日専務)は、まったく原稿の書けない記者だったが、田中角栄に取り入ってテレビ朝日をつくった。逆にスクープを書ける記者は出世しないが、ナベツネ氏は主筆と社長を兼ねる大記者だった。

ロビイストとしても優秀で、1960年に岸内閣が総辞職するときの政府声明を彼が書いたり、中曽根内閣の「死んだふり解散」を提案したりしている。大手町の社屋をめぐる政界工作では、社内政治に敗れてワシントン支局長に「左遷」されたが、アメリカでもちゃんと仕事をした。そういう経験が経営にも生きている。公平にみて、社会主義者の経営した朝日新聞よりまともだ。

続きは4月16日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

「多民族国家」になった大日本帝国

国民国家と戦争 挫折の日本近代史 (角川選書)
日本は島国で同質的なので、昔から日本人というまとまりがあったと思う人が多いが、それは逆である。江戸時代まで「自分は日本人だ」と思っている人はいなかった。だが国民を戦争に動員するには「この国は自分の国だ」という愛国心が必要なので、明治政府は短期間に「国民」を作り上げた。

国民とは何だろうか。出生地主義では、アメリカ合衆国に生まれた人はすべてアメリカ国民になるので、多様な言語や文化をまとめる理念が必要だ。それが民主主義である。すべての国民が主権者になるというのはフィクションだが、戦争に勝つために必要なフィクションだった。

これは抽象的でわかりにくいので、明治憲法は国家を天皇という記号で表現し、国籍法は血統主義をとった。これは日本人の子供でないと日本人になれないという考え方だが、そこには矛盾があった。台湾や朝鮮を植民地にしたとき、日本は「多民族国家」になったからだ。日本政府は台湾人や朝鮮人を「皇民」として同化させる政策をとったが、彼らは血統主義では「日本国民」にならないので、兵役がない代わりに参政権もなかった。続きを読む

人生は運で決まる:『ダーウィン・エコノミー』

ダーウィン・エコノミー:自由、競争、公益
ロバート・H・フランク
日本経済新聞出版社
★★★★★


人生が運に左右されることは多い。あなたが就職の面接で失敗していたら、今の会社には入れなかったかもしれない。デートのときケンカ別れしたら、今の妻(夫)と結婚していなかったかもしれない。何よりあなたの生命は、受精のとき1億以上の精子の中から選ばれた幸運だ。こういう初期条件はやりなおし不可能なので、それを前提にして人生を最適化するしかない。

続きはアゴラで。

江戸時代の「公儀」と「国家」

維新史再考―公議・王政から集権・脱身分化へ (NHKブックス No.1248)
明治150年の今年は、近代の日本を考え直すチャンスである。きょうから始まるアゴラ読書塾(ネット受講はまだ受付中)では、今までとは違う角度から明治の歴史を考えてみたい。その一つのテーマは「江戸時代との連続性」である。

本書は「幕府」とか「藩」という言葉を使わないで江戸時代を語る。これは渡辺浩氏も指摘するように、当時はそういう言葉が使われていなかったからだ。当時、徳川家は公儀と呼ばれ、大名家は国家と呼ばれた。国家という概念は、伝統的な中国にはない。「国」という字は明や清などの王朝を示す言葉で、それを超える普遍的なstateの概念は中国にはなかったのだ。

明治政府が徳川家を「幕府」と呼ぶようになったのは公的な正統性をもたないという意味だったが、公儀は私的な支配ではなかった。国とは家だが、それは個人としての大名を超える連続性と正統性をもつ。それは国家法人説に近い。明治日本の「裏の国体」である官僚支配の原型は、江戸時代にできていたのだ。

続きは4月9日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

「危機の政治学」の限界

危機の政治学 カール・シュミット入門 (講談社選書メチエ)
カール・シュミットの思想は危機(例外状態)における決断の主体としての主権者を考える「危機の政治学」である。それはナチスのような危険な思想だが、今もシュミットが多くの人を魅惑するのは、国家の本質的な機能が危機管理、とりわけ戦争にあるからだろう。

戦争の続く近代ヨーロッパでできた主権国家は、戦争に勝つために最適化された暴力装置である。普通選挙のデモクラシーは多くの国民を主権者として戦争に動員するイデオロギー装置で、ナポレオンはそれによってドイツを支配した。この時代に目覚めたヘーゲルやフィヒテなどのナショナリズムが、シュミットの原点だった。

