昭和陸軍 七つの転換点 (祥伝社新書)
歴史にifは無意味だが、もし日本が対米開戦しなかったら、というのは日本人なら誰もが一度は考えるifだろう。本書はそれを中心にして、7つの転換点を検証したものだ。

最初の転換点は満州事変である。これは石原莞爾の暴走ではなく、永田鉄山を初めとする陸軍統制派の計画だった。それは成功したが、永田のねらいは満州だけではなく、華北も支配下に収めることだった。ヨーロッパで起こる世界大戦には、華北の資源が必要だったからだ。

それに続いて陸軍は華北分離工作を進めたが、1935年に永田が暗殺されて、計画は大きく狂った。命令系統が混乱して二・二六事件のようなクーデタやテロが頻発し、日中戦争が際限なく拡大した。石原のような不拡大派は主流から外され、武藤章を初めとする統制派が主導権を掌握する。

最後の転換点は、南部仏印進駐である。第二次大戦でドイツが勝つとみた松岡洋右は、勝ち馬に乗るつもりで三国同盟を結んだが、陸軍は消極的だった。そのころ陸軍は対ソ戦の準備を進めていたからだ。陸軍は関特演(関東軍特種演習)と称して85万人の兵力をソ満国境に集結させたが、開戦直前の1941年8月に中止した。

その原因は、アメリカの石油全面禁輸だった。日本は石油の75%をアメリカから輸入しており、これを禁輸することが対米開戦のきっかけになりうることは、ルーズベルト大統領もわかっていた。ではなぜ日本を挑発するような禁輸に踏み切ったのだろうか?

日本の対ソ戦を防ぐために石油を禁輸した

その原因は、独ソ戦の情勢だった。当時ドイツ軍はモスクワに迫り、ソ連が降伏すると、ドイツの戦力はイギリスに向かう。戦力にまさるドイツ軍がイギリス戦線に戦力を集中すると、イギリスの敗退は目に見えていた。

それはドイツが「第三帝国」としてヨーロッパを支配し、アメリカが孤立することを意味する。アメリカを「デモクラシーの兵器廠」と自認するルーズベルトには、それは許せない事態だった。日本の対ソ戦を許すと、ソ連の敗戦は早まる。それを防ぐためには、日本の戦力を南方に転じることが必要だったのだ。

石油確保のために、その大部分を輸入している国と戦争を始めるのはナンセンスであり、陸軍にもそれぐらいの常識はあった。9月6日の御前会議でも天皇は明治天皇の御製を詠んで開戦に反対し、武藤はその意を受けて開戦阻止に動くが、このとき最後まで障害になったのが、中国からの撤兵問題だった。

東條英機の「ここで引き下がっては英霊に申し訳が立たぬ」という言葉は有名だが、この言葉には「されど日米戦争ともなれば更に多数の将兵を犠牲とする」という下の句があった。しかし迷っている東條の背中を嶋田海相が押す形で、開戦が決まってしまう。海軍は「撤兵問題のみで日米が戦うのはバカげている」と陸軍を批判したが、結果的にはそのバカげた決定に加担してしまった。

武藤は最後まで対米開戦を回避しようと調整したが、東條は撤兵問題にこだわった。その本当の原因は今もわからないが、統制派にとって華北からの撤兵は永田以来の一夕会の努力が無に帰すことを意味するからだ、というのが著者の推測である。いわば永田の亡霊が開戦に踏み切らせたわけだが、彼が生きていたら「バカなことはやめろ」と一喝して終わったのではないだろうか。