東條英機 「独裁者」を演じた男 (文春新書)
学術会議をめぐる議論では「戦前に回帰するものだ」という話がよく出てくる。こういう人は東條英機がトップダウンで反対派を排除して戦争に突入したと思っているのだろうが、史実は逆である。東條は日米戦争で勝てる見込みがないことを知っていた。彼の迷いを押し切ったのは、ボトムアップの強硬派の圧力だった。

1941年10月14日の閣議で東條陸軍大臣は、中国からの撤兵を求めるアメリカの要求を断固として拒否する演説を行なったが、同じ日に彼は木戸内大臣と会談して「海軍の決心に何か変化ができたのか」と質問し、変化があったのなら「既に定まった国策(日米開戦)がそのままやれるかやれぬか」考えるとのべた。杉山参謀総長にも同じ話をしている。

ところが彼は、閣議では「海軍の肚が決まらぬなら内閣総辞職しかない」という強硬論を主張した。近衛内閣を倒して東久邇宮内閣をつくり、開戦の責任から逃れようとしたのだ。そのもくろみ通り内閣は倒れたが、近衛の後任として大命が下ったのはなんと東條だった。

コンセンサスを求めた東條

これは強硬派の東條しか軍を抑えられないと考えた木戸の奇策だったが、東條を高く買っていた昭和天皇も賛成した。天皇の意を受けて東條は外交による打開の道を模索したが、すでに陸軍と参謀本部の大勢は開戦論で固まっており、これを「大臣の変節なり」と攻撃した。東條は自分の主張した強硬論に自縄自縛になってしまったのだ。

東條は組閣するとき大将に特進し、陸軍大臣と内務大臣を兼務した。これはテロを恐れ、警察を所管する内務省を指揮するためだった。「米国の申し出に屈した場合には二・二六事件以上の暴動も起こるやも知れず」と本人がのちに語っている。

10月23日、東條は嶋田海軍大臣に「今更後退しては支那事変20万の精霊に対して申し訳ない。されど日米戦争ともなれば更に多数の将兵を犠牲とするを要し、誠に思案に暮れている」と述懐した。彼は嶋田に「戦争はできない」と言ってほしかったのだろう。

しかし嶋田は30日に海軍省で「数日来の空気より総合すれば、この大勢は容易に挽回すべくもあらず」と戦争の決意を表明してしまう。海軍が対米屈服の責任を押しつけられることを恐れたからだ。

そして嶋田は31日に鉄の割り当てを「海軍85万トン、陸軍81万トン、民間264万トン」から「海軍110万トン」とする要求を東條に出し、東條はその要求を実質的に飲んだが、海軍はいろいろ理由をつけて決断を引き延ばし、最終的には東條が海軍を押し切って決めた形になってしまった。

こうした経緯を細かくみると、東條は陸軍では絶対的な指導者だったが、参謀本部の強硬論は抑え込めず、海軍に対してはコンセンサスを求めたことがうかがえる。海軍が絶対反対といえば、東條もそれを押し切ってまで開戦できなかったかもしれない。