だが平時には、シュミットの思想は輝きを失う。国家のもう一つの機能は、生活の最低保障という退屈な仕事だ。それには危機も例外もなく、決断は必要ない。政府はルールにもとづいて課税し、それを再分配するだけだ。長く平和が続いて豊かになると、人々は政治に関心を失う。高度成長期以降の日本のように、人々は政治的決断を必要としなくなるのだ。

続きは4月9日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

アベノミクス失敗の責任は誰が取るのか

官僚たちのアベノミクス――異形の経済政策はいかに作られたか (岩波新書)
安倍政権に特有の経済政策を「アベノミクス」と呼ぶとすると、その意味は明確だ。インフレ目標と量的緩和によるリフレ政策である。この意味でアベノミクスは、素人の翻訳家も認める通り明らかに失敗した。その原因も、大多数の経済学者が予告した通りだ。ゼロ金利でマネタリーベースを増やしても、日銀に「ブタ積み」になるだけで何も起こらない。

本書はこの「異形の経済政策」がなぜできたのかを、2012年11月から翌年3月までのクロノロジーで追ったものだが、よくも悪くも常識的な話だ:それを発案したのは本田悦朗氏で、賛成したのが浜田宏一氏と中原伸之氏。そして高橋洋一氏などの茶坊主が安倍首相をミスリードしたが、誰もマクロ経済学を理解していなかった。

だから当然リフレは失敗したが、安倍政権で景気は回復した。日銀が財政ファイナンスで財政赤字の拡大を埋め、日銀やGPIFが株を買って株価も上がったからだ。この意味でアベノミクスの実態は隠れた財政政策だったが、本書も指摘するように、それでは民主的なチェック・アンド・バランスがきかない。財政支出には国会の同意が必要だが、日銀の財政ファイナンスには(事前の)同意が必要ないからだ。

続きは4月2日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

権力集中を排除する「ジャンケン国家」

明治維新で変わらなかった日本の核心 (PHP新書)
国会で和田政宗氏の「安倍政権をおとしめるために、意図的に変な答弁をしているんじゃないか」という質問に、太田理財局長は「私は公務員としてお仕えした方に一生懸命お仕えするのが仕事なんで、それをやられるとさすがに、いくら何でも、そんなつもりは全くありません。それはいくら何でも、それはいくら何でもご容赦ください」と答えた。

この質問は議事録から削除され、和田氏ものちに謝罪したが、印象に残ったのは、いつもは理路整然と答弁する太田氏が「一生懸命お仕えする」という公務員の倫理を否定されたことに怒り、「いくら何でも」を3度も繰り返したことだ。もちろん法的には行政官は大臣にお仕えする部下だが、現実には官僚の権力が圧倒的に強く、政治家は役所に陳情するロビイストみたいなものだ。

こういう関係を磯田道史氏は「ジャンケン国家」と呼ぶ。江戸時代の公家には権威があったが武力も財力もなく、武士には武力があったが権威も財力もなく、商人には財力があったが権威も武力もなかった。三者はジャンケンのグー・チョキ・パーのような関係で、ここで公家を政治家、武士を官僚、商人をマスコミと置き換えれば、今も日本はジャンケン国家である。

続きは3月26日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

「五箇条の誓文」で解く日本史

「五箇条の誓文」で解く日本史―シリーズ・企業トップが学ぶリベラルアーツ (NHK出版新書)
先月まで盤石に見えていた安倍政権は、にわかに雲行きがあやしくなってきた。森友文書の改竄問題が麻生財務相に波及することは必至で、焦点は安倍首相の政治責任だ。「安倍一強」の時代は終わり、また「決められない政治」が戻ってくるのだろうか。

本書が語る日本の近代史も、決められない政治の歴史である。その原因はもともと日本に国民国家が存在しなかったことだが、明治維新では「万機公論に決すべし」というデモクラシーを謳い上げた。現実にはその主体になるべき国民はいなかったので、天皇を主権者として、その意思をシラスことが明治憲法の思想だった。

シラスの主語は天皇なのか臣下なのか、はっきりしない。天皇の意思を臣下が忖度し、彼らの意思を天皇が鏡のように映すことで、明治期の政治は成り立った。各官庁と陸海軍がバラバラの統治機構を辛うじて束ねていたのは薩長の藩閥政府だったが、その中心は法律のどこにも書かれていない「元老」だった。その「一強」体制は、大正デモクラシーから崩れてゆく。続きを読む






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