コンピュータの歴史を変えた日本人

反省記―― ビル・ゲイツとともに成功をつかんだ僕が、ビジネスの“地獄”で学んだこと
西和彦さんとは10年ぐらい付き合いがあり、いいところも悪いところも知っているが、ひとことでいうと「パッション」の人である。これはいい意味では「情熱的」で、一つのことに熱中して大事業をなしとげるが、悪い意味では「感情的」で、カッとなると前後を考えないで暴走する。

本書の最初に書かれているマイクロソフト初期のエピソードは有名である。IBMがOSを買いに来たとき、マイクロソフトにはOSがなかったので、ビル・ゲイツは断ろうとしたが、西さんは近所のメーカーからOSを買ってきて改造することを提案した。これがMS-DOSの誕生である。

本書には書いてないが、このときマイクロソフトがわずか2万5000ドルで買ったOSはディジタルリサーチのCP/Mの模造品で、今なら著作権法違反だった。マイクロソフトは大急ぎでそれを改造し、自社開発のOSとしてIBMにライセンスした。これがコンピュータの歴史を変えた決断だった。

このときマイクロソフトがMS-DOSをIBMに売却していたら、それはIBMのOSになったが、ビル・ゲイツはその著作権をもち、IBM以外のメーカーにもライセンスした。他のメーカーが同じようなマシンをつくってもIBMと競争できるはずがない、とIBMは考えたが、これがIBMを倒産の瀬戸際まで追い詰める大失敗となった。

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「世間」からグローバル資本主義への遠い道

近代化と世間 私が見たヨーロッパと日本 (朝日文庫)
コロナは一過性の感染症ではなく、日本社会に意外に大きな変化をもたらすような気がする。特にリモートワークが一挙に広がったことは、これまで大部屋で1日中(アフター5も含めて)一緒に働いてきた日本人の生活を大きく変えるだろう。このような日本人の働き方は、農業社会から受け継いだものだ。

人類の圧倒的多数は農業で生活してきたので、小規模な共同体の中で一生暮らすのが当たり前だった。これを阿部謹也は世間と呼んだが、キリスト教化する前の古代ヨーロッパも、狭い世間の中で暮らす共同体だったという。フランス語でもsocieteの原義は「世間」という意味に近く、ドイツ語のLeuteの語源もそれに近い。

しかし中世に人々が村を超えて移動し、戦争するようになると古代的な共同体が解体され、国(領邦)を守るためにキリスト教で精神的に統合し、教会が個人を管理するシステムができた。その秩序を守り、ヨーロッパを教会法で統合したのがローマ・カトリック教会だった。

ここでは個人は地域や家族から切り離され、神の前で絶対的に孤独な存在となり、救済されるかどうかは「自己責任」となる。個人主義はこのような特殊ヨーロッパ的な思想であり、自然な感情になじむものではなかったが、「強い個人」が結ぶ契約と非人格的な法秩序は、文化を超えてすべての社会に通じる普遍的モデルになった。

アメリカはそれが純粋培養された契約社会であり、そこで生まれたインターネットは、アメリカ社会の鏡像である。それはローカルな文化から切り離された個人がコントロールするネットワークであり、日本人のなじんできた親密な世間とは異なる世界である。日本人がそれに適応できるかどうかが、デジタル・トランスフォーメーションの本質的な課題だろう。

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森鴎外はなぜ麦飯を否定したのか

病気の日本近代史 ~幕末からコロナ禍まで~(小学館新書)
コロナをめぐる日本の論争をみると、医学界の権威主義の根強さを感じる。物理学のように明快な理論と実証データがない医学では、グレーな問題は学界の権威で決めざるをえない面があるのだろうが、それに加えて日本の医学界では学閥や役所の権威主義が強い。

その弊害を示す歴史的な事例が、森林太郎(鴎外)が脚気を感染症と誤認した問題である。日露戦争では白米を主食とした陸軍の戦傷病死3万7000人のうち、2万8000人が脚気によるものと推定されている。戦死者の3倍が脚気で死亡する惨憺たる状況だった。

