武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)
財務省の矢野事務次官の財政破綻論は、内容的には目新しい話ではないが、矢野氏もMMTも見逃している問題がある。本質的な問題は借金の残高ではなく、徴税能力の衰弱だということだ。それを示しているのが江戸時代の歴史である。

本書の素材は、猪山家という加賀藩の「御算用者」(会計係)の家計を幕末から明治初期まで37年にわたって詳細に記した文書だ。猪山家はもともと格の高い家ではなかったが、幕末には各藩の財政が苦しくなり、財務の専門家が出世した。いわば「理系」の実力派エリートだが、その家でも借金が年収の2倍もあり、金利が年18%もあったので、猪山家は破産の危機に直面した。

そこで1842年に家財道具をすべて売却して借金を返済し、破産を逃れた。猪山家のようなエリートでこうなのだから、下級士族は水呑百姓より貧しかった。各藩の財政も困窮して俸禄(賃金)の遅配や減額が増え、武士はもはや特権ではなく、商売も農業もできない不自由な貧民だった。

幕藩体制が腐敗しなかった最大の原因は、このように実効税率が下がったために武士が絶対的に窮乏化したことだ。次の図のように徳川幕府が始まったころは農業生産高の20%ぐらいあった年貢の実効税率は、幕末には5%足らずになり、結果的には大幅な減税になった。

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江戸時代の実効税率(深尾京司ほか『日本経済の歴史2』)

このため各藩の債務は年貢の約3年分になったので、廃藩置県で各藩の徴税権を明治政府が奪うと同時に債務も肩代わりしたとき、ほとんどの大名は喜んで徴税権を手放した。これが明治維新のような革命が、驚くほどスムーズに短期間に成功した最大の原因だが、幕府はなぜ増税できなかったのだろうか?

長い平和で貧困化した武士

その一つの原因は、1700年ごろから検地ができなくなったことだ。図のように農地が増えて農業生産は3倍ぐらいになったが、大名が年貢を取れる面積はほとんど増えなかった。それは検地をしようとすると、百姓一揆が起こったからだ。その首謀者は処刑されるが検地は取りやめになる慣例ができた。

武士はもともと土地の安全を保障する用心棒のようなものだったから、徳川幕府の徹底的な平和主義で戦争がなくなると、軍事サービスの価値もなくなった。江戸時代には武士は農村から離れて城下町に住んだので、警察機能もほとんどなくなった。このような武力の価値の低下が「自然減税」の原因だった。

もう一つは、コメ以外から徴税できなかったことだ。納税の原則が物納(コメ)だったので、商品作物からも商業・工業から(ごく一部の株仲間を除いて)徴税できなかった。19世紀まで現物経済を続けた国は、世界的にも明ぐらいしか残っていなかったが、おかげで商人は豊かになり、大名に賄賂を贈って税を逃れた。

しかし幕末になると、本書にもくわしく書かれているように下級武士は借金で農民より貧しくなり、彼らのルサンチマンが革命の原動力になった。このとき彼らを鼓舞したのが「幕府が天皇家の地位を簒奪した」という尊王攘夷だったが、これは幕府に正統性がないという下級武士のイデオロギーだった。

その意味で幕府の崩壊は必然だったが、その革命があれほどスムーズにできたのは、長い平和で武士の大部分が実質的に失業して貧困化し、これ以上は先送りできないところまで追い詰められたことだった。

1週間で実行された廃藩置県

最大の革命は1867年の明治維新ではなく、1871年の廃藩置県だった。山県有朋が西郷隆盛を訪ねて「廃藩置県に着手されてはどうであろう」と持ちかけたところ、西郷はその場で「実にそうじゃ。それはよろしかろう」と答え、西郷がその日に大久保利通を訪ねて廃藩置県の計画を話したところ、大久保も同意した。

廃藩置県の詔書が出されたのは、なんと西郷と大久保の合意の1週間後である。それは内乱を覚悟した決定だったが、実際にはあっけなく実行されてしまった。当時それだけ各藩の財政は逼迫しており、大名の地位を守る代わりに徴税権を中央集権化するという乱暴な革命が、ほとんど抵抗なく終わった(政府債務は帳消しになった)。最大の反抗は皮肉なことに、西郷の起こした西南戦争だった。

これは日本で明治維新のような革命が起こる条件を示している。文字通りの武力による革命は不可能だが、既存の制度を根本的に変えるような改革が起こるのは、このようにエリートが窮乏化して階層分化が起こり、現場の官僚が立ち上がるときだろう。その意味では「ブラック職場」になった霞ヶ関には、革命のマグマが貯まっているのかもしれない。