人間本性論 第1巻 〈普及版〉: 知性について
西洋の近代哲学はカントに始まったといわれるが、彼を「独断のまどろみ」から覚ましたのはヒュームだった。カントはヒュームの問題を解決して「コペルニクス的転回」を実現したというが、それは間違いだったとラッセルは『西洋哲学史』で指摘している。

ヒュームの問題は、きわめてシンプルである:経験的な観察から法則は帰納できない。きょうまで太陽が昇ったという事実から、あすも昇るという普遍的な法則は論理的に導けないのだ。

これは当たり前のようにみえるが、それが正しいとすると、ニュートン力学に始まる近代科学は単なる経験則で、厳密な法則ではありえない。同時代に、このパラドックスの深刻さに気づいたのはカントだけだった。

彼はそれを解決するために『純粋理性批判』を書いてニュートン力学を正当化しようとしたが、これは「太陽があすも昇るという先験的主観性があるから昇る」という循環論法だった。それを批判したヘーゲルは壮大な観念論の体系を築いたが、彼も解決できなかった。近代哲学はヒュームに始まり、ヒュームで終わったとラッセルはいう。

機械学習は人工知能になれない

これは単なる哲学の問題ではない。「ビッグデータ」を集積したら法則が帰納できると考えた「人工知能」は挫折した。フレーム問題が解決できないかぎり、コンピュータが人間のような知能をもつことはありえない。これはデータだけいくら入力しても法則は見つからないというヒュームの問題である。

「深層学習」で確認されたのは、どんなに膨大な計算資源を投入しても、フレーム問題は解けないということだった。コンピュータは与えられた問題を解く能力は人間よりはるかに高いが、自分で問題を設定することができない。

東ロボくんのように国家予算を使って多くのマシンを並列し、インターネットから150億の例文を入力してもだめだった。深層学習で人間の設定したフレームを学習して模倣できるが、コンピュータが自分でフレームを設定することはできないのだ。

では人間はどうやってフレームを設定しているのか。それは子供のとき、まわりの環境を見てニューロンをつなぎ替えて自己組織化しているらしい。言葉を覚えるときは、特定の発音に反応するニューロンが興奮し、同じ反応をするニューロンと結合する。

ニューロンの結合法は遺伝的に決まっているので、フレームの作り方は与えられているが、答は自分でさがす。習得するフレームや言葉には誤りが多いが、それを試行錯誤で訂正するシステムを内蔵している。

ヒュームが指摘したように人間は感覚の束なので、習得する言葉の意味に論理的な必然性はない。ある動物を猫と呼んでもcatと呼んでもいいが、他人が猫と呼んでいるとき、自分だけcatと呼んではいけない。

絶対の真理は存在しないが、他人と同じ意味を共有することは重要だ。人間は集団でしか生きられないので、他人と違う言葉を使うことはできないのだ。

理性は習慣である

カントは人間が悟性で世界を正確に認識できると想定したが、その根拠となる「物自体」は知りえないので、それが正しいかどうかはわからない。その50年前に、ヒュームはこう指摘した。
原因と結果に関するすべての推論は、習慣以外の何物からも派生していない。そして信念はわれわれの本性の思惟的な部分の活動というより感覚的な活動ということが適切である。(『人間本性論』第1巻4部1節)

カントの先験的認識論は、「すべての推論は習慣だ」というヒュームの懐疑論に否定されてしまうのだ。カントの超越論的主観性の存在は証明できないが、人間に空間と時間で認識する習慣があることは明らかだ。その習慣が正しいのは他の人と同じときで、それ以外に認識の根拠はない。

この徹底した知的アナーキズムに勝てる合理主義はない。カントもヘーゲルも反論できなかった。ヒュームの懐疑論で否定されなかったのは、ショーペンハウエルやニーチェのような非合理主義だけだった。

20世紀の論理実証主義はヒューム以前の帰納主義であり、クーンに否定された。レヴィ=ストロースの「先験的主観性なきカント主義」は、ポストモダンのニーチェ主義に否定された。いま流行している新実在論は「ヒュームの問題を解いた」と主張するが、ヘーゲルの焼き直しである。

これは技術的にも重要な問題だ。ヒュームの問題に答が存在しないということは、人工知能に絶望的な限界があることを意味する。「シンギュラリティ」のはるか手前で、機械学習は挫折するだろう。その原因は明らかだ。コンピュータには生命がないからである。