それに対してパンを主食とした海軍では、脚気は皆無だった。海軍省医務局長の高木兼寛はイギリス海軍にならってパン食を採用し、遠洋航海で多発していた脚気を絶滅した。その因果関係は当時はまだわからなかったが、イギリス的経験主義で実利的な解決策をとったのだ。

ところが陸軍省医務局長の石黒忠悳は兵士に毎日白米6合を支給する方針に固執し、その理論武装のために森をドイツに派遣した。彼は白米の優越を主張する論文を医学雑誌に250本も発表し、栄養やコストなど、あらゆる面で米食がすぐれていると主張した。脚気の原因は不明だが、そのうち「脚気菌」が発見されるだろうと予想していた。

この論理には無理があったが、彼のバックには(石黒の後ろ盾だった)山県有朋の政治力があった。脚気論争では海軍と明治天皇は麦飯派だったが、陸軍と内務省衛生局(今の厚労省)と東大医学部は白米派だった。森は山県の側近として白米至上主義の論陣を張り、医務局長に出世した。

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江副浩正とともに失われた日本のデジタル革命

起業の天才!―江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男
1980年代まで日本企業は世界経済のリーダーであり、来たるべきデジタル革命の中心になると思われていた。その中心が江副浩正ひきいるリクルートだったが、いまリクルートの社史に創業者の名前はない。リクルート事件とともに彼の名は歴史から抹消されようとしているが、その再評価が必要だと思う。

リクルートは就職情報誌から出発したが、80年代に不動産で巨額の利益を上げた。そのころ私も何度か彼を取材したが、土地問題では「固定資産税を上げるべきだ」と主張していたことが印象的だった。当時、財界は増税に反対だったが、合理主義者の江副は、土地の保有コストを上げて不動産市場を流動化しないと開発が進まないと考えたのだ。

江副が不動産で上げた巨額の利益を注ぎ込んだのが情報産業だった。NTTの真藤総裁に食い込んで専用線のリセールやコンピュータの時間貸しなどの事業を始めた。真藤もNTTの官僚体質を変える外人部隊としてリクルートを活用し、公社時代だったら癒着と批判されるぐらい密接に連携して新しい通信サービスを売り込んだ。

それが結果的には仇になった。NTTは民営化されたとはいえ特殊会社であり、NTT社員は「みなし公務員」なので、未公開株の譲渡が贈賄に問われたのだ。真藤を初めとする改革派エリートが起訴されて失脚し、「公社のカルチャーを捨てて民間企業になれ」という真藤路線は180度転換され、日本のデジタル革命は挫折してしまった。

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ムーアの法則が世界を変える

過剰と破壊の経済学 「ムーアの法則」で何が変わるのか? (アスキー新書 042)
本書は2007年にアスキー新書で出した『過剰と破壊の経済学』の内容を2012年にアップデートした電子書籍(PDF)である。きょうのアゴラ経済塾のテキストに使うが、基本的な考え方は今でも通用すると思うので、ちょっと紹介しておく。

はじめに

現代では、だれもコンピュータなしで暮らすことはできない――というと、「私はコンピュータなんかさわったこともない」という人もいるだろう。しかし日本の携帯電話の契約数は 1 億台を突破し、ほぼ1人に1台がもっている。その中には通信などの機能をつかさどるシステム LSI (大規模集積回路)が入っており、これは数センチ角の小さな半導体だが、 CPU (中央演算装置)やメモリをそなえた、立派なコンピュータである。

この携帯電話用 LSI に集積されているトランジスタの数は、最新機種では 8800 万個にのぼる。これは、 1955 年に IBM がトランジスタを使って最初に開発した大型コンピュータに使われたトランジスタ数、 2200 個の 4 万倍である。かつてはコンピュータ・センターを占拠していた巨大なコンピュータの 4 万倍の機能が、あなたの持つ携帯電話に入っているわけだ。

このように、ここ半世紀ほどの間にコンピュータ産業で起きた変化は、だれにも予想できない急速なものだった。かつて IBM の創立者トーマス・ワトソンは「コンピュータの世界市場は 5 台ぐらいだろう」と予想したが、いま世界にあるコンピュータの数は 5 億台を超えている。携帯電話や家電などに埋め込まれたマイクロチップを含めれば、数百億個のコンピュータが世界中にある。

この変化は、 1990 年代から特に加速したようにみえる。その原因はインタ ーネットの普及である。インターネットそのものは 1970 年代からあったが、主として大学や研究所のミニコンピュータで使われていた。それが 80 年代から始まったパソコンの普及とあいまって一般家庭でも使われるようになり、 1990 年代から急速な広がりを見せ始めたのである。少なくとも先進国では、すべての人がコンピュータとネットワークでつながる時代が、現実になろうとしている。この尋常ではない変化のスピードの原因は何だろうか?

