例外状態
最近コロナ脳はめっきり減ったが、その残党が「国民全員PCR検査」を主張している。たとえば「54兆円で全国民に毎週PCR検査」を提言していた小林慶一郎氏は「9月末までに10万件に検査能力を増やせ」と後退したが、いまだに検査の拡大で人々が安心して経済が回ると主張している。

これは逆である。職場に検査陽性者が出ると、その個人が排除されるだけでなく、関係者全員が検査され、職場が閉鎖され、会社が謝罪する。飲食店の客が陽性になっただけで営業停止になり、閉店を強いられる。人々が恐れているのは、こういうケガレなのだ。

このように個人を通常の社会から排除する例外状態がロックダウンの本質だ、とアガンベンは批判している。カール・シュミットが「主権者とは例外状態について決断する者だ」と定義したとき、彼が想定していた例外状態は戦争だったが、それ以外にも例外状態は遍在する。

例外状態を作り出す「非常事態」

ナチスがユダヤ人を強制収容所で600万人虐殺したとき、それは何の立法もない例外状態だった。それがシュミットの主権理論の必然的な帰結だ、とアガンベンは本書で論じたが、そういう状態がロックダウンで世界に広がっている。

日本の自粛も、ゆるやかなアウシュヴィッツである。そこには法律も裁判もない。検査で陽性になった者はケガレとして排除され、マスコミのさらし者になる。1日10万人検査しても国民全員やるには3年半かかり、ワイドショーは毎日、不安をあおるネタを供給してもらえる。それが彼らが国民全員PCR検査を要求する理由である。

アガンベンの議論は、世界中から批判を浴びた。たしかに医療崩壊が起こって3万5000人も死んだイタリアで「ロックダウンは人権侵害だ」という話は、あまりに浮世離れした哲学的なお遊びにみえるが、日本ではそれほど荒唐無稽ともいえない。むしろ日本はアガンベンのいう通り人権に配慮してロックダウンしなかったともいえる。

国民を「例外状態」として統治する<法律の力>

アガンベンは『ホモ・サケル』で、こうした例外状態としての強制収容所がシュミットの主権理論の必然的な帰結だと批判したが、法律なしに外食産業の営業を自粛させる東京都知事から、政令もなしに原発を止める原子力規制委員会に至るまで、例外状態は世界に遍在する。

このような状態で国民をコントロールする官僚機構の法を超えた権力を、アガンベンはデリダにならって<法律の力>と呼ぶ。それを批判したベンヤミンに対して、シュミットは「主権者が例外状態で決断しないと国家が崩壊する」と反論したが、国家を崩壊させたのは主権者に成り上がったナチスだった。

特にアガンベンが、移動の自由が近代国家のコアだと主張したことは重要である。近代国家の原型となった都市国家は、権利を侵害する国や税金の高い国から移動するexitの自由が保障されていたから機能した。

移動の自由を国家が制限するロックダウンは、近代国家を規律づけている原理を国家が否定するものだ。その先にやさしい官僚が国民生活をすみずみまで支配する逆ユートピアが待っているとすれば、コロナ騒動はその序幕かもしれない。