人間本性論 第1巻 〈普及版〉: 知性について
西洋の近代哲学はカントに始まったといわれるが、彼を「独断のまどろみ」から覚ましたのはヒュームだった。カントはヒュームの問題を解決して「コペルニクス的転回」を実現したというが、それは間違いだったとラッセルは『西洋哲学史』で指摘している。

ヒュームの問題は、きわめてシンプルである。
太陽が明日も昇らないであろうということは、太陽が昇るであろうという断定に比べて理解しにくい命題ではないし、またより多くの矛盾を含蓄しているわけでもない。それゆえ、われわれがこの命題の虚偽を論証しようと試みても当然無駄であろう。(本書第4章[21])
だから経験的な観察から法則は帰納できない。今まで毎日例外なく太陽が昇ったとしても、あす昇ることは証明できない。また宇宙のあらゆる場所で光の速度が同じだとしても、あなたのいる場所でそれと同じであることは証明できない

これは当たり前のようにみえるが、それが正しいとすると、ニュートン力学に始まる近代科学は単なる経験則で、厳密な法則ではありえない。同時代に、このパラドックスの深刻さに気づいたのはカントだけだった。

彼はそれを解決するために『純粋理性批判』を書いてニュートン力学を正当化しようとしたが、これは「太陽があすも昇るという先験的主観性があるから昇る」という循環論法だった。それを批判したヘーゲルは壮大な観念論の体系を築いたが、彼も解決できなかった。近代哲学はヒュームに始まり、ヒュームで終わったとラッセルはいう。

機械学習は人工知能になれない

これは単なる哲学の問題ではない。「ビッグデータ」を集積したら法則が帰納できると考えた「人工知能」は挫折した。フレーム問題が解決できないかぎり、コンピュータが人間のような知能をもつことはありえない。これはデータだけいくら入力しても法則は見つからないというヒュームの問題である。

「深層学習」で確認されたのは、どんなに膨大な計算資源を投入しても、フレーム問題は解けないということだった。コンピュータは与えられた問題を解く能力は人間よりはるかに高いが、自分で問題を設定することができない。

東ロボくんのように国家予算を使って多くのマシンを並列し、インターネットから150億の例文を入力してもだめだった。深層学習で人間の設定したフレームを学習して模倣できるが、コンピュータが自分でフレームを設定することはできないのだ。

では人間はどうやってフレームを設定しているのか。それは子供のとき、まわりの環境を見てニューロンをつなぎ替えて自己組織化しているらしい。言葉を覚えるときは、特定の発音に反応するニューロンが興奮し、同じ反応をするニューロンと結合する。

最初のフレームはニューロンの結合で遺伝的に決まっているが、それは人類の長い歴史の中で生存に適したものが選ばれているのであり、経験から帰納したものではない。そこからフレームが自己組織化されるが、その目的は個体と集団の生存である。

認識は習慣である

ヒュームが指摘したように人間は感覚の束なので、習得する言葉の意味に論理的な必然性はない。ある動物を猫と呼んでもcatと呼んでもいいが、他人が猫と呼んでいるとき、自分だけcatと呼んではいけない。

絶対の真理は存在しないが、他人と同じ意味を共有することは重要だ。人間は集団でしか生きられないので、他人と違う言葉を使うことはできないのだ。

カントは人間が悟性で世界を正確に認識できると想定したが、その根拠となる「物自体」は知りえないので、それが正しいかどうかはわからない。カントの先験的認識論は、認識は習慣であるというヒュームの懐疑論に否定されてしまうのだ。

太陽が明日も昇るという因果関係は証明できないが、誰もがそう認識していることは明らかだ。その認識が正しいのは他の人と同じときで、それ以外に根拠はない。この徹底した知的アナーキズムに勝てる合理主義はない。ヒュームの懐疑論で否定されなかったのは、ショーペンハウエルやニーチェのような非合理主義だけだった。

20世紀の論理実証主義はヒューム以前の帰納主義であり、クーンに否定された。レヴィ=ストロースの「先験的主観性なきカント主義」は、ポストモダンのニーチェ主義に否定された。いま流行している新実在論は「ヒュームの問題を解いた」と主張するが、ヘーゲルの焼き直しである。

これは技術的にも重要な問題だ。ヒュームの問題に答が存在しないということは、人工知能に絶望的な限界があることを意味する。「シンギュラリティ」のはるか手前で、機械学習は挫折するだろう。その原因は明らかだ。コンピュータには生命がないので、フレームを自己組織化する目的がないからである。