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石器時代の人類は「中動態」で考えていた

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
本書は受動態でも能動態でもない「中動態」が多くの言語にあるというが、これは新しい話ではない。受動態と能動態の区別はインド=ヨーロッパ語族に固有で、日本語にはなかった。日本語の「~される」という言葉は「怒られる」とか「なぐられる」といった被害の表現で、文法的な「態」ではない。

能動態と受動態という概念は行為の主体に自由意志があって客体から独立していることが前提だが、そんな前提は歴史の大部分では成り立たない。主語とか人称という概念もインド=ヨーロッパ語族だけの特徴で、古代の日本語にも主語はなかった。主語不要論は時枝文法のころからある。

本書はそういう日本文法の先行研究をほとんど参照しないで、ハイデガーやフーコーなどの哲学で中動態の概念を論じているが、それは逆である。木田元も指摘したように、ハイデガーが批判したヨーロッパ的な主体の<つくる>論理より、丸山眞男が日本神話に見出した主体なき<なる>の論理のほうが古く普遍的なのだ。

狩猟採集社会では、人間は小集団でしか生存できなかった。人々は集団で食糧を求め、他の集団と戦い、生殖して集団を維持する必要に迫られて行動していたので、主語はつねに「われわれ」であり、明示する必要はなかった。そこには集団から独立した主体はなかったので、能動と受動の区別もなかった。石器時代の人類は中動態で考えていたのだ。

続きは2月1日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで(初月無料)。

岩田健太郎氏の知らない「ロックダウン」

丁寧に考える新型コロナ (光文社新書)
新型コロナで感染症の専門家と称する人々の化けの皮がはがれたが、その最たるものが本書に登場する岩田健太郎氏と西浦博氏だろう。ところが彼らは今なお意気軒昂で、「日本もロックダウンしてコロナを制圧すれば経済は回る」と主張する。

ロックダウンというのは外出禁止令の通称だが、日本の法律では不可能である。特措法45条は「特定都道府県知事は、生活の維持に必要な場合を除きみだりに当該者の居宅又はこれに相当する場所から外出しないことを要請することができる」と定めているだけで罰則はない。

岩田氏は「罰則がなくても政府が外出禁止できる」というが、それは違法行為である。移動の自由は憲法22条に定める基本的人権で、根拠法なく侵害できる権利ではない。憲法に非常事態条項のない日本では、ヨーロッパのように警察が外出を取り締まることはできないのだ。

それほどロックダウンが結構なものなら、ロックダウンしなかった日本のコロナ死亡率が、ヨーロッパの数十分の一なのはなぜか。これについて本書は自然免疫やBCGの効果を否定し、「日本の感染はヨーロッパより遅かったので感染初期に対応できた」という。

これは1月に武漢から感染が始まってアジアで流行した事実と矛盾するが、著者は下水データを根拠にして「ヨーロッパには2019年末に新型コロナウイルスが入った」と主張する。それなら3月にイタリアで流行が始まるまで、ヨーロッパで患者が出なかったのはなぜか?続きを読む

21世紀は「新しい中世末期」

新しい中世 相互依存の世界システム (講談社学術文庫)
プラットフォームをめぐる最近の動きは、資本主義と国家の関係という古い問題に新しい光を当てている。多くの人が誤解しているように、資本主義は近代国家によって生まれたものではない。ウォーラーステインが指摘したように、資本主義は「長い16世紀」からのヨーロッパの植民地支配で近代世界システムとして生まれたものだ。

