中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
本書は受動態でも能動態でもない「中動態」が多くの言語にあるというが、これは新しい話ではない。受動態と能動態の区別はインド=ヨーロッパ語族に固有で、日本語にはなかった。日本語の「~される」という言葉は「怒られる」とか「なぐられる」といった被害の表現で、文法的な「態」ではない。

能動態と受動態という概念は行為の主体に自由意志があって客体から独立していることが前提だが、そんな前提は歴史の大部分では成り立たない。主語とか人称という概念もインド=ヨーロッパ語族だけの特徴で、古代の日本語にも主語はなかった。主語不要論は時枝文法のころからある。

本書はそういう日本文法の先行研究をほとんど参照しないで、ハイデガーやフーコーなどの哲学で中動態の概念を論じているが、それは逆である。木田元も指摘したように、ハイデガーが批判したヨーロッパ的な主体の<つくる>論理より、丸山眞男が日本神話に見出した主体なき<なる>の論理のほうが古く普遍的なのだ。

狩猟採集社会では、人間は小集団でしか生存できなかった。人々は集団で食糧を求め、他の集団と戦い、生殖して集団を維持する必要に迫られて行動していたので、主語はつねに「われわれ」であり、明示する必要はなかった。そこには集団から独立した主体はなかったので、能動と受動の区別もなかった。石器時代の人類は中動態で考えていたのだ。

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