シリーズ日本の近代 - 逆説の軍隊 (中公文庫)
コロナをめぐる日本の意思決定をみていると、戦前、軍部に振り回された経験にまったく学んでいないと思う。当時の軍は単なる暴力装置ではなく、日本最高の専門家集団であり、陸軍大学は帝国大学と並ぶ知的権威だった。尾身会長が首相を超える権力をもつようなものだ。

日清・日露戦争までの日本は、明治維新から半世紀足らずで世界の強国ロシアを倒した驚異的な成功物語だった。それが昭和になって暴走し、日中戦争や日米戦争などの泥沼にはまっていった原因を考えることは、現代でも意味がある。

昔から皇帝が軍を指揮する国は多かったが、傭兵が多いため士気が低く、その規律を維持するのが大変だった。他方、都市国家は「自分の国を守る」という意識が強いため士気は高かったが、規模において劣る。両方の利点を生かし、国家的な規模で徴兵制を実現したのが近代国家の強みだった。

この点では日本の武家は、ローカルな都市国家に近かった。江戸時代までは「日本」という国家が意識されず、武士のエートスは各藩(家)のために戦う、主君への私的な忠誠だったからだ。それが一挙に「大日本帝国」への忠誠心に変わったのはなぜか?

部分最適化の伝統

それは武士が天皇というシンボルを共有していたからだ。天皇には君主としての権力は1000年以上なく、農民はその存在も知らなかったが、江戸時代末期に儒学の影響でバラバラの大名家を超える「大きな家」の記号として天皇が使われるようになり、それが尊王攘夷というイデオロギーになった。

これはヨーロッパの近代国家が王家と貴族の戦争から生まれたのとはまったく違い、フクヤマの指摘した日本の官僚が清潔で優秀だという特長と関係がある。そこでは家と個人の関係は長期的に固定されているので、賄賂をとったりすると切腹を命じられて「お家断絶」になる。

このような名を惜しむ倫理が武士の倫理を支えた、と丸山眞男はいっている。「名」は現代的にいえばreputationだが、これを維持するには小集団を固定して長期的関係を続ける必要がある。これが江戸時代に300近い(互いに行き来できない)国が続いた理由だろう。

農村のレベルでも、古代は農業経営の単位が大家族のウジだったのが、近世以降は小家族のイエに変わった。これは労働生産性が上がって家族の自律性が高まったためだが、イエを統合する機能が弱いため、その集合体であるムラはきわめて民主的に運営された。武家の構造も、基本的にはこれと同じである。

中国では数万人の宗族を代表する秀才が科挙に合格すると、一族を養うために賄賂を出したり宮廷に入れたりする義務があったが、日本の武士は小さなイエを出ないで一生を過ごす部分最適化の伝統があるので、中国のように一族を養う義務がなく、清潔だった。

合理的な職業軍人が失った武士のエートス

明治以降の日本軍も、基本的には武士の集団だった。チョンマゲがなくなったので見かけは違うが、山県有朋が1922年に死ぬまで、日本軍の指導者は武士だった。このため、武士の長所と短所がそのまま日本軍に持ち込まれた。

よくいわれる「兵隊は優秀だが将校が無能だ」とか「中隊は強いが師団は機能しない」という特徴も、武士には中隊ぐらいまでの規模しかなかったからだ。本書に出ている「昔の武器にこだわる」という特徴も、長い平和の中で身についた武士のエートスだろう。江戸時代には、徳川家以外は鉄砲さえ持たなかったのだ

この点では、日本軍は近代の総力戦には向いていなかったが、日露戦争では、ロシアで革命が起こったために運よく勝った。実戦経験のある軍の首脳(長州の武士)は戦いの「引き際」を知っていた。

それが昭和になって長州閥が排除され、陸大の優等生が戦争を指導すると組織が硬直化し、既定方針を闇雲に決行するようになった。兵站を考えないで短期決戦を挑み、進むを知って退くを知らず、大きな犠牲を出しても勇敢な将校が出世した。日本軍は合理的な職業軍人になったために、武士のエートスを失ったのだ。

敗戦まで一貫して、日本軍の主導権を握ったのは佐官級の中間管理職だった。彼らの特徴は現場主義である。日本軍のような小集団中心の組織では全体戦略より個別の作戦が重視され、部分(軍)が全体(政治)を支配しようとし、「統帥権の独立」を主張してクーデタで実権の掌握を図った。

こういうときは政治が指導力を発揮しなければならないが、軍をおさえようとした犬養毅も高橋是清も暗殺され、近衛文麿のような無能な首相しか残らなかった。部分最適化のために、全体最適を追求する政治家は文字通り抹殺されたのだ。この特徴は、感染症の専門家が政権を動かす現代にも残っている。首相が殺されないだけましだが。