本書はそれが冷戦とともに終わり、「新しい中世」に回帰しているというが、今はむしろ中世末期にヨーロッパの封建社会が崩壊した時代に似ている。中世にはヨーロッパが精神的にはキリスト教で統合される一方、政治的には領邦が分立していた。このころまで日本とヨーロッパは(キリスト教を除いて)よく似ていた。

しかし12世紀ごろから領邦を超える商取引や遠距離貿易が盛んになり、領主の支配を逃れてヨーロッパ全域を商圏とする商人が増えた。彼らは個人の契約による株式会社を組織し、株式でリスクを分散して全ヨーロッパ的に活動したが、領邦はローカルな統治機構を維持し、カトリックは教会による精神的支配を維持しようとした。

それに対して教会を超える「聖書による救済」を主張し、全ヨーロッパ的な普遍主義を掲げたのがプロテスタントだった。その組織が株式会社のモデルになり、個人が地域を超えてヨーロッパを移動するようになった。これと伝統的な地域支配を維持しようとした領主とカトリック教会が戦ったのが宗教戦争だった。

中世末期に起こった領邦を超える商人の活動とパラレルな現象が、いま起こっている主権国家を超えるGAFAMなどのグローバル化である。それが宗教戦争のような内乱をまねくことは考えにくいが、アメリカの現状をみているとその可能性はゼロではないようだ。

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「グリーン成長」という幻想

資本主義の新しい形 (シリーズ現代経済の展望)
本書は資本主義が21世紀に「非物質化」し、エネルギー集約型の製造業から情報産業やサービス産業に比重が移っているという。それ自体はよくある話だが、著者はこれを「脱炭素化」と結びつけ、CO2削減で成長できるという。これは政府の「グリーン成長戦略」もいうが、本当だろうか。

たとえば化石燃料を再生可能エネルギーに変えたとき、再エネのコストが化石燃料より安ければ収益が上がるので成長できるが、再エネ投資の収益率は大幅なマイナスである。それを埋めているのがFIT(固定価格買い取り)で、その賦課金(再エネ-化石燃料コスト)の総額は2030年には44兆円、2050年には69兆円にのぼる(電力中研)。

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この69兆円は再エネ業者の利益になるが、消費者にとっては電気代の超過負担である。その社会的なメリットは、地球の平均気温が30年後に0.01℃下がるかもしれないというだけだ。脱炭素化の私的収益率はゼロに近いので、民間企業には適していない。これはFITのような国民負担でやる公共投資である。

本書は脱炭素化とエネルギー節約を混同して「脱炭素化で収益が上がる」というが、収益の上がる省エネ投資はすでにやっている。これから政府が規制や補助金で民間にやらせるのは採算のあわない脱炭素化投資であり、経済的には純損失になって成長率は下がる。「グリーン成長」は幻想なのだ。



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タダで仕入れた個人情報を売るおいしいビジネス

邪悪に堕ちたGAFA ビッグテックは素晴らしい理念と私たちを裏切った
ツイッターがトランプ大統領のアカウントを停止した事件は、世界中に反響を呼んでいる。問題が「リベラルのトランプたたき」に矮小化され、党派的な対立になっているが、この背景には本書の描いているプラットフォーム独占の問題がある。

こういう状況は、20年前にグーグルやアマゾンが登場したころは想像もできなかった。インターネットは国境を超えて世界のユーザーが情報を共有するツールで、それを規制しようとする政府からネットを守ることが正義だった。通信品位法230条はそういう時代のなごりだが、状況は大きく変わった。

今やネット企業は政府が保護すべき弱小スタートアップではなく、国家権力を脅かす存在である。昨年アメリカの独禁当局がグーグルとフェイスブックを提訴したことは潮目の変化を示すが、これは従来の独禁政策の枠組に収まらない。独占の指標として使われるのは価格の高止まりだが、プラットフォームは無料だからである。

製造業ではカネは「消費者→小売店→メーカー」と動くが、ネットでは個人情報が「ユーザー→プラットフォーム→広告主」と動き、カネはその逆方向に動く。その顧客は広告主であり、ユーザーは広告を売るための「商材」だが、グーグルはその原価をユーザーに払わない。タダで仕入れた個人情報を売るプラットフォームの収益率が高くなるのは当たり前である。続きを読む








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