一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)立民党の敗北は、55年体制から続いてきた万年野党の終わりを象徴している。このように最初から権力を取る気がなく文句をつけるだけの百姓一揆モデルは日本の伝統だが、それをあまりネガティブに評価するのもよくない。

かつて石山本願寺の合戦は織田信長に対する農民反乱とされ、丸山眞男は一向一揆を「古層」を超える普遍的な価値に依拠して民衆が結束した政治運動だったと高く評価した。彼は身分や財産の違いを超えて阿弥陀如来への信仰のみによって救われると教える親鸞の「絶対他力」の思想をカルヴァンの予定説に比した。

しかし最近ではそういうロマンティックな見方はなくなった。本願寺は寺領という荘園の領主だったが、不輸・不入の権をもっており、全国統一をめざす信長にとっては、他の戦国大名と同じ敵だった。合戦が始まったころ「石山」という地名はなく「一向宗」という宗派もなかった。「一向一揆」という呼び名は、江戸時代にできたものだ。

初期の一揆は「一致」という意味の普通名詞だったが、そこには血縁や地縁を超えた新しいタイプの「縁」があった。地方から出てきて大坂に集まった都市住民には、阿弥陀仏への信仰以外に彼らを結びつけるものがなかったのだ。戦国大名が地縁に支えられた自民党のようなものだとすれば、本願寺は「無縁」の民の築いた都市国家だった。

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