宗教は嘘だらけ 生きるしんどさを忘れるヒント (朝日新書)
脱北してアメリカに亡命した女性が「白人男性のポリコレは北朝鮮よりひどい」と批判して、話題になっている。「反西洋的な感情と集合的罪悪感、そして息苦しいほどのポリコレ」が北朝鮮を思わせるという。

私の印象でも、リベラルメディアの地球環境や反差別をめぐるポリコレは、最近とくにひどくなっているような気がする。資本主義はこの美しい地球を汚してしまったとか、黒人奴隷を使ってアメリカ大陸を開拓した罪は永久につぐなわないといけない、といったキリスト教の贖罪の発想が、彼らの根底にある。

贖罪という概念はパウロに始まるとされるが、まず罪を「贖う」というのがわからない。これは英語ではredeem、つまり「買い戻す」ことだが、誰が誰から買い戻すのか。聖書では「人類が神に対する罪をつぐなう」ことで、イエスが人類を代表して十字架にかかり、罪を贖ったことになっている。

それなら人類はもう罪から解放されたはずだが、その後もキリスト教ではアダムとイブが神の命令に違反した原罪をつぐなうために、自分のおかした罪を告白することになった。これが黒人奴隷の罪を現在のアメリカ人もつぐなわないといけないというポリコレの原型である。

慰安婦問題のときも、韓国がアメリカ人の贖罪意識を利用した。NYタイムズは「日本人は性奴隷の罪を永遠につぐなわなければならない」と書いたが、彼らも心の底から奴隷制の罪を悔いているわけではないだろう。何しろ自分とは無関係な先祖の罪なのだから、これはそう言わないとリベラルから仲間はずれになるという偽善である。

告解という偽善の儀式

この贖罪や原罪の話は今でもキリスト教会で教わるが、矛盾だらけである。なぜ現代のわれわれが、自分がおかしてもいないアダムとイブの罪をつぐなうのか。2000年前に死んだイエスが、どうやってその後の人類の罪をつぐなったのか。その終わったはずの罪を、なぜ現代人が毎週教会で悔い改めるのか。

これはもともと異質の信仰を、パウロが接合したのが原因である。本書も指摘するように、ユダヤ教には原罪という概念はなく、創世記を人類の堕落ととらえる歴史観もない。贖罪というのは、人を裁くとき「お前は律法に違反しているから死んでつぐなえ」という論理だが、この律法はユダヤ人にしか通じない。

これではローマ帝国全体に布教するには都合が悪いので、パウロは贖罪の論理に「ゆるし」の論理を接合した。これは律法とは無関係に「神を信じる者は誰でも救われる」という普遍主義だが、個人の自由意思による贖罪とは矛盾する。

この矛盾はキリスト教ではかなり深刻な問題で、自由意思を重んじるペラギウス派などの異端が正統派と対立したが、アウグスティヌスが原罪の概念を考え、人は生まれながらに多くの罪をおかすので、それを教会で告白することで救われるとしたが、ここでは個人の罪とアダム・イブの罪を混同している。

しかし人は誰でも「今までに悪いことをしたことがあるだろう」といわれると思い当たるので、罪を教会で告白する告解の儀式がカトリックの中心となった。告解で嘘をつくと地獄に落ちるので、人々は告解を恐れ、その秘密で脅迫したり、罪を許す贖宥状を売ったりする教会を憎んだ。

ルターの宗教改革のきっかけは贖宥状(免罪符)で、フランス革命では各地の教会の告解所が徹底的に破壊された。カトリックでは告解は教会に対する義務だが、白人男性にとっては(プロテスタントでも)先祖の罪を告白することが自分を救済する手段なのだ。日本人が、この偽善の儀式に付き合う必要はない。