日本史の法則 (河出新書)
自民党総裁選で「女系天皇」が話題になっている。ほとんどの人にはどうでもいい話だが、自民党のコア支持層(日本会議とか神社本庁など)には根強く「男系の皇統」への執着があるので、無視できないのだろう。

これが継体天皇以前の時代には成り立たないことは明らかだ。6世紀以前には単一の王朝がなかったので、男系も女系もない。この時期の日本は、トッドの分類でいうと核家族の集合体だった。それが7世紀に天皇家の支配が確立するに従って男系男子の皇統が成立し、トッドのいう直系家族に移行した。

この時期以降の天皇家は男系男子だが、その血統が1000年以上も続いたのは、天皇の権力が強かったからではない。逆に天皇の血統は重要ではなかったからだ。平安時代になると藤原氏が娘を天皇と結婚させて摂政や関白になり、歴代の天皇は藤原家に「婿入り」して藤原氏の家で暮らすようになった。

藤原氏が天皇を廃位して自分が天皇になることは容易だったが、そんなことをする必要はなかった。藤原氏は天皇に代わって意思決定できたからだ。大事なのは血統ではなく、藤原氏の「家」だった。天皇と血がつながっていなくても、その義父や大叔父として属人的な権力をもった。この血より家という原則が、日本史を貫く法則だ、と本書はいう。

「家」はスケーラブルではない

11世紀の白河上皇から院政が始まった。これは変則的な形態とみられているが、母方の尊属である藤原氏の代わりに父方の尊属である上皇が実権を握るようになっただけで、天皇に実権がないのは同じだった。

しかし13世紀以降、実権が武士に移ると、天皇家の家系には意味がなくなり、今度は天皇と将軍という二重構造ができた。このときも男系男子で継承される天皇は名目的な存在であり、日本の実態は各地方の「家」の連合体だった。

こういう「部族国家」は今もアフリカには多いが、日本のような大国でこういう統治形態が続いてきたのは珍しい。これは戦国大名ぐらいの規模が限界で、人が地域を超えて移動するようになると、それ以上の規模の「国家」を統治することはむずかしい。

考えられる方法としては、部族を超える普遍的な法で支配するか、中間集団に分割して統治するかである。スケーラブルな法が成立したのは、イスラム圏と近代以降のヨーロッパだが、徳川幕府は逆に「家」を固定して秩序を守った。これは平和を守る点ではよかったが、経済発展に大きく立ち後れた。

明治以降はこの構造を一挙に転換して「帝国」に再編しようとしたが、天皇は依然として名目的な君主で、実権は長州閥の「元老」にあるという二重構造が残った。明治政府は「拡大された長州藩」だったが、元老が死んで長州閥の統治が終わると、軍部が暴走して歯止めがきかなくなった。

戦後はその構造がヨーロッパ的な法治国家に変えられたが、これは日本人の「古い脳」には根づいていないので、政治はいまだに派閥という「家」で行われる。企業も「家」の集合体で、その求心力は終身雇用や多重下請け構造で中間集団の固定性を守ることだ。

このように日本の歴史を通じて続いてきたのは、「家」による属人的な支配である。それ自体は不合理ではないが、スケーラブルではないので、大きな組織では無理が出てくる。平時には強いが、有事には弱い――それは日本社会の抱える構造的な